ACT.5

ACT.5-1

 自分は何を見ているのだろう。

 少年は目の前の光景が信じられなかった。



 月明かりに照らされ、半壊した館の中心に二人の人物が立っていた。一人は流れ落ちる黄金の滝の如き、金色こんじきの髪を持つ美しい女性。もう一人はくすんだ薄茶色のローブを着た長身痩躯の、初老の男性だった。

 少年――パーズはそのどちらも知っている。女性は夜の眷属の王である吸血鬼だ。パーズの住む村に突然やって来た吸血鬼。パーズの最愛の姉をその牙にかけた吸血鬼。一年間ずっと憎いと思っていた吸血鬼。


 男の方は、数時間前に出会ったばかりだった。吸血鬼の住む館から逃げだし、自分の中に浮かんだ感情を否定したくて彷徨っていたその時――パーズは見慣れない男に声を掛けられたのだ。この辺りにいる吸血鬼を知らないか、と。

 男は自らを魔術師だと言い、名を――


「〝一ッ目〟……と言ったか、お前」


 吸血鬼が口を開いた。その美貌を裏切らない蠱惑的な声だ。


「夜に襲ってくるなど、どれほどの愚か者と思っていたのだけど……まだ立っているなんてたいしたものね」

「お褒めに預かり光栄だ。美しき吸血鬼よ」


 〝一ッ目〟は身の丈ほどもある杖に縋りながら答える。パーズが最初に会った時には綺麗に後ろへ撫でつけられていた白髪は乱れ、右目を覆っていた革の眼帯もちぎれ無くなっていた。白く濁り、潰れかけた右目が覗いている。ローブは所々切り裂かれ、傷口からは血も流れていた。

 それでも〝一ッ目〟の表情は死んでいなかった。左目は鋭く吸血鬼を見据えている。


「そのしぶとさに免じて見逃してあげてよ」

「慈悲深いな。この世で最も美しく、最も残忍な吸血鬼よ」

「今日は気分がいいの。あの子の絶望する顔が、二度も見られて」


 そう言って吸血鬼はパーズの方を見た。自分は今、どんな顔をしているのだろうか。あの吸血鬼が言うように、絶望した表情を浮かべているのだろうか。

 〝一ッ目〟は、パーズの話を聞いて約束してくれた。自分にはできなかったこと――姉の仇を、吸血鬼を殺してくれると。だからパーズは館まで案内した。案内すると、今度は危ないので帰れと魔術師に言われた。


 しかしパーズは帰らなかった。魔術師が館に入ってしばらくはその場に立っていた。静かだった。魔術師をここに連れてきたことが、まるで幻であったかのように。

 あまりに静寂が続いたことに我慢出来ず、パーズが中に入ろうとしたその瞬間――館は突如として半壊した。


「口惜しい? おまえが連れてきた男ではわたしを殺せないと知って」


 吸血鬼は勝ち誇ったような表情で言う。俯いてパーズは唇を噛んだ。


「貴女は二つ勘違いをしている。美しき吸血鬼よ」


 彼女の視線を言葉で遮るかのように、〝一ッ目〟は言う。


「……勘違い?」


 吸血鬼は視線を〝一ッ目〟に戻した。声には、彼の言葉を面白がっている響きがある。


「一つはここに来た理由。私は、貴女が私の欲しいものを持っているからここにやって来た。あの少年との約束はそのついでだ」

「魔術師のお前が欲しいもの……ね。心当たりがありすぎて分からないわ」

「貴女の心臓が欲しい」


 状況さえ違えば、まるで甘い睦言であるかのように〝一ッ目〟は言う。


「大きく出たわね魔術師メイガス。それはわたしを殺すと言っているのと同義よ。もう一つは?」

「……私は貴女を殺すことができる」


 〝一ッ目〟は口のを曲げ、挑発的な笑みを浮かべた。パーズが驚いて顔を上げる。


「あはっあはははははっ」吸血鬼が哄笑する。「面白いわお前。やってごらんなさい」


 まるでその言葉が合図であったかのように、〝一ッ目〟は自らの右目に人差し指と中指を突っ込んだ。そして白く濁った眼球を抉り出す。


「これが私の切り札だ」


 〝一ッ目〟は右腕を突き出し、抉り出した眼球を握りつぶした。濡れた音を立てて右手から液体が滴る。血の色を含んだそれは突如、蒼い炎へと変わった。

 炎は液体のように緩やかに地面へと落ち、水溜まりのような塊を作った。


 刹那――その中から細長い何かが六本現れ、吸血鬼を襲った。それは蒼い炎で作られた蛇だ。

 吸血鬼は炎でできた蛇たちをひと睨みした。二匹がはじけ飛ぶ。しかし残りは吸血鬼の手足に巻き付き、その体を戒めた。


「これは……異界の炎。〝悪魔〟と契約したのね、魔術師?」


 動けないにも関わらず、吸血鬼はこの状況を楽しんでいるようにみえた。


「左様。いなか貴女とて、簡単にはその戒めを解けないでしょう」


 手足を拘束したまま、四匹の蛇は互いに絡み合い、一匹の大蛇へと変化する。大蛇は吸血鬼の体に巻き付くと、背後から鎌首をもたげた。


「しかし異界の炎でも燃え尽きないとはたいしたものだ、美しき吸血鬼よ。手足くらいは奪えれば……と思っていたのだが」


 焦げた匂いが辺りに充満している。蛇の絡みついた部分は間違いなく焼けていた。しかし吸血鬼の不死性が燃え落ちることを許さない。まるで最初から傷などなかったかのように、驚異的なスピードで燃えるはしから回復している。燃えたのは彼女を包むドレスの一部のみだ。


「陽の光に比べれな、こんなもの幾ばくもない」

「なるほど。私の魔力が作り出す炎では、傷一つ追わせられないわけだ」〝一ッ目〟はゆっくりと歩みを進める。「だが、直接心臓を抉り出してしまえばどうか?」


 〝一ッ目〟が右手を上げた。その手には蒼い炎がまとわりついている。炎は鋭い鉤爪を持つ、人外の手へとその形を変えた。細い蛇がいくつも合わさってその形を維持している手。五本の指先全てに、蛇の口と牙が備わっている。

 魔術師の右手は現実の凶器となった。


 〝一ッ目〟が吸血鬼まであと一歩というとことでその歩みを止めた。右肘を後ろへ大きく引く。人外と化した手は、動けない吸血鬼の心臓の高さでとまっている。戒めている大蛇が、ちろちと吸血鬼の頬を舐めた。

 吸血鬼は表情を変えない。ただ面白がるよう〝一ッ目〟を見るのみだ。


 パーズは二人から目を離せないでいた。動けない吸血鬼。魔術師の右手は確実にその胸を抉るだろと、パーズは思った。魔術師の話では、心臓さえ奪えばもう二度と吸血鬼は甦らない。それは不死と言われる吸血鬼の、矛盾した死だ。人間と同じように死んでしまうのだ。

 そう人間と――姉と同じように。


 今パーズの脳裏に浮かぶのは姉の安らかな死に顔ではなかった。姉を失った時から憎みつづけていたはずの、吸血鬼との一年間の記憶。

 退屈しのぎであるかのように、挑んでくるパーズをあしらい続けた吸血鬼。猫が鼠をいたぶるように、でも決して命を奪わぬように。時には死にそうになった少年を助けさえもした吸血鬼。そして姉亡き後、この村でただ一人パーズと向き合ってくれた吸血鬼。

 それが例え、彼女の気まぐれであったとしても――


 気づけば、パーズは〝一ッ目〟に襲いかかっていた。左手に持った手斧を使い、ただ馬鹿正直に魔術師へと振るう。


【我命ず。其は防ぐ炎なり】


 パーズと〝一ッ目〟の間に六芒星が現れた。六芒星は真円の中心にあ入っており、そのどちらも炎で描かれている。

 パーズの手斧は六芒星を中心とした見えない壁に阻まれて、〝一ッ目〟の体に届かない。


「気のせいかな、少年。君は私を攻撃しているように見えるのだが?」


 パーズの方を向くことなく〝一ッ目〟が言う。パーズは答えない。炎の壁が消えると同時に、再び斬りかかった。

 〝一ッ目〟は一歩下がってこれを躱す。パーズは勢い余って、素通りした上に転げてしまった。すぐに立ち上がり手斧を構える。


「どうやら間違い……ではないようだな、少年。しかし私は君の代わりに姉の仇をとってあげようとしているのだよ?」

「……うるさい。うるさい。うるさい!」


 なぜ自分はこんなことをしているのか、パーズ自身にも分からなかった。吸血鬼の死を誰よりも望んでいたはずなのに。その吸血鬼が死ぬと思った瞬間、パーズは〝一ッ目〟を攻撃していた。姉のように死んでしまうのだと――また自分は置いていかれるのだと思った瞬間に。


(ああそうか――)


 パーズは気づく。自分はひとりっきりになるのが寂しいのだ。そして嫌なのだ。置いていかれることが。ただ一人この世界に。


「わぁぁぁぁぁぁぁ!」


 パーズが叫びながら斬りかかる。今度は〝一ッ目〟も避けない。人外と化した右手で振り下ろしてきた少年の左腕を掴み取った。


「――――」


 パーズは何の抵抗もなく手斧を振り下ろした――つもりだった。だが、振り下ろしたはずの手斧が見えない。手斧どころか、自分の左手も見えなかった。

 戸惑ったようにその場に立ちつくす。


「少年、捜し物はこれかね?」


 そう言って〝一ッ目〟は人外と化した右手を差し出した。手には小さな腕が握られていた。それは子供の左腕で、手斧を掴んでいる。

 パーズは呆けたようにそれを見つめ、しばらくして自らの左腕に目を向けた。


 パーズの左腕は、二の腕の半ばから消失していた。血は出ていなかった。それは傷口が炭化していたからだ。焦げた肉の匂いがする。自分の左側からする匂いだ。

 それにパーズが気づいた時――


「あああああああっ」


 パーズは右手で自分の左肩を抱き、絶叫した。


「すまないな少年。美しき吸血鬼を相手にしていたものだから、加減を間違えてしまった」


 手に持ったパーズの腕はすぐに蒼い炎に包まれた。そして手斧と一緒に跡形もなく、灰すら残さずに燃え尽きてしまう。


「うわぁぁぁ!」


 それを見たパーズは〝一ッ目〟に殴りかかった。全ての感覚が麻痺していた。痛みも、恐怖もなく、ただ目の前の魔術師に対する攻撃的な衝動だけで動いていた。


「気が触れたか、少年。君には刺激が強すぎたようだな」


 〝一ッ目〟は哀れんだ表情でパーズを見る。


「心配は無用だ、少年。私は君との約束を守ろう。安心して姉の元へ行くといい」


 そしてパーズの頭に向かって、人外の手を突き出した。指先にある蛇の口が一斉に開く。

 パーズは避けない。まるでその手が見えていないかのように。そして〝一ッ目〟の右手が少年の頭を掴む――その瞬間、パーズは横に押し飛ばされた。

 大きく弾かれて何度も床を転がり、やがて俯せになって倒れる。


「莫迦ね、おまえ」


 その声に、パーズは正気を取り戻した。両手で支えて起き上がろうとして、支えきれずに倒れてしまう。パーズは自分の左腕がなくなったことを、改めて実感する。今度は両脚も使い、残った右腕と力を合わせてゆっくりと起き上がる。そして声のした方向へ体を向けた。


 今までパーズがいた位置には、吸血鬼が立っていた。炎の大蛇の戒めはその体から消えていた。焼け残ったドレスだけが、戒めを受けたことを物語っている。そこから覗く肌には傷一つない。

 顔には他人ひとを小馬鹿にしたような――だがそれでも美しいと思える笑みを浮かべ、吸血鬼はパーズを見ていた。

 そしてパーズの頭を捕らえるはずだった〝一ッ目〟の右手は――



 自分は何を見ているのだろう。

 少年は目の前の光景が信じられなかった。



 吸血鬼の胸へと吸い込まれるように消えていた。


「あの戒めをも解くとは驚いたぞ。美しき吸血鬼よ」


 〝一ッ目〟は本気で驚いているようんだった。だが吸血鬼は答えない。彼女の視線はパーズへと注がれていた。


「本当に莫迦な子」


 吸血鬼の美しい唇から、血がひと筋流れ落ちた。

 その血を見た時、何が起きたのかをパーズは理解した。〝一ッ目〟の右手が、吸血鬼の胸へと消えている意味も。

 吸血鬼の顔が一瞬、苦痛に歪む。


 〝一ッ目〟が右手を引き抜いたのだ。人外の手には真っ赤な心臓が握られていた。驚くほど赤く、艶やかな光沢すら浮かべているように見える心臓を。

 吸血鬼の体が揺れる。今にも倒れそうな吸血鬼に、パーズは駆け寄った。そして〝一ッ目〟と吸血鬼の間に立ちふさがるようにして、魔術師を睨みつけた。


「ふむ。少々陳腐だが、結果としては悪くない。これで〝永遠〟に一歩近づいた」


 〝一ッ目〟はパーズに目もくれない。取り出した心臓を眺め、満足したような笑みを浮かべている。パーズも、吸血鬼すらも、すでに眼中にはないようだった。

 そして無防備に背を向けて、この場から去って行く。


「まて……!」


 追いかけようとしたパーズの両肩を、吸血鬼が掴んだ。そのまま自分の方へと振り向かせ、抱きしめるようにパーズにもたれかかった。

 パーズは戸惑いながらもそれを支える。


「少し疲れたわ。横にして」


 パーズは言われたまま、吸血鬼を横たえた。彼女の上半身を起こし、残った右腕で支える。


「なんで――」


 パーズの言葉はそこで止まった。


「おまえはわたしのもの。おまえを殺していいのはわたしだけ……ただ、それだけよ」


 あでやかに、そして誇らしげに、吸血鬼はパーズに微笑んだ。

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