第5話

その5 『クモ』の芸術


翌朝、博士は少し寝坊して、遅めの朝食を摂っていた。

二枚目のトーストにバターを塗り、かじろうとしたその時だった。天井からテーブルの上に何かがゆっくりと下りてきた。博士が気付いた。

「おやおや、今日も来客のようだな。ようこそ昆虫カウンセラーへ、なんてね。」しかしよく見るとそれは、

「ありゃ、なんだ、 クモ じゃないか。だめだめ、 クモ は昆虫じゃないぞ。悪いがお断りだ。」

すると クモ はパンの上に乗り、しきりに博士の方を見ながら左右の前足を擦り合わせ始めた。

「おいおい、駄目なんだよ。私の装置は昆虫のみなんだ。」

クモ はまだ手を擦り合わせている。

「あー、はいはい、わかりましたよ。どうやら君も私のカウンセリングを受けたいという訳だね。」


博士は朝食を早めに切り上げて、クモ を手の平に乗せ、研究室に向かった。そして装置の中に入れると、

「あのね、これは昆虫用の機械なんだ。君の思いがわかるかどうか、微妙なんだよ。あまり自信はないな。」

そう言いながらスイッチを入れた。するといきなり、

「はーい、博士、聞こえますかー?」

博士が慌てて答えた。

「うわー、聞こえるよー、君の心の声がね。すごい、すごいじゃないか。私のこの装置。昆虫だけでなく、クモ の気持ちまでわかるとは。感動、感動、素晴らしい。」

「あのー、いつまで感動してるんですか。そろそろ本題に入っても?」

「ああ、すまんすまん。つい嬉しくてね。まあ、勘弁してくれ。」

「ハハハ、噂通りの結構いい奴なんですね。」

「結構いい奴?」

「はい。少し自信家でお調子者だけど、まあまあいい奴、って評判ですよ。」

「えっ、それって喜んでいいやら悪いやら。」

「まあまあ、いいじゃないですか。」

「はいはい、わかりましたよ。それで私に何の用だね?」

「もちろん、カウンセリングですよ。聞きましたよ。博士が人間のくせにやけに虫たちについて詳しいって。」

「あらま、人間のくせに、は余計だよ。それに詳しいのは昆虫だけだし。だからさ、まさかこうして君みたいなクモ と話すことになるとは思わなかったよ。」

「そうですか。博士、まずはこの中に入れてくれてありがとうございます。そしてこの装置が予想以上の働きをしてくれたことに感謝します。」

「そうだろう。だったら君ももう少し感動してほしいな。」

「・・、オー、ワンダフル! あなたは天才だ。・・、こんな感じでどうでしょう?」

「うう、わかった、もういいよ。ところで君は女の子かい?」


「あ、忘れてました。それでは自己紹介。私は近くの林に住んでいるメスの クモ です。」

「あ、これはどうも。私は佐藤という博士です。昆虫の研究をしています。」

「もちろんそれは知ってますよ。だから訪ねてきたのですからね。」

「ハハ、そうだったね。では話を聞こうじゃないか。」

「それではお話します。あなたたちは私たちがいかに素晴らしい能力を持っているかご存知でしょうか?」

「いや、あまり知らない。」

「うーん、やっぱりそうですか。」

彼女はガックリ肩を落とした、ように見えた。

「いやあ、そんなにがっかりしないでくれ。」

「では、聞いてください。私たち クモ にも様々なタイプがいます。巣を張る者、張らない者、穴に住む者等々。その中で巣を張る クモ は、すなわち私のような クモ のことですが、自分たちの巣にとても自信を持っているのです。あなたも私たち クモ の巣の美しさに思わず見とれてしまったことがあるのではないですか?」

「ない。」

「そんな・・、ひどい!」

「うーん、そう言われても、さっき言ったように私の専門は昆虫なんだよ。だから君たち クモ のことまで調べたり、理解したりする暇などないんだ。それで君は何が言いたいのかな?」

「ですから、私が言いたいのは、私たち クモ の紡ぎ出す巣の美しさについて、もっと人間に認めてほしいのですよ。」

「なんで?」

「そんなの決まってるでしょう。私たち クモ にもアーティストとしてのプライドがあるのですよ。」

「えっ、クモ ってアーティストだったの?」

「そうです。もちろん、みんなではありませんが、特に私たちのように立派な巣を紡ぎ出す クモ は皆、自分の才能と表現に誇りを持って巣の造形に取り組んでいる訳ですよ。」

「うーん、それって何か違うような気がする。だって君たちが巣を張るのは、自分たちが生きていくための獲物を捕まえるためじゃないか。」

「あらー、何と無理解な!」 彼女は身体を震わせている。そして続けた。

「博士、あなたの感性はカラカラに干からびています。いいですか、獲物を捕らえるためという部分は間違ってはいません。しかし、それだけのためだったら、あれほど精巧で美しい巣を製作する必要などないのです。それがわからないのですか?」

「うーん、わかるようなわからないような・・。」

「ああ、全くじれったい。人間には到達できないような私たちの崇高な芸術の世界をいい加減認めてくださいよ。」

「あのね、そう言われても私には クモ の巣の美しさなんてよくわからないんだ。悪いね。」

「そうですか。とても悲しいです。それでは一つお願いがあります。今度雨上がりの林に来てみてください。そうすればあなたの考えもきっと変わると思いますよ。是非お願いします。」

「雨上がりの林?」

「はい。できれば静かな雨の降った後がいいです。」

「うん、わかったよ。とにかく行ってみることにするよ。」

「ああ、良かった。少し希望が持てました。」


博士がスイッチを切って蓋を開けると、彼女は腕を伝ってあっという間に外に出てどこかに消えてしまった。


その日の午後、博士は街へ買い物に出掛けた。途中で雨に降られたが、大雨にはならず、研究所に戻る頃にはすっかり止んで、お日さまも顔を出していた。

そこでふと、今朝やってきた クモ が言い残した言葉を思い出した。博士は荷物を置くとさっそく林に出掛けることにした。すると、これまではあまり気にしていなかった クモ の巣が、よく見るとあちこちにあることがわかった。

ピタッ・・、博士の足がその中の一つの前で止まった。

クモ の巣の細い糸に水滴が首飾りの真珠のように並び、日の光を浴びてキラキラと輝いていたのだ。

「えっ、これは・・・・。そうか、これか。いやぁ、確かに美しいものなんだなあ。この完璧とも言える複雑な形を、あんなに小さな クモ が設計図も持たずに自分一人の力で造り上げたという訳か。うーん、そう考えると確かに見事な芸術作品、アートなんだなあ。」

博士はしばらく見とれていた。そして呟いた。

「今まで クモ の巣なんてあまり関心もなかったが、よし、決めた。これからはみんなに教えてあげることにしよう。そして誉めてあげてほしいと伝えよう。」

その時、一匹の クモ が水滴の光る美しい 巣の上の方から下りてきた。

「おや、君はもしかしたら今朝の クモ さんかね?」

クモ は何も言わなかったが、左右の前足を持ち上げて擦り合わせながら博士にお辞儀したように見えた。そして静かにゆっくりと クモ の巣を上っていった。


博士は思った。

「今まで昆虫以外の虫なんて興味が持てなかったけど、同じ生き物なんだよな。みんな小さな身体で精一杯生きているんだ。なんて素晴らしいんだろう。」





















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