Playball.3 対校試合の行方

 だが、ひとまず「野球」を頑張る、とは言ったものの、ここは雪深い大地、北海道。


 北海道でも、特にこの札幌地域周辺は、雪が多い。

 平均しても11月、早ければ10月には、周辺の山で雪が降り始め、12月~3月までは、都市部でも間違いなく、根雪(溶けずに春まで残り続ける雪)となり、大地は一面白く染まる。


 昔から北海道は、「高校野球に弱い」と言われており、その原因がこの「冬の長さと雪の多さ」にあると言われていた。


 今でこそ室内練習場がある高校が、甲子園優勝を成し遂げたりしているが、当時、そんなものはもちろんないし、準備も出来ない。


 つまり、それから訪れた長い長い冬の間、彼らはひたすら籠って、雪かきをしながら、野球を続ける必要があった。


 勉強が第一の学生、ましてや現在よりもはるかに優秀な生徒たちが集まっている。勉学の合間に、彼らは独自に野球の練習をしたが、せいぜい雪降る中で、ボールを投げ合うか、ランニングをするくらいしか出来なかったのだ。


 バットを振ることも室内では難しいし、当時の日本家屋は圧倒的に狭いから、バットを振るスペースがない。


 だが、面白いのは、内村鑑三と新渡戸稲造だった。

 彼らは武士の産まれだった。物心ついた頃にはすでに幕府が瓦解する直前だったが、それでも幼少の頃より武士の心得を学んできている。


 つまり、武士が刀を持つように、バットを持って、一対一でピッチャーと対峙すること自体を面白く感じてしまうのだった。


 一方で、伊藤一隆は元々、商人の産まれだし、大島正健は、名主の子供だったから、感覚が違った。


 内村鑑三と新渡戸稲造が主に打撃練習を行い、伊藤一隆と大島正健は主に投球練習を、それ以外は守備中心に訓練を続けるのだった。



 年が明け、明治11年(1878年)。世の中では、内務卿(現在の総理大臣に当たる)大久保利通が、不満を持つ石川県士族に白昼堂々と暗殺され、きな臭い雰囲気が漂っていたが。


 アメリカに留学していた平岡ひろしが、帰国後に、東京の新橋停車場構内に、日本初の野球場でもある「保健場」を作り、アメリカのスポルディング社から用具の提供を受けて、ユニフォームを作り、日本初の本格的な社会人野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を創設した。


 同チームでは、野球のルールブックを毎年、本場のアメリカから取り寄せて、当時の最新ルールを使用していたという。


 また「日本野球の祖」とも言われる平岡凞は、アメリカ留学中にカーブを会得し、日本で初めてカーブを投げたとも言われており、それが「魔球」と呼ばれ、学生野球の投手たちが多数、彼の元を訪れたと言われている。


 それを、新聞記事で目にした大島正健が興奮気味に、友人の伊藤の元にやって来た。


「すごいぞ、伊藤。東京じゃもうベースボールチームが出来たらしい」

 講堂での授業後の合間に、いつものように英語の本を読んでいた伊藤は、興奮する同僚をなだめるようにして、告げる。


「すごいけど、僕らに出来るのか。ベースボールなんて」

 彼は、どちらかというと、冷静にベースボールを見ており、興味深いが、それほどのめり込む物ではないと思っていた。何よりも、彼は運動はそんなに得意ではなかった。


「そんなこと言うなよ。やれば出来るぞ」

「だが、相手はどうするんだ?」


「相手?」

「試合の相手だよ。この間みたいに、二期生とやるだけじゃ、気心が知れていて、つまらない」

 伊藤が言わんとしていることは、野球に限らず、試合や対戦というのは、「外」とやった方がいいということで、これは彼の持論でもあった。


 気心が知れている「内」とやっても、結局、手加減したり、気遣ったりで、真剣勝負にはならないと、彼は思っていた。


「そうなんだよなあ。けれど、この北海道に、僕たち以外に、ベースボールが出来る連中なんていない」

 大島が溜め息を突くように、野球草創期どころか、この北海道自体が「草創期」に近い。

 ようやく開拓の手が札幌に入ったところで、開拓使も札幌にあったが、依然として北海道の中心地は、まだ函館にあった。


 この札幌の人口が急増するのは、1940年代に入ってからで、まだ道内では市制すら実施されていなかった。


 少し後になるが、この11年後の明治22年(1889年)のデータで、函館区(現在の函館市)の人口が52909人に対し、札幌区(現在の札幌市)の人口が16876人しかいなかった。


 北海道の行政の中心地は、札幌に移っていたが、依然として港湾都市であり、船によって本州との接続点だった函館は、北海道の中心だった。ちなみに、明治11年当時の札幌の人口は1万人もいなかったという。


 札幌農学校は、日本初の学士の学位を授与する近代的大学と言われているが、それ以外にまともな学校などなかったのが、当時の札幌だった。


 そこで、春先に、大島はペンハローに提案したのだ。

「どこか、対外試合が出来るところと、ベースボールの試合がしたいです」

 と。


 ペンハローは眉間に皺を寄せて、両手を挙げて、お手上げのポーズを作り、

「Oh。それは難しい問題ですね」

 と言っていたが、一応は探してみるとのことだった。


 その代わり、

「対外試合をやるからには、しっかりと練習しましょう。二期生と紅白試合を行っても構いません」

 と彼らに、授業の合間にベースボールの練習をすることを許可してしまった。


 かくして、彼ら「野球初心者」による、特訓が始まった。

 東京の新橋アスレチック倶楽部のような、職業野球でもないため、ルールブックを手に入れることも出来ない彼らは、見様見真似と、ペンハローのアドバイスだけを頼りに野球を続けた。


 北海道で野球が出来る期間は短く、春は4月まで雪が残るため、5月から9月まで。がんばっても4月から10月が限度だった。


 だが、彼らは短い青春の合間に「野球」を続けた。

 来る日も来る日も、札幌農学校の演武場の隣の広い芝生の上で、革の粗末なボールを追いかける。


 もちろん、今のようにヘルメットもない時代。

 今で言うところの「硬球」を使っているため、ボールが頭に当たれば、危険なこともあった。


 同年6月2日。前年にすでに佐藤昌介、大島正健が洗礼を受けた、アメリカ人宣教師のメリアン・C・ハリスという男が、函館から札幌にやって来た。

 アメリカの有名なリンカーン大統領のような、長い顎鬚を生やした細面の男だった。


 目的は、二期生の内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾ら7名に洗礼を授けるというもので、彼らが後に、日本プロテスタント発祥の一つ、札幌バンドと呼ばれるようになる。


 そんな中、一年ぶりに再会したハリスに、大島が声をかけていた。

「実はベースボールを始めましたが、相手がいません」

 という話を振ったが、それを耳にしたハリスの口から意外なことが明かされるのであった。


「そうですね。私たちが住む、函館に日々にちにち学校という学校があります」

 彼が言った、日々学校、英語では「Day School」と言い、後に遺愛いあい女学校と改名する。つまり、女子校だった。


「女子? そりゃ無理ですよ。ベースボールは男のスポーツです。女子では耐えられません」

 当然のように、大島は反対の声を上げる。


 だが、

「でも、そうすると、試合はできませんよ。日本も、新しい時代になったので、男子だ、女子だ、と騒ぐこともないでしょう」

 外国人のハリスにそう言われて、渋々ながらも、大島は、


「話し合って決めます」

 そう言って、回答を保留にした。


 彼は早速、このことを持ち帰り、同級生である一期生と、下級生である二期生をも集めて話し合った。


 女子とベースボールをすることについては、当然ながら「反対」意見が圧倒的多数を占めた。


 当時は、今と違い、完全な男尊女卑の時代であり、女子は「結婚して家庭に入れ」というのが、暗黙の了解であり、むしろ女子がスポーツをしたり、勉強をしたりすること自体が「はしたない」と思われる風潮が、社会全体にあった。


 明治時代に入り、ようやく「女子教育」というのが注目され始め、全国各地に女学校の類が出来てはいたが、まだまだ少数派だったからだ。


 おまけに、

「体格も体力も違う。無理だろ、ベースボールは」

 この中で、経験者でもある佐藤昌介が毒づくように言う。


「そうですね。それにもし、試合中に怪我でもさせたら」

 新渡戸稲造が同調する。


 だが、

「かと言って、試合をする相手はいるのか?」

 改めて、大島に問われると、誰もが俯いて、言葉を亡くしてしまうのだった。


 相手がいない。

 だが、ベースボールの試合はしたい。


 個人的に、授業の合間にやっているだけだから、わざわざチーム全体で東京まで遠征する金もない。


 そのうち、誰かが口を開いていた。


「いいんじゃないか、女子でも」

 一期生のうちの一人だった。


「何を言っている?」

「だって、そうだろ? ベースボールと言っても、我々がやっているのは、所詮は遊びの範囲を越えない。だから勝っても負けても構わないし、相手だって誰でもいい」


「まあ、それには一理ある」

「そうだな」

 少数ながらも、女子と戦うことに賛意が集まる中、


「だが、やるからには絶対に勝つ」

「ああ。女には負けられん」

 いつの間にか、試合をやるような雰囲気に、流れが変わっていた。


 渋々ながらも、大島は、函館に帰るというハリスを呼び止め、試合を実施することを了承する。


 だが、ハリスは、

「わかりました」

 とは頷いていたが。


「ただ、こちらにも準備がありますので、来年の夏に行いましょう」

 そう言って、足早に函館に向かって、馬車を飛ばして去ってしまうのだった。

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