ACT.3-5

「うわぁ、意外ぃ~。真面目に仕事してるのね」


 突如聞こえてきた女の声に、ゼルは慌てて振り向いた。森の奥、木々の間からアートゥラが姿を現す。


「手前ぇ、賞金稼ぎの!」


 後ろに立つアートゥラを見て、ゼルは驚いた表情を浮かべた。ゼルとて経験を積んだ傭兵だ。特に斥候と奇襲には自信があった。

 それがこうも簡単に背後を取られてしまった。ゼルは腰の剣に手をかけて油断なくアートゥラを睨む。


「ちょっと待った。アンタと争う気ないんだけど?」


 軽く両手を挙げ、アートゥラは微笑んでみせる。状況が状況でなければ、男として気が緩んでしまいそうな妖艶な笑みだ。


「なら他人ヒトの背後なんてとってんじゃねぇよ」

「えー。だって驚かすのって楽しいじゃん」


 本気とも冗談ともつかない調子でアートゥラは言う。

 単純な戦力でみるなら、自分は目の前の賞金稼ぎよりは上だろう。先程のような奇襲でもないかぎり遅れをとることはない。

 その見立ては長年の経験と勘に基づいたものだ。これまでゼルを戦場で生き残らせてきた、信頼できる相棒のようなもの。

 だがそれでも、ゼルは油断しない。


「だからそんな怖い顔しないでよ。アンタが見張ってるってことは、こっちは最初はなっから承知してるんだから。いまさら慌てて何かしようなんて思わないわよ」

「……じゃあ、何が目的だ?」

「個人的な興味……って言ったら信じる?」

「酒場で言われたならな」

「うわっ。ノリ悪いわねアンタ」


 そう言って、アートゥラは無造作に近づいていく。ゼルはいつでも抜けるように剣を握る手に力を込めた。


「個人的な興味ってのは、半分ホントよ」

「残りの半分は」

「アンタたちの動きを探るため」

「やっぱ、手前ぇらも化け物を狙ってやがったんだな?」

「どうかしらね。まぁこの村に来た目的ぐらいは教えてあげてもいいんだけど?」


 アートゥラは上目遣いにゼルを見る。


「仲間を売ろうってのか?」

「ヤな言い方するわね。取引よ」

「取引……?」


 ゼルの緊張が僅かに緩む。警戒を解いたわけではないが、アートゥラの言葉に興味を持ったようだった。


「そっちの条件はなんだ?」

「そうね……アタシと〝契約〟しない?」

「契約? お前と?」ゼルは怪訝な顔をする。「……俺に仲間を裏切れっていうのか?」


 傭兵に対して契約を持ちかけるというのは雇うということだ。この賞金稼ぎは自分を雇ってどうするつもりなのか。敵対する相手の雇った傭兵に買収を持ちかけるのはよくあることだが、この仕事に限って言えば裏切らせることでこの賞金稼ぎが利益を得るとは思えない。


「違うわよ。アンタは〝契約〟してくれるだけでいいの。特に要求なんてしないわ」


 いつの間にか、アートゥラは傭兵のすぐ近くまで来ていた。一歩踏み込めばふれあえる距離だ。ゼルは自分がそこまで近づけてしまったことに驚く。


「もし〝契約〟してくれたら……アタシの体、自由にしてもいいわよ」

「そんなんでお前に何の得があるってんだ?」


 警戒しながらも、ゼルの視線はアートゥラの肉体に吸い付けられていた。月光の光は微かだが仕事柄、夜目の効くゼルには充分だった。

 ややあどけなさを残しながらも、充分に大人の魅力を感じる顔立ち。布一枚で覆われた豊かな胸は、丈の短いジャケットを押し広げて主張している。くびれた腰とショートパンツから覗くほどよく引き締まった太ももは、男なら思わず見とれてしまうだろう。


「言ったでしょ? 個人的に興味があるの」


 すぐ目の前にアートゥラの顔があった。潤んだ瞳と濡れたように艶やかな唇がゼルの目を奪う。月明かりの中ではっきりと認識できる事を不思議に思う暇もなく、アートゥラの唇がゼルのそれに重なった。


「!」


 刹那、衝撃がゼルの全身を駆けめぐった。傭兵はアートゥラを突き飛ばすと、下がって距離をとる。そしてすぐに剣を抜き放った。切るつもりで放った刃は空を斬る。


「手前ぇ、何しやがった!」


 ゼルは鋭く叫ぶ。アートゥラを睨みつけるその顔は、歴戦の傭兵のものになっていた。


「何って〝契約〟よ」


 ゼルが向けてくる殺気など何処吹く風といった様子で、アートゥラは妖しく笑う。

 彼女の笑みを見ているゼルの視界がぼやけた。熱に浮かされた時のように意識が朦朧とし始める。同時に体の奥から強い衝動が生まれた。アートゥラを組み敷いて、おのが分身でその体を貫きたいという衝動。


「……毒を盛りやがったな」


 沸き上がる肉欲の情を抑え込んで、掠れ声でゼルは言う。


「毒? 違うわよ。アタシの魅力に参ったの」

「笑えねぇ冗談だ」

「さぁ〝契約〟は済んだわ。アンタの好きにしていいのよ?」


 再びアートゥラは無造作にゼルに近づいて来る。ゼルは手にした剣を彼女に向けようとするが、その手は思い通りに動いてくれない。

 アートゥラの手がゼルの手に触れる。彼女の指は優しくまとわりついてゼルの指を柄から離した。剣が地面へと落ちる。


「……俺はなんの契約をしたんだ?」


 首に回された腕をゼルは外せない。そのまま口づけをしてくるアートゥラに、辛うじて問うた。


「怖がらなくてもいいわ。〝契約〟の履行はアンタが死んだ後の話。うまく生き延びれば当分先よ」


 アートゥラは奇妙なことを言う。だがもはやゼルにその判断はできなかった。

 そして再び唇が重なろうしたとその瞬間、ふいに森の中から物音が聞こえ、アートゥラが離れた。ゼルの意識も現実へと引き戻される。


「おい、そりゃねーぜ――」


 ゼルの言葉が止まった。

 音は確実に大きくなっていた。重い何かが森の中を進んで来る音。忍ぶでもなく、無造作に、ただ目的地のみを目指して歩いてくる音。それはゼルたちのいる方角を目指して近づいていた。


 ゼルの顔を傭兵のそれに戻る。

 アートゥラも先程のことなどなかったような表情になっていた。真剣だが、瞳にはこの状況を面白がるような光を浮かべている。いつの間にか、彼女の両手には短剣が握られていた。


「お仲間……じゃなさそうね」


 ゼルは落ちた剣を拾い、息を潜めて様子を伺った。音はやや方向を逸れ森の外へと向かう。

 それは森を出ると同時に現れた。


「おい……まさか」


 最初は音だけだった。重い〝何か〟が歩く音。音のする方には〝何か〟がいた。薄い影のようなものが見える。それは一歩ごとに濃くなり、ついには影からはっきりと細部を認識できる形になった。


 微かな月明かりの中、全身を灰色の毛に包まれた巨体が見えた。大きく発達した上半身はその巨体から発せられる力がとてつもないものであると伺わせる。

 太い丸太のような腕は地面につきそうなほど長い。上半身に比べて小さく見える下半身も、人間の基準からみれば太くしっかりとしている。

 体の上にに乗っているのは猿に似た頭だった。口は大きく裂け、乱杭歯がこれでもかと生えている。


 巨体はゼルたちに気づくことなく、無防備に歩いてルートの家へと入っていった。


「化け物? 毎晩巡回しても見つけられなかったのに」


 ゼルが掠れた声で言った。今見たものが信じられないといったふうだ。


「途中から姿がはっきりしてきたわね。普段は実体じゃないのかしら」

「おい、あの家に入ったぞ。あそこにゃ魔術師がいるんじゃねぇのか?」


 冷静な様子のアートゥラに向かって、ゼルは慌てたように言った。


「あの女なら石造りの方にいるわ。家の中からじゃ入れないから大丈夫よ。それに、アレは魔術師の得意分野だわ」

「どういう意味だ?」


 ゼルの疑問にアートゥラは意地悪な笑みを返す。


「それよりアンタのお仲間に知らせなくてもいいの?」

「言われるまでもねェ」


 ゼルは懐から小さな笛を取り出した。それを口に咥え息を吹き込む。しかしその笛から音が聞こえることはなかった。


「……虚笛うろぶえね」


 アートゥラが呟く。

 虚笛とは傭兵が好んで使う魔導具だ。吹けば人には聞こえない音を発する。その音は同じ種類の笛を共鳴させ、持ち主に合図を送るのだ。


 発せられるのが音である以上、屋内など遮る者がある相手には届かない。だが笛を持つ者同士が外に出ていれば、この小さな村の両端にいても届くだろう。そしてゼルの仲間たちは現在、森の中を巡回しているはずだ。

 すぐにこちらに向かって来る足音が聞こえた。だがそれはゼルの期待したものよりも遙かに小さくて頼りない。

 現れたのはケインだった。


「あのガキ、なんで……」


 ケインはゼルに気づくことなく、そのままルードの家へと向かう。手には籠を持っており、籠の中を気にしながら走っている。


「チッ。よりによって化け物んとこに行くのかよ」


 ゼルはケインの後を追おうとする。


「仲間を待たないの?」

「あのガキは嫌いだが、見殺しにしちまったらコエンの野郎にドヤされる」


 振り向くことなくゼルはこの場を離れる。

 ケインはすでに家の中へ入ってしまった。ゼルは家に近づくと足音を忍ばせた。扉の前に立ち聞き耳を立てる。


「……ル。しばらく来られな……ごめん……」


 扉越しにケインの声が聞こえた。誰かと話しているようだ。他に誰かいるのかと思い、ゼルは扉を少し開けて覗き込んだ。


「!」


 ケインは上を見上げ、誰かと話していた。その視線の先にいるのは先程ゼルが見た化け物だ。少年は化け物を恐れる様子もなく、楽しそうに話している。

 化け物は床に置かれた籠の中から何かを取りだして口に運ぶ。籠の中にはパンや果物といった食料が入っているようだった。


「……でね、みんあアベルが死んだって言うんだ。ちゃんと生きてるのに」


 化け物は食べるのをやめてケインを見る。


「誰モ気ヅイテクレナイ。ミンナ逃ゲル。僕ハオ父サンニ会イタイダケナノニ」


 やや不明瞭ではあったが、化け物から聞こえる声は子供のものだった。


「探そう。アベルがこうやって生きていたんだから、きっとお父さんも生きてるよ」

「……けいんハナンデ僕ヲ怖ガラナイノ?」


 化け物――アベルは自分の手を目の前にかざして見る。大きくごつくて鋭い爪のついた手。それは決して人間のものではありえない。


「最初はちょっと怖かった。でもアベルは友達だろ?」

「……けいん」

「おいおい。なんでガキと化け物が仲良く話してやがんだよ」

「!」


 ゼルは扉を開けて放ち、中へと入った。ケインとアベルが同時に傭兵の方を向く。


「お前は!」


 ケインは慌ててアベルの前に出る。


「どけ、ガキ!」


 ゼルは剣を油断なく構え、アベルを威嚇する。アベルは低いうなり声を上げてゼルを睨んでいる。その目は赤く輝き始めていた。


「お前こそ帰れ! アベルをいじめるな!」


 ケインは怯むことなくゼルを睨んだ。小さな体を精一杯広げ、自分よりも遙かに大きなアベルを背中で隠そうとしている。


「いじめるだと? 冗談じゃねェ! こっちはテッドを殺されてんだ。テッドだけじゃねェ、村の人間だってそいつに殺されてんだろうが!」

「みんなアベルをいじめるからいけないんだっ」


 ケインは必死になって叫んだ。

 そんな少年を無視して、ゼルは間合いをじりじりと詰める。それを見たケインは咄嗟に前に出てゼルの脚に組み付いた。


「アベル、逃げろっ」

「離せ! ガキ!」


 ゼルはまとわりつくケインの頭を剣の柄頭で小突いた。力が緩んだ隙を逃さずに、足を振って少年を蹴り飛ばす。ケインはアベルの足元へと転がった。


「けいん!」


 アベルの赤い目がその輝きを増した。両腕の筋肉が盛り上がり、体をたわめいつでも飛びかかれる体勢になる。そして一足飛びにゼルへと近づくと、丸太のような腕を一振りした。

 ゼルはそれを紙一重で躱す。そして剣を一閃させた。アベルの腕に浅い傷ができる。


「グォォォォォォ」


 アベルはうなり声を上げてゼルに掴みかかろうとする。ゼルは後ろに跳んで、開け放った扉から外へと出た。壁をアベルの爪が抉る。

 アベルはゼルを追って外へと飛び出した。

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