4

 ジャンジャの研究と治療の進捗具合は良くなかった。

 もうすぐ保古丹島のお祭りとなるので、島内が忙しくなり、人々が先生に付き合わなくなってしまった。一般診療も激減し、近場の者以外、ほとんど来なくなってしまった。こちらから訪問しても、神社のお祭りなのに血を見たくないと採血を断られてしまう。日名子さんからも注意があったので無理強いはできなかった。

 ならばと、屋外の水たまりや藪の中で蚊やボウフラを採集して調べてみるが、寄生虫の発見はなかった。手詰まり状態であり、先生と横山さんは手持ち無沙汰だ。

 ヒマができたので、アヤメの家に二度ほど行った。私だけではなく、二回とも道案内人がしっかりとついてきた。普段の私は、どちらかというと女性には奥手なほうだが、アヤメに対しては積極的になっていた。遠く離れた小島の女であるので、たとえ断られても、それほど傷つかないとの打算があるのは承知している。我ながら卑しい男だと思うのだが、本能的な部分もあって気持ちが昂るんだ。

 ただし、アヤメも仕事で忙しいとのことなので長居はできなかった。音楽について他愛もないことをおしゃべりして、シソジュースをご馳走になって、コッタと一緒に家路についた。ジャンジャ・ドウーについての物語も、まだ聴けずじまいである。

 治療の足掛かりになるのではないかと考えて、アヤメから聴いた呪いの伝説を話してみた。先生にではなく、まずは横山さんにだ。助手の反応を確かめてから、本丸へと向かうのが筋道だろう。

「そういう話は興味深いですね。とくに英雄が現れるのは、イーリアスや日本の神話にも通じるものがあります。世界には共通の認識があるんでしょうかね」

 どうやら、呪いには興味がないようである。

「アヤメがいう島の呪いとジャンジャの正体に関して、なにか関係があるかもしれない」

 そう言いながら、あの歌舞伎めいたお話のどこに、そんな要素があるのか自分でもわからなかった。 

「芳一さん、地元の人は昔からの風習なんかに縛られますけど、我々は外部の人間です。科学的にいきましょう。その女性に入れ込むのはわかります。でも、呪いと風土病を一緒くたに語ってはいけないですよ。怪奇小説じゃないんですから」

「でも、そういう伝承があるということは、元になった出来事があったわけで、ひょっとすると島の知られざる未知の力によって、島民が呪いをかけられたのかもしれないし」

「我々は医者であって、呪術師やシャーマンではないのですから。この前の陰陽師うんぬんは忘れてください」

 私はただの荷物運びであって医者ではない。物書きを志望しているし、だから発想が多少飛躍しても恥ずかしくはない。アヤメの鬼気迫る演技を見せられたこともあるし、彼女の存在がなにかの役に立ってほしいとも思っていた。

「呪いがあるという精神的な圧迫が病気の症状として現れている可能性は、どうですか。凄惨な歴史が語り継がれて、島の人たちの体に影響しているとか」

「精神神経科は専門外なので、僕からはなんとも言えないです。集団ヒステリーのことですよね。痙攣や失神の身体症状は一部の人には見られましたけど、ほかの精神症状は、具体的にどういうのがありましたか」

「いや、オレは精神医学には素人なので、そういうのはわからないけど。ただそう思いついただけで、直感っていうかなんていうか」

 ため息が聞こえてきそうだった。論理の組み立てが飛躍を通り越して妄想の域に達しているのは、私にもわかっている。どうしてこんなことに拘るのか、じつは自分でも不思議だ。女のせいにしたくはないが、アヤメが影響しているのかもしれない。 

 お互い、なんとなく気まずくなって黙っていると、ドカドカと遠慮のない足音が近づいてきた。

「おい、診察に行くから準備しろ。それと採血もするからな」

 先生である。筋張った体からやる気がみなぎっていた。

「ええーっと、急患ですか」

「違う」

「診察はいいとしても、お祭りが終わらないと採血はさせてくれないのでは。日名子さんからも自重するように言われてますし」

「それがなあ、ちょっとおかしな話を聞いてな、抜け駆けできる余地がありそうなんだ」

「抜け駆け、ですか」

「そうだ。俺も知らなかったんだけど、どうやらこの島には保険があるらしいんだ」

「健康保険のことですか」

「そういう公的なものじゃなくて、保古丹島でしか通用しない保険だ。西出がやっているんだが、その名も、なんとジャンジャ保険だ」

「ジャンジャ保険、ですか」

「騎人古地区の世帯が入っていて、一定額を毎月払うらしい。ジャンジャの症状が出て働けなくなった時に経済的な補助をするそうだ。まあ、民間の保険会社みたいことをジャンジャにかこつけてやっている、ってことだな」 

「その保険が、どうやって抜け駆けとなるのですか」

「掛け金を払えない世帯もあって、そういうのは無保険ということになるな。無保険の者は俺らの診察を受けられない、ということになっているらしい。医療全般の恩恵にあずかれるのは西出の保険に入っている者だけということだ。瑠々士別のほうはどうなっているかわからんがな」

「だとすると、その方たちは具合が悪くてもここには来ないわけですね。ちょっと差別的な気もします」

「だから、こっちから行ってやるんだよ。俺たちはヒマを持て余しているし、人助けにもなるし、ひょっとしたら採血でミクロフィラリアが出てくるかもしれん。無保険者は日名子の顔色をうかがわなくてもいいから、協力してくれるだろうよ」

 これらの情報源は仁美婆さんからであり、日名子さんの目を盗んでいろいろと教えてくれたそうだ。無保険世帯へは彼女が案内するという。

「この島はジャンジャに関連して、いろいろありますね。お祭りも、ジャンジャだとか」

「おお、知っていたか。明日からはジャンジャ祭りだ。ジャンジャを祓う神事があるとのことだけど どんなことをするんだかな。おれも見るのは初めてだ」

 二人の医者たちの会話は、ざっとこんな感じだった。急な診察であり、私もお供しなければならなくなった。

「今日は、アヤメさんのところへ行けなくなりましたね」

「うっ」

 この生真面目医者は、時として余計な言動をすることがある。

「なんの話だ」

 先生の興味を引いてしまった。ヘタに隠し立てすると、あらぬ憶測を呼んでしまいそうなので、アヤメと仲良くなっている最中であることを、かなりボカシながら説明した。 

「ハハハ、芳一、おまえも隅に置けないやつだなあ。意外と手が早い。だけど女なんて、ススキノにたくさんいただろうが」

「誰でもいいってわけでもないよ。ちょっと気が合う人なんだ」

 アヤメと気が合うというのは言い過ぎだと思った。まだまだ話し込みが足りないし、彼女の背景をそれほど知っているわけではないし、裸を見せられたりはしたが肉体的な接触があったわけでもない。

「まあ、業務に支障ないかぎりでは何をやってもいいぞ。俺は、こまけえことをアレコレ言うのは好きじゃねえからな。やることやっちまってガキでも作っちまえばいいんだ。おまえに嫁ができたら、母さんもホッとするだろう」

 その時はちゃんとした就職先を世話してやると、先生が約束してくれた。

「では、行きましょう」

 横山さんのすっとぼけた顔が憎たらしかった。あとでコッタからバッタを仕入れて、さんざん揉みほぐしてから助手の寝床に撒き散らしてやろうと思う。虫臭い布団で悪夢に悶えるがいい。

「ほんだら、行くべか」

 仁美婆さんが来て出発となった。日名子さんには蚊の採集と告げていた。内緒の行動となる。

「西出は、自分の意のままにならねえもんを嫌がるからな」

 日名子さんの指示で我々の面倒をみてくれているのだけど、仁美婆さんの真意が不明だった。少なくとも、この年寄りは日名子さんのすべてを良しとはしていないようだ。隠密にというわけでもないが、堂々とはせずに、コソコソと役場を出た。


 訪問先は貧困を絵にかいたような家庭だった。

 木造平屋の住宅は、この島ではよく見る築年数が運十年のボロ屋だ。この前の夫婦の時よりも、一段上をいっていた。外壁の板にタールっ気がまったくなく、木板が乾いてささくれている。

 よほど無精とみえて、玄関先には変色した雑草が多数蔓延っていた。汲み取り便所の蓋の蓋が少し外れずれており、猛烈なる悪臭が放たれている。まさに糞尿のエキスであって、鼻の奥にツンと沁みた。さらに背丈ほどもある真っ赤なギシギシが繁茂し、秋の稲穂のように首を垂れていた。

 玄関に入って最初に出迎えたのは下半身丸出しの幼児であり、青っ洟を垂らしながら包皮の先っぽをいじくっていた。

「これはヒドイな」

 家主の許可は出ていなかったが、先生が勝手にあがり込んだ。つねに先っぽをいじっている幼児ではなく、居間の奥の壁にもたれかかっている老人を覗き込んだ。けして暖かくはないのだが、ランニングシャツ一枚で下は薄い股引きだけだ。他人が無許可で入ってきたのに、その年寄りは声も出さず、一点を見つめたまま呆然としている。

「シゲルはジャンジャだらけでなあ。息子の稼ぎが悪くて、金がねえんだ。したっけ保険に入ってねえから、西出の薬も買えねえ。だんだん弱っちくなって、このザマだ」

「ちょっと待て。薬があったのか。そんなの初耳だぞ」

 ジャンジャは不治の病であり、治療法も治療薬もない。だから先生と横山さんが、はるばる札幌から来ている。

「薬ったって、ジャンジャが治るわけじゃねえぞ。痛痒くて眠れねえから打ったり飲んだりするんだ。元気が出るからな、ジャンジャにやられてへこたれても、漁さ行けるんだ。でもなあ、保険に入ってねえと、そもそも売ってくれねえ」

 シゲルじいさんは仁美婆さんの知り合いらしく、放ってはおけない心境なのだろう。   

「日名子さんは、島民になにを処方しているんでしょうか」

「わからんな。精力剤か睡眠剤だろうけど、この島には医者がいないはずだが、根室の病院から誰か来るのかもしれん」

 医者がいないと薬を処方してもらえない。西出商店で買えるのは、風邪か腹痛の市販薬ぐらいだ。

「ありゃあ、ヒロポンみてえな感じだな。ちょっくら効きが薄いけどな」

 仁美婆さんが言う薬品名を聞いて、先生と横山さんの顔色が変わった。

「まさか、メタンフェタミンを投与しているのではないですか」

「それはないだろう。いくらなんでも、こんな離れ小島に麻薬があるわけがない。いや、さすがにありえん」

 ヒロポンは戦時中に販売されていた覚醒剤だ。いまは麻薬扱いで市販されていない。ススキノのジャズバーなんかではヘロインと共にけっこう出回っているらしいけど、もちろん、私は試したことはない。使用すれば逮捕されて刑務所行きとなってしまう。

「せめて薬品名を知りたいですね」

「薬のことは、あとで日名子に訊いてみる。先にこっちからだ」

 先生がシゲル老人の診察を始めた。シャツをまくって聴診器をあてる。上半身のいたるところにできた瘡蓋が盛り上がり、とても痛々しい。アバラ骨が出ていて手足なんか棒のように痩せてしまっている。まるで骸骨なのだが、腹部だけはポッコリと膨れてアンバランスな印象だった。ジャンジャ以外に致命的な病気がありそうなのはシロウトが見てもわかる。

「可哀そうだが、よくないな。黄疸が出ているし、腹水もある。おそらく」長くはないだろうとは言わないが、雰囲気で余命わずかなのがわかった。

 仁美ばあさんの皺だらけの顔が、しょんぼりとする。本人はうなだれたまま声を発しない。目が虚ろであり、意思が薄弱すぎた。体は衰弱しきっていて、精神はボケてしまっているのだろう。

 幼児は横山さんが担当した。肌を一通り見た後、先生と同じように胸に聴診器をあてた。目や耳の穴を確認し、そのへんに放り投げてあったズボンを履かせる。パンツは見つけることができなかった。

「この子は 多少栄養失調気味ですが、まあ健康ですね。両親はどこにいるのでしょう」 

「祭りのテコだあ。金ねえから、でめんとって稼いでるって」

 仁美婆さんの話では、両親はお祭りの準備作業をしているとのことだ。漁師らしいのだが、舟を持っているわけではなく、他の漁師の手伝いで生計を立てている。

「そのおじいさんからは、なにか出そうな気がしますね」

 採血している先生に向かって助手が言う。抑えてはいるが期待している顔であり、それだけ、この老人のジャンジャが酷いということだ。

「ちょっと、お邪魔するよ」

「あれまあ、なんだよ、おめえたちは」

 突然の来客であった。この家の者たちではない。なぜそれがわかるかといえば、こことは違う家で会ったからだ。

「あんたらを見かけたから、来てみたんだ」

 佐藤夫婦だった。ついこの間、横山さんと採血のために訪問したのだが、けんもほろろに突っぱねられてしまった。日名子さんと口論して、私たちを嫌っているはずだが、わざわざ他人の家にまで来るとはどういう心境の変化なのか。

「この前はすまなかった。西出がいたから、ついムキになってしまって。俺たちは保古丹を出て網走に行くんだけど、あっちで働くにも、この体を見られたら嫌がられてしまう。瘡蓋だけでも取ってもらえないか」

「見栄えを、ちょびっと良くするだけでいいからさあ、なんとかなるっしょ」

 体にまとわりついている瘡蓋を、どうにかしてほしいとの依頼だ。夫婦そろって先生に詰め寄る。幼女はいないので家においてきたようだ。

「まだジャンジャに特効薬はないから、症状はおさえられないんだ。いま体の痂皮を除去したって、またすぐに同じようになる。ジャンジャを完治させないと、なにをやっても無駄だ」

「そこをなんとかしてよ。亭主のジャンジャがバレたら、せっかく網走に行っても追い出されちゃう」

 女房が食い下がる。シゲル老人の居場所を押しのけるように前に出てきた。

「どうしてもやれというなら取り除いてやる。ただし、ジャンジャの痂皮はどれも生乾きで、皮膚の中まで癒着しているから、こそげ取るのは相当痛いぞ。局所麻酔薬なしでやるが、いいのか」

 女房は「やるべやるべ」とせっつくが、夫の血の気が引いている。むずかしい表情のまま、黙って一点を見つめていた。

「ちょっとみせてもらえませんか」

 助手が診察を申し出ると、夫は作務衣のような上着とシャツを脱いだ。予想通りというか、上半身は生乾きの血の塊だらけで、これらをすべてこそぎ落とすのは骨が折れそうだ。それよりなにより、受ける苦痛は限界を超えるだろう。治療というよりも拷問に限りなく近くなる。

「やっぱりダメだよな。ジャンジャは、どうもこうもなんないんだべや」

 夫が諦めの息を吐き出した。シャツと作務衣を着て、落胆したように首を落とす。女房が肩に手をおいて、「大丈夫、大丈夫」と言っている。幼児が私の前をとおって、玄関に向かった。ほんのりツヨシと同じニオイがした。

「あんたらは血をとってるけど、何をさがしてんだ。虫だっていう話だけど」

「ジャンジャの正体は、おそらく寄生虫だ。発見が困難なだけでフェアリアの新種だろう。もし見つけることができれば生態を解明できるし、そうすると治療法も確立しやすくなる」

 先生の言うことは力強いが、夫は別の考えをもっていた。

「ジャンジャは呪いなんだ。島が呪ってるんだよ。寄生虫なんかじゃねえ。どうにもなんねえだって。網走行っても、こいつは一生俺たちにつきまとうんだ」

「呪いなんてことはないのですよ。そういうことを考えていると、かえって病気になってしまいます」

「侍たちの血で、この島は呪われたんだ。俺たちだけじゃない。ガキどもも、そのガキどもも呪われるんだ。侍たちの女房や子供らまでもが殺されたようにな」

「ちょっと待ってくれよ。アイヌの人たちが松前藩に騙されて殺されたんじゃないのか。だから島が怒ってジャンジャを流行らせてるんだろう」

 アヤメが教えてくれた歴史とは違う。この島が呪いの権化となったのは、松前藩とアイヌの人たちとの戦争が発端じゃなかったのか。ジャンジャという疫病は、その時から発生していると、彼女は全身を使って表わしたじゃないか。

「ジャンジャが始まったのは、そこじゃねえ。この島には、昔はアイヌも住んでたし和人もいたし、山師も来てたんだ。松前の役人もいて、そいつらが手を組んだり戦ったり、いろいろごちゃごちゃあったってのは、ばあちゃんが言ってた」

 アイヌと和人と松前藩はわかるが、山師ってなんだ。たしか、アヤメもそんなことを言っていたな。

「そこのところを、もっと詳しく話してくれませんか」

 診察には関係のないことだが、私には気になった。

「芳一さん、呪いの話はやめましょう。我々の目的ではないですよ」

「そうだぞ。ごちゃごちゃくっちゃべるより、まずは採血をさせてもらうか」

 先生と横山さんは、当然ながら医学に忠実であろうとする。私はどうせ荷物運びなので、そんな殊勝な使命感はない。アヤメの表したことの追記があるようで、それは是非にでも知りたいと思った。

「松前の侍たちが殺されてからジャンジャが始まったんだ。呪いが始まったんだって」

 こちらから催促しなくとも、夫は話しを続けた。先生が血を採っているが、しゃべりを遮るようなことはしなかった。横山さんは無表情だが、いい雰囲気ではない。舌打ちしたいような顔をしている。

「いや、松前藩が殺したんだろう。ツグナイの儀式を逆手に取っただまし討ちで、惨いことをしたんだ」

「だから、むごい殺され方をしたのは、松前の役人たちだって」

「アイヌの人たちにか」

 戦争をしていたので、双方に行き過ぎた行為があったのだろう。どんな人間であれ、復讐心に囚われると常軌を逸したことをしてしまうことがある。

「違うって。それはずっと昔の話だ。島がジャンジャの呪いを俺たちにおっかぶせてきたのは、侍たちと、その女房と、その息子と娘の生き血をすすって肉を喰らったからだ。さんざんに切り裂かれて、さんざんに焼かれて、しまいには手足を馬に繋がれてバラバラにされたんだ。そんだら島が怒って、ジャンジャを吐き出したんだ」

 かつて保古丹島では、心の不可侵な領域に刻み込まれるほどの苛烈な出来事があった。それは人が為す残虐の極みであって、負の記憶が代々引き継がれることとなった。同じく負の具現ともいえるジャンジャという奇病に深く関連付けられることとなった。解釈は、口承する人によって違いがあり、物語はいくつもの派生を生み出している。本当の史実がわからないので、アヤメと佐藤、どちらが正しいのか不明だ。ただ、島が呪いを発しているとの認識は共通していた。

 玄関のほうがバタバタしている。また誰か来たようで、きっと家主が帰ってきたのだろうと思ったが、じっさいは予期せぬ人物であった。

「ちょっとー、なにしてるのー」

 なんと、日名子さんが居間へあがり込んできたではないか。見つからないように来たのに、どうやってこの家を嗅ぎつけたのか。玄関にガタイの良い二人の男が見える。斎藤と富田だ。腕を組んで、ただならぬ気合を漂わせながら立っていた。幼児がズボンの中で先っぽをつまみながら不思議そうに見上げていた。

「堂島先生、これはどういうことなの。お祭りが終わるまで血を流す処置はしないって約束したでしょう。わたしになんの断りもなく、勝手に島をウロつかないでよ。これは侮辱だわ。わたしに対する侮辱じゃないの」

 キーキーと甲高い声でまくし立てていたわけではない。あくまでも事務的な口調なのだが、心の底で怒りが沸騰している音が聞こえてきそうな声色だ。

「俺たちは一日でも早くジャンジャを治したいんだ。この島でのんびりとしてられんよ。血を流すったって、ほんのわずかな量なんだ。お祝い事や神事を穢すようなことではないし、日名子さんを蔑ろにしているわけじゃない」

「これは日本の医療法に則った医療行為なんです。侮辱するとか冒涜するとかの意味合いは、まったくありません」

 医者たちがもっともらしく言い訳をするが、日名子さんを意識して避けていたのは事実だ。やましさのすべてを覆い隠すことはできない。

「この家は健康保険にも島の保険に入ってないんだから、医者の治療を受けられないの。そういう決まりがあるのに勝手なことしないで」

「日名子さん、それは違うぞ。誰だって医療を受ける権利はあるんだ。今回の治療費は防研がすべて負担するから、無保険であっても、なんら問題がない」

「そんなことわかっているわ。保古丹の人間を未開の部族かなにかとでも思っているの。バカにしないでちょうだい。そういうことを言っているんじゃない」

 日名子さんの冷静な態度は変わらないが、だんだんと表情が険しくなってきた。男女間に起こるイザコザの初期微動を感じる。

「この島には、この島の決まりがある。先祖のそのまた先祖の代から考えられて、経験して、定着したのよ。よそから来た者がカッコつけて慈善活動したって、ほんの一瞬じゃないのさ。あなたは前に二度ここに来たけど、ちっともジャンジャを治せていないじゃないの。俺は医者だからって勇ましいこと言うわりには、誰一人治せていない。誰一人っ」

 辛辣だが事実を突いている。機智に富んだ女性の発言には説得力があった。

「未知の病気を解き明かすのは簡単ではない。時には何十年もかかることもある。最初は戦争中だったし、俺も若かった。前回は目星をつけて薬を持ってきたが効かなかった。それはすまないと思っている。だから、今回は是が非でも原因を見つけたいんだ。そのためには一日も無駄にできない。やれることは何でもやらなきゃ」

 先生が熱意をもって応えるが、日名子さんはあえて聞き捨ていた。わざと佐藤夫妻のほうに顔を向けて、無視の態度を見せつける。

「あなたたちも、こんなところで油を売ってないで海に出て稼いだらどうなの。借金を返せない奴が、どうやって網走に行くのかしらね。瘡蓋だらけの奇病持ちを、自分たちの船に乗せてくれると思うの? うつるから、どっか行けって言われるのがオチよ」

 その捨て台詞が夫婦に対してなのか、私たちに向かっているのかわからないけど、トゲトゲしさは痛いほど伝わってきた。

「とにかく、勝手なことはしないでちょうだい」

 背中を向けながら押し殺したような声で言う。そのまま居間を出て、目つきの悪い用心棒二人とともに行ってしまった。

「なかなかの剣幕でしたね。さすが村長なだけある。ああいう女性が妻ならば、愚連隊に絡まれても大丈夫な気がしますよ」

 横山さんの感心するポイントがズレているぞ。

「気の強さは若い頃からだ。まあ、でも痛いところを突かれたな。たしかに日名子だけじゃなくて、島の人たちにも迷惑かもしれん」

 採血は終わったので帰ることになった。これ以上のもめ事は避けたほうが賢明だと、先生が判断した。

「シゲルはダメだべかなあ」

 仁美婆さんは、シゲルじいさんを先生に診てもらいたかったんだ。だけど、すでに手遅れとなっていた。何度もため息をついて、小さく丸まった肩を落としていた。

 彼を本土の病院に入院させるように書置きを残して家を出た。幼児はシゲルじいさんの横に座って寄りかかっている。佐藤夫妻も落胆しながら帰った。



「コッタ、バッタはいたのか」

「ちゃんこいのばっかりだ。犬のお姉ちゃんはいそがしいからダメだよ」

 地面に目を這わせていた少年に本日の捕れ高を訊くと、アヤメの都合がつかないとの返答だった。こいつは人の心が読める超能力少年なのか。

「アヤメは、お祭りの準備を手伝っているのか」

「うう~ん、なんか、いろいろなんだよ」

 アヤメは島の女連中からよく思われていないので、西出が支払う日当が良くとも手伝いは気が重いはずだ。

「芳一はなにしてんだよ。犬のお姉ちゃんのお尻見たいのか」

 一瞬、猥談に乗りかけたが、未成年者とのおしゃべりにはふさわしくない内容なので話題を変えることにする。

「ツヨシと杏子とミノルはどうした。家にいるのか」

「知らねえよ。おれ、あいつらと兄妹とかじゃねえから」

 だけど甲斐甲斐しく面倒をみているだろう。おまえはそういう立ち位置から逃れられないやつなんだよ。

「コッタ、先生からでめんちんをもらったから、お菓子を買ってやる。店に行こう」

 給料の支払いは札幌に帰ってからだけど、この少年におごってやりたくなったし、おごってやるには理由が必要となる。

「西出商店は高いし、うまいもんないし」

「落雁(らくがん)はどうだ。西出商店にはあるって聞いたぞ」

「じっちゃんばっちゃんの食いもんだべや。まあ、いいけどさ」

 コッタはビスコよりも落雁のほうを好むと、先日アヤメが耳打ちしてくれていたんだ。

「犬のお姉ちゃんには、なにを買ってやるんだよ。おれのは、どうせついでだべや」

 まったく、純粋な少年の心には大人のスケベ心が丸見えになっているようだ。アハハと笑って誤魔化しておいた。

「らくがんさあ、杏子のばあちゃんが好きだから、ちょびっとあげてもいいべか」

「あの三人の分まで買ってやるよ」と太っ腹を見せると、バッタの少年はフフッと笑みを浮かべて歩き出しだ。しっかりついて来いとばかりの、力強い闊歩である。

 アヤメとの進捗具合についてコッタにからかわれていると、その当の本人がいた。ひげ面の男と話しながら並んで歩いている。すぐに家屋の向こうへ行ってしまって見えなくなった。こちらには気づいていないようだ。

「芳一、はやくこいよ。おれ、らくがん食いてえんだからさ」

 コッタが急かすので、それ以上は追わなかった。

「いま、アヤメがいたんだ。男と話していたな」

「犬のお姉ちゃんにシソジュースをたのんでいたんだよ」

 そういえば、ひげ面の男は水筒らしきものを持っていた。

「アヤメは、島のおばさん連中からイヤがられているけど、男にはそうでもないんだな。けっこう人気があるようだけど」

「犬のお姉ちゃんは美人だから、おばさんたちはやいてるんだって」

 アヤメは嫉妬されているということだ。まだ小学生のくせに、世事についてコッタはいろいろとわかっている。


 西出商店は役場から近くなので、歩いて数分で着いた。お菓子の棚に落雁があり、それとビスコをあるだけ買った。といっても絶対量が少なく、たいした荷物にはならなかった。冷凍庫にアイスキャンディーがあったので、コッタと私の分を取った。不愛想なおばちゃんに代金を渡すと、ひったくるように取られた。不自然な甘さのする薄い味の牛乳アイスを食いながら店を出た。

 保古丹島唯一の商店は、いつも高い。札幌の倍の値札が付いている。原材料の輸送に費用がかかるので仕方ないことだが、でめんとりの財布にはやさしくない島だな。

「お祭りの日ぐらい安くしてくれてもいいべやな」と、小学生も不満を隠さなかった。

 保古丹島の騎人古地区は、今日からお祭りである。西出神社の諸祭として、漁の安全祈願や病気平癒、厄除け、家内安全などを祈願するとのことだ。よくある地方のお祭りだが、この島独特の神様への奉仕があるらしい。

「ジャンジャのお祭りなんだよ。みんなでジャンジャに負けないようにおどるんだ。ジャンジャジャンジャっておどって、ジャンジャのノロイをふっ飛ばすんだよ」

 祝詞を奏上するかわりに、みんなで踊りまくるというのだ。神様の前で盆踊りみたいなことをするのはどうかと思うが、コッタを見ているかぎり楽しそうではある。日本全国にはいろんな奇祭があるし、ふつうのお祭りよりも楽しいのかもしれない。

 昨日、日名子さんに勝手なことをするなとクギを刺されてしまったので、医療調査班としての我々はやることがない。どうせ暇なのだから参加してみようと思う。

「きれいな巫女さんがおどるんだよ。まっ白な顔して。モチみたいなほっぺたでさあ、めちゃめちゃおどるんだ。すっごく美人でさあ、おれもう、なんちゅうかさあ、ひゃひゃひゃあ」

 美人すぎる巫女さんを心いっぱいに思い出して、少年がニヤけている。アイスが溶けて親指と人差し指を白く汚しているのだが、コッタはあくまでも夢心地だ。その巫女がどれほど華麗に踊るのか知らないが、年端もいかぬ男の子に悦楽を与えるのだから、さぞや素晴らしいに違いない。あんまりにもいい笑顔なので、股の中央をポンポンとボデータッチしてみた。

「いや~ん、おれのチンコさわるなよ」

 へっぴり腰のまま、年寄りみたいに顔を皺くちゃにしている少年に満足したので、ちょっと意地悪な質問をしてみる。

「なあ。その巫女さんって、アヤメよりも美人なのか」

「犬のお姉ちゃんと同じだよ」

 素っ気ない返事だった。てっきり、さんざん悩んだ挙句、評価はどっちかに偏ると思っていたので拍子抜けだった。

「巫女さんはさあ、お祭りの時にしか会えないんだよ。見るのは年に一度だから、お姫さまなんだって」

「会えないって、なんでだよ。どこかからやってくるのか」

 本土の神社から派遣されるのではと考えた。極東の小さな孤島で、わざわざ巫女をする若い女性がいるとは思えない。

「西出の家にいるんだ。なしてか知らんけど、ふだんは出てこないんだ。きっと病気なんだよ。きれいな人ってカラダが弱っちいからさ。だから、あんまし外に出ちゃいけないんだ」 

「ジャンジャの症状がひどいんじゃないのか。先生が来てるんだから診てもらえばいいのに」

「カナエさんは、ジャンジャなんかじゃねえよ。モチみたいなのに、ジャンジャなわけねえじゃん。ハダカになったって、なんまらきれいなんだって。十円かけてもいい」

 病気であるとの認識はあるのだけど、ジャンジャであるとは認めたくないようだ。

「その美人の巫女は、カナエっていうのか」

 コッタは答えない。彼の憧れの女をジャンジャと言っってしまったので、むくれてしまったのかもしれない。

「芳一、ちゃんと働けよ。アイスくってサボるなって。ちゃんと、いっしょうけんめい働かないとだめだって。サボってるって、先生にいいつけてやるからな」

 小学生に叱られてしまった。ある意味、母親に説教されるよりも心に刺さった。

先生は瑠々士別地区に行く計画を立てているが、横山さんや仁美婆さんが難色を示している。日名子さんとはぎこちない関係となってしまい、相談ができない状態だ。やることがなくヒマであり、だから少年を誘ったのである。

「杏子んちに行って、らくがんをばあちゃんにやるよ。あと、ツヨシたちにビスコ」

「そういえば、コッタの家はどこなんだ。行ってみたいな」

 不意に、バッタ少年の部屋を訪れてみたいと思った。

「おれんちは、母ちゃんがいそがしいからダメだって。なんまら怒られるからさ」

 見知らぬ大人が子供に連れられて家に上がるというのは、その家の人にとっては驚きであり、非常識だと非難されても仕方ない。人さらいだと勘違いされるかもな。僭越であったと心の中で反省する。

 杏子の家に着いた。予想通り、かなりオンボロであり倒壊寸前の平屋という感じだ。玄関の引き戸などはレールから外れて傾いだままだ。

「杏子杏子」とコッタが喚くと、老婆が現れた。目がわるいのか、両手で空をまさぐりながら四つん這いで玄関までやってきた。杏子は、犬を散歩させる主人のように後についていた。

「杏子のばあちゃんは目が見えないんだよ」

「ご両親は、お祭りの準備でいないのかな」

「杏子の父ちゃんも母ちゃんも死んでんだ。だから、ばあちゃんと二人なんだよ」

 亡くなったいきさつは訊かないほうがいいな。この家はどうやって生活を成り立たせているのだろうか。コッタから追加の説明はなかった。ビスコを少女に落雁を老婆に手渡すと、二人ともリスのように齧り始めた。

 杏子の家を出て、他の子どもたちの家に行ってお菓子を分けてきた。私が買ったのだが、分け与えたのはコッタであって、親分のように偉そうな態度だった。

 その後は浜に行って貝をみたり、原っぱでバッタを捕ったりした。お祭りはまだ始まってなく、二人でブラブラして時間を潰しているとアヤメとばったり出くわした。狙ったわけではない。コッタも計算外のような顔をしていた。

「二人でなにしてんのさ」

 風が強くなっていて、アヤメの髪が少しばかり乱れている。ワイルドさがあって、こういう感じも魅力的だ。

「巫女のカナエさんとアヤメのどちらが美人か、コッタに訊いてたんだよ」

「・・・」

 アヤメの表情がキュッと締まった。鋭い視線を少年へ突き刺している。

 マズイ。これは、うかつな軽口だったか。私は、ときどきたいして考えもせず発言してしまうことがあり、たいていの場合、その場を不穏な空気で満たすことになる。

「コッタ、どういうこと。言ったの」

「言ってないよ。ただ、巫女さんのなまえがカナエだってだけだよ」

 女性の美的水準について子供に問うてしまったと、よりによって本人の前で言ってしまった。たいへん失礼な言動であって、ハレンチ極まりない行為であって、ほんとうに私はどうかしている。

「いや、コッタは悪くないんだ。そのう、ごめん、ヘンなこと言っちゃって。冗談なんだ。冗談冗談、気にしないでくれよ、ははは」笑って誤魔化すしかなかった。

 アヤメはしばらく一点を見つめていたが、フッと温和な顔になった。

「ねえ、芳一はなにやってんのよ。お医者の先生の助手の助手なんだから、仕事しないと稼げないっしょや」

「お祭りの期間中は休診なんだ。なんか、いろいろあって採血も止めているんだよ」

「ふ~ん、休みなんだ」

「ああ、そうだ。やることないんで、コッタを誘ってお祭りでも見ようと思ってさ」

 早口で説明し愛想笑いを浮かべていると、アヤメがググっと体を寄せてきた。妖しげな上目遣いに、私はのけ反り気味となる。

「だったら、あたしのウチにくればいいっしょや。お祭りの本番は夕方からだから、それまでヒマでしょ。ホットケーキ焼いてあげるよ。まだ聴かせてないレコードもあるし、呪いの話の続きも聞きたいでしょ」

 優先順位でいうと、美人のアヤメ→ほっくほくの甘いホットケーキ→→うさん臭い呪いの話→→→聴いていないレコード→→→→バッタ臭い少年となる。当然、アヤメの家へ行くことになった。

 そして、アヤメの家でレコードを聴きながらとびっきりの美人とチークダンスをして、コッタとツイストを競い、甘すぎるホットケーキを食べた。順位の上下があったが、次は呪いの出番となる。

「島の呪いの続きをするよ。ジャンジャという呪いが島の人たちを苦しめて、ジャンジャ・ドウーという呪いが島の人たちを殺すお話だよ」

 血潮のように赤いシソジュースを飲みながら、アヤメの物語を聴いていた。殺すという言葉がイヤなことを思い出させた。逆エビ反りの男が鉄塔から転落死した光景が脳裏に浮かんでくる。何度か目をつむって振り払う。

「ウラカワの砂金取りの連中が保古丹島へやってきて、しばらくしてからだった。ほーら、そこのおまえっ、ジャンジャ・ドウー」

 アヤメの声が大きかった。淡々と話すのかと思ったら、けっこうな迫力で言葉を押し出していた。砂金取りの連中というのは、呪いの話には初出である。保古丹島の講談師は座ることなく立ち上がっていて、張り扇の代わりにホットケーキをひっくり返すヘラを振り回して熱弁をふるう。その迫力に、思わず尻が浮いてしまった。

 その時、ドンドンガシャガシャと音が響いた。玄関の引き戸を誰かが叩いているようだ。再び、尻が浮いてしまう。

「犬のお姉ちゃん、だれか来たよ。だれか来たってー」

 コッタの声が固いと感じた。怖い話の最中に緊迫した表情になってしまうのは、けして臆病者だからではない。私もそうなっている。

「コッタ、でて」

「なしておれが」

「いいから、でて」

 アヤメの命令に少年はしぶしぶ従う。気がすすまないことを体であらわすように、イザリの老人みたいにノッソリとした動きだ。居間から玄関への引き戸を開けると、すでに人が立っていた。少し高い位置にいるコッタを見上げてしゃべりだした。

「コウタ、学校でみんなが集まってんのに、なにしてんのさ。先生だっておこってたよ」

 あけ美であった。

「ああ、うん。学校はめんどうだから、おれはいいや」

 コッタは学校の集まりをサボっていた。私が誘ってしまったせいだろう。彼女はコッタを捜してここへ来たようである。

「なしてこないのさ。お祭りでおどるんだから、あんたもいなきゃダメっしょ」

 コッタは答えない。あけ美の足元を所在なげに眺めている。

「オレが誘ったんだ。悪かったな。学校があるとは知らなかった。コッタが悪いんじゃないんだよ」

「あんたさあ、ここでなにしてんの」

「いや、ホットケーキを食べてたかな。ははは」

 もともと気が強そうな少女だったが、今日は一段と荒れていた。大人の私に向かって無遠慮に過ぎる。

「大人のくせに働かないで、バカじゃないの。バカ、バカ大人」

 ここまでの罵倒は母親にさえ言われたことがない。

「ホットケーキ、あけ美の分は食べちゃったよ。すっごく甘かったのに悪いなあ」

 ちょっとムッとしたので、いじわるなことを言ってしまった。子供相手に大人げない言動だ。私は、ほんとうに一言が多い。次の瞬間、あけ美の目が吊り上がった。

「あんたもパンパンやりに来たんだべさー」

「は?」

 一瞬、聞き間違いかと思った。どんな言葉と取り換えてしまったのかと、頭の中に空白ができている。

 パンパンだと? パンパンだと?

「その女はね、島の男とパンパンして、金かせいでるんだっ」

 そのカタカナの意味するのは、ここにいる誰もが立ち入ってはいけない領域だ。いまとなってはほとんど使われなくなったが、知っている者は多い。少女が使う言葉ではないし、口にしてはいけないんだ。だけど、あけ美の跳ね上がった声が容赦なく追い打ちをかけてくる。 

「犬のアヤメはパンパン女だべや。ここはパンパンの家だ。あんたは客っしょ。パンパン女の客だべさ」

 叩きつけるような口調になっていた。我慢に我慢を重ねていた吐しゃ物を一気に吐き出したような、まるで瀑布のような勢いがあった。

 私は凍りついてしまった。まったく予期せぬ事態に遭遇して頭が回らす、もっとも知りたくなかった事柄に触れてしまって大やけどの心境だ。どうか、激高した少女の世迷言であると願いたい。

「おまえ帰れや」

 唐突にコッタが叫び、あけ美を玄関から押し出した。相撲取りのつっぱりみたいに、少女の胸を何度も叩き飛ばしている。裸足で外に出るが気にしていない。パン、パンと音を響かせながら、二人は外へと出た。

「ちょっとう、なにすんのさ。コウタ、コウタ、やめてよ。やめてって、やめて」

 コッタは進撃を止めない。玄関から十数メートル押されて、しまいにひっくり返ってしまった。赤シソの畑が柔らかく受け止めたので、あけ美がケガをすることはなかった。

「帰れ、ブス。おまえなんか死ね」  

「なにさー、ホントのことじゃないのさー。わたし、ウソなんかついていないんだから。わたし悪くないのに。なにさ、なにさ」

 容赦のない罵倒に、あけ美が号泣してしまった。かなりのショックだったのか、立つこともままならず、ただただ泣きじゃくっていた。コッタは黙って見ている。手を貸したり、なだめたりする様子がない。ただし、それ以上罵る気もないようだ。

「帰れ」と言って背中を向けた。すぐそばまで来ていた私の横を素通りして、家へと戻る。

 赤シソをなぎ倒して泣いている少女に手を差し出した。慰めようとの気持ちはまったくないが、私の頭の中は虚ろであって反射的な行動だった。

「パンパンの客のくせに、なにさーっ」

 私の手を無視して、あけ美が言い放った。急いで立ち上がると、泣きながら走り去ってしまった。少女の背中が見えなくなるまで見つめてしまう。

 家に戻ると、アヤメはホットケーキを焼いていた。ほとんど生焼けでベチャついたそれを、コッタが黙々と食っている。私が帰ってきても、二人は口を利こうとしない。沈黙の圧力がきつくて、とにかく話さなければならないと思った。

「そのう、アヤメは、そういうことをしているのか。ウソだよな」島の男たちに体を売っているのか、とは言えなかった。

「いろいろやって、日銭を稼いでいるさ」否定しないということが肯定したことになってしまう。パンパンではないと、もっとハッキリと言ってほしかった。

 ふたたび沈黙が降ってきた。もう土砂降りであり、どんな傘でも役に立たない。

「だけど、まさか、そんなことは・・・、ない・・・」

 アヤメを見ることができないので、コッタの食いっぷりを注視しながら口ごもってしまった。

「あたしがなにをしようが、あんたに関係ないべさ」

 まさに他人に対する他人行儀な態度だった。コッタが舌打ちしたような気がした。

「この島じゃ、なんでもしないと生きていけない。女一人でなにをやれってのさ。コンブ舟にも乗れないし、牛も馬も飼えないし、なにしれってのさ」 

「あ、ああ」

「あたしはそれでいいと思ってんだ。体一つで稼いでんだ。盗みを働いてるわけでも、お恵みをもらっているわけでもない。島の男は好きこのんであたしを抱いてるんだ。ババアどもが嫉妬しようが知ったこっちゃない。しるかっ、んなもの」

 アヤメは島の男連中に体を売っている。売春をして金を稼いでいた。

 あのひげ面の男や水筒を持って家に来た男も、アヤメの客だった。小さな島の中での商売なので、たいていの男が{顔見知り}となっているのだろう。だから、女連中から忌み嫌われるわけだ。たいした稼ぎもない亭主や恋人が売春女のために金を使い、あるは貢いでいる。嫉妬と経済的負担が女たちの敵愾心に火をつけている。日名子さんは知っているのか。もちろん承知しているはずだ。

「犬のお姉ちゃん、おれ、帰るよ。学校に行ってくる」

 アヤメが売春しているということを、コッタはどこまでわかっているのだろうか。あけ美はパンパンの意味を理解しているのか。大人の男と女がどうのように接触するのか、詳細を小学生は知らない筈であるが、そういう行為が禁忌であって、人目を憚ることだとはわかっているだろう。子供にとっては、性についての倒錯であり、忌むべき事柄なんだ。 

 コッタが帰ると言うので、私もそうすることにした。とてもじゃないが、アヤメと二人っきりになる雰囲気ではない。そうなることを切望していたが、彼女の生業を知ったために気持ちが完全にしぼんでしまった。いつもは玄関先まで見送ってくれるアヤメは出てこなかった。何度か振り返ったが、顔を見せる気配もなかった。

 頭の中がごちゃごちゃしていて考えがまとまらない。重い足でようやく歩いているとコッタが手を繋いできた。男の子の手は小さくて、アヤメと同じだなと思った。断ち切る理由がまったくないので、そのままにしておいた。

「おれの母ちゃんもさあ、パンパンやってんだ」

 消え入りそうな声での告白だった。その情報も知りたくはなかった。どんな慰めの言葉を駆使すればいいのか、さらに頭の中が混沌としてきた。

「犬のお姉ちゃんはさあ、なんまら美人だから、かせぎもいいんだ。でもなあ、母ちゃんは年増だから安いんだよ。タヌキみたいな顔してっからさあ、やっすいんだ。だから、たくさん働かないとなんないんだよ」

 おまえがバッタを捕りに出かけなければならない理由なんだよな。アヤメの家に高価なステレオセットやたくさんのレコードがあるのも、なんまら美人だからだ。

「母ちゃんがたくさんかせいだらさあ、大阪に連れてってくれるんだよ。いっしょにバンパクを見にいくんだ。すっごく楽しみなんだ」

「そうか」その希望的観測が現実になることを、心の底から願っているよ。

「芳一は、大阪にいったか。オリンペック見たのか」

「いや、オレは大阪にも東京にも行ったことがないし、行く予定もないよ」

「なんだ、札幌だけかよ。いなかもんだなあ」

 コッタが手を離して、私の前に出た。手のひらを差しだして、小生意気な顔をする。

「なあ、だちんくれよ」

 このタイミングで小遣いをねだられたら、あげないわけにはいかない。でも、いちおう使い道を訊いておく。

「なんに使うんだ」

「あけ美にさあ、わたあめ買ってやりてえんだ。あいつ、わたあめ好きなんだよ。こんばんさあ、夜店出るからさ」 

 おまえは、そういうやつだよ。大人になったらススキノで飲み明かしたいな。たぶん、そうなるだろう。あの時はいろいろあったなと、ビールのジョッキを片手に語り合うんだ。  

 じゃら銭ではなくて、札を一枚渡した。コッタは驚いていたが、ツヨシたちにも買ってやるように言うと、「ありがとう」の言葉とニコニコ顔が帰ってきた。私も笑みを浮かべたがアヤメのことがわだかまっていて、引きつっていることを充分に自覚していた。



「なんだ芳一、死んだタクランケみたいな顔して。腹でも下ったのか」

 部屋でため息をついてヘコたれていると、先生が入って来て開口一番に言われてしまった。 

「先生、どうでしたか。進展がありましたか」

 横山さんは、私以外と話ができてホッとした様子だ。

「日名子の機嫌が悪くて、取り付く島もなかったよ。祭りが終わるまでは迂闊に動けんな。誰も診察に来ないし、あんまりウロウロしていると日名子の用心棒にぶん殴られそうだ」

「ここは、あんまり協力的ではないですねえ。札幌のようにはいかないですか」

「離れ小島だからな。いろいろ難しいしきたりがあるんだろう。せめて瑠々士別地区で採血できればな。まあ、しばらくはやることがねえわ」  

 酒でも飲むかと言った瞬間に、すでに飲み始めていた。横山さんも、すぐ酔っぱらうくせに嬉々としてご相伴に預かっていた。黙している私は、まずは飲めとコップを渡された。

「おまえ、アヤメとかいうすごい美人に気に入られてんだろう。そんで、どこまでいったんだ。口づけまでいったか」

 うるさいと言ってやりたかったが、先生にあたるのは筋違いだ。それと、私が経験した驚愕や落胆を誰かと共有したいという気持ちがあった。

「パンパンだったんだ」

「あ? パンパン、なんのことだ」先生が斜め上を見ながら、ジャガイモ焼酎をグイッと飲み干した。 

「ほら、パンパン娘のことですよ」と横山さんが補足してくれた。この助手にはさんざんに愚痴っていたので、すべてを知っている。

「ああ、そのパンパンのことか。なるほどなあ、まあ、そういうことか。ほおー」

 早めに察してくれたのが有り難かった。詳しく説明する気力はない。

「僕たちは、あくまでも外部の人間なので、やっぱり現地の方々との交流は控えるべきなんですよ。いきなり恋愛感情とかになって人間関係が崩れてしまうと、治療や研究に影響が出てしまいます。現地の人たちの協力なしでは、なにもできないですから」

 酔うことにめっぽう弱い助手から小言をもらった。この後はきっと先生からも叱られるのだろうと思った。

「いや、それは違うぞ」

 だが違った。

「パンパン娘だから、なんだってんだ。んなもん、好きになっちまったら関係ねえよ。女はなあ、いろんなことすんだよ。体も売れば、人も騙すし、財布から金をかっぱらって逃げていく。たくましく生きていくんだ。男も同じだがな」

 一言一言が力強かったのは、酒が入っているからではない。先生の眼差しに本気が感じられるんだ。

「芳一、その女を嫁にして札幌に連れて帰れ。母さんも喜ぶぞ。孫ができれば万々歳だ」 

 さすがに売春をしている女性を嫁にするわけにはいかない。母さんが卒倒してしまう。

「その場合、芳一さんは無職なので、アヤメさんが札幌でパンパンをすることになりますね」

 すでに酔っぱらっているのか、助手の解説が失礼千万だ。ひょっとしてアヤメの客になりたいのか。

「パンパン娘だって仕方なくやっているのもいるだろう。人生いろいろだからな。考え方しだいでな、受け取り方しだいで、そいつの価値なんてどうにでもなるんだ。他人の言うことなんて気にすんな」

「そうだけれども、体を売っている女はさすがに抵抗があるよ」そうは言いつつも、私の言葉に未練があるのを先生は察している。

「芳一、本気だったら付き合っちまえ。パンパンがイヤなら、おまえの稼ぎでやめさせればいいんだ」 

「でも先生、僕たちが島の人たちにちょっかいを出すと、問題になりますよ。日名子さんの機嫌がまた悪くなるのでは」

「日名子なんか関係ねえよ。島の女だろうが札幌の女だろうが、おんなじ人間じぇねえか。人は誰であれ幸せになる権利があるんだ。男と女が愛し合ってなにが悪い。ふざけんな!」

 横山さんや私に対して怒っているわけではない。一般論として、大酒飲みの大グダであるのだが、私たちは沈黙してしまう。応援してくれているのはわかったが、なんとなく気まずかった。

「福田幸雄を知ってるか」

 唐突に問われた。初めて聞く名前であって誰だか見当もつかない。 

「いや、知らないけど」

「存じませんねえ。医学生とかですか」

 横山さんも知らないようだ。苗字と名前から縁起の良さそうな人だと予想する。

「兵隊だ。いや、兵隊だったというのが正しいな。俺が第七師団の二八連で軍医のヒヨッコだった頃、やつは新兵だった。年が近くてウマが合ってな。厚岸の床丹から来たんだとよ。いい男でなあ、端正な顔立ちで歌舞伎の女形をやらせたら映えただろうなあ」 

 戦争の実体験だった。先生は軍医時代のことは話したがらないと親父が言っていたので、意外に思う。

「撤退するときによ、食いもんがなくて俺たちは飢えに飢えてガリガリになったんだ。幸雄はマラリアにかかっちまって動けなくなった。軍医さん軍医さんって、俺を呼ぶんだけど、薬はないし攻撃はされるしで、ロクに看てもやれなかった」

 南方の激戦地の話だ。もはや戦後でもないが、先生の記憶は鮮明なようだ。

「幸雄な、ズボンのポケットに大事なものを隠して、俺にも絶対に見せようとしなかった。こいつ、なに隠してるんだろうって気になっていたんだ。好いた女の写真か頭髪だろうって見当をつけたんだ。死んじまってから、ようやくわかったよ」

 仁美婆さんが来て、料理を運んできてくれた。お祭りということで豪華だった。海産物だけではなくて、鶏足の焼いたものや豚の煮つけなんかがあった。戦争中の仇を討つかのように、先生は話しながらむしゃむしゃと食っている。

「幸雄のポケットにあったのは、なんだと思う」

「さあ、なんでしょうか。やっぱり恋人の写真ですかね」

 横山さんの意見はふつう過ぎて面白味がない。先生がもったいぶった言い方をしているのだから、もっと意外なものだ。

「恋人のアソコの毛だと思う」

 私の意見は、一見ハレンチではあるが、あんがいといいところを突いているのではないかと思う。

「都会の若いのっつうのは、バカじゃねえのか。アホたれだべや」

 仁美婆さんが料理の追加を持ってきたタイミングで言ってしまった。皺とシミと白髪の老女から放たれる視線が痛いと感じた。先生がニヤリとして私の肩を叩いた。

「トカゲだ」

「とかげ?」

「そうだ。幸雄は干乾びたトカゲを後生大事に持っていたんだ」

「それは、お守りやマジナイの意味ですか。敵の弾に当たらないとか」

 助手の解釈が間違いであることを、先生は間髪入れずに説明する。

「食い物だよ。衰弱しきって体が食い物を受けつけないのに、あいつはトカゲを自分一人で食べようと思っていたんだろう。死ぬほど楽しみにしていて、結局それを食うことなく死んじまったよ」

 救いのない話である。今日は良いことを聞かない日だ。

「軍医のくせに、俺は友人を死なせちまった。生臭い干しトカゲを宝物にしている男を、マラリアで死なせてしまった。キニーネを一握りくらい隠しておけばよかったんだ。生きて帰れば、あいつはさぞやモテただろうに」

 いつもよりジャガイモ焼酎の消費が早い。酔いが回っているのか、先生の目が充血していた。

「たくさんの兵隊が死んだよ。戦死したならまだカッコもつくが、病死や餓死が多かった。俺は帰ることができたが、いまだに生きているって感じがしねえんだ。あいつらにすまなくてな、結婚する気にもならん。医者なのに、なんもできなかった。なんもしなかったさ」

 先生は努力したのだと思う。だけど個人の奮闘だけではどうにもならないことがある。もう二十年以上にもなるのに、いまだに悔恨の念を抱えている。どれほど深くえぐられたのだろうか。

「だから、いまの若いやつには幸せになってほしいんだ。戦争とか病気とか貧乏とかは、いつかはなくなるべや。それまで俺は俺にできることをやるんだ。まあ、そういうことだ」

 仁美婆さんのお酌で、先生のコップに焼酎が注がれている。彼女は何度も頷きながら聞いていた。横山さんも神妙な顔で、「そうですね」と相槌を打っていた。アソコの毛とか言ってしまった私は、とんだ愚か者になってしまった。

「芳一、ちょっと聞かせろや。最近は、どんな感じなんだ」

 アヤメのこと、コッタのこと、ほかの子供たちのことを話した。「コッタはいい少年だなあ」と褒めていた。

 先生はハッパをかけてくれたが、私の僅かばかりの恋話はすでになくなっているだろう。これからは仕事に専念したいし、忙しさで吹っ切ったほうがいい。

「どうれ、おめえら飯も食って酒も飲んだべ。もうすぐ祭りも始まるからな。カラダ余してんなら見にいけばいいんだ。ガキどもが、はっちゃこいて踊るからよ」

 小学生たちが踊ると、あけ美が言っていたな。コッタは仲直りできただろうか。あいつが与える綿飴は、きっとアヤメのホットケーキよりも甘いはずだ。



 学校のグランドが、保古丹島騎人古地区のお祭り会場となっていた。時刻は夕方となり、日が暮れかかっている。

 ここでは小学校と中学校が同じ建物を共有している。島の人口が少ないので校舎自体は大きくなく、学校としてはこじんまりとした印象だ。ただし、校舎の前面にあるグランドはだだっ広い。イネ科と思われる赤茶けた草が一面に生えているが、つねに踏み潰されているので背が低い。バッタが隠れる長さもなかった。

「おお、集まってるなー」

 大勢がいた。ふだんは静かな島なのに、喧騒があって、どこからか正体不明の音楽が聞こえている。ラジオかレコードをスピーカーで流しているようだ。屋台というか夜店みたいのが数軒あり、香ばしくも甘い香りを漂わせていた。電球の照明が空中に連なって、豪華絢爛とはいえないが、いちおうはきらびやかである。

「芳一」

 先生と横山さんと離れてコッタを捜して一人でぶらついていると、後ろから声をかけられたが、あえて振り返らなかった。声の主を知っているからだ。

「芳一、ちょっと待ってよう」

 アヤメが走って来て私の前に立った。無視しようと思ったが、この距離では不自然すぎるし、絡みつくような気迫に抗う胆力はなかった。

「あたしさあ、シソジュースの売店を出してるんだ。みんなで踊るから、ノドが乾いてけっこう売れるんだよ」

 挨拶ついでに世間話でもするような口調だった。気まずさや、心のつっかえを感じさせない。女性の、こういう性質は好きではない。

「そう、なのか」

 私は、ぎこちなかった。この女は男にカラダを売って金を稼いでいる。どうしても色付きの目線で見てしまう。

「明日さあ、うちに来なよ。コッタなしで。とっておきのシソジュースをご馳走してあげるよ。すっごく、おいしいんだから。いろんなことを教えてあげる」   

 見え透いていると思った。私を客として誘っているだろう。

「おれは、ここに仕事で来てるから、そういう遊びはやめておくよ」

「あたし、芳一をお客だと思ったことないよ。カラダを売る気もないさ。でも、やりたいって言うんなら好きにするがいいよ。お金はいらない」

 アヤメの表情が大理石のように固い。体温も感じられなかった。 

「これから、ひどいことが起こるよ。たぶん人がもっと死ぬ。芳一には巻き込まれてほしくないんだ」 

「それって、島の呪いの話か」

「そう、ジャンジャ・ドウーが始まったっしょや。島が呪いをかぶせてるんだ。胸騒ぎがする。左の眉毛がすごく痒い。呪いが重く圧し掛かってきているさ」

 嬉々としてシソジュースの売店を営んで儲けようとしているのに、シリアスな呪いの話はちぐはぐだ。彼女を信じてしまいたい気持ちが、わざらわしかった。

「西出には気をつけたほうがいいさ。保古丹には秘密があるんだ。だからジャンジャは治らない」

 秘密とは初耳だ。それと、どうして日名子さんを警戒しなければならないんだ。

「島の秘密って、なんだよ。日名子さんと関係があるのか」

 問い詰めようとした時、横から男がアヤメに声をかけてきた。漁師なのか上半身がよほど屈強であり、特に肩から首にかけての筋肉が丸く盛り上がっていて迫力があった。シソジュースをくれと言っている。どういう目的で近づいてきたのか、私にはわかっている。シソジュースよりも、もっとみずみずしいモノを所望しているのだ。二人は二度ほど目線で会話すると、連れ添ってどこかへ行ってしまった。

 これからアヤメはあの男に抱かれるのだろう。シソジュースの真っ赤な汁を口端から滴らした男が女体に圧し掛かり、あのモチのようなきめ細やかな白肌を、深く陥没した桃色の乳首を、殻をむきたてのゆで卵のような尻を、赤子の頭髪みたいな薄い陰毛をまさぐるのだ。

 我知らず、嫉妬心が沸き上がってきた。自らの胸の肉を掻き毟って、アバラの骨を握り潰したい衝動に駆られる。島のクソ野郎どもが味わっている柔らかさを、私だけが知らないんだ。考えないようにしても、アヤメの裸体を想像してしまう。上陸時の赤裸々な出会いが懐かしく、できることなら、札幌で叔父の誘いを受ける前まで戻りたい。

「芳一さん、これ飲みませんか。お祭りなんで、タダで配ってました。ヘンな味ですけど」

 どこかに行っていた横山さんが戻って来て湯飲みを差し出していた。なんとか感情を冷やして対応する。

「お酒ですか」

 振る舞い酒かと思った。だけど、湯飲みの水面からは病院の待合室みたいな匂いがしている。

「さあ、なんですかね。薬草を焼酎で漬けたとか言ってました。滋養強壮になるらしくて、すぐに効いてきますよ。ほらほら、僕の腰が元気いっぱいになっています」

 助手の腰つきが妖しくなっていた。前後左右にヘコヘコと動き、それはお祭り会場で流されている音楽に合わせているのだと気づいた。つまり踊っているのだが、医学バカの振り付けは曲とテンポが二つくらいずれている。見せられている者にとってはハタ迷惑だ。

 いろいろとイライラすることがあったので、酔ってしまいたいと思った。いまだにカクカクしている助手からその酒をひったくり、一気に飲み干した。やはり病院でゲボを受けるステンレス容器の味がした。湯飲み一杯では酔う気配がないので、振る舞い酒の配給所へ行った。長机の上に一升瓶が何本もあり、日名子さんと、もう一人の女が対応していた。

「あら、芳一さん。いまさっき助手のかたに差し上げましたよ」

「ええ、もう一杯ほしくて」

「このお酒は、一人に一杯までだから」と、日名子さんの横で手伝いをしていた女が鬱陶しかった。

「いいじゃないの。お若いんだから足りないんでしょう」

 私が突き出した湯飲みへ、一升瓶から液体がなみなみと注がれた。目をつむって一気に飲み干した。ケミカルな金属臭がする酒が、喉の粘膜を焦がしながら落ちてゆく。 

「うう~、マズい。もう一杯」

 うっすらと笑みを浮かべた日名子さんが、またなみなみと注いでくれた。それを秒で飲み干してから湯飲みを返した。どういうわけか、重力から解き放たれたように下半身が軽い。体全体が綿飴のようにフワフワしている。しかも、すごく幸せな気分だ。 

「西出家特性の栄養ジュースは、いろんな薬草が入っているから元気いっぱいになれるんだ。ジャンジャも怖くないっしょ」

 怖くない。なにも怖くはない。アヤメのシソジュースより、日名子さんの栄養ジュースというか栄養酒のほうが、効き目が良い。

「ほら、芳一君。子供たちが踊るよ」

 日名子さんの左腕が上がり、私の後ろを指し示していた。校舎の前にステージがあって、子供たちが並んでいる。コッタやあけ美の姿があった。

「ジャンジャのために踊るのよ。あの子たちがジャンジャに感謝するの」

 聞き間違いだろうか。日名子さんがジャンジャに感謝するとか言っている。日々苦しめられている病気に感謝など正気の沙汰ではない。悪魔を崇めるようなものだ。たぶん、私の意識がどうかしているから、そんなふうに曲解してしまったのだろう。「ジャンジャを祓うために踊っているの」と、日名子さんは言ったはずだ。きっと、そうだ。

 フワフワし過ぎていて気持ちの中に芯を据えられない。いろいろな感情が無秩序に沸き上がっては錯綜している。未知の感覚で、パニックになりかけているのだけど、なぜかどれもが楽しくてしかたがない。ゲラゲラと、私でない陽気な私が笑っているのが可笑しくてしかたがない。クソ真面目で嫌味な助手ではないが、知らず知らずのうちに腰が踊りだしていた。こんなに酔ったのは初めてで、ハハハ、心の高揚感は我ながら異様なほどだ。気持ちがいいぞ。

 お祭り会場に流されていた音楽が徐々に小さくなっていた。そして、消え入ると同時に生バンドの出番となった。どこから連れてきたのか、エレキギターにベース、ドラムが演奏を始めた。トランペットを吹いているオッサンもいる。ドラムが叩きまくり、バスドラムの重たい低音が心地良い。

 ステージでは十数人の小学生たちが踊り始めていた。曲名はわからないがロックン・ロールのようなグルーブである。あけ美はノリが良く手足を無茶振りし、並んでいるコッタは迷惑そうな感じだ。グランドに集まっていた島民たちが声援を送る。

「いいぞ、いいぞ、ジャンジャジャンジャ」

「ジャンジャ、ジャンジャ。おどれ、おどれ、おどれー」

 ジャンジャの掛け声が方々からあがっていた。

「おまえらあっ、もっとおどれ。こうだ、ジャンジャはこうやるんだ」

 中年の男が上着を脱いで、上半身を晒して喚いている。でっぷりと突き出したお腹の周辺に点在している瘡蓋を、ボヨンボヨンと波打たせていた。

 生バンドの一曲目が終わった。ステージ上の小学生たちが横一列に並び、不ぞろいに頭を下げて礼をした。一生懸命に踊ったあけ美の笑顔が素晴らしい。照れているのかコッタは少し不貞腐れた態度で立ち、杏子とツヨシは鼻をほじっていた。ああ、いま気づいたけど、あの二人が手を繋いでいるじゃないか。綿飴の甘さは効果抜群だったようだ。

「今年の子供たちの踊りは、たいへん良かった。力に満ちたジャンジャを見せてもらいました」

 日名子さんだ。いつの間にかステージに上がっていて、拡声器を手にしてしゃべっている。あけ美は得意顔で、コッタはイヤそうにチラ見していた。

「さあ、大人はどうなの。図々しくも居丈高なジャンジャはどこなの。見せてごらん」 

「おーし、オレがやってやる」

 日名子さんが囃し立てると、子供たちが退場してナスビのような顔の男がステージに上がった。三十くらいの痩せっぽちが、さっそくシャツを脱ぎ捨てる。その体は、やはりジャンジャの症状が酷い。両方の乳首を囲むような瘡蓋があって、巨大な動物の目玉みたいだ。クマさんだろう、クマさん。

「おおーっ」

 どよめきが起こった。ステージの右から怪しい物が出てきた。あれはなんだろうか。酔っぱらっているので思考の焦点が合わない。ボロ切れで拵えられた案山子のような人形だった。けっこう大きくて、体高が二メートルくらいある。十字架に縛り付けられていた。

 タタタタタタタタタタタター。

 ドラムが細かく叩かれていた。アトラクションの前フリであり、次に起こることを期待させる。

「どりゃっ」

 なんと、ナスビの男がヘソの脇にあった大きな瘡蓋を一気に剥がしたではないか。途端にドラミングが終わり、トランペットがファンファーレらしき楽曲を奏でた。オッサンの屁みたいな音で、裏でコッタが喜んでいるはずだと確信した。

 血だまりの塊は形が崩れることなく、きれいに剝がされた。焦がし過ぎたしょう油煎餅のようなそれを観衆に差し出して、さも誇るようにビラビラと振っていた。

「よくやった、隆史。さあ、もう二つ、大きいのをいこうか」

 さらに焚きつける日名子さんの魔声が拡声器越しに響き渡った。ナスビの男は躊躇っていたが、意を決したように「おーっ」と叫ぶと、右乳首の周りにへばり付いている血の煎餅を剥がしにかかった。

 その瘡蓋はまだ成長過程であり確固とした癒着があって、そう簡単には剥がれない。毎秒一ミリメートルずつ、肥後守の切っ先でこそげるようにめくれ上がってゆく。

 よほどの痛みが私の胸を焦がしている。本人が激痛に悶えるのは理解できるが、どうして私の乳首まわりまで痛みがあるのか不思議だった。

  あいつの喘ぎに共鳴し、共有してしまって、痛みがあると錯覚しているのかもしれない。あるいは、{島の呪い}という概念が浮かんでくる。いや、私の心のどこかでアヤメが言っていた。いまごろは、あの逞しい男に蹂躙されまくっているはずなのだが、どういうわけか愉快で痛い。ハハハ、なんだか興奮するなあ。

「うごっ、くっ、っく、うっ」

 右乳首を覆っていた血の塊が半分ほど剥がされた。ナスビの男はそこで一旦手を止めて、激しい息づかいで逡巡している。観衆からヤジと罵倒と声援が飛んでいる。スケベ十円玉禿げ中学生の哲夫も、「ジャンジャを見せろー」と最前列で絶叫していた。

「ぐおおおおおお」

 雄叫びが響き渡ると同時に、痛みの波紋がどっと押し寄せてきた。その辛さを当てられたのは私だけではないようで、ステージを注目していた観衆たちが、「うう」と呻いていた。

 目玉状の血の煎餅が剥がされた。痛みはかなりの強さであり、皮膚がジンジンと痛む。まったく、錯痛がしつこくて笑ってしまうな。ナスビの男が手にしている瘡蓋を日名子さんがつまみ上げた。湿ったそれをビラビアと振りながら、あの十字架に磔にされた布人形に貼り付けた。

「もう一つよ、ジャンジャ」

 ナスビの男が油断しているスキを突いた。もう片方の乳首に日名子さんの手が素早く伸びて、血の塊を一気に剥がした。

「ベリッ」っと、極めて不吉な音が聞こえたように思う。見ていた者たちが一斉に嗚咽を洩らして胸を押さえた。無意識の行動だが、私もそうしていた。

 ナスビ本人はやせ我慢で胸を張っている。両方の乳首の周囲が真っ赤になっていて、見る間に血が滴ってきた。剥がされたモノは、すぐに布人形へ貼り付けられた。表面は乾ききっているが、裏側は汁気があって粘着質である。

「次は誰だい、おまえたちのジャンジャを捧げろ。ここに捧げるんだ」日名子さんの声がヒステリックに響いた。

 生バンドの演奏が再開された。急き立てるような楽曲にのって、観衆が次々とステージへと上がった。男たちは服を脱いで上半身を露わにし、自らの皮膚にへばり付いている血の塊を毟り取っては布人形にくっ付けていた。女たちは、さすがに裸にはならないが、それでも上着の裾をまくってお腹を見せて、赤茶けたデキモノをベリベリと剥がして、同じく貼り付けた。躊躇する者もいたが、そういう時は振る舞い酒の湯飲みが供されて、それを飲み干してからやった。  

 磔にされた布人形が瘡蓋だらけになった。襤褸切れをまとった大きな案山子が、島民から剥がされた干乾びた血の塊に包まれて、赤茶けて、赤黒い瘡蓋の化け物となっていた。

 例えようもなくおどろおどろしい出で立ちで睥睨しているではないか。とくに臭ったりしているわけではないのだが、吐き気を催したいほどの臭気が鼻腔内に溢れている気がしたが、これも錯覚のうちに入るのだろう。何度も空気を入れ替えていると、そのニオイがクセになってきた。足指の垢を嗅ぐことに夢中になるように、あの瘡蓋人形の体臭を心ゆくまで堪能したいと願っていた。本当にどうかしているのだが、いまの私の意識は倒錯している。

「ジャンジャ、ジャンジャジャンジャ」

 威勢のいい日名子さんの声が、甲高いハウリングを伴いながら響き渡っていた。生バンドのリズムに合わせて「ジャンジャ」の掛け声を連呼している。瘡蓋を剥がし終えた島民たちは、ステージを降りて踊っていた。ゴーゴーらしき盆踊りといったところだが、大勢がやると、それなりに迫力がる スケベ哲夫と仲間たちも、愉快なダンスを披露していた。

 あの大きな瘡蓋人形がステージから降ろされた。数人がかりで支えながら、さもそれが自律的に歩いているかのように運んでいる。しゃれた演出を見せながら、ちょうど私の目の前を通り過ぎた。それの表面には大小さまざまな血の塊が魚鱗のように重なっていて、一歩足を踏み出すたびに、ムワッとした生温かさの風圧を感じた。

「ジャンジャ、ジャンジャ、ジャンジャ」

 日名子さんの掛け声に、群衆が応えていた。 

 知らず知らずのうちに、私も「ジャンジャ」と口ずさんでいた。みんなとの一体感が心地良くて、どうしようもなく高揚する。この喜びを共に分かち合いたいと思って久しぶりに助手を見ると、彼は酔いつぶれてしまい地面に正座しながら寝ていた。

「みんなのジャンジャが天に昇るよ。神様へと届くんだ。ジャンジャジャンジャ」

 グランドの中央に瘡蓋人形が置かれた。それを中心として、人々の輪ができる。ボッと炎が上がった。その汚らしい人形に火が点けられたのだ。

「うおー」

 燃える燃える。

 油でも染み込ませていたのか、あるいは人体の脂が血の塊に混じっているのか、とにかく炎の勢いが烈しかった。炎柱が渦を巻きながら五メートル以上は立ち昇っていて、まるで火炎の龍の如くだ。白い煙と香ばしい匂いが漂っていた。とても濃くて、こってりとした脂っぽさが舌にまとわりついてくる。

「ジャ〇〇ょんふー、○○ンジャ○―、○○ふはでぇへれいー」

 日名子さんが喚き散らしているが、なんと言っているのかわからない。拡声器の調子が悪いのか、彼女の発声がもつれているのか、私の意識が飛びそうなのかは不明だ。振る舞い酒を三杯もおかわりしているので、三番目の可能性が強い。酔って踊ってジャンジャと叫ぶ。なんて豪気なお祭りなんだ。

「ジャンジャの姫が来たぞー」

 男の野太い声が喧噪からとび出した。ちょうど瘡蓋人形が自らを焼きつくして、下火になった頃合いだった。生バンドの演奏が突如として止まり、代わりに厳かな楽曲が流れ始めた。それが雅楽だと理解したのは、後で思い出してからだ。

 ステージに巫女が現れた。白い小袖に緋色の袴で長い髪の毛を後ろで束ねている。巫女舞でもやるのかと思ったが、千早を羽織っていない。

「姫、俺のジャンジャンを蹴っ飛ばしくれー」

「ジャンジャ、ジャンジャ、姫のジャンジャを見せてくれー」

「姫、姫、姫姫姫」

 巫女は、群衆から姫と呼ばれていた。背丈と顔立ちから察するに二十歳未満だと思われる。どこか神秘的な感じがする美人で、アヤメに引けを取らない。姫と呼ばれるのも納得の美顔だ。 

 コッタが騒いでいた。ステージの端にいるのだが、姫の登場がよほどうれしいのか、「巫女さん巫女さんー」と黄色い声を飛ばし、足をバタバタさせていた。横にいるあけ美が少年の頭を頻繁に叩いていたが、とくに気にすることなく声援を続けていた。

 生バンドの演奏が始まった。ドラムが細かく叩き、エレキギターがキュインキュイン唸り、ああアメリカみたいだなあ、と眺めていたら巫女が踊りだした。およそ神事を司る者とは思えぬロックな動きだった。

 腰の振りとステップの速さが絶妙で、クルリと回転するごとに袴がヒラヒラと舞う。とくにツイストは冴えわたっていて、ホンキイ・トンク調なピアノの連打によく合わせていた。

 島民、とくに男性からの声援が熱く、コッタの目も釘付けだ。ステージ上の巫女は、激しく踊りながら挑発的な目線を観衆に投げつけていた。それがまたある種の刺激を男女ともに与えて、やんやの歓声があがる。男たちは血が滲んだ上半身を揺らし、女たちも血だらけになったお腹をぶん回して、「ジャンジャ、ジャンジャ」と叫んでいた。

 これが、「ジャンジャ」に関する意義のある踊りなのかはわからないが、お祭りの熱狂に一役買っていることは確かだ。踊ることで邪気なるぬ病気を振り祓う効果を期待しているのだろう。冷静に考えているようで、じつは私の体も踊っていた。まわりの連中は、さらにとび跳ねている。

 曲が終わると、巫女は腰に手を当てて息を整えていた。次なる熱狂の予感に、会場の空気が上気する。気色悪いほどの笑みを浮かべたコッタは、ゴリラのシンバル人形みたいに手を叩いていた。もはやあけ美など眼中にないようで、あとで面倒なことになるぞと、いちおう心の中で警告しておいた。     

 再び生バンドのメロディーが始まるやいなや巫女が動き出した。またもやノリのいい楽曲であり、今度はどんなダンスを披露するのか、私やコッタのみならず、皆の視線が集中していた。

「あ」

 そこへ、なんとアヤメが現れたではないか。ステージ奥の暗い場所からヌーっと出てきた。筋肉男と、どこかでなにかをしている最中のはずだが、もう終わったのか。がっちりとした体格なのに早すぎるだろう。

 コッタが、「犬のお姉ちゃん、カナエと一緒にジャンジャジャンジャだ」とシュプレヒコールを叫んでいる。大好きなお姉さんと憧れの巫女さんの共演だ。盆と正月が、いっぺんにやってきた喜びを感じているのだろう。

「おお」

 アヤメも踊り始めたではないか。最初はゆるりとした動作で、楽曲に身をゆだねるようにして揺れていたが、瞬く間にアクセルをふかした。ものの十秒ぐらいで天井へ到達し、それはもうゴーゴーの見本みたいなダンスを披露していた。

 巫女も負けてはいない。俄然、踊り始めて一秒で最高潮に達した。このダンスの姫もまた、ゴーゴーでアヤメに対抗する。

「巫女さんーっ」と叫んだのはコッタだ。やつもゴーゴーをしていた。見るからに貧相な小学生男子が、両手を力いっぱい上下に振ってモンキーダンスをしている。満面の笑みであり、サルみたいにキーキーやっていた。

 二人の美女がアメリカンな音楽にノッて踊りまくっていた。観衆たちも騒がしさを通り越して半狂乱である。状況を冷静にみて理性的に考える私がいて、乱痴気騒ぎに便乗してバカ踊りをしている私もいた。二つの人格が明確に分かれているのだが、どちらも私で戸惑ってしまう。島の振る舞い酒のおかげなのだが、この不思議な感覚は他では得難いな。

 アヤメと巫女の踊りは、当初はバラバラだったが曲が進むにつれて、ぴったりと息が合ってきた。まるで十分に練習を積んできたように、見事なユニゾンとなっている。

「ジャンジャに捧げる踊りでした。さすが姉妹ですね、息がぴったりと合って、素晴らしかったわ」 

 曲とダンスが終わると、日名子さんがしゃべりだした。ここで、あの巫女とアヤメが姉妹であることを知った。驚いた自分がいて、なるほど両手に華だなと、なにかの勘違いをしている自分は能天気である。

 誰かが背中を押していた。コッタかと思ったが、やつはステージの端にいて、目を輝かせて巫女を見ている。あけ美が太ももをつねったり尻を蹴ったりしているが、お構いなしだ。

「ジャンジャ、ジャンジャ」と、後ろの誰かが言っていた。振り返ると、見たことのある男女がいた。佐藤夫婦だった。

 夫が私に体をぶつけて押している。女房のほうは、「これ、なんかヘンさ。ジャンジャじゃないって。ジャンジャ、ジャンジャ」と言っている。緊張しているのか顔が引きつっていた。戸惑いと恐れを抱いているようでもある。

「おい、押すなよ。オレに気でもあるのかよ、へへへ」

 私は上機嫌だ。多少体を押されたくらいで怒ったりしない。なにせジャンジャのお祭りなんだ。踊りたい気分だし、じっさいに、まだ足が疼いている。

「ああーっ、なんていうか、腰が痛いんだ。こうやって姫と一緒にジャンジャを踊ってるんだから、ジャンジャに負けないはずだけど、体がヘンなんだ」

 ヘン、というのはどういうことだろうと思っていたら変化が出てきた。

「ほら、ほらほら、おかしいだろう。体が曲がってるんだ」

 たしかに佐藤夫の体が曲がっている。どういう具合かというと、上半身が腰から後方へ反っているんだ。でも、そうなるのがイヤなのか、夫はすぐにもとの姿勢に戻そうとする。

「なんか、わたしもおかしいんだわ。これ、ジャンジャじゃないっしょ。おっかしいってさ。痛い、痛い痛い」

 佐藤女房も反っていた。体が柔らかいのか、旦那よりも角度が深い。上着の裾がまくれているのだが、腹にあるみずみずしい血だまりが汚らしかった。瘡蓋を剥がして、新しく滲んできた血がまだ固まっていない。鮮血だけではなく、茶色や鼻水色の汁が交じっている。出血しながら膿んでいるのだろうか。いまさらに気づいたが、ほのかに悪臭が漂っていた。

「おいおいおいおいおい、こんなのウソだべや。こ、これっ、ジャンジャ・ドウーだべや」

 どこかで聞いた言葉だ。以前、太った中年の男が錆びた鉄塔の下でそんなことを言っていた。

「ちょ、助けて、助けて、止まらない、止まらないっしょ」

 佐藤女房の反り具合が半端ではなく、すでに両手が地面へ達していた。直角を超えてきれいな逆エビ反りとなっている。逆さになった頭部から髪の毛がだらりと下がって土に触れていた。

「あわわわわ」

 佐藤女房が、その姿勢で進みだした。両手と両足を使った四足歩行であるが、ふつうの四つん這いではない。ブリッジした状態で進んでいるのだけど、タタタタタッと、意外に素早い動きだ。気味の悪い姿で、まるで知らない世界に住む異界の生物みたいである。哺乳類というより、歩行性の虫なんだ。 

「お、お、お、お、お、」

 佐藤夫も佐藤女房と同じ姿になろうとしている。もともと柔軟な体ではないのか、反ることに対して抵抗していた。腹筋に力を込めて、上半身が曲がらないように歯を食いしばっている。

「痛え、いってえ、だ、だれか、たすけて」

 だが、逆側に丸まろうとする力には抗しきれないようで、徐々に傾いてきた。「おー、おー」呻きながら逆エビ状になっていく様からは、ギリギリと軋む背骨の音が聞こえてきそうだ。 

 それほど時を経たずに佐藤夫は佐藤女房と同じになった。そして筋肉の反射と衝動のおもむくままに、てくてくと歩行していた。異界の昆虫みたいな夫婦が、まだ熱気が冷めやらぬ会場内をさ迷っているんだ。さすがに異変を悟ったのか、乱痴気騒ぎが急にしぼんでしまった。   

 音楽もなく、歓声も落ちて静まっていた。島の人たちは、どうしたらいいのかわからない様子で、ただ見ているだけだ。冷ややかな目線が集中する中で、奇っ怪な異界生物は、てくてくてくてく動きながら、「痛い」とか「死にそうだ」と叫んでいた。背骨というか、腰の曲がり具合が限界を超えている。鉄塔から転落死した中年男と同じだなと、理性的な私は考えていた。だけど、もう一人の騒乱状態の私は、早く楽曲と踊りを再開して喧噪を楽しみたいと願っている。

「うわあ、うわあ」と呻いていた。佐藤夫が時計回りに、佐藤女房が反時計回りに回転し始めた。止める者はいない。緩やかな輪を作って、相変わらず見ているだけだ。

「ぐおお、ぐおお」と、ひどく苦し気な嗚咽が発せられていた。回転が止まると、佐藤夫と佐藤女房は極限的な逆エビ反りのまま、お互いに向かい合った。逆さになった男の顔と女の顔が接近している。鼻先が、かすかに触れ合おうとしていた。

 いや、もうくっ付いている。対面した二つの顔が相手を貪り食うように密着していた。顔の肉と肉が溶けあうぐらいの圧力があった。鼻と口が潰されて呼吸ができないのか、左右に振って必死にイヤイヤをするが、どういうわけかブリッジした体が前進を止めない。本人の意思とは違う、別のなにかが神経回路に介入しているようだ。

 息が吸えないのも問題だが、自分の顔で相手の顔を押し潰しているのは危険な行為である。逆エビ反りが増して、手と足の距離が狭まってゆく。つまり腰の曲がりが鋭角になって、いつ背骨が折れてしまってもおかしくない状態なのだ。

「バカものーっ。見てないで止めんかっ」

 そう叫んで走ってきたのは先生だ。勢いのまま佐藤女房の体にしがみ付いて、佐藤夫から引き剥がそうとする。だけど、くっつき合った逆エビ反りの生物はビクリともしない。

「横山―っ、なにしてるーっ、手伝わんかーっ、このバカタレがーっ」

 横山さんが叱られていた。酔っぱらってほぼ寝ている状態だったが、先生の怒鳴り声に条件反射して、すくーっと立ち上がった。他人にぶつかりながらフラフラとやってきて、開口一番ゲエーとゲボを出した。医者のくせによく吐く人だなと感心してしまう。 

「芳一―っ、おまえも来いっ。サボってんじゃねえぞっ、この小便たれがっ」

 私も怒られてしまった。先生は気が立っていて、これは手を貸さないとあとで殴られること間違いなしだ。だから、佐藤夫のもとに行ってお腹に抱きつきながら地面に伏せさせようとした。   

「っく」 

 すごい力だ。先生と私で夫婦の体を引っぱっているのだけど、二人の密着度にまったく変化がないどころか、ますますくっ付き合っていた。逆さになった顔だけではなく、くびと胸元まできている。声が出なくなり、いよいよ生命の危機を感じさせた。

「なんだ、これは。なにが起こってるんだ、ちくしょうめ」

 先生の馬鹿力をもってしてもビクともしない。こういう症状に経験がないのか、珍しく動揺していた。

「先生、筋弛緩剤をもって、ふう、きましょうか」

 ふらついている助手は私たちに加勢できる状態ではない。その代わり、医学的な提案をした。

「すぐにもってこい」

 横山さんが敬礼をしてニッコリと微笑んでいた。理性的ではない愉快な人格を、助手も有しているようだ。

「いや、ダメだ。とにかく、この二人を引き剥がさないと窒息してしまう。こっちが先だ」 

 事態は切迫していた。瘡蓋が剥がれた男の体は、屁虫を指先で圧し潰したようなニオイがした。かすかに豆のニオイもあって、私の臭覚が混乱している。さらに豪快に失禁し始めたので、ツヨシのそれよりもきつい尿臭が目に沁みた。小便たれは私ではない。

「じぇんじぇん、離れましぇんねえ」

 なぜか横山さんが私に抱きついてきて、舌ったらずの幼児言葉で言ってきた。烈しくイラっとしたが、快活な私が愉快に応答してしまう。助手は胃腸をかなり痛めつけられているのか、またゲエゲエと吐いていた。

「そうでしゅねえ」

 げらげらと笑ってしまう。緊急事態なのに、私と助手の精神がおかしい。

「おまえら、ここで配っている酒をしこたま飲んだな。日名子のやつ、あの酒になにか仕込んでいやがる。おっかしいと思ったんだ。ったく、マヌケめ」

 警戒していたのだろう。酒豪なのに、先生は振る舞い酒に手を付けていなかった。笑顔でゲボを吐きだしている助手を蹴っ飛ばしながら、もっと力を込めて引っぱれと怒鳴っている。上司の気合入れに応えようと、助手が私から離れて佐藤夫の足にしがみ付いた。

「こ、これは何なんでしょう、先生」

「わからん、とにかく押さえろ」

 医者といえども、この夫婦が陥っている特異な症状には手当てができないようだ。

「うわあ」

 ブリッジして顔や鎖骨や胸がくっ付いてしまった夫婦が、私たち三人を振り払って歩きだした。八本の手足をカサカサと動かす姿は、巨大化した鬼グモの亜種が巣の上を這っているようである。あまりにも奇異であり、存分に呪わしくもあって、あの先生が追いかけることを躊躇っていた。横山さんや私もただ眺めているだけで、それは周りの群衆たちも同じだった。

 それが、生バンドのほうへ向かっていた。徐々に歩行の速度を増して、ドラムセットへ勢いよく激突した。ガシャンガシャンと派手に壊れて、太鼓が転がってしまう。エレキギターやピアノの演奏者が両手を上げて逃げていた。その鬼グモの亜種は、二人の人間がくっ付いているのだが、意思は一つに統一されているような動きだった。

「だれか、捕まえなさい」

 ステージの中央で日名子さんが叫んでいた。拡声器の電源が入っていなかったので、気の抜けた響きが、か細かった。

 うろつき回っていた鬼グモ人間が電柱にぶつかった。コールタールが塗られた木材はとても固く、やわらかな夫婦にとっては少なからずのダメージとなるはずだ。

「おいおい・・・」

 先生の呟きは驚愕のために途中で尻切れてしまった。

「ああ」と、私も声を洩らした。

 ω{オメガ}の形状をした鬼グモの亜種生物が電柱を登り始めたではないか。上は佐藤夫であり、下が佐藤女房であった。コールタール塗りの丸太には足場用の杭が交互に打ち込まれているが、それらに足と手をかけて、そろりそろりと器用に上がるのだ。

 まるで重力など感じさせない空虚な動きであり、人間らしい所作が一ミリも感じられない。それは一気に頂上まで行かず、途中で止まって一休みしている。上にある夫の足がもぞもぞと空中で擦れ合っていて、それはハエの動作にそっくりだった。いったい、彼らの意思はどうなっているのだろう。

「早く止めてっ、早くーっ」

 日名子さんの絶叫だった。今度は拡声器のスイッチを入れていたようで、激しくハウリングしながら甲高い声が響き渡った。

「バカヤロウ、降りてこい。あぶねえぞ」

 先生が怒鳴っている。電柱を見ると、鬼グモの夫婦は、すでに頂上へと到達していた。そこへ立ち入るには専門的な知識と経験が必要であり、シロウトのクモ夫婦が立ち入っていい場所ではない。

「バチバチバチバチ」と、ものすごい音がした。火花が散り、パッと炎が上がった。二人が電線に触れてしまったのだ。

 高電圧と高電流が鬼グモ人間の体を、内部から十分に焼き尽くしていた。電気の供給は止まることなく続いており、電柱の頂上でくっ付き合った夫婦は硬直しながら発火し、焼き焦げていた。「バチバチ」と恐ろしい音が続いて、炎のほかに煙も立ち昇った。日名子さんの声は咆哮となって、もはや何を言っているのかわからない。

 突然だった。

「ドッカーン、バーン」と、薄暮過ぎの夜空に無数の光点が弾け散っていた。花火が打ちあがっている。お祭りでのプログラム通りの演出だろうが、間が悪いのにもほどがあるぞ。貧乏な島なのに、どうして大盤振る舞いなんだ。

「だれか、送電を切れ。それと水もってこい、水」

 たくさんの人がいるのに、この非常事態に誰も動かない。惨劇を無視しているのではなく、みんなは、どう対処したらよいのかわからない顔をしていた。

 最後に「バチッ」と大きな音がして、私の体が浮いてしまう。感電が突如として収まった。電気の流れが止められたのではなく、夫婦との接触過多でショートしたようだ。電球たちへの電力が遮断され、途端に会場が闇に包まれた。断続的に打ちあがる花火の明るさで、ほのかに周囲が照らされるが一瞬であることが多かった。

「横山っ、芳一っ、担架をもってこい。熱傷の治療をするぞ」

 先生に命令されて、私は火傷治療の用意を、横山さんは担架を捜し始めて右往左往し始めた。暗闇に光る一瞬のスキを見逃さずに動くが、そもそも役割分担が間違っているような気がして考えてしまう。私の頭の中にある個別の二人を統合できない。真顔でやるべきか、笑顔で答えるべきか迷っていた。

「上に行くから誰か手伝え、あの二人をおろす」

 誰に指示を出しているのか判然としないが、おそらくウロウロして役立たずの私たちだと察した。だから下で待機することにした

 先生が電柱にしがみ付いた。足場用の杭に手足をかけて登り始める。花火の打ち上げが止まり、静寂が訪れた。

「おわっ」との声とともに、大きなモノが落ちてきた。私はとっさに避けたが、助手は逃げ遅れた。当たってしまい、{おはじき}みたいに弾け飛んだ。地面に転がり、うう~んと唸っている。

 落下したモノはすぐにわかった。電線に触れて感電してしまった鬼グモ夫婦だ。私のすぐそばにあって、ほっかほかの湯気と煙と脂の焼けた香ばしいニオイを発散している。生死がどうであるかは不明だ。暗くて確かめることができないし、見たいとも思わなかった。

「わっ」

 だがしかし、突然電力が復旧し照明が生き返った。明るくなって視界が利くようになり、当然、目の前にあるモノのありのままを直視することになった。

 鬼グモ夫婦は焼け焦げていた。衣服が焼けて皮膚が露わになっている。黄色く水ぶくれしている箇所もあり、思わず針先で破いてしまいたい衝動に駆られてしまう。

 ただし、ωの形はそのままで、お互いの顔と顔は密着したまま固まっていた。高電圧が駆け抜けて離れてしまったのではなく、逆により濃密にくっ付いてしまった。押し付け合った肉と肉が高温で焼かれ圧着している。吐き気を催すほどのグロテスクさだが、いちおう愛には溢れていた。

「いてて、腰、こしが痛くて、へへへ」

 おそらく、落下してきた佐藤女房部分の足に蹴飛ばされる格好で衝突したようだ。五メートルほど弾き飛ばされた横山さんが、さも腰が痛いという仕草をしながら歩いてきた。

「うわ、これはひどい・・・」

 そこまで言って助手が棒立ちとなった。次の瞬間、「ゲエーッ」と、豪快なゲボを吐き出して、ストンと崩れ落ちてしまった。

「おい、どうした。なんで横山がぶっ倒れてんだ」

 電柱の足場を慎重に降りてきた先生が、地面のゲボ溜まりに頭をつっ込んでいる助手を、もの珍しそうに見ていた。

「先生、この人たちをどうしたらいいんですか。役場に運んだほうがいいのでは」

「ちょっとまて、芳一。無闇にさわるな」

 感染症になってしまうとか言っているが、もとより触る気などない。

「いや、もう死んでいる。なんだって、こんなことに」 

 逆エビ反りの体勢となって、しかもお互いの顔を密着させながら電柱に登った夫婦は、感電したあげく落下して死んでしまった。筋肉の硬直だけではなく、関節の拘縮もあると先生がつぶやいている。死んだことは間違いないし、この状態で生きていたら、それは奇跡というより魔術だろう。

「死んだの?」

 日名子さんがステージから降りてきた。気づけば、ここは多くの島民に囲まれていた。典型的な第三者のように、皆の表情が空々しかった。

「死んだよ」あらためて先生が死亡を宣告した。

「これは事故ね。いたましい事故だけど、この夫婦が勝手に登って電線をつかんでしまったのよ。事故以外のなにごとでもない」

 一部始終を見ていたのに、日名子さんの見立ては事故でしかないということだ。

「それは違うぞ。たしかに直接の死因は感電死だが、それに至る経緯がおかしい。見たこともない発作を起こしていた。ひょっとしてジャンジャと関係があるんじゃないのか」先生が反論する。

「お酒に酔っていたんでしょ。佐藤は強い焼酎が好きで、酒乱気味だったし」

「女房も同じ症状を発症していた。それに、あれはアルコールの中毒症状なんかではない。なにかの薬物かもしれない」

「だから、事故だって言ってるっしょや」

「事故じゃない」

 お互いの語尾が跳ね上がっていた。日名子さんと先生が言い争いを始めた。

「とにかく遺体をこのままにできないから、役場へ運ぶ」

 日名子さんの手下的な存在である斎藤と富田が現れて、焼け爛れている奇っ怪な形状の遺体にムシロをかけた。テキトーに包み込みながら運ぶ準備をしている。先生が止めさせようとすると、威圧するように立ち塞がった。こいつらに話しても無駄だとばかりに日名子さんへと詰め寄る。

「警察に知らせるべきだ」

「保古丹島に警察官はいないわ」

「根室か釧路の警察署に連絡したらいい。遺体も検死解剖が必要だ」

「海が荒れ始めているから、船はしばらく出ないし来ない。遺体を保管する場所もないから傷んでしまう」

 雨が降っているわけではないが、風が強くなっていた。潮の匂いもきつくなって、塩分を含んだ粘っこい湿気が不快だ。シロウトにも嵐の予兆を感じることができた。一度荒天となってしまうと、三日間は波が高くて船が出せないと日名子さんが言う。

「いままで漁の事故やなんやかんだで死んだ者たちがいたけど、警察なんか呼んだことなんてないわ」

 不審死は警察に通報しなければならないのだが、この島ではその限りではなかった。おそらく、書類一枚で処理しているのだろう。殺人事件が起こっても、ここならもみ消されそうだ。

「明日には焼くからね」

 先生は司法機関での解剖を主張するが、日名子さんは取り合わない。明日には荼毘にふすということだ。ずいぶんと早急で、通夜とか葬式の手配はどうなっているのだろうか。

 斎藤と富田、その他数人の男たちがゴザごと遺体を持ち上げて運び出してしまった。雑な扱いで、まるで路上に放置された野生動物の死体を処理するが如くだった。

「先生、先生」

 横山さんが呼んでいる。ようやく立ち上がってはいるが、頬に黄色いゲボを付けてふらつき、いまにも倒れそうだ。先生が肩を貸したので、なんとか立っている。

 私も気分が悪くなっていた。焼け焦げた死体を目前で見たせいなのか、胃袋の中に酸っぱさが充満している。こみ上げるものを、大砲のように吐き出した。ずいぶんと大量のゲボだなと涙目になりながら感心していたら、さらなる災厄がやってきた。

 近くで悲鳴があがった。人々がざわついている。鼻と口からゲボの残り汁を滴らせながら顔を上げた。余計なものを吐き出したせいか、頭の中のフワフワ具合がよくなっていた。眉間に皺を寄せた日名子さんの視線の先を見た。

「またか」と、呆れたように言うのは先生だ。

 逆エビ反りの男がやってきた。島民の誰かだと思うが、私は知らない人物だ。頭に手拭いを巻いていた。きついブリッジ状態のまま、てくてくてくてく歩いていた。ただし、行きたい方向が定まらないのか、あっちにこっちに忙しい。そのたびに人々が逃げていた。

「た、たすけてくれ。体が、いうことをきかない。どうなってんだべ」

 先生が取り押さえようとしたんだけど、なぜか逃げてしまうんだ。しかも困難な体勢のわりには存外に素早くて、捕まえることができない。「助けてくれ」と叫びながら、助けてくれる人間から逃げ続けている不条理な光景だった。

「うわ、こっちくるな」

 日名子さんが走り出した。手拭い男が、なぜか彼女を追うように動いていた。異常な姿勢の男がズンズンズンズンと迫ってくる。村長の威厳をなんとか保とうと、ややためらい気味に逃げていた。

 ようやく吐き気が一段落ついた私は、この珍妙な追いかけっこをのん気に見ていた。だが、天災は気を抜いた時にやってくるのだ。

「うっわ、こっちくんな」

 背骨を折らんばかりにブリッジした男が、なんと私に向かってきたではないか。バラバタバタバタと草切れを舞い上がらせながら、けっこうな勢いで迫ってくる。なんで、と思うと同時に恐怖を感じた。もちろん逃げるのだが、ある意味、四谷怪談のお岩に追いかけられるよりも具合が悪かった。

 だって、お岩は顔が怖いがしょせんは創作物であって実在しない。しかしながら、体が反り返り、顔が逆さになった男は現実として存在している。友達でもないのに縋ってくるのは、なぜなんだ。

「うわあ」

 転んでしまった。すぐに起き上がろうとするが、逆さになって引きつった男の顔が、私に接吻するほど近づいていた。白目を見開いた目玉が、自らの状態が極めて不可解であると告げている。

「芳一、それをつかまえろ」との先生の命令だが、絶対にイヤだ。ヘタに触ると、私まで反り返ってしまいそうな気がした。アヤメではないが、この島に呪われてしまったのだろう。逆さになった顔を見ていて、そう確信した。

「シャーッ」

 突然、ブリッジの男が猫のように唸り、顔が鬼のようになった。

 それは競走馬のように走り出した。窮屈すぎる体勢なのに動きが軽快だった。密着しながら死んだ夫婦は異界の鬼グモだったが、あいつは何だろう。逆さ馬の化け物か。

「芳一、なにやってんだ。つかまえろと言ったろ」

 だから、それは先生がやればいいのであって、助手の助手には荷が重いんだって。

手拭いの逆さ馬が電柱にしがみ付き登りだした。手からではなく足から先に登るのは、さっきの鬼グモ夫婦と同じだ。さらに中間点でいったん止まって、空中で足をもじょもじょするハエスタイルも同様である。一休みが終わると、頂上を目指して動き出した。

「バカヤロウ、また感電するぞ」と先生が叫んだ途端に火花が飛び散った。

黄色い光が五弁の花びらが咲くように展開した。夜空によく映えるなと見ていたら、逆さ馬が落下した。

 先生が駆けつける。逆さ馬の男はcの字に反り返ったまま燃えていた。頭に巻いた手拭いが黒く煤けていて、ところどころ水膨れした顔は赤や黒に変色している。

「なんなのよー、これは」

「横山、今度こそ熱傷の準備だ。シャキッ、っとせんか」

 日名子さんが声を張り上げ、先生が横山さんに火傷治療の指示をだすが、助手はまだ嘔吐の余韻を引きずっている。なんとか患者を看ているが、見ているだけで処置を手伝えていない。先生の言うことを何度も聞き返していた。私はすべきことを見つけられずにいる。

「どーれ」

 背後から重い気配がやってきた。

「どうして、あなたがわたしのお祭りに来てるのよ。帰って、帰れって」

 日名子さんが睨みつける先にいたのは、村川であった。保古丹島にあるもう一つの集落、瑠々士別地区の代表的な人物だ。彼と、その後ろに数人の男たちがいた。

「これはひどいな。もう死んでるべや」

 先生が救命処置をしている現場を覗き込んだ。首を振って手遅れであることを示す。ただし、嫌味という感じではなかった。

「今日はたいへんな日なんだから、あなたの相手なんかしてられない。とにかく帰って」 

「これがどういうことなのか、わからんのか、西出よ」

「な、なにがよ」

 村川と日名子さんが向かい合っている。片方は迷惑そうな、もう片方には真剣さがあった。男が右手のひらを顔に被せる。

「ジャンジャ・ドウー」と言いながら、顔面に溢れる気合を掴んで引っぱるように腕を伸ばした。これは前にも見たポーズだ。言い終わった最後に、口をすぼめてタメを作っていた。

「ジャンジャ・ドウー」

「ジャンジャ・ドウー」

 村川配下の男たちも口々に叫んだ。もちろん、ポーズ付きである。日名子さんは黙っていた。先生は手当てを続けていたが、小さくため息をついて首を横に振った。逆さ馬の男が死んでしまった。

「ジャンジャ・ドウーが始まったんだ。まだまだ死人が出るぞ。お祭りなんかやってる場合じゃねえ」

「おい、ジャンジャ・ドウーとは何だ。ジャンジャの症状と関係があるのか」

 医学的な関連があるのかと、先生は問うたのだ。

「英雄ルルシクゥを無残に殺したことで島が怒り、ここに住む者たちへジャンジャという呪いをかけたんだ」

「島が呪いをかけているっていうのか。そういうのじゃなくてだな」

「帯刀らに罪をきせて家族ともども惨たらしく殺した。だから、島は俺たちにジャンジャ・ドウーという呪いを被せたんだ」

「たてわき、とは何だ。人の名前か。ジャンジャ・ドウーは昔からあるのか」

 会話が噛み合っていないと感じた。先生は、{呪い}ということに関してはまったくのシロウトで懐疑的ですらない。私はアヤメから影響を受けているので、島の怪奇をなんとなく受け入れることができる。

 村川は先生にはかまわず、日名子さんに向いている。後方の男たちは、まだポーズを続けていた。

「西出、ジャンジャ・ドウーが始まったんだ。ジャンジャよりも凄まじいド級の呪いだ。どれだけの者が犠牲になるかわからんぞ。祭りなんか止めて、おとなしくしてるんだ」

「ホコタンに呪いなど、ないっ。ジャンジャは病気なんだ。札幌の医者がそう言っているっしょや。なにが呪いだ、なにが英雄だ。帯刀は盗人だったんだ。呪いなんて、絶対にない。お祭りは続ける」

 日名子さんは感情的になっていた。かなりの剣幕で顔が強張っている。男だったら村川に殴りかかっていただろう。

「バシッ」、と小気良い音が響いた。

 いや、すでに殴りかかっていた。ただし拳じゃなくてビンタであったのが幸いだった。村川の顔は少し傾いだだけで、怪我を負った様子はない。

「ババア、なにしやがるんだ」

 後ろでポーズをキメていた男のうち、若くていかにも活きの良さそうなやつが日名子さんに手をかけようとした。「やめろ」と村川が制止しようとするが、そのまえに強烈なる衝撃がそいつをふっ飛ばした。「ぐはへっ」と鼻血を噴出させながら地に伏せて悶絶している。

 富田だった。鬼グモ夫婦の遺体をどこかへ運んでいたはずだが、日名子さんの危急を嗅ぎつけて戻ってきた。もう一人の用心棒である斎藤もいて、ドス黒い気合を発している。

「てめえ、よくも」

 赤い頬の男が富田に殴りかかったが、横から斎藤が出て強烈なる一撃を食らわす刹那、村川配下の違う男が出てきて斎藤をぶん殴った。その赤い頬の男が、よろけた相手にもう一撃を食らわそうとして前のめりになったところへ富田の膝蹴りが炸裂した。いったん膝をつくが、すぐに起き上がって飛びかかった。二人ともプロレスラーみたいな体格であり、剛の者同士の闘いは空気が揺れて、体に当たる感じがした。

「おんどりゃあ」

 村川の手下がわらわらと湧いて出てきた。すると、騎人古地区の者たちも参戦する。あっちこっちで殴り合いが始まり、蹴って投げて毟っていた。あっという間に擾乱状態となり、収拾がつかなくなっていた。

 戦いのさなか、日名子さんが徐々に引いていた。彼女の姿の前に人々が重なり、やがて見えなくなった。先生は負傷者の治療というか介抱をしていた。じっさいは鼻にちり紙をつっ込んでいるだけだが、殴り合いに参加したくないのか、めずらしく丁寧にやっていた。

 なぜか、横山さんがぶん殴られてしまった。「アゴが」外れたと大げさに騒いでいるが、アゴは健在であり じっさいは左目の周りが腫れている。アゴを撫でながら怪我の箇所を錯誤している助手は、医者としてどうかなのかと思う。

 ドドーン、

 と花火が打ちあがった。小中学校のグランドという教育の場所で暴力沙汰の大騒動となっているのに、お祭りの運営はなにを考えているのだろうか。警官どころか機動隊を呼びたいくらいなのに、熱気に火をつけたらだめだろう。

「うわあ、やめろ」

 私にも災禍が降りかかってきた。血走った眼の男がわあわあ喚きながらポカポカと殴ってくる。「空手チョップだーっ」と叫んで、手刀を振り回してくる輩もいて危険極まりない。混雑するお祭り会場内を必死になって逃げまどい、喉が渇いては振る舞い酒に手を出して、へべれけになってぶっ倒れそうになった。

「芳一、なにやってんだよ。もう、飲むなって。それ、西出の毒なんだから」

 コッタが私の尻に人差し指を刺していた。ちょうどいいところに来た。こいつの肩を借りて安全な場所へ避難しよう。

「うぎゃ、重い、重いって。あけ美、あけ美、芳一をつれてっからてつだえよ」

「なして、わたしなのさ。コウタがやればいいっしょや」 

 あけ美はツレナイ態度であり、男を下げたなとコッタに言ってやりたかったが、もうだめだ。力なく崩れてしまい、そのまま奈落の底へ落ちてゆく感覚に気が遠くなった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る