第4話
その4 『蚊の注文』
昨夜、博士は ミツバチ との会話の後、彼女との会話を思い返していた。自分の言ったことが彼女に伝わったことは嬉しかったが、彼女が大きな家族のために頑張ると思い新たにしてくれたことは、本当に彼女のためになったのだろうか。人間である自分の勝手な考えを押し付けたのではないだろうか。
しかし、博士は思い直した。今、自分はあの ミツバチ のように自分のできることに全力で向かっている。そしてこの研究から産み出される驚きや感動を世界中の人々と共有できたら、こんな嬉しいことはないじゃないか。
そしてこの研究で得た成果を昆虫のために上手く活用することだってできるはずだ。そうだ、そうなるように頑張ろう。
「よし、今日も虫たちとの会話を続けることにしよう。」
博士が虫かごを持って出掛けようとすると、何かが腕に止まった。よく見るとそれは カ だった。思わず叩こうとしたが、ふと手を止めた。そしてそっと握りこぶしの中に捉えた。そのまま研究室に戻ると、装置の中に入れた。カ も昆虫の仲間であることを思い出したのだ。
とりあえず、装置のスイッチを押して声をかけた。「お早う、やせっぽちのおチビちゃん。」
「ひどいな、好きで痩せてる訳じゃないのに。」
「ああ、そうだね。悪かった。愛情こめたつもりだったんだけど。」
「それは嘘です。だってあなたはさっき僕を叩こうとしたじゃないですか。」
「ウーン、君鋭いね。見抜かれたか。」
「当たり前じゃないですか。その気配を素早く察知することで、これまで何とか生き延びてきたのですからね。あなたごときにやられる訳にはいきませんよ。」
「あらら、あなたごときとは、参ったね。でもさ、君は カ だからね。随分苦労してきたんだろうね。」
「苦労? 苦労したなんて、あなたたちに僕たちの苦労がわかるのですか?」
「いや、残念ながらあまりわからない。」
「そうでしょ。それでは教えてあげましょう。あのですね、僕たちオスは血なんか吸わないんですよ。それなのにただ飛んでいるだけで人間に叩かれるんです。これがどんなにひどいことか、あなたにわかりますか?」
「確かに君にはひどいことかもしれないね。」
「あれ、なんだか冷たいなあ。ガクって感じですよ。ぼく、あなたの噂を聞いてはるばる遠くからやってきたのに。」
「はるばる?」
「そうですよ。林の向こうの沼からですよ。」
「フム、そうか。それで、私に何の用?」博士は気のない返事をした。彼は昆虫が好きとはいっても カ は苦手だったからだ。
「僕たちのことをもう少し人間に知ってもらいたい、ってことですよ。」
「なんだ、それなら大丈夫。君たちのことを知らない人間なんていないからね。」
「いえ、違います。もっときちんと知ってほしいんです。」
「フムフム。で?」
「だからですね、あなたたち人間は僕たちがみんな人間の血を吸って生きていると思っているけど、それは違うということなんです。」
「なんだ、そのことか。そんなことはほとんどの人が知っているよ。君たち カ の仲間で血を吸うのはメスだけだ。それも卵を抱えている時期だけ。より高たんぱくな栄養が必要になるからだ。そこで手っ取り早く人間や動物の血を吸っているというわけだよね。」
「手っ取り早く、というのはあんまりですよ。ま、とにかく人間たちは カ が飛んでいるだけで、まるで親の仇のようにパチン、と叩くじゃないですか。あれをやめてほしいんですよ。僕たちオスまで安心してその辺を飛ぶことができないじゃないですか。」
「ウーン、それは何というか難しい問題だね。だってさ、君たちの性別なんて見分けがつかないからね。」
「確かに、おっしゃる通りですね。だったら、お願いがあります。」
「お願い?」
「はい。僕たちだってあなたたち人間と同じように、子孫を遺すという使命を持って生まれてきたのです。ですから卵を産むために必要なのだから、少しくらい血を吸わせてくれてもいいじゃないですか。」
「・・・・、ごめん、それは無理。」
「あれ、ずい分あっさりと断るのですね。」
「あのね、なぜかというと、君たちのなかには時々人間たちに悪い病気をうつすことがあるからね。だから気易く刺されてあげることなんてできないんだよ。」
「えっ、そうだったんですか。それは知りませんでした。」
「どうかね、わかってもらえたかな。」
「ええ、仕方がありませんね。」 カ は少し間を置いてから言った。
「それではこれからもメスたちはあなた方に気付かれないように刺すしかありません。」
「ウム、何と返事して良いやら。」博士は渋い顔をした。そして言った。
「君たち カ は人間とはわかりあえない存在なんだろうね。」「それじゃ、元気でな。」
博士はそっと蓋を開けた。」カ は静かに飛び立ち、博士が開けた窓から沼の方に向かって帰って行った。
「やれやれ、今回はなんの役にも立てなかったな。でも人間の事情はわかってもらえたようだ。」そっと呟いてからフーっとため息をついた。
その日、博士はそれ以上、虫たちと話す気になれず、ぼんやりと資料をみたり、外を眺めたりして過ごした。
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