ACT.5-2

「〝一ッ目〟!」


 パーズが叫んだ。視線の先にはくすんだ薄茶色のローブ姿の男が一人、立っていた。

 パーズの記憶と同じ、初老の男性だった。長身で痩躯。白髪を後ろに撫でつけている。記憶と違うのは杖を持っていないこと。そして右目にあった眼帯がなくなっていることだった。

 晒された右目には、眼球がなかった。代わりに赤い宝石のような硬質の輝きが見える。


「せっかく結界を解いて待っていたというのに、来たのは二人だけかね」


 穏やかな声で〝一ッ目〟は言う。

 パーズは今にも〝一ッ目〟に向かって飛び出しそうだった。それをイェルラが手で制する。


「わたしたちを招待してくれたってわけ?」


 イェルラは鋭い視線を〝一ッ目〟に向けた。


「ふむ。〝翡翠の魔女〟……だったかな。お初にお目にかかる」〝一ッ目〟は恭しくお辞儀をしてみせる。「しかし噂とはつくづく当てにならぬものだな」

「噂? どんなのか興味あるわね」

「なに。悪い噂ではない。〝翡翠の魔女〟は美しい女性だという噂だ。だが、貴女は噂以上に美しい」

「お世辞を言うなんて意外ね」


 イェルラは表情を変えることなく言う。


「いやいや。これでもお世辞は苦手でね。私は本心から言っている」

「一応、ありがたく受けてとっておきましょう。ところで、魔導書はどこ?」


 〝一ッ目〟は始め、何のことか分からないといった顔をした。そしてしばらく考えてから、一人納得して頷いてみせる。


「ああ。あれならもう処分した。今読むと稚拙な書だ。恥ずかしながら、書いた当初はあれで精一杯だった」

「やっぱり、あなたが……」

「ここでの実験を元に、新しく書き直すつもりだ。今回は良い素材も揃っている。今度こそ、完璧なものができあがるぞ。

 そうだ。完成の暁には、写本を魔導院に送らせていただこうではないか」

「それは無理ね」

「ほう? 何故かね?」


 〝一ッ目〟は愉快そうに言う。顔に浮かぶ穏やかな笑みは、まるで間違えた答えを生徒が言うのを、予測している教師のようだ。

 対するイェルラは、挑戦的な笑みを浮かべる。


「あなたはここで斃れるから」


 その言葉を合図にパーズが動いた。一直線に〝一ッ目〟へと向かって走る。


「アベル」


 落ち着いた声で〝一ッ目〟は言う。アベルが弾かれたように〝一ッ目〟を見た。


「さぁ、客人の相手をしなさい」

「イツ、オ父サンニ会エルノ?」

「もうすぐだよ、アベル。でも君がお父さんに会うためには、あの人たちが邪魔なんだ」

「ワカッタ。邪魔者ハ排除スル」


 アベルはパーズを見た。その瞳が赤く輝き始める。外にいた時には透けて見えていた体も、今は濃くはっきりとしていた。

 パーズは僅かにスピードを緩めた。剣を持つ右手に力がこもる。アベルを見据える視線の端に、状況についていけずにおろおろしてケインが写っった

 パーズとアベル、二人が接近する。


 アベルは掬い上げるように、地面すれすれから右拳を突き上げる。パーズはそれを半身はんみになって躱した。大きな拳が賞金稼ぎの眼前を掠めた。

 パーズはそのままアベルの横を抜けようとするが、アベルの左腕が行く手を阻んだ。パーズの剣が動く。


「アベル!」


 だが、斬り上げる剣はアベルの腕に当たる前に止まった。パーズは後ろに重心を移し、その勢いを利用して背後に跳ぶ。

 パーズの視線は先程叫んだケインに向けられた。ケインはアベルの元に走り寄ろうとする。しかしケインの前に光の壁が現れて、少年の行く手を阻んだ。光の壁は円柱状広がり、ケインを完全に包囲してしまう。ちょうど床に書かれた魔法円の、一番小さい円に沿うように。


 それを見たパーズの動きが一瞬止まった。アベルは拳を振り上げて迫る。今度は頭上から大きく被せるように、パーズの頭を狙って落とした。

 動きを止めたパーズに避けることは叶わない。


「!」


 その場にいた誰もが息を呑んだ。頭上から振り下ろされた拳は、間違いなくパーズ押し潰すはずだった。

 だが、パーズは左腕一本でアベルの拳を止めていた。黒い籠手に包まれた華奢な左腕が、アベルの拳を受け止めている。力が拮抗しているのか互いに動かない。パーズの足下にできた亀裂が、アベルの拳の威力を物語っていた。


 剣を持つ右手が動こうとする。だだ、パーズが剣を振るうことはなかった。躊躇うように右手を止めると、パーズは左腕下げて体ごと後退した。

 突如抵抗を失ったアベルはバランスを崩して地面に転がる。


「オ前、邪魔ダ」


 アベルが起き上がって唸る。


【我思う。汝は留める氷なり】


 呪文が広間に響いた。アベルの足元が凍り始めた。それから脚を包むように氷がわき出した。氷は成長してアベルの下半身を飲み込んでいく。


「!」


 パーズが驚いてイェルラを見る。


「あなたが手を出せないというのなら、わたしが相手をするわ。あなたは〝一ッ目〟の相手をなさい」


 イェルラは鋭い表情で言い放つ。パーズは何故か躊躇うような仕草をする。それを見たイェルラがため息をつく。


「手を出せない理由は分かっているわ。悪いようにはしない。〝翡翠の魔女〟の名にかけて誓うわ」

「……イェルラ」

「その代わりわたしの切り札を使うことになる。〝一ッ目〟に使おうと思っていた切り札をね。だから〝一ッ目〟はあなたが仕留めなさい」


 パーズはしばらくイェルラを見つめた後、意を決したようにアベルの横を走り抜けた。

 止めようと差し出されたアベルの腕を氷が封じる。


「さぁ、あなたの相手はわたしがするわ」

「邪魔ダ。ミンナ邪魔ダ。僕ノ邪魔ヲスルナァァァァ!」


 アベルの体にまとわりついていた氷が砕けた。標的をイェルラに変え、アベルはその巨体をたわめて跳んだ。そのままイェルラの頭上に迫る。


【我思う。汝は防ぐ氷なり】


 イェルラの頭上に雪の結晶のような図形が現れた。それは大きく広がり壁を作る。

 アベルは突如として目の前に現れた防壁にはじき飛ばされた。空中で姿勢を整えると、僅かに離れた場所に着地する。


「邪魔スルナ。僕ハオ父サンニ会ウンダ」

「いいわ。わたしが会わせてあげる」

「……ホント?」


 アベルの声音こわねが変わった。警戒した響きから、興味のあるものへと。その変化は純粋な子供の反応そのものだ。

 イェルラの表情が曇った。だがすぐに、鋭く冷たい表情に戻る。イェルラの胸元の辺りから、ローブを通して光が漏れた。光は秘紋の形をしている。


「……ええ、本当よ」


 イェルラは人差し指と中指を突き出して剣印を作った。剣印の先に魔力の光が灯る。それと呼応するかのように、胸元の秘紋も輝きを増す。

 イェルラのほっそりとした指が空中を舞った。魔力の軌跡が一つの秘紋を書き出す。


「あなたに使われた術式は解析できたわ」


 イェルラの指は止まらない。大きな秘紋を一つ書き上げると、その周りに小さな秘紋をいくつも書き連ねていく。そしてまた大きな秘紋を書き、その周りに小さな秘紋――

 いくつものの秘紋の塊が生まれ、それらが幾何学模様に並べられていく。やがてそれはイェルラの体を隠してしまうほどの大きさとなった。まるで秘紋が織られた布のように全体が揺れている。

 秘紋たちは布が風に運ばれるように飛んで、アベルの体を包んだ。表面に秘紋が張り付いていく。


「ナニ?」


 アベルの表面に張り付いた秘紋が、その輝きを増した。各秘紋の形を境にしてアベルの体が分解され始める。


「アアアアアアアア」

「アベル!」


 ケインが叫んだ。秘紋の形をしていた光は広がり、アベルの体を完全に包んでしまう。そして弾けるように光の粒子となって、突如として消えた。


「ア、アベル?」


 ケインの戸惑うような声が聞こえる。化け物と化したアベルがいた場所に、一人の少年が立っていた。年の頃は五歳くらい。大きな瞳が印象的な、線の細い子供。その周りを秘紋の帯が回っている。

 少年――アベルは自分の両手を目の前に翳す。化け物の大きな手ではなく、小さな子供の手だ。手を通して向こうの景色が見える。アベルの体は透けていた。


「……アベル」


 ケインの声にアベルが振り向いた。


「アベル……元に、戻ったんだね」


 ケインは駆け寄ろうとするが、光の壁に阻まれて近づけない。代わりにアベルがケインの元に歩いていく。そして光の壁越しに二人は手を重ねる。


「戻れたみたい。ありがとうケイン。あの姿の時に友達だって言ってくれて。僕うれしかった」

「また思いっきり遊べるね」


 ケインの嬉しそうな声。だがアベルはそれに答えない。


「アベル?」

「ケインごめん。僕、行かなきゃいけないみたい」

「行くってどこへ?」


 ケインが不安そうな表情を浮かべた。


「ここにいちゃダメだって。そんな気がするんだ」

「アベル?」

「僕は――」

「駄目だよアベル」


 続く言葉を理解したのか、ケインがアベルの言葉を遮った。


「僕はもう、ケインと同じ場所にはいれないんだ」アベルが俯く。

「嫌だよ、アベル。せっかく元に戻ったのに」ケインはイェルラを縋るような目で見る。「ねぇ、アベルを止めてよ。できるんでしょ?」


 ケインの必死な言葉に、イェルラは首を横に振った。


「この子は無理矢理連れ戻されていたの。それも歪んだ形で。このままではいずれ存在することそのもに無理が出て、消えてしまうのよ」

「でも、でも……」

「ありがと、ケイン」


 アベルは顔を上げて微笑んだ。そして視線をイェルラに移す。


「そのまま元いた場所まで帰りなさい。秘紋が案内してくれるわ。お父さんもきっと、そこであなたのことを待ってる」

「うん……でもお父さん……僕のこと嫌いになってないかな」


 アベルは表情を曇らせた。今の彼は、ルードの死の原因が自分にあると理解しているのだ。


「あれは事故よ……と言っても無理なのでしょうね」


 イェルラは再び剣印を作った。指先に灯った魔力の光が小さな秘紋を作り出す。生み出された秘紋はアベルの額へと吸い込まれた。


「なに?」

「嫌なことを忘れるおまじない。さぁ、行きなさい」


 アベルの周りを回っている秘紋の帯が輝き出した。再び少年は光に包まれる。

 光の中でアベルは何処かへ向かっているようだった。アベルの姿が小さくなっていく。その先にもう一つ人影が現れた。

 その人影はローブを着ているようだった。アベルがそれに気づくと、人影に飛びつく。

 二人は抱き合うように重なった。そして光が消える。


「ケイン、本当にありがと」


 アベルの声だけが光の残滓と共に残った。


「アベル……ずっと友達だよ」


 ケインの瞳から涙が一つ、零れた。

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