第6話
その6 『トンボ の感謝』
クモ とのカウンセリングの後、博士は装置の試運転をしばらく休んでいた。それは度々林に出掛けて クモ の巣を観察していたからだ。あの時見た 美しいクモの巣が博士にそうさせたのだ。クモ の巣にも様々な形、大きさ、張り方があることを知り、夢中になってしまった。
そして今日もまた林に来ていた。博士が クモの巣を観察していると、一匹の トンボ が目の前に現れて、あっという間に クモの巣に引っ掛かってしまった。トンボ は羽をバタバタさせて逃げようとしたが、そのうち動かなくなった。
博士は戸惑った。 クモの巣に小さな虫がくっついているのは何度か見かけたが、実際に捕まるところを見るのは初めてだった。そうなってしまったからにはエサになっても仕方がない。もし助けてしまったら、自然界の法則に逆らってしまう。そんなことをしては クモ にも悪いのではないか。
そこで彼は呟いた。
「今日はこの トンボ の話を聞くことにしよう。研究のために連れていくのであれば、クモ もきっと許してくれるに違いない。」
かなり勝手な理由を付けて、結局研究室に連れて帰ることにした。虫かごを持っていなかったので、右手の人差し指と中指との間に羽の片側をそっと挟んでつまみ上げた。そして羽を傷つけないように気を付けながら歩いた。トンボ は全く動かず、博士になされるがままになっていた。
研究室に着くと、装置の蓋を開けて、ゆっくりと中に入れて、指の間からそっと下に置いた。
そしてスイッチを押すと、
「あれー、ここはどこだ? 僕はどうしてこんなところに入れられているんだ? 」
博士が話しかけた。
「こんにちは、トンボ 君。おっと失礼、君は男の子かい?」
「あ、はい。あなたは誰ですか?」
「私は昆虫の研究をしている佐藤という博士だ。」
「そうでしたか。それで、あのー、僕、なんでここにいるんですか?」
「あのね、君はさっき クモの巣に引っ掛かっていたんだよ。」
「ああ、そうでした。でも、僕どうやっても逃げられそうもなかったから疲れたし、諦めて眠っていたんです。そしたら夢の中で誰かに助けられたんです。でも夢じゃなかった。あなたが助けてくれたのですね。ありがとうございます。それで、ここはどこですか?」
「ここは私の研究室だよ。君が入っているのは私が開発した装置さ。この装置のお陰で私と君は会話ができるんだ。」
「えっ、・・・。それではあなたがあの噂の昆虫カウンセラーですか?」
「ええ、まあ。そう呼ばれているようだね。」博士は内心かなり嬉しかったが我慢して控えめに答えた。
「やはりそうですか。あまり頼りにならないけど、割りといい人だと言われていますよ。」
「あまり頼りにならない、・・ですか。」博士は下を向いてしまった。
「あ、すみません。つい正直に言ってしまいました。」
「いいよ。確かにその通りだからね。」
「いえ、そんなことはありません。今日だって僕を助けてくれたではありませんか。」
「いや、それはその、」 博士は返事に困った。
「博士、実は僕、訳のわからないうちに助けられたのは、これで二度目なんです。」
「二度目?」博士が興味深そうに訊いた。
「はい。一度目は僕がまだ幼虫だった頃のことです。」
「フムフム、で、何があったのかな?」
「僕は大きな池で幼虫になりました。そしてその中でゆったりのんびりと暮らしていたのです。でも、ある日、突然その池の水が凄い勢いで減り始めたのです。」
「水が減り始めた?」
「はい。僕には何が起こったのか全くわかりませんでした。そのうちとうとう水がほとんど無くなりました。どうしてよいかわからず、ぶるぶる震えていたら、何かが僕の体を救い上げてくれたのです。それから水が沢山あるところにそっと入れてくれました。そこはとても狭かったけど、僕の仲間が大勢いました。僕たちは怖くて身を寄せ合いました。」
「フムフム、それで?」
「しばらくすると、僕たちはザーッと流されてどこかに落ちていきました。そこも池でした。でもその前に住んでいたところとは違っていました。」
「どんなふうに?」
「ええと、水草が沢山生えていたし、石や岩もありましたから。」
「それでは始めに住んでいたところには、水草も石や岩もなかったんだね。」
「いえ、少しだけど水草はありました。」
「そうか。それはなかなか面白そうな話だね。君たちの身に一体何が起こったんだろう。」
「はい。僕も是非知りたいです。」
「よし、謎を解くことにしよう。まず、君が初めに住んでいた池だ。とても広かったんだね。」
「はい。かなり広かったと思います。」
「それで他に思い出せることはあるかな?」
「ええと、池の底に光が注すと青い色をしていました。」
「青い?」
「はい、まるで空のようにきれいな青色でした。」
それを聞いて博士は考えた。そして胸の前で両手の拳を握って言った。
「そうか、わかったぞ。」
「えっ、何が?」
「君が始めにいた場所だよ。」
「す、凄い。本当ですか?」
「うん。間違いない。」
博士はまるで探偵のように片手であごを撫でながら言った。それから目を閉じてゆっくりとうなづいた。
「博士、早く教えてくださいよ。」
「ウム、それはね・・、」
「それは?」
「それはプールという巨大な水槽のようなものだ。」
「巨大な水槽?」
「そうだよ。いいかい。人間の子どもたちは夏になると学校にあるプールで泳ぐんだ。」
「あれ、それなら僕、この前見ました。大きな四角い池みたいなところで人間の子どもたちが楽しそうに遊んでいました。」
「そうさ。そこだよ。多分この近くにある学校のプールだと思うよ。君の親がそこに君を産み付けてくれたんだ。」
「ふうん、そうですか。でもなんで僕たちは別の池に移されたのでしょう?」
「それは君たちを助けるためだね。」
「助ける?」
「そうさ。そうしなかったら、プール掃除のために水を抜いたその日に君たちも汚れた水と一緒に下水口に流されてしまっていたからね。」
「ああ、そうだったのですね。」
「トンボ 君、良かったね。多分君を助けてくれたのは小学生だよ。私は時々林の中で楽しそうに虫探しをしている子どもたちを見かけるんだ。もしかしたらあの子たちかもしれないね。君を助けてくれた子どもたちもきっと虫が大好きなんだと思うよ。」
「そうか。僕は人間の子どもたちに助けられて、お陰で無事大きくなれたのですね。」
「きっとそうだね。彼らは君の命の恩人だ。」
「はい。」トンボ の目が光った。そして言った。
「博士、二度目に助けてくれたのはあなたです。今日は本当にありがとうございました。」
「いや、ど、どういたしまして。」
博士は少しためらうように言った。複雑な思いだった。もしかしたら助けていなかったかもしれないからだ。でも助けて良かったのだと思うことにした。
「トンボ 君、謎が解けて良かったね。それでは君を林まで送ろうか。」
「いえ。僕はこれから学校に寄って、子どもたちにお礼を言いたいと思います。気づいてくれないかもしれないけど、学校の庭を一周して、ありがとうって伝えたいんです。それから林に戻ります。」
「そうか、わかった。子どもたちが君に気づいてくれるよう祈っているよ。」
「ありがとうございます。」
博士がスイッチを切って蓋を開けると、トンボ は勢いよく飛び出して、博士が開けた窓からあっという間に大空に消えていった。
「クモの巣 には気を付けるんだよー。」博士は見えなくなったトンボ に向かって言った。
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