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仮通夜なので弔問に来るのは近親者か親しい者だけかと、ふつうは思うのだけど、山本という名の漁師のもとには大勢の島民が訪れた。次から次へとアリの行列が如く、騎人古地区の人たちがお別れを言いに来た。それほど人望があったのか、背中を極限まで反り返らせて鉄塔を登った、あの異形の姿からは想像できない。
検査ができないので我々の医療活動はヒマかと思いきや、そうはならなかった。ジャンジャはもちろんのこと、その他の病気を診てほしいと、大勢の島民たちが先生と横山さんの前に行列した。ちなみに無料診療である。
仮通夜なのに、仏さんよりも医者のほうに人が集まってしまい、山本さんも複雑な心境だろう。雑用係と受付、そして庶務的な仕事で、その夜は私も忙しかった。アヤメのことを一時忘却させられるほど先生にこき使われてしまった。
島には遺体を保管しておく安置所がないとのことで、早くも次の日の日中には葬式となった。仮通夜同様、多くの島民が集まった。聞いたところによると、葬式費用はすべて日名子さんが負担するとのことだ。葬式饅頭や菓子類を大量に発注していて、根室からの船が来ていた。
故人とはまったくの他人なので参列するつもりはなかったのだけど、山本未亡人から先生共々、第一発見者にはぜひともと懇願されてしまった。私というよりは、都会の医者がいると箔がつくのだと思う。涙ながらの慇懃丁寧さに、そういう心理が見え隠れしていた。
葬式の最中にちょっとした珍事があった。保古丹の人たちには日常だけど、島民以外にはめずらしいというか、異様な出来事だった。
唐鎌(からかま)という危なっかしい苗字の二十歳くらいの男に、ジャンジャの発作が出た。ちょうど読経の最中だったが、彼は「確率がきたぞ」と唐突に叫び、混みあったその場所から立ち上がると、お坊さんのすぐ横まで来た。振り返って一同に対面すると、「ジャンジャー、ジャンジャジャンージャ、ジャンジャ、ジャッジャッジャ」と歌いながら、踊り始めたではないか。
そのダンスをなんと表現したらよいのだろうか、手足の動きは滑らかさから程遠く、カクカクしていた。大げさに振り回しているのだが、いかんせん差し金をあてたような直角的な動きなので、有機体というよりはまるでロボットだ。機械仕掛けの蝋人形が配線をショートさせて、電源が落ちるまでデタラメに動いているみたいだ。ひどく滑稽であったが、対照的に表情は真剣そのものだった。おそらくは、厳かな葬儀を自らの{ジャンジャダンス}で貶めたくないとの心理が働いていたと思う。だったら、そもそも踊らなければいいだけなのだが、ジャンジャの{確率・発作}がきたら、ダンスであらわすのが保古丹島の流儀なんだ。
お坊さんの読経が続いていた。すぐ隣で奇声を発してダンスに勤しんでいる男を気にすることもなく、淡々と木魚を叩き続ける。弔問客たちも、唐鎌青年を批難したり咎めることはなく、かえって掛け声や手拍子を送っていた。
読経の絶え間のない連続したリズムと、唐鎌青年が踏むジャンジャのステップが徐々に接近していた。両腕を振って指パッチンしながら足と腰をヘコヘコと揺らすのだが、どうもエルヴィスを真似ているようであって、ひょっとしたら監獄ロックなのかもしれない。死者への手向けとして相応しいのかすごく疑問なのだけど、本人は一生懸命なので、漁師山本も喜んでいるだろう。
「ジャンジャジャンジャ、ジャ~ンジャ、ジャンジャ」
そこに十円玉ハゲの哲夫少年と彼の友人たちが駆けつけて、勝負を挑むように踊りだした。つい先日、ジャンジャの通過儀礼を経て島の男となったので、おだって出てきたのだろう。中学生たちの登場により、故人の祭壇の前でジャンジャダンスの競い合いとなってしまった。
「哲夫、ジャンジャがノロいぞ」
「ほら、あんたたち頑張りな。山ちゃんをガッカリさせるんじゃないよ」
「雄二、腰が入ってねえんだ、腰が。鎌を見習え、鎌を」
唐鎌青年の角張った腰つきのどこに見習うべき要素があるのかわからなかったが、中学生たちのゴーゴーダンスは、たしかにへっぴり腰だった。おもいっきりがないというか、周囲の反応を気にし過ぎで覇気が削がれているというか、稚拙に見えた。葬式という大舞台で踊るにはまだまだ修業が足りず、叱咤されても仕方ないと思えた。
「これは、よほど奇妙ですね。ふつう、葬儀の最中にやりますか」
「長年ジャンジャに苦しめられて、おかしな風習が出来上がってしまったんだ。厄払いの意味合いが、どんどんおかしな方向へ走ってしまっている。ジャンジャの症状がでたら、とにかく忙しいんだよ」
「前回も、こんな感じでしたか」
「そうだ。ただし、踊りというか振り付けは進化しているな。最初の訪問の時は、日本舞踊とか能とか、もっと古風で日本的な感じだった。そういえば浪花節もあったな。三味線の伴奏付きで、ジャンジャジャンジャってやってっけ」
「それはそれで興味深いですね。ちょっと見たかったかなあ」
横山さんは浪花節が好きなのかな。語り芸でジャンジャをあらわすのはどんな感じなのか、たしかに興味深い。
「♪ はまの~北風~、(ヘイヘイ)、身を切るようなこの寒さ~、ジャンジャの痛みが~、(ヘイヘイ)、(ジャンジャジャンジャ)。ってな感じだったな」
先生が、過去に保古丹島で流行っていた浪花節を披露した。目をつむって、浪曲師らしい仕草をする。横山さんがクスクスと笑うが、葬儀に出席中であることを思い出したのか、慌ててすまし顔に戻った。
「そして前回は盆踊りというか、まあちょっとダンスっぽかったかなあ。今回ほどロックン・ロールじゃないけどな」
漁師山本が死ぬ間際に踊っていたが、あれは盆踊りが原型だったな。最近の流行りについていけない中年男の、精いっぱいの頑張りだったんだ。
奇妙な葬儀が終わり、集まった島民たちが家へと帰った。先生と横山さんによる診察は休診となった。難産の妊婦がいるらしく、急に呼び出されてしまったのだ。島に産婆はいるが手に負えない状態らしく、現代医学の手技が必要となっている。船で本土に搬送しているヒマもないとのことで、医者二人がバタバタと用意をしていた。横山さんは産科の経験がないと、なぜか私に言い訳をしながら先生について行った。
私にはお呼びがかからなかったのでヒマができた。ラジオ体操第二をして体をほぐそうかと外に出ると、役場の前の草むらで怪しげな少年がウロウロしていた。
「コッタ、なにしてんだ。バッタか」
バッタを捕っているのか。
「犬のお姉ちゃんからさ、今日はしごとでムリだからって、芳一に言ってくれってさ」
アヤメからの伝言があって、わざわざ私に会いに来たようだ。
葬式が終わると、遺体はすぐに荼毘にふされるので火葬場に運ばれる。彼女は{焼き}担当職員であるので、日当分は働かなければならない。
「ああ、そうだったな」
アヤメの家に来いと言われていた。ヒマになったので行きたいと思っていたけど、向こうから断られてしまった。
「芳一」
「なんだよ」
「まんじゅう、食ったんか。ちゅうかまんじゅう」
香典返しの饅頭のことを言っていた。葬式に来た者は全員もらっている。
「いや、まだだけど。コッタは食ったのか。あれ、おっきいから一つで満腹になるな」
「うちは、母ちゃんが西出のおばさんに好かれてないから、そうしきにいってないんだよ。だから、ちゅうかまんじゅうをもらえてないんだ。あれ、すっごくおいしいのにさ」
コッタは中華饅頭が食べたかったようだ。家庭の事情というか、人間関係に困難があるらしく、彼の家には与えられなかった。汚れた運動靴のつま先で土の地面をうじうじとほじくっている姿が絶妙に哀れであって、ぜひとも食わせてやりたくなった。
「ちょっと待ってろ、持ってきてやるから」
先生と横山さんと私にと、日名子さんからいろいろ頂いていた。中華饅頭はもちろんのこと、リンゴやブドウなどもある。果物は、この島の者にとっては珍味だろう。それと診療のお代ではないが、島民からの差し入れもあった。
「ツヨシと杏子とミノルのもあるんかな。あいつらも食ってないんだよ。あとヤスオもさ」
昨日のちびっ子たちも、それぞれの家庭事情により葬式饅頭にはありつけていないようである。私の分だけではなく、先生と横山さんのも頂戴しておこう。ひもじい子供たちに分けてあげたと言えば、二人とも納得するはずだ。医者だけに、物質的な欲望に関しては鷹揚だからな。
そういうわけで、私たちの部屋に置いてある食べ物を袋に詰め込んだ。それをもって外へ出ると、よくしつけられた犬のように待機している少年に手渡した。
「これ全部持っていけ。ちびたちの分もあるからな」
「うわあ、ありがとう。ぶどうもあるよ」
いつもシニカルで対等な態度の小学生だが、無邪気な表情を見せつけて喜んでいた。さっそく中華饅頭を取り出して、むしゃむしゃと頬張りながら満面の笑みである。
「あっまいなあ」
一気に半分ほどを食い、過剰すぎる糖分を体の隅々まで行き渡らせていた。ぷるぷると震える細っこい少年を見ていると、こっちまで甘くなってしまう。草の上に尻を置いて、コッタの横に並んで座った。
「ヒマになったらアヤメの家に行きたいんだけど、そのときは道案内よろしくな」
「うん、そんときは連れてってやるよ。犬のお姉ちゃんのホットケーキ、すっごく、うまいんだよなあ」
連れていってくれるだけでいいのだけど、道案内してくれたらすぐに帰ってほしいのだけど、さらなる甘さに恋焦がれている子供に、大人の都合を押しつけるのは酷だと思った。
「ホットケーキ食ったら、すぐに帰れよ」
「えっ、なして」
コッタは中華饅頭を食べきらなかった。一かけらを残して、小さくなったそれをちり紙で包んで、上着のポケットの中に仕舞い込んだ。
「ブドウもあるぞ」と言うと、「あとで、みんなで分けるから」と返された。
「そうか」なんとなく会話に乗りきれなくて後が続かない。無言で景色を見ていると、コッタがつぶやくように話し始めた。
「おれの父ちゃんが死んだとき、すぐにツヨシと杏子の父ちゃんも死んだんだ。ジャンジャ・ドウーが始まったから、ヘンイになったから、また人が死ぬんだよ。犬のお姉ちゃんはいそがしくなるよ。会いたくても会えないべや」
確率の変異という未確認の現象が死を招き、それが連続するのだという。ジャンジャ自体が大変な病気なのに、ジャンジャ・ドウーになると死人が出てしまう。さらに{焼き}担当のアヤメが忙しくなるという縁起でもない話だ。
「父ちゃん死ななかったら、コンブ森にいってさ、そっちでくらすんだったんだよ。母ちゃんはしぶってたけど」
「こんぶ、もり?」
「くしろのコンブ森だよ」
釧路市の近郊に昆布森という漁村がある。名称が特徴をあらわしているように、昆布がよく採れる地域だ。
「おれの父ちゃん、保古丹でも一番のコンブとりだったんだよ。名人でさ、よくかせぐって、西出にもほめられてたんだ。母ちゃんもいい服きてたし」
その稼げる父親が死んで、コッタのお母さんは着たきりになってしまったのだろうか。
「ツヨシと杏子の父ちゃんも一緒に行くんだったんだよ。でも、みんなジャンジャ・ドウーになって死んじゃった」
「ジャンジャ・ドウーが伝染したってことなのか」
「島から出て行こうとしたからだよ。島は許さないんだ。おれたちはさあ、一生ジャンジャで苦しまなきゃならないんだよ。だって、そういうモンだから」
まるで、保古丹島に意思があって、島から脱出する人間を許さないような言い方だ。アヤメと同じで、そう思い込んでいるのだろうな。島の呪いのことといい、もはや信仰とか宗教の世界だ。
「おれ、ジャンジャはイヤだよ。苦しいし、カサビタだらけになるし、ジャンジャになる前に島を出たいんだよ。そしたら、ジャンジャにならないからさ」
ジャンジャがこの島にしか発症しない病気ならば、離れた場所に避難すればいいわけだ。それとも島に生まれた人間には、その病気がついて回るのだろうか。遺伝ということがあるのかもしれない。
ジャンジャの症状が発症してしまうことを、コッタはすごく嫌がっていた。中学生までには島の男性は発病してしまうので、残された時間は、あと数年だ。
「なっさけない、なにいってんのっ、この、いくじなしっ。とうへんぼくっ」
唐突に、背後から罵声が飛んできた。私が振り向くより先に、コッタがその声のヌシを見ていた。
「あけ美、なしてここにいるんだよ」
「なしてもああしてもないべさっ。ジャンジャにならなきゃどうするのっ。保古丹の男はみんなジャンジャになるっしょや。ジャンジャにならなきゃ、ケッコンできないっしょ。仕事もらえないべさ。どうすんのさ、コウタ。はくそジジイみたいになるのかっ」
「そんなの、あけ美に関係ないべや」
「関係ないわけないっしょ。コウタがかせがなかったら、わたしが困るんだ。おまんま食えなくて、こどもらどうすんの。かわいそうでしょや」
「なして、おれがおこられてんだよ。こどもらって、だれだよ。ツヨシとミノルか」
恐妻のごとく怒っていたあけ美は、最後に「バカコウタ」と叫んで行ってしまった。
「コッタ、ジャンジャになることが、そんなに大事なのか」結婚とか仕事がジャンジャに係ると、彼女は言っていた。
「保古丹じゃあ、ジャンジャにならないとケッコンできないんだよ。仕事もないし、はくそじいさんみたいになるさ」
ジャンジャを発病していない男はモテないし甲斐性もないということだろうか。ふつうの感覚とは逆な気がする。ちなみに、はくそジジイとは保古丹に住んでいる一人暮らしの職なし結婚歴なしの孤独で不潔な老人で、歯クソがとても臭いことからそう呼ばれているそうだ。保古丹島の少年少女の間では、かなり否定的な人物として、シンボリックな存在となっている。
「ジャンジャにならない男は一人前じゃないから、奥さんをもらったらいけないんだ。ケッコンしちゃダメなんだ。女も、ジャンジャになってない男とはケッコンしないんだ。仕事だって、もらえないよ」
「コッタ、仕事はもらうものじゃなくて、自分で探すものなんだぞ」
「芳一は、なんもわかってないよ。保古丹のことぜんぜん知らないじゃんか。でめんとりのくせにさ」
職業へ就くことについて、私が偉そうに言える立場ではないことを見透かされていた。さっきから名前を呼び捨てにされているが捨ておくことにする。
「保古丹じゃあっ、ねー」
「わっ、びっくりした」
あけ美が戻ってきて、耳元で大声を張り上げた。腕組みをして後ろに立ち、苦いバッタをじっくりと噛みしめたように、口元が歪んでいる。
「ジャンジャになることが、すっごく大事なんだよ。だって、ジャンジャにならきゃ大人になれないんだから。ケッコンもできないし、コウタのチンポに毛も生えないっしょ」
少女からドキリとする言葉が発せられた。大人である私がオドオドするのだが、コッタはわりと冷静だ。
「べつに、ちんこに毛が生えなくてもいいや」
「わたしはどうなるのさ」
「しらねえよ、なしておれにきくんだって。おまえにちんこないべや」
コッタは立ち上がらず、地面に座ったまま上半身だけを後ろに向けていた。見下げるあけ美としばし目線を合わすと、向き直って背中を向けた。私があげた袋に顔をつっ込んで匂いを満喫し、リンゴを取り出してまた振り向いた。
「あけ美、リンゴやるよ」
「バカコウタ」
「おわ、イタッ」
差し出されたリンゴをソッコーで奪い取ると、少年の頭頂部へゲンコツを落として、少女は行ってしまった。
「あいつ、中の指をぎゅってにぎるから、なんまら痛いんだよ。オニだ、オニ女」
頭を掻きむしりながら、少年が嘆いていた。ここ最近風呂に入ってないのか、汗と尿が入り混じったニオイがした。まあ、ツヨシほどではないが。
「心配するな、ジャンジャは治るよ。コッタはジャンジャにならない。そのためにオレたちが札幌からきたんだから。まかせておけ。現代医学はすっごく進歩しているんだぞ」
「芳一はお医者さんじゃなくて、ただのそうじ係だべや」
当たらずしも遠からずであって、返す言葉がない。勉強して医学生になっておけばよかったと、今更ながらに後悔する。コッタが立ち上がった。
「犬のお姉ちゃんのうちに行きたいんだったら、おれが連れて行くから言ってくれよな」
明日にでも行こうと思っている。ただし、手ぶらというわけにはいかないだろう。
「なあ、アヤメは、なにが好きなのかな。お酒とか花とか、なんかあるだろう」
「犬のお姉ちゃんはレコードを集めてるんよ。いっぱいあるよ。おれはラムネが飲みたい」
さすがに、この孤島でレコードを買うのは無理な気がする。彼女の音楽の趣味も知らないし、興味のない歌手のレコードなどほしくもないからな ラムネについては割愛する。ヘタに居座られても困るし、道案内は水さえあれば十分だ。
「芳一、ありがとう~な。母ちゃんもちゅうかまんじゅう好きなんだ。ツヨシたちも喜ぶよ」
コッタが帰った。アヤメの家に連れて行ってもらうのだけど、どこで待ち合わせをするのかを話していなかった。まあ、そのへんの草むらでバッタを捜しているだろうから、すぐに見つかるか。赤い植物ばかりで、きっとやつは赤いバッタを捕っているのだろう。
「それで、ジャンジャとは結局のところ何なんですか」
葬儀のあった次の日に、アヤメの家へ行くことはなかった。医療活動が本格的となり、先生や横山さんは当然として、私も小便をする暇もないほど忙しくなったためだ。
島民たちから血を採って顕微鏡で検査したり、試薬をたらしたりと、二人の医者は朝早くからコンを詰めていた。診察と検査が同時に行われているので、休む暇がない。私は患者のカルテと名簿つくりの手伝いだ。物書き志望だから事務は得意だろうと先生は考えていたらしいが、文章を練るのと記録を作るのとはまったく違う。慣れない筆記なのに正確を期さなければならず、しかもほぼ休憩なしの長時間労働が身に堪えた。
夜遅くになって、ようやく一日の作業が終わった。遅い夕食をかきこんで、自分たちの部屋に入った。昆布の佃煮を肴として、保古丹島名物のジャガイモ焼酎を飲みながら晩酌を飲んでいる。先生より先に横山さんが答えた。
「おそらくは、フィラリア症じゃないかと見当をつけています」
来る前から、その病名は聞いてきた。蚊が媒介するというので、マラリアみたいな感じなのだろうか。
「まあ、ちょっと違いますかね」
横山さんがあっさりと否定すると、仁美ばあさんがやって来た。ノックもせずに戸を引くと遠慮なく入ってくる。なにやら赤い物体の入った大鍋を抱えていた。
「さっき電灯持って浜さ行ったら、花咲が集ってたから捕ってきたべや。茹でたてだから食えや。小せえけど、身ぃ詰まっててうんまいからな。晩酌のあてになるべ」
花咲ガニの塩茹である。カニ好きの横山さんの顔がほころんでいる。さっそく肢をもぎ取りながら説明を続けた。
「フィラリア症は、フィラリア糸状虫という寄生虫が、蚊に刺されることで、おもに人のリンパ管や血管に寄生して起こるんです。南方に多いですね。日本では青森県が北限になります」
「リンパ管って、なんですか。そこにも血が流れているんですか」
血管はもちろん知っているが、リンパ管というのはあまり聞いたことがない。
「リンパ管にはリンパ液が循環しています。脂肪分を胸管に送ったり、免疫細胞に作用したりです。リンパ液は血液を補う役割があるんですよ。フィラリア症にかかると、フィラリア虫がリンパ管の中でとぐろを巻いたりして、リンパ液の循環を阻害してしまうんです」
「ミミズみたいな寄生虫が、リンパ管の中にニョロニョロしてるんですか」
「大きさは違いますけど、そういう感じですね。そうするとリンパ液の流れが止まってしまうので、リンパ液が溜まってしまいリンパ浮腫が起ってしまいます。痒みがひどいので強く掻いてしまうと皮膚に炎症が起こって潰瘍になったり、爛れたりします。象皮病を知りませんか。足がむくんで象の足のように大きくなってしまうんです。患部が乳房や陰嚢になって巨大になると、それはもう大変ですよ」
そういう人を身近で見たことがないので、なんとも言えない。青森が北限ということなので、北海道には発生していない病気のようだ。
「西郷どんのデカふぐりを知らんか」と言うのは先生だ。
その話は知っている。西郷隆盛のタマタマが大きくなりすぎて馬に乗れなかったということだ。あの偉人もフィラリア症だったのか。ミミズみたいな虫がタマの中に巣食ってしまうなど、想像するだけで股の間が疼いてしまう。道民でよかったと、つくづく思う。
「それで薬はないんですか。そのフィラリア症の特効薬とか」
「薬はあるんですけど、この島のジャンジャには効かなかったようです」
「もっと長期間の治験で試してみたかったけれども、副作用が強くてな。目に見える効果がなくて、島の人たちも嫌がって中止になったんだ」
前回の訪問で、フィラリア虫に対する駆虫薬をジャンジャの患者に投与したが、効果はなく不評で取りやめになったと、あっちのほうを向きながら先生が言った。
「だったら違うんじゃないの。寄生虫じゃなくて、ほかに原因があるとか」
「まあ、遺伝病や細菌感染なんかも考えられますが」
そう言いながら、横山さんは糞みたいな色のカニミソを小指でほじくり出すことに集中していた。
「いいや、フィラリア糸状虫で間違いないはずだ。細菌感染ではないし、保古丹島とは関係ないところから来た者もジャンジャになるから遺伝病でもない。病態が独特で、ほかには考えられないんだ」
「公害とかは。水が汚染されているとか」
「この島のどこに公害があるんだ。まるっきり自然のままだ。おまえの家の近所のほうが、よっぽど汚染されているぞ」
たしかに、この島に工場の類はない。地下水が豊富らしく、水不足による汚染等はないとのことだ。上陸した浜は潮の匂いが心地良くて、海水が透き通っていた。自然というよりは原始的であって、公害とは無縁だといえる。
「ジャンジャの発症の仕方が、フィラリア症と似てますからね」
横山さんによると、ジャンジャは突然の熱発作から始まる。高熱による強烈な寒気と戦慄で、ガタガタと体が震える。いったん自然に治まるが、何度も激しい熱発作が襲ってきて、ひどい時には意識障害を起こしてしまう。そんな症状を何年も繰り返えしているうちに皮膚が爛れて出血し、瘡蓋ができてしまうとのことだ。しかも一度発症すると、老人になっても治らない不治の病となる。
「でも先生、フィラリア症にしては象皮病や陰嚢水腫が見られませんでした。まだ、患者全部を見たわけではないですが」
「八丈小島のマレー糸状虫の時も、象皮病はみられなかったろう。フィラリア症はバンクロフト糸状虫だけではないからな。違う種類がいたら、違う症状になるんじゃないかな」
「その違う症状が、あの瘡蓋ですかね」
「そうだ。これは俺の直感なのだが、ジャンジャは新種のフィラリア糸状虫なんじゃないかと思っている。こいつの場合は、リンパ浮腫によるむくみの代わりに皮膚への出血があって、瘡蓋となるんだ」
フィラリアっていう寄生虫は、一種類だけではなく何種類もいて、それぞれ微妙に症状が異なる場合もあるようだ。
「駆虫薬のスパトニンが効かないんだったら、かなり厄介な新種となりますよ」
「とにかく正体を突き止めて生態を解明しなければ、新たな駆虫薬も開発できん。謎の風土病というだけでは予算が出ないからな。生活史を解明して、世間に知ってもらわないと」
薬の開発には、当然ながらお金がかかる。製薬会社も儲けなければならないので、過疎地域の限られた病気では商売になりにくい。世間的に話題となれば公的な補助金が出て研究への後押しとなる。先生や横山さんにとっては医学者としての功名心もあるだろう。
「それにしてもミクロフィラリアが出ないですね」
「まだ夜間の検査はやってないからな。前回もほとんどやれなかったが、今回はどこまでいけるか。瑠々士別もやりたいんだけど、さすがに人手が足らんか。なんとしてもミクロフィラリアを見つけないとな」
ミクロフィラリアとはフィラリア虫の幼虫で、成虫は人の体の中で何百万の幼虫を産むとのことだ。一滴にも満たない採血でも発見できるので、どれほどの数が蠢いているのか。膨大なミミズの子供が体中を這い回っているというのは、悲劇を通り越して、もはや怪奇である。おぞましいかぎりだ。
「先生、一般の診療が忙しすぎますよ。明日からは午前中だけにしてもらうように、村長さんに頼んでみましょうか」
「いや、診察は続けよう。こちらが誠意を見せれば向こうも協力してくれて、検査がやりやすくなる。それに島の人たちを助けたいしな。夜間の検査は交代でやればいい。とにかく頑張ろうや」
「ちょっと待って。夜間の検査って、夜にも血を採るってことですか」
先生たちが働いている時は、雑用係である私も付き合わなければならないのだけど、夜勤をするとは聞いていない。夜の仕事は頑張りたくない私がいる。
「夜間定期出現性といって、ミクロフィラリアは夜に動き回るんですよ。昼夜の生活を逆転させても、ちゃんと夜に出てくるんです。面白いでしょう。生命の神秘を感じますね」
二匹目のカニミソを忙しくほじくり出しながら、横山さんが微笑んでいた。神秘を味わうのは勝手だが、私は遠慮したい。
「この島は、いろいろと神秘を見せてくれるさ。酒がないから、もらってくるわ」
先生が席を立った。けっこう飲んでいたみたいで足元がふらついている。酒豪らしくないなと思いながら見送った。
「僕は、フィラリア症以外にも可能性を探ってみるべきだと思うんだけど」
先生の気配がなくなったのをチラリと確認してからの発言だった。
「ジャンジャには、ほかに原因があると?」
「フィラリア症というのは、いい線だとは思うですが、現実としてミクロフィラリアが見つからないし、象皮病や乳糜尿も見当たらないですし、新種というのは無理があるのかも」
前回の調査でも幼虫は見つかっていないそうだ。先生はこだわるのだが、助手はやや懐疑的である。
「呪い、じゃないですか。島の呪いがジャンジャを引き起こしているとか」
私も酔っていた。本気というわけではないが、医学についてはほぼ無知であるので、面白半分にテキトーなことを口走ってしまう。アヤメやコッタに影響されていることは否定しない。
横山さんは、カニ爪の部分をバリバリと歯で噛み砕いて中身を露出させた。肢に対して大きな身がとれて、ホクホク顔でかぶりつく。カニの味を十分に堪能してから、私の呪い説をうっちゃって、予想外の話題を切り出してきた。
「芳一さん、なんでも、あの美人女性と相当に仲良くなったとか」
「え」
アヤメと大っぴらにくっ付いていたわけでもないのだけど、親しく話していたところを島の人に見られている。横山さんとは、漁師山本のもとへ駆けつけた時に会っている。
「我々は、あくまでも部外者なので、島の人たちには感情的に接近しないほうがいいと思いますよ。イザコザに巻き込まれると、ジャンジャの検査や治療にも影響しますし」
色恋沙汰になって研究や治療の妨げになる行動は慎めと、暗に言っている。一見温厚そうな医者だけど、意外と小姑の性質があるな。ジャガイモ焼酎が苦く感じられた。
「まあ、ちょっと話していただけです。いろいろと情報収集ですよ」
「ほどほどに」
最後のカニの甲羅を私に渡して、意味ありげに見つめている。
「おう、なんの話だ。いい女でもいたのか」
先生が帰ってきた。ジャガイモ焼酎の一升瓶と、つまみの追加にと鮭の燻製を持っていた。
「ジャンジャが、じつは呪いだって話をしていたんですよ。芳一さんが島の人から情報収集して謎を解明してくれました」
皮肉に満ちた助手だと思った。酔っていなかったらドヤされていただろうけど、今晩の先生は機嫌よく快活で、なによりも柔軟であった。
「たしかに呪いだ。高熱でひっくり返って、意識がぶっ飛んで、おまけに体中に痂皮(かひ)ができる。それが何年も、何十年も続くんだ。神様とは逆のモノが悪さをしているとしか思えん」
ほら、飲めと一升瓶を突き出してきた。コップになみなみと注がれて、勢いに押されるまま一気飲みしてしまったが、これは日本酒じゃなくて焼酎であることを失念していた。これ以上酔いたくないので、鮭のトバをもらってくちゃくちゃやるが、アヤメのと比べて乾燥しすぎで固く、歯が欠けそうである。
「俺たちは、その呪いからこの島の人たちを解放して、そのなんだか知らねえ悪いモノに引導を渡してやるんだ」
「だとすると祓い屋ですね。医学的な陰陽師でもありますよ」
「陰陽師もびっくらな、ホンモノの医術を見せてやるよ」
先生がグイッと一気飲みすると、助手もグイッと続いた。ただし、コップの残りは三分の一もないのを見逃すべきではない。私は医者ではないので辞退することにした。
「なんとしてもジャンジャを防圧する。これは医者としての使命だ。やれるな、横山」
「もちろんですとも」
もう一度、一気飲みが行われた。今度はズルをしないように、あらかじめ助手のカップになみなみと注いでやった。私は医者でないので、もう一度辞退することにした。
「僕もジャンジャの踊りをやりますよ」
横山さんが立ち上がった。ジャンジャジャンジャと叫びながらジタバタとしている。どう見ても、ションベン横丁で酩酊している酔っ払いオヤジみたいなステップだ。助手の脳内で、どのような音楽が流れているのかを知りたくなった。
「もしジャンジャの呪いの元を突き止めたら、俺の命を懸けた踊りを見せてやる。誓ってもいい。絶対に見つけてやる」
先生の誓いが果たされることを、私も切に願う。ジャンジャを喜ぶ子供たちなど不憫でならないし、コッタには健康なまま島の男になってほしいし、ないよりもアヤメのきれいな肌に呪いの色彩など見たくはない。
三人とも相当な二日酔いではあったが、次の日の朝から激務が開始された。
先生は朝から島民の一般診察と採血を担当した。横山さんと私は、騎人古地区の家々を回って血を集めることになった。二手に分かれたほうが効率的だと、先生の提案だった。夜は、昼間に採血した家々を再度回る予定である。
戸別訪問をして島の人たちに採血の協力してもらうのだが、私と横山さんの二人だけでは役者不足感は否めず、血を採らせてくださいと頼んでも相手にされないのではと心配していたら、なんと日名子さんが直々に同行してくれることになった。ジャンジャの災禍から一刻も早く島民たちを救いたいと、協力の申し出だった。
「助かります。僕たちだけでは、なんていうか、信用されませんから」
「村長が頼むと、たいていの者は断りませんよ」と、日名子さんの心強い返事だった。
たいていではない例外は、村川の影響下にある瑠々士別地区だけのようだが、あえて言及はなかった。そこは踏み込むには難儀が予想される。先生は、どういう作戦を考えているのだろうか。
島民の血を求めて、私たちはさっそく騎人古集落を回った。ジャンジャを発症しているのは中学生以上の大人なので、在宅しているかどうかが肝となる 平日なので、当然ながら仕事をしているだろう。日名子さんは、家にいそうな者たちに見当をつけているようだ。じっさいに何軒か訪問してみると在宅していて、イヤな顔もせずに採血に協力してくれた。仕事が捗るのでありがたかった。今日は早上がりとなるかもしれない。
歩きながら、日名子さんの前では冗談でも呪いの話はご法度だと、横山さんがそっと耳打ちした。そんなことは言われなくとも百も承知で、だんだんこの人をウザッたらしく思えてきた。
「そういえば、日名子さんは先生とは親しかったんですか」
何らかの思惑があったわけではない。会話が途切れがちなので、軽く色恋の話をふって言葉のキャッチボールをしようとした。呪いのことはご法度だからな。そんなことないよ、と否定されることがわかりきっている、と考えていた。
「恋人同士よ。元だけどね」
「えーっ」
だが違った。意外すぎる返答に思わず立ち止まってしまう。横山さんも驚いた様子で、「まさか」という顔だった
「お互い、出会ってすぐに恋に落ちたの。けっこう盛り上がっちゃって、とにかく真剣だったわ」
直球を通り越して、魔球が飛んできたではないか。先生の若かりし時、医学の研究のために孤島を訪問し、なんと島の有力者の娘と恋仲になっていた。
「晃はね、いかにも都会の男の子で、すごく可愛いかったんだから。それはもう、なんていうかね」
顎に親指と人差し指を当てて、その当時を思い出してくすくすと笑みを浮かべていた。在りし日の先生の姿を思い出している女の顔は、中年のそれではなかった。若い軍医の胸に抱かれている女性の横顔が見える。これは事件だろう。
「若さの中にも知的っていうか、学問に裏打ちされた自信というか、魅力にあふれていたわ。この島にはね、絶対にいない男性だった」
いまの先生は、任侠の若頭みたいなコワモテの角刈りオッサンで、良識ある市民はなるべく目を合わせたくない風体である。人は年月の重みで変異してしまう悲しい動物なんだ。
「ハハハ、あなたに誘惑されたら、ひとたまりもなく先生も落ちましたか。これは愉快」
「あら、そういう言い方は心外だわ。まるでわたしが男ったらしみたいじゃないの」
「いや、これは申し訳ない。そのう、そういう変な意味ではないんです。軽はずみなことを口走ってしまって、すみませんでした。いまのは忘れてください。イヤ、ほんとに、ごめんなさいというか」
槙山さんは、けして貶したり嘲たりする意図で言ったのではないと思うが、日名子さんが真顔になってしまった。魔性の女扱いは承服できぬ、ということである。
「だって、誘惑してきたのは晃のほうだったんだから」
だが、次の瞬間には小憎たらしいほどの笑顔になった。日名子さんは、なかなかに茶目っ気があって愉快な人だ。オロオロ顔の横山さんが、キョトンとしている。ちょっとした心理劇に付き合わされていることに、まだ気づいていない。
「付き合ってしまったのに、結局、一緒にならなかったのですか」
無粋とは思ったけど、ズバリと訊いてしまった。日名子さんは隙がない実務的な人だけど、冗談も通じない堅物という感じではない。自分から過去の色恋を告白しているし、昔の淡い思い出をネタに、私たちとおしゃべりしたいのだと思った。
「あの時は戦争中だったし、お互いの家のこともあってね。晃が帰ってから、それっきりになってしまったわ。まあ、男と女はいろいろよ。いまはまったくの他人行儀だし」
この島に上陸した時の先生は、そんな態度だった。とても恋愛をしていた仲とは思えなかった。二十年もすると、情熱も老いてしまうのだろうか。
「あなたも、ひょっとして保古丹の誰かさんを狙っているのかしらね」
ドキリとした。アヤメのことを見透かされている気がした。横山さんがわざとらしく咳払いをしたが、それは蹴飛ばしてやりたいほどの余計なアクションである。
「さあ、今度はここよ。夫婦二人で子供は一人。今日は漁に出ていないからいるはず」
木造の長屋が四棟並んでおり、目的の世帯は左端の一番手前である。
その家の表札には佐藤と名字だけ記されている。「ごめんください」と横山さんが言うと、三十くらいの夫婦が迎えてくれたが、露骨にイヤな顔をしていた。助手が採血の話をして、日名子さんが後ろから睨みを効かせていた。魚を焼いた後の、すえた煙の臭いがする。
「耳たぶを針で突つくだけです。すぐに済みますから」と説得するが、旦那は拒否の姿勢を崩さない。女房と女児が後ろに隠れているが、検査には同じく非協力的であってブツブツと不満を口にしていた。
「俺たちは保古丹を出て網走に行くから、ジャンジャとはおさらばなんだ。カラダに染みついた、このクソったれた呪いも網走に行ったら消えるべや。だから、ほっといてくれ」と言って、にべもなかった
「島を出ても、ジャンジャは消えませんよ。発症しているなら治療が必要です。協力して頂ければ、早期の薬の開発につながるんです」
この夫婦は保古丹島を出るつもりらしい。日名子さんが前に出てきたので、横山さんが脇に逸れた。村長は、その権威にふさわしく腕組をして言い放つ。
「網走に行くのはいいけど、西出で貸し付けている借金を返してからにしてちょうだい。あなたたち、無尽でも返せなくなって破綻させたじゃないの。金もないのに島を出るなんて、よくも大きな口を叩けるものだわ」
「いや、それは」
採血したいだけなのにキナ臭い空気になってきた。横山さんにここは無理だからやり過ごそうとの目線を送るが、彼は首を振った。愚直なまでに検査をしたいようで、ホントに学者は融通が利かない。
「もっと漁の腕をあげて稼ぎなさい。ロクに舟の整備もしないから、すぐにエンジンがダメになるんだ。昼間っから家でゴロついていて、なにが網走に行くだ。笑わせるな」
日名子さんの口調は厳しかった。自分が怒られているように感じて、なんだか居心地が悪い。母さんの小言より迫力があった。
「とにかく。俺たちの血はやらねえからな。帰ってくれ。実験台にされてたまるか」
「私たちは、ここを出て行くんだから。絶対に出てってやるから。魂は渡さないんだから」
佐藤夫婦は頑なだった。旦那も女房も、彼女の足にしがみ付いている幼女も、必死の形相で睨みつけている。
「そう、じゃあ、借金は清算してもらうわ。明日までに耳をそろえて返しなさい。富田と斎藤に取りに来させるから」
「うっ」
夫婦の顔が引きつっているのが丸わかりだった。勢いで言ってしまったけど、いろいろなことに都合がつかないのではないかな。日名子さんが引き戸を力いっぱい閉める際に、女房が泣きそうな感じだった。富田と斎藤という方々には会うべきではないと、本能が警告を発している。
「金もないし稼げないのに保古丹から出て行くとか、夢みたいなことを言う者もいるのよ。呆れるでしょう。ダメな人間に限って妄言を吐くわ。ったく、人をバカにして」
早足で歩きながら、日名子さんがプリプリと怒っていた。結局、あの夫婦の採血は諦めるしかなく、私たちは別の家へと向かっている。
「実験台にされるとか言ってましたけど、僕たちの活動は曲解されているのでしょうか」
「呪いとかも言ってたな」
横山さんには口止めされているけど、{呪い}と言ったのは漁師佐藤なので、いいだろう。日名子さんは、どんな反応をするだろうか。
「ここは田舎だもの。都会から来たお医者さんが血を集めていたら、そう考えてしまうバカ者もいるのよ。島の呪いのことも、昔からの怪談話に尾ひれがついているだけ。ジャンジャに苦しめられているから、得体のしれない何かのせいにしたいんでしょ」
予想通りなんだけど、どこか釈然としない内容だった。
出だしこそ順調だったが、それからの戸別訪問の結果はかんばしくなかった。留守の家庭ばかりだったのと、途中から日名子さんの機嫌が悪くなってしまって一緒にいることが気まずかった。採血できたのは十人ほどであり、検査する量としては少ない。お昼に役場へと戻って先生に事情を説明する。ちゃんと働けと怒られるかと思いきや、かえって慰めてくれた。
「午後からは診察を休診することにしたよ。検査があるが、おまえたちを少しは手伝えると思う。患者には夜に訪問する許可をとったからな。まあ、そんなに落ち込むな」
私は仕事が楽だったので落胆などしていないが、使命を果たせていない横山さんは申し訳なさそうに肩をすぼめていた。酔えば小憎たらしいほどの皮肉屋になるけど、性根は生真面目な医学者なのである。
昼飯を食い終わってすぐに、医者たちは仕事を始めた。血が塗られた薄いガラスの板を試薬につけ込んで、それらを顕微鏡に置いてミクロフィラリアを捜すのだ。目を皿のようにして、一枚一枚を丹念に覗き込んでいた。作業の最中は部屋の空気が緊張していて、屁でもしようものなら破裂してしまいそうだった。恐るべき集中力である。
私は名簿に時刻や検査結果を記入やカルテの整理、その他の雑記を担当した。事務仕事は地味なわりには仕事量が多く、先生たちに負けず劣らず没入しなければならない。四時間が経ってやっと小休憩となった。あともう少しで解放されると思っていたら、夕飯までにはまだ時間があるので、これから戸別訪問して採血すると言い出した。医者の仕事好きには病的なレベルで困惑してしまう。
「それでしたら、また、わたしがご一緒しますね」と日名子さんからの申し出があった。しかし、先生がやんわりと断った。我々だけでなんとかなるので、役場の仕事に戻ってほしいと言う。
「わたしがいなければ捗りませんよ」
責任感からだろうか。日名子さんは、やる気があった。
「まあまあ、あとは俺たちでやりますよ。日名子さんには頼りっぱなしで申し訳ないし、芳一に修行させなければなりませんから時間がかかるんですわ」
「そうそう。芳一さんに合わせるので、遅くなってしまいます。芳一さんの修行なんです」
私をダシに使うのは感心できないけれど、意図がわかっているので文句は言わない。日名子さんは少しの間こちらを見つめていたが、「そう」と呟いて行ってしまった。
「あの人は、ああ見えてもけっこう気難しいとこがあってな。案内をしてくれるのはありがたいが、なにかと面倒くさいこともある。俺たちだけのほうがやりやすいさ。日名子さんには言うなよ」と言って、先生がニヤリとした。
過去に、彼女の気難しさを存分に体験した男である。説得力があるし、日名子さんと一緒の時の居心地の悪さを私たちも味わっているので、異存はなかった。親切心には感謝でしかないが、島民たちの現実を見せられるのはいい気分ではない。ただ、そうすると名簿の患者がどの家に住んでいるのかはわからないから面倒なことになる。手あたり次第はさすがに効率が悪く、徒労感ばかりが募りそうだ。
「ほれ、ちゃちゃと行くべや。もたもたしてたら夜になるべ」
その心配は杞憂であった。仁美婆さんが一緒に来てくれることになった。じつは先生が頼んでいたようで、さすがに抜かりがない。
「夜から漁に出るもんもいるから、そっちから先に行くべか」
飯を作ってくれて、夜にカニを捕ってきてくれるし、道案内もこなす。なにかと使い勝手の良い老人だ。過酷な時代が到来しても、この婆さんなら生き残りそうだ。
午前中の訪問と違い、夕方からは仕事が捗った。仁美婆さんの案内はじつに的確だった。訪問した家には人が在宅していて、しかも採血を断られなかった。短時間で、日名子さんのエスコートよりも多くの採血サンプルを回収できた。
血をチューイングガムほどの大きさのガラス板に塗って、さらに薬に漬ける。血は傷みやすいので腐らないようにするためと、幼虫を発見しやすくするのである。それらを私に持たせると、先に役場へと帰れと言われた。先生と横山さんはどうするのか訊くと、これから蚊を採集しに行くのだと言う。
「夕方のほうが、蚊の活動が活発になるだろう」
「仁美さんが手伝ってくれるので、もうちょっと頑張りますよ」
どうりで、仁美婆さんが虫取り網を持っているはずだ。帰りにカニでも捕るのかと思ったが、先生の要請だったのだ。捕獲した蚊を持ち帰り、フィラリア虫の幼虫がいるかどうかを調べるそうだ。夜の採血も控えているのに、この人たちはどこまで働けば気が済むのだろう。
血液標本を収めたバックを持って、一人で帰ることになった。時刻は六時過ぎとなり、すでに陽が落ち始めている。冷えた潮風が心地よかったので、少し歩いて小高い場所から海を眺めてみた。水平線の向こうに沈もうとしている夕陽から、赤みがかった光線がたっぷりと照射されていた。赤茶けてくすんだ孤島を、なんというか清澄な朱色のベールで包み込んでいるようで、すごくきれいに感じた。印象的で、幻想的でもあった。えも言われぬ郷愁を感じ、しばし見入って、その光景を心の内側に焼き付けている時だった。
「海にさあ、なんかうまいもんあんの」
「うわ、びっくりした」
突然、背後から声がかかって、とびあがってしまった。
「コッタ、こんな時間になにしてんだよ。すぐに夜になるぞ」
誰かと思ったらコッタだった。
「バッタ捕ってたんだよ、ほら」
少年が拳を突き出して、パッと開いた。赤っぽい小さなバッタが三匹ほど密着して、一塊になっている。苦しまぎれにたれた糞が、細い生命線の上を薄黒く塗布していた。虫臭くて、青臭かった。
「いつまでも遊んでないで帰れよ。家の者が心配するだろう。メシの時間だろうし」
「母ちゃんが仕事してるから、オレもいそがしいんだよ」
コッタのところは父親が死んで母子家庭だから、母親が稼がなければならない。この島では仕事の幅は極端に狭いし、たぶん報酬は安いだろう。朝から夜まで働かないと生活もままならない。しぜん、子供はメシも食わされずに放任されてしまう。
「なあ、芳一。いつになったら犬のお姉ちゃんの家に行くんだよ。おれ、ホットケーキ食いてえのにさ」
バッタ捕りの少年は、甘いお菓子を食うために私を利用する気だ。もちろん、道案内の駄賃としてホットケーキが与えられるのに異議はないけどな。
しかしこいつは、どうして大人の私に対して対等な口を利くのだろうか。生意気なんだけど、かといってそれほど不快ではなく、なんとなく受け入れてしまう私がいる。
「犬のお姉ちゃんの、ノロイの話がさあ、おもしれえからきいたほうがいいって。血ぃあつめるよりもさあ、犬のお姉ちゃんにきいたほうがいいんだよ。ホコタンのことならなんでも知ってんだってさ。ジャンジャも知ってるって」
アヤメの話を聞いて医療調査の助けとなる発見があればいいが、どうせ島の呪いだのと、超自然的な巷説でしかないだろう。横山さんに嫌味を言われてしまいそうだ。
「ノロイの話をするときさあ、犬のお姉ちゃんさあ、こうやって、おどるんだよ。こうやって、すっごくおどるんだ。こうやって」
コッタが踊りだした。カクカクとした直角な振り付けが痛々しい。まるで錆ついたカラクリ人形か感電したサルではないか。下手くそすぎて胸を掻き毟りたくなった。アヤメがそんなダンスをしているのならガッカリだな。模倣力が欠如した小学生の曲解だと信じたい。
「コウタ、おまえ、なにやってんだ。そんなんでジャンジャをやったつもりか、コラア」
突然現れ、そしていきなり因縁をつけてきたのは、なんとあのスケベ中学生の哲夫である。ほかに坊ちゃん刈りと坊主頭の男子二人が一緒だ。もちろん、彼らの接近には気づいていた。私たちには干渉せずに通りすぎるものと思っていたが、具合の悪いことにコッタに絡み始めてしまった。ススキノの裏路地でよく見た光景で、だいたいがロクでもない展開となる。
「おまえの母ちゃん、今晩も稼いでんのか。タレ乳の母ちゃんが稼いでんのかってきいてるべや」
坊ちゃん刈りを絵で描いたような中学生がヘラヘラと笑いながらねちっこく突っかかり、さらに尻を蹴飛ばした。面白がっているようであり、不快このうえない光景である。
コッタは、されるがままの状態であり、言い返したり抵抗する素振りもなかった。尻を手で押さえてスタスタと前へ逃げて、その後を面白がった中学生たちが囃し立てながら追いかけていた。後頭部を小突き、尻や太ももを何度も蹴っていた。
困惑したような、愛想笑いをしているような、嫌がっているような、多少は受け入れているような、小学生の過酷な心情をあらわすように表情は複雑だった。逃げている姿が情けないほど卑屈であって、そうなってしまう理由を私は理解できる。誰の手助けも期待できない貧弱な羊は、さまざまな苦悩を抱えたまま、嵐が通りすぎるのを待つしかないのだ。
「おまえの母ちゃんの汚ねえタレ乳引っぱってこいよ。びょーんびょーん伸ばして千切ればいいべや」
「ひゃっはっはっは」
母親への侮辱はイジメの初動としては常道だが、放たれた言葉に現実味がある場合は悲惨としか言いようがない。下卑た笑いが追加されると、この騒動を見せられている私の気分が沸騰してくる。ぶん殴ってやりたいと切に思うが、残念ながら腕力に自信がない。先生だったら、即座に鉄拳が飛んでいるはずだ。散々に叩きのめした後で横山さんが手当てをするという手順になるはず。
「おい、おまえら、いい加減にやめろ」
自分が非力だからといって、コッタを助けないわけにはいかない。大人として、やらなければならないことがある。
「雑用係が、なんか言ってるべや」
「都会の医者のケライだからって、いい気になるな」
「なっさけねえ荷物運びのくせに」
こいつらは悪ガキではない。クソガキどもだ。たとえ反撃を食らったとしても、一発二発、ぶっ叩いてやりたくなった。睨みつけながら腕まくりをして、その兆候を見せつけてやる。
「なんだ、おっさん。やんのか」
「俺はジャンジャになったんだぞ。島の男になったんだからなっ。やってやらあ」
スケベ哲夫が啖呵を切って、上着を脱いだ。中学生らしいやせっぽちで、あばら骨がイワシの開きだ。瘡蓋はなかった。ほかの二人も上半身裸となるが、貧相な体格は似たり寄ったりである。こいつら相手なら勝てるかもしれない。腰を少しばかり落として身構えた。
「ジャンーーーーンン、ジャジャ。ジャジャジャジャーーーン」
スケベ哲夫が叫んで、グルグルと回り出した。右足のつま先を軸にしてバレリーナを意識しているようだが、十円玉ハゲの舞は幼稚で恥ずかしく、少年のイキリ臭がプンプンだった。
「ジャンジャンアジャジャン、ジャンジャジャーーーン、ジャジャジャ」
続いて、坊ちゃん刈りが回転し始めた。十円玉ハゲは片足を軸にしていたが、こいつは不器用なのかパタパタと両足を踏みしながらの演舞である。ジャンジャの掛け声だけは大きかった。
「ジャンジャンジャンーーンジャジャ、ジャンジャンジャンーーンジャジャ」
残りの坊主頭もやりだした。ただし、この少年は耳石の配置が悪いのか平衡感覚がつかめないようで、体を右に傾げながら徐々に遠ざかってゆく。機関車の車輪を連結しているクランク棒のように、シュッシュと手刀を繰り出し、腰を上下させていた。どこまで行くのか止まることを知らない。
せめて三人そろったダンスだったら、それなりに見栄えがあったかもしれないが、彼らはバラバラであって統一感に欠けていた。エネルギーを一か所に集めきれないと単なる烏合の衆であり、恥ずかしいだけのチンドン踊りである。
「じゃんじゃ、じゃんじゃ、じゃじゃじゃジャンジャ・ドウーぼ~ん」
呆れながら眺めていると、コッタも踊り始めたではないか。中学生ボンズどもに負けてたまるかの精神なのか、さっきまで情けなくヘラヘラしていたのに、額に青筋立てて頑張っている。
「コッタ、おまえまでなにやってんだよ。やめろよな」
コッタは止めない。しかし、もともと疲れていたのか晩飯前で腹に力が溜まらないのか、動きにキレがなく緩慢だった。さっきのカラクリ人形のほうがマシだったような気がする。
「ジャンジャッ」
「ジャンジャッ」
最後にジャンジャを叫んで、少年たちのバカ踊りが終わった。お互いの胸をバシバシと叩いて健闘を称え合っている。やりきってやったとの爽やかな表情がうすら寒い。瘡蓋ではないが、スケベ哲夫のへそ周りに、うっすらと爛れがあった。たしかに彼は島の男となっていた。
「今日はこれくらいで勘弁してやる」
「今度は容赦しねえから。大人だからって手加減しねえから」
スケベ哲夫と坊ちゃん刈りが捨て台詞を吐いた。どういう戦いだったのか意味が不明なのだが、おそらく私はジャンジャ踊りに気圧されたということだろう。薄っぺらな胸を張る少年たちの態度が、そう宣言していた。
坊主頭のもう一人が、いまだにジャンジャ踊りをしながら遠ざかっていた。上着を羽織った少年たちが、シュッシュと機関車踊りをしている仲間の元へ行き労をねぎらっている。辺りは闇が降り始めていた。肩を組んだ三人組が意気揚々と引き上げた。
「あいつ、ジャンジャになったからって、いい気になってんだ。たいしたジャンジャでもないのにさ」
ジャンジャ踊りについて、コッタは競うようなことをやっていた。以前に言っていたこととは矛盾する。
「コッタはジャンジャになりたくはないんじゃなかったのか」
「ジャンジャはイヤだよ。だけどさ、男にはなりてえなあ。ホコタンを出るときは、りっぱな男になってるんだ。父ちゃんみたいなさ」
この島では、ジャンジャという風土病自体が島の一員となる通過儀礼であり、そしてジャンジャ踊りの善し悪しが、{男}になるための必須技術とみなされているようだ。少なくとも、競争心旺盛な子供たちには共通の認識なのだろう。
「そうか。まあ、もう遅いから今日はお開きにしよう」
男の子の本音が聴けたことを収穫として帰ることにする。コッタに帰宅するよう促した。
「さいきんさあ、母ちゃんがいそがしいから、おれもいそがしくてさあ、バッタとってんだよ。だから、犬のお姉ちゃんのとこに行きたいんだったら、連れてっからさあ」いつでも野原に来てくれとのことだ。
「わかったよ」
赤いバッタを愛でる小学生と約束をした。アヤメと会うためには、彼に案内を頼むのが最良だ。この信頼関係は少しこそばゆくて、楽しみでもあって、在りし日の私への邂逅にもなる。
夜中の戸別訪問は ちょっとした探検気分にさせられた。
寄生虫の幼虫が夜中に体中を這い回るのを狙って採血するので、出発した時刻は夜の一一時を過ぎた頃だ。先生は役場に残って、昼間のうちに集めた血液標本や蚊を調べていた。夜の仕事を横山さんに任せたのは、臨床の場を経験させるためだ。防研は研究所であって診療所ではないから、ふだんは患者と接することがない。研究者である前に医者であれと、毎日のように言い聞かせているからな。
私は学者でも医者でもないので遠慮したかったが、でめんちんは二十四時間分ということで、それは朗報であって張り切るしかない。なお、訪問先には夜に採血するということは確約済みだ。昼間に診察した患者宅がほとんどだとのことで、少しは安心できる。夜中に怒鳴られたくはないからな。
電力が足りていないのか村に予算がないのか、この島に外灯はない。夜も更けているので、家々の灯りはほとんどが消されていた。集落の未舗装の小径を、懐中電灯で足元を照らして目を細めながら進む。昼間の時もそうだったが、ドブのニオイがけっこう鼻についた。地下に下水道がないのは仕方ないが、せめて汚い水が流れる溝には蓋をしておいてほしい。暗いので、間違って踏み外してしまいそうで心配である。
真闇というわけではないが、月明かりがない夜の圧力は息苦しいほどだ。人工的な光がなければ、人は原初的な不安に苛まれてしまうことを学んだ。
私たちの先頭をゆく案内人は仁美婆さんではない。斎藤というやたらガタイのよい男に案内されている。老婆は寝るのが早いので日名子さんから手配された男が代役となった。代わりの案内人は無口で不愛想、しかも早足で心配りが微塵もなく自分一人で先に行ってしまうので、ついていくのに苦労した。しかも、島の人間なのに訪問する家を間違ったりしてテキトーであった。帰って来たのは四時過ぎで どうやら私も人生修行に参加させられたようである。
次の日 午前中の一般診療に来る島民の数があきらかに減っていた。ジャンジャの医学調査を邪魔しないようにと、日名子さんが号令をかけていたからだ。
「診察がないというのは、僕たちにとっては楽ですけど、さびしい気もしますね」
「そうだな。どうも、あの人は気が回りすぎるというか、やり過ぎるところがあるんだよ」
一般診療での採血も激減してしまい、私たちは血を求めて余計に家々を回らなければならなくなった。昼間は仁美婆さんの案内で捗ったが、夜間は不愛想な斎藤や、さらにとっつきにくい富田が日名子さんに命じられて、案内人となった。この二人は図体がデカい割には要領が悪くて、そもそもやる気がなかった。この作業はイヤだなあと思っていたら、二日後、戸別訪問しての採血自体が中止ということになった。
「お祭りなんですよ。その間は血を採るようなことは控えてくださいな。神社の神事もありますしね」
保古丹島のお祭りが開催される。毎年の恒例行事だそうだ。私にとっては待ち焦がれた休日となる。先生と横山さんはやることがなくて、蚊の採取に勤しむことになるだろう。
さっそく気合を入れた。髪にポマードを塗りつけてコッタを捜す。どこかでバッタを捕っているはずなのだが、こういうときに限って姿が見えない。あっちの原っぱや、そっちの草原を捜すが見当たらない。昨日までは役場の周辺をウロチョロしていたくせに なんだっていないんだよ。
「コッタのやつ、使えないなあ」とひとり言を呟いてしまう。
「芳一、よんだか」
「うわっ、びっくりした。な、なんだよ」
背後からポンポンと尻を叩かれて、その一発目でとびあがってしまった。
「犬のお姉ちゃんちに行きたいのか」
「そうだよ」
いつの間に後ろに来ていたのか。忍者みたいなやつだ。
「犬のお姉ちゃんにあいたくて、ちんちんがトロけちゃったんか、ちんちんが」
「どこにいたんだ。探してたんだぞ」
まったく微妙なことを言いやがって。小学生ながら、こいつはどこまで知っているのだろうか。
「ツヨシたちに朝めし食わしてたんだよ。まつりのしたくでさ、こいつらの母ちゃんたちがいないんだ。腹へってっからさあ。給食ねえし」
少年の後ろに、さらに年下の少年少女たちが立っていた。ツヨシ、ミノル、杏子の毎度おなじみ飢餓トリオで、なにかサクサクしたものを食っていた。
「芳一からもらった金で買ってきたんだよ。西出の店はたっかくてさあ、これしか買えなかったけど」
「それ、前田のクラッカーか。あたりまえだの」
「ビスコだよ」
ちびっ子たちはビスケットを食っていた。
「昼めしのお金はいらないよ。行ったついでに、犬のお姉ちゃんとこで、みんなでホットケーキ食うから」
こいつらに昼飯の金を出す気はもともとないのだが、アヤメの家に長時間居座られるのは具合が悪いな。道案内を頼む手前、帰れとは言えないし、ていよく追っ払う方法はないだろうか。
「じゃあ、いくべや」
バッタ少年を先頭に子供たちがダラダラと歩き出した。作戦を練りつつ、私も横に並んだ。コッタのすえた体臭を感じながらあれこれ考えていると、右向こうの電柱の傍に佇む少女を見つけた。
「あそこにあけ美がいるけど、一緒に行かないのか」
「あいつは、犬のお姉ちゃんが嫌いだから家には入らないよ」
「じゃあ、一緒に来ないのか」
「うう~ん。たぶん、ついて来るとおもうけど」
あけ美は、付かず離れずの間隔を保ってついてきた。コッタに話しかけに来るわけでもなく、かといって踵を返して帰るわけでもなく、執念深い狼のような目線を刺している。
「あけ美はコッタが好きなんだよ」と、おせっかいな直球をぶつけてみた。我がバッタ少年はポーカーフェイスである。
この島は標高が高い山がなく平坦なので、歩くのにはそれほど苦労しない。雨量があるのか海霧が濃いのか、あちこちに湿地帯ができており、木々も低木ばかりで、森になるほどの地力がないようだ。湿っていないところは背の低い茂みや草原となっていて、ところどころにアッケシソウの大群落があった。やはり赤黒く、赤茶けた色が目に痛いほどで、この島の色彩はこればかりだ。
比較的地形が平といってもまるっきり起伏や凹凸がないわけでもなく、岩盤が盛り上がって岩石や礫が露出している箇所がけっこうあった。酸化鉄の影響なのか、どの岩も血液のように赤くて、なかには人の顔に似た形状をしているものもあった。おかしな怪談話ができあがっても不思議ではないな。
「芳一、こっちゃこいよ。こいよこいよ」
コッタが来いと手を振っていた。呼び込みのオヤジみたいな雰囲気があった。
「ほら、ここに穴があるべや」
「ああ、たしかに」
岩盤が剥き出しになった下側が長方形に切られており、洞窟のような奥行きがあった。自然にできたものではない。
「ここ、ぼうくうごうだったんだ」
「ああ、防空壕か」
「こんなのが、あっちこっちにあるんだよ」
戦争中は空襲があったと聞いた。日本軍がレーダーを設置しようとしていたので、この島は米軍の軍事目標にされていた。
「おれさあ、島のだれも知らないぼうくうごうを知ってんだ。海軍がヒミツでつくったんだよ。おしえてやっから、夜にさあ、犬のお姉ちゃんと来ればいいんだ。ひゃひひ」
ニタニタと意味深長な笑みを浮かべたコッタが手のひらを差し出して、小銭をねだってきた。おまえは、ほんとに呼び込みのオヤジかよ。小さな手と握手をしながら、こいつが成人したらススキノで朝まで飲み明かそうと思う。
防空壕の上がカサカサうるさいので見上げると、奇妙な鳥と目が合ってしまった。カモメを一回り大きくした体躯で、水かきがあるので海鳥だ。ただし、ふつうの状態ではない。
羽が毟り取られたように皮膚が露出しており、血が滲みあちこちにデキモノがあった。目の下や嘴の根元にあるのはとくに大きくて、蠢いているような錯覚に陥ってしまう。すでに鳥類としての能力はないだろう。キツネか野犬に襲われて、痛々しく寿命を迎えそうだ。
「こいつ、ジャンジャ鳥だから、さわらないほうがいいよ。島にノロわれて、こんなんなっちゃったんだ」
「呪いというか病気だろう。怪我をしてバイ菌にでもやられたんだ」
鳥は、その醜い姿を存分に見せつけるように両羽を開いた。内側の爛れ具合がひどくて、哀れだなと思いながらやり過ごした。
アヤメの家は騎人古地区からだいぶ離れていた。平屋の一軒家で、家の外壁は正方形の鉄板がいくつも貼り合わされていて、積み木のような外観だ。ただし相当に錆びついており、ひょっとして大正時代に建てたのではないかな。周囲は荒れ地といった印象で、近くに朽ち始めている家屋がちらほら見える。
「この辺はさあ、もともと牛かってたんだけど、草が赤くなっちゃって、牛がやせてだめになっちゃんたんだ」
数軒の牧場があって、乳牛や馬を飼っていたが、だいぶ前に廃業してしまったとのことだ。もともとは青々とした草原だったが、塩分濃度が濃いガスにやられてしまって、牧草となる草が枯れてしまった。アヤメの家だけにアヤメが住んでいて、その他の家は無人の廃屋である。
「犬のお姉ちゃん、おれが芳一を連れてきてやったよ」
引き戸をドンドンと叩いて、客が来たことを恩着せがましく知らせていた。引き戸の、三分割された曇りガラスが目で見えるほど振動していて、割れるのではないかと心配しながら待っていた。家主は、なかなか出てこない。しばし待つと、ガタガタと建付けの悪い音を出しながら戸が動いた。
「ちょうどホットケーキを焼いていたんだ。さあ、入って」
お玉の平べったいやつを持って、アヤメが現れた。家の中にいて暖かいのか、上は肌着のようなぴっちりの白シャツだけだ。そのものを生で見たことがあるが、形の良い胸のふくらみが気になるほどに強調されている。コッタは幸運であり、スケベ哲夫はもらいが少ないな。
ぞろぞろと、ちびっ子たちが家の中に入った。そういえばお土産を買っていなかったと後悔しながら、私も玄関へ入ろうとした。
「芳一はダメ」
「えっ」だが、思いもよらぬ制止が入った。
「すぐに来るって言ったのに、来なかったっしょや。いまごろノコノコやって来ても遅い」
「いや、それは仕事が忙しくて」来たくても来られなかったことを、弁解じみた口調で説明した。
「ふんっ」アヤメがあっちのほうを向いてしまう。ガッチリと腕組をして、鉄壁の姿勢だ。
「芳一はさあ、お医者の先生と西出のおばさんにコキ使われてんだよ。ホントはさあ、犬のお姉ちゃんに会いたくて、ちんちんが、なんまらかゆくなってんだって」
後半部は著しく事実に反するが、コッタからの口添えはありがたいと思った
「しょうがないなあ。コッタがそこまで言うのなら許してあげるかな」
腕組を解いたアヤメが、私を見てニコリとする。彼女の首元から香水のいい匂いがした。日名子さんもつけているが、こちらのほうがレモンっぽくて爽やかだった。
「なあ、おれのおかげだね。おれのおかげだべや」
コッタに二度も言われてしまい、仕方がないのでじゃら銭を何枚か渡して感謝の証とした。玄関の引き戸を閉めて、アヤメの後に続いて家の中へと入る。
「うぎゃっ、な、な」
白くもふもふとした物体が足元をかすめた。巨大なネズミだと思って悲鳴をあげてしまった私を、ちびっ子たちとアヤメが冷めた目で見ていた。
「カナコは赤くなった葉っぱでも食べるから長生きするんだよ。可愛いっしょ」
カナコという名のウサギだった。たしか、私のパンツをはかせる予定だったはずの兎形目ウサギ科の白ウサギだ。野生個体をとっ捕まえたのか柴犬並みの大きさで、ちっとも可愛くない。
「芳一は、ウサぴょんにびっくらして、ちんちんがしぼんじゃうんだ。小さいちんちん」
下半身をなじるのは小学生男子の十八番であるが、あまり調子に乗られても困るので、ゲンコツを軽く当てて戒めとした。だけど思いのほか力が入ってしまい、「おぎゃっ、いてっ」と悶絶させてしまった。フライパンを持ったアヤメがケラケラと笑う。
「これからいっぱい焼くんだよ。芳一のはね、おっきなやつだから最後ね。先に杏子とツヨシとミノルに食べさせちゃうから」
腹ペコ児童三人衆は、居間のちゃぶ台の前で行儀よく正座して待っていた。アヤメは大きなフライパンにホットケーキの生地を流し込んで、それを薪ストーブの上においた。家の中が暖まり過ぎない程度の火力なので、じれったいほどゆっくりと焼けてゆく。粉っぽい匂いが甘くて香ばしく変わっていくと、なんだか幸せな気持ちになってきた。
家の内部はほどよく整理整頓されていた。畳敷きではなく、板張りの床に花ござを敷いている。座ると硬い感触が尻を痛くするが、子供らは平気だった。
この家では、ばあさんが死んでから一人暮らしだという。古めかしいタンスや食器棚があって、まっ白なフランス人形が置かれていた。水道はないので井戸の水だ。それでも蛇口をひねると過不足なく流れ出てくる。奥に寝部屋があるとのことだが、戸がしっかりと閉じていて見ることができなかった。
「そこそこまともな家だね」率直な感想を口に出してしまった。
「ああーっ、田舎だからってバカにしてるっしょやあ。ちゃんとお風呂もあるんだからね」と、アヤメがふくれっ面になる。「いっしょに入ればいいべや」とコッタが言うと、クスクス笑いをしていた。
ちびっ子たちのホットケーキが焼き上がった。アヤメは料理上手で、ふっくらと仕上がったそれらを皿に分けた。次にコッタの分、私のは最後となる予定だ。杏子とミノルはちゃぶ台で食えたが、ツヨシは載せる場所がないので、ゴザの上に皿を置いての犬食いとなった。
「コッタ、シソジュースをもってきて」
勝手知ったる我が家のように、コッタが動く。真っ赤な液体が入った一升瓶を持ってきた。アヤメの手によって、人数分がサッポロビールのコップに注がれた。
「犬のお姉ちゃんのシソジュースがうめえんだ。みんなが買いに来るんだよ」
アヤメ手作りのシソジュースを飲んでみた。なるほど、これは美味いな。甘味の入れ方が絶妙で、シソ臭さを出汁のようなうま味に変えている。おみやげに先生と横山さんへ買って帰ろうか。ジャガイモ焼酎ばかりでは体に悪いからな。
焼きたてのホットケーキも美味かった。アヤメが手を休めず次々と焼いて、常時腹ペコどもの皿に分けた。初めのうちはちゃぶ台で食っていた杏子とミノルだが、いつの間にかツヨシと並んで床に皿を置いていた。犬食いはコッタも同じで、野犬の群れが散乱した死肉を漁るように、顔を床にくっ付けて食らいついていた。
甘くてふかふかなホットケーキをたらふく食べて、私を含めて、全員が満腹になった。一升瓶のシソジュースも飲み尽くし、まったりとした時を共有していると、唐突にコッタが言う。
「犬のお姉ちゃん、芳一に、ホコタンのノロイの話をしてやりなよ」
「おーし。じゃあ」
アヤメが立ち上がった。なぜか腕をブルンブルンと振り回し、ついでに首もコキコキと鳴らし、何度か屈伸するとやや豊満な乳房もよく揺れて、コッタと私は熱心な聴衆にならざるを得なかった。
オホン、と咳払いして話し始めた。
「これはね、昔々のお話だよ。ここ保古丹島はね、すごく毛並みのいいラッコがたくさんいて、おいしいコンブがたくさんおがって、鷹も鶴もいたんだよ。最初はアイヌの人たちが住んでたの。ラッコを獲って、皮を剥いで、なめして、和人に売ってたんだ。アザラシや魚もたくさんいたんだよ。かわりに米や鍋を手に入れてたんだ」
保古丹島にはアイヌの集落があったようだ。先住民ということだろう。
「蠣崎の時は自由に売ってたんだけど、松前藩になって、売るのは松前だけになったんだ。なんか、そうなっちゃのね。それまでは南部とか十三湊(とさみなと)に高値で売ってたんだけどさ」
商場(あきないば)という言葉を使っていた。保古丹島でアイヌの人たちはラッコや昆布や魚を獲って自由に和人と交易を行っていたが、松前藩が商場という制度をつくって、その取引を独占してしまったとのことだ。
「松前のやつらはね、とにかくズルいんだよ。朝廷さまや将軍さまに献上するすんごく毛並みのいいラッコを買い叩いたんだ。商場のせいで、ほかに売れなくなっちゃったから、しょうがないからガマンしてたんだ」
「犬のお姉ちゃん、{はじまり}と{おわり}の話をしてやんなよ」コッタが囃し立てるように言う。
「鮭を数えるときは、一からじゃなくて{はじまりーっ}から始まるの。終わりには{おわりーっ}っていうんだ。{はじまり}と{おわりの}の分だけ余計に取られちゃうんのさ。ズルいっしょ」
例えば十匹の鮭と何かを交換すると、{はじまり}と{おわり}の二匹分が追加されてしまうのだ。つまり、十匹の鮭と交換ではなく十二匹の鮭と交換ということである。二匹分が損となる。子供だましのような話だが、立場を利用して不公平な取引を強要したということだ。
「でもね、アイヌの人たちも黙ってなかったんだ。みんなで立ち上がったんだよ」
「犬のお姉ちゃんの話は、こっからがおもしろいんだよ」
コッタが立ち上がり、アヤメと並んだ。
「商場を仕切っていた松前のお役人に、高値で買い取るように直談判したんだ。こんな顔して、大勢でね。それはもうさ、こらー、なめたら承知しねえーっ、て感じで」
怒ったアヤメの顔が怖かった。元が美顔なのに、目を釣りあげて般若のごとき形相となる。私を見下ろして敵視していた。
「でも、松前は無視しちゃって取り合わなかったさ。それどころか島を攻めたんだよ。たくさんの鉄砲隊を船に乗せて、ホコタンの首長を差し出せと迫ってきたから戦争になったんだ。すっごい戦いでね、鉄砲がバンバンバンバン、毒の弓矢が飛んで飛んで飛んできたんだあ」
アヤメのアクションが烈しくなった。鉄砲を構えるマネをして、何度も撃っていた。発射されるたびに反動で両手が跳ねて、白く煙った硝煙のニオイが漂ってきた。
弓の矢が放たれると、浅い放物線を描いた切っ先がヒュンヒュンと唸って頬をかすめた。毒が塗布されているので、血液に触れると重症となってしまう。皮膚が爛れて、生きながら腐っていくそうだ。
「やれーやれー、てっぽうなんかやっつけろ。侍なんか、けっちょんけちょんだー」
「バキューンバキューン、バキューンバキューン、ヒュンヒュン、ヒュンヒュン」
「うおお、やられたあ」
小学生と島の女が、叫びながらドタバタと走り回っている。たしかに、この寸劇は面白い、というか興味深い。
ただし居間とはいえ室内は狭く、女、子供であっても暴れるには広さが足りていない。薪ストーブの煙突やちゃぶ台や寝そべっている子犬どもに手足を引っ掻けてしまいそうだが、アヤメは絶妙のバランスでかわしていた。コッタはツヨシの後頭部を蹴ってしまい、頭を押さえた尿臭小僧が呻いていた。
「男たちの死に物狂いの戦いは、たっぷりの血と肉と苦しみを保古丹島にばら撒いたんだ。あっちにもこっちにも生臭い血だまりができて、吹っ飛んだ脳みそが岩にへばり付いて、刀で叩き落された手首や足首が ナタで引きずり出された侍の内臓が草の中にとぐろを巻いていたんだ」
ずいぶんと血生臭く凄惨な戦争だった。双方とも死力を尽くし殺し合った末、相当な被害を出した。お互いの憎しみが頂点に達して、死体にでもなんでも当たり散らしていた。
「死人だらけになって、松前はようやくチャシを取り囲んだんだけど、英雄ルルシクゥが見事に裏をかいて、アイヌの人たちが勝ったんだ。松前はツグナイを差し出して、許してもらったんだ」
ツグナイとは賠償のことらしい。負けたほうが支払い、その事実をもって手打ちとし、和平が成立するのだそうだ。満身創痍の松前藩がアイヌの砦を包囲したが、英雄に導かれた戦士たちが逆包囲した。松前藩は降伏し、ツグナイという儀式を経て許される予定であった。
「だけど、和人たちは汚いことをしたんだ。ツグナイの場でね、英雄ルルシクゥたちを騙して襲ったんだよ。油断しているところを、よってたかって斬り刻んで、亡骸をホコタンの地にぶちまけたんだ」
「キャーーーーーッ」
コッタが悲鳴をあげた。凄まじく甲高い声だ。男の子が、いや人が発声するものとは思えなかった。醜悪なケダモノの断末魔のようで、心臓が凍りついてしまった。
アヤメの全身が緊張している。私の前へ一歩踏み出して、恐ろしくも底無しの憂いを宿した目線を突き刺してきた。こんな冷徹な目玉を見たことがない。ススキノのヤクザのほうが、まだ良心を感じるぞ。
「一人磔にされた英雄ルルシクゥは、真っ赤っ赤に熱せられた火鉢で死ぬまで焼かれたんだ。ジュージューとね、泡を立てて体が焼かれてゆくんだ。ゆっくりだよ。何日もかけたんだ。痛いなんてもんじゃないさ。熱いなんてもんじゃないんだ。皮が焼けただれて膿んで固まるんだ。それをベリベリと剥がして、また焼くんだよ。鬼畜の所業さ」
苛烈な拷問だった。人はどうしてそこまで残酷になれるのだ。ただ殺すだけではダメなのか。
「いくら叫んでもダメさ。責め苦は容赦ないんだ。それを見ていた島の人たちは、柵にしがみ付いて叫ぶんだ」
立ち入ることを禁じる柵にしがみ付いて、征服される者たちの悲鳴と嗚咽が続いた。女たちが泣き叫びながら手を出すが、傷ついた英雄に触れることなく虚しく空を掴むのだ。
「オーーーーオーーーー、オオゥーーーーーーー、オオオーオオーーーーーー」
アヤメの咆哮だった。ゆっくりと大きく開かれた口の中に、きれいな歯並びの向こうに、真っ赤な粘膜が肉っぽく濡れていて、爛れているように見えた。女性の声では到達不可能な音域に達している。暗鬱で気味悪く、地の底で唸り続けるサイレンを思わせた。
「その時、島が唸りを響かせたんだ。島が唸りを響かせたんだ」
そこが重要なのか、同じことを二回繰り返した。文法がおかしいと感じたが、オーオーと島が唸り、それが響いたのだと納得した。無残に死んでいった者たちの、残虐に殺されてしまう同胞を見ているしかない者たちの慟哭に、保古丹島が応えたのだった。
「そうして、この島は呪いとなったんだ。保古丹島は呪いに抱かれているんだ。ジャンジャは呪いなんだ。島にいる者はジャンジャになるんだよ。呪いは、敵も味方も、悪人も善人も関係ないんだ。松前や和人、アイヌもなるんだ。ジャンジャ、ジャンジャ」
「ジャンジャ、ジャンジャ」
アヤメのジャンジャにコッタが呼応する。ジャンジャジャンジャジャンジャと言い、足元にある何かを拾う動作をしながら、二人は室内を三周して私の前で止まった。
「な、犬のお姉ちゃんの話は怖いだろう」
愉快な話ではなった。内容は伝説としてはありふれているかもしれないが、アクションを加えて物語るアヤメの切迫感がキツかった。声色や言葉の節々にエッジが効いていて、聴く者の心に刺さるものがあった。
ジャンジャという風土病が島の呪いであるという物語であった。真偽はさておいて、アヤメの語りと演技が真に迫っていて、まるで記憶を再現しているかのように展開された。聴衆の一人として、感動というより戦慄にお金を払いたい気分である。
「ジャンジャ・ドウーの話も、おんもしれえぞ。でも今日はさあ、つかれちゃったから、こんど来たときな」
コッタが、私の横に座り込んだ。アヤメが食器ダンスから金平糖の袋を取り出して、子供たちに配り始める。杏子とツヨシの手のひらが受け取り、ミノルはイヤイヤをした。コッタと私の手には山盛りとなった。とても甘いそれを、しばし無言で噛みしめていた。ジャンジャ・ドウーについても物語があるとのことだが、また今度となったのは有難かった。
「ねえ、芳一。レコード聴きたい?」
そういえば、アヤメはレコードを聴くことが趣味だったな。ぜひともご相伴にあずかりたい。呪いの辛気臭さを消し去るような音楽がいい。
「ジャジャーン、これどうよ」
「うっ、もういいよ」
再びジャンジャの演劇が始まるのかと一瞬焦ってしまった。
「もういいって、まだなんのレコードもかけてないじゃないのさ。なにいってんの」
ジャンジャの続きではなくて、自慢したいがための、単なる効果音を口で言っただけだった。
「ほら、これよ」と言って、居間の奥にあった布をサッと取り払った。
「うっお、すごいなあ。これって高いだろう」
ステレオセットがあった。大きなスピーカが対であって、上にプレーヤが載っている。メーカー品でかなり高価なものだ。札幌でも所持している人は多くはないぞ。孤島のでめんとり女が、どうやって手に入れたのだろうか。死んだばあさんの遺産があったのか。
「芳一は、なにが聴きたい」
レコードが収納されている棚もあった。LP盤とシングル盤がそれぞれ分かれていて、合わせて数十枚はあるだろうか。
「じゃあ、ブルーシャトー」が頭の隅に浮かんだ。なんとなく聴きたいと思ったんだ。
「却下」
だが、私の要望はあえなく弾かれてしまった。アヤメの趣向が優先されるのは、ここがアヤメの家であり、メーカー品のステレオセットはアヤメの物だからだ。
「いまの気分は、これね」
シングルが一枚、プレーヤーにセットされた。白くか細い指先が、レコード針をそっと降ろす。かすかな雑音があって、その曲が流れ始めた。
「ええっと、これは」洋楽であった。ラジオでよく流れていたので知っている曲だが、題名が思い出せない。
「California dreamin」
アヤメがそう言って、体を揺らし始めた。ステップを踏むわけではないが、膝が何度も浮いていた。ゆるく振られる腰がなんとも魅力的であり見とれてしまう。
「芳一は、どういう音楽を聴いているのさ」
「母さんが、美空ひばりをよく聴くから、おれも好きかな」
「ひばりさんはね、英語で歌ってもすっごく上手いんだよ。文字じゃなくて音で覚えているから、発音がきれいなの」
「へえ」
二枚目のシングルがセットされた。コッタが立ち上がり、なぜか気をつけの姿勢となる。
「次は、あたしの大好きな曲なの。いい歌だから、しっかりと聴いてね」
「耳の穴、かっぽじってききやがれってんだ、こんちくしょうめ」
コッタが息巻いている。彼のお気に入りでもあるのか。オッサンみたいなやつだな。
再び、アヤメの指が針を落とした。曲の冒頭はギターから始まり、どこか暗いトーンである。語りかけるような男性ボーカルであり、盛り上がりに差し掛かると叫ぶように歌っていた。心弾むような感じではないが、歌声が内側に染みわたってくる。これも聴いたことがある。だけど題名はわからない。
「The House of the Rising Sun、{朝日のあたる家}って曲よ。大好きだから毎日聴いているの。この曲のために針の交換が早くなっちゃって、お金がかかっちゃう」
よほど気に入っているのか、アヤメは踊ったり体を動かしたりすることなく聴き入っていた。本土から遠く離れた小さな孤島の錆びた鉄板の平屋で、毎日一人で耳を傾けているのだろう。そう思うと、なるほど味のあるメロディーだな。
「ねえ、コッタを見て。いっつも、ああなるのよ。おっかしいでしょう」
コッタが曲に合わせて口を動かしていた。ごもごもと動く唇を突き出して、まるで末期の患者が水をすするように目をつむっている。もちろん、田舎の小学生が英語の歌詞を歌えるはずもなく、たんなる真似事でしかない。ススキノのジャズバーで歌っていた背の低いオッサンを思い出してしまった。少年はなかなかいい味を出しているが、バラードを聴かせるには若すぎるだろう。
ハウスオブなんちゃらの曲が終わった。目を開けたコッタが満足そうな表情で、一人頷いていた。アヤメが三枚目のシングル盤をセットした。
「芳一、立って立って」なぜか立たされてしまった。
毎度のごとく腫れ物に触るように針を落としてから、私の前に来た。少し身長が低い女の顔が、くっ付かんばかりに見上げている。予期せぬ接近に戸惑うが、狭い室内では逃げ場がない。
「今度の曲は、なに」と尋ねてみる。
「さあ、なにかしら」
曲が始まった。静かなメロディーで、男性がしっとりと歌っている。これは題名と歌手を知っている。
「エルヴィスのラブ・ミー・テンダー」と、私が答えてみた。
「へえ、知ってたんだあ」
アヤメとの密着度が増している。私たちの間を隔てる隙間は少しもなく、お互いの熱を交換し合える状態だ。さらにアヤメの手が私の手を握る。
そう、これはチークダンスだ。恥ずかしながら、人生で初である。踊っているカップルを見たことはあるが、その主人公になる日がくるとは思わなかった。当然、踊り方なんて知らない。なんとなく、アヤメの揺れに合わせているだけだ 観客は満腹のちびっ子たちであり、コッタは組んだ両手の上にアゴをのせて、ニヤニヤとしていた。
曲が終わるやいなや、女が物憂げな目線で見つめてくる。潤っていて、なにかを受け入れたいと欲している瞳だ。これは決定的な瞬間が訪れる前触れではないかと、ゴリラのように烈しく胸を叩きたい衝動に駆られた。だから熱い確信をもって顔を近づけたのだが、その刹那、アヤメがパッと離れてしまった。
「次は最後よ。これは、ついこの前に買ったばかりなのね」
なにごともなかったかのように、次のレコードをセットし始めた。レモンの匂いは依然衰えることなく、しつこくまとわりついてくる。
「ふー」脱力でため息と魂が漏れ出した。コッタがニンマリとしている。猛烈にゲンコツをお見舞いしたくなった。
最後のシングル盤がセットされ、すぐに始まった。これも洋楽で、しかも最近の曲であってラジオでよくかかっている。
「おれ、これ好きなんだよなあ」
生意気にも、コッタの好みの曲だという。
「Those Were The Days。行商のおじさんに頼んだら、すぐにもってきてくれたんだけど、 新曲だから高かった」
邦題は知らないが、そんな曲名だった。女性ボーカルで、どこか物悲しくて、やさしい感じがした。
「ラーラーラー、ラーララ、ララララーララ」
最後はコーラスのリフレインであり、その中にアヤメの声も交っていた。ちびっ子たちが立ち上がって、同じく「らららら~」と歌いだした。杏子とミノルとツヨシが手を繋ぎ、さらにコッタとアヤメも連結した。私だけが輪の外側にいるのは耐えがたかったので、尿臭くなるのを覚悟してツヨシの手を握った。ヌルリとした感触を我慢して歌に付き合った。曲が終わってから、ようやっと手を離した。
「今日は、これでお開きにしましょう。あたしはこれから仕事があるからさ」
楽しいひと時が終わった。アヤメが子供たちに、おみやげとしてビスケットをそれぞれのポケットにねじ込んだ。私は食べきれなかった金平糖をハンカチに包んで渡された。コッタには、四分割にして新聞紙に包んだホットケーキだ。
「いっぱいもらえてよかったな、コッタ」
「これは、あけ美の分だよ。たぶん、そのへんでウロついてるからさ」
あけ美がいたんだった。すっかり忘れていた。あの少女はアヤメを嫌っているので、家に近づくと姿が見えなくなっていた。
「あいつ、ホットケーキ大好きなんだよ。おれだけ食うのは、やっぱりだめだべや」
おまえはそういうやつであり、アヤメもまたそういう女なんだな。
気分が良くなったので帰ることにする。道順をおぼえたので、今度は道案内人抜きで来よう。
「なあ、芳一。また来るんだろう。おれが連れてってやるからさあ。たぶん、バッタとってから。ぜったい一緒にいくから」
気分が悪くなってしまった。この世からバッタが消滅してしまえ、と祈ってしまう。
わざわざ家の外に出て、アヤメが見送ってくれた。呪いの講談を聴いたことを忘れさせてくれるような笑顔だった。
腹ペコ三人衆が走り出した。私とコッタは並んで比較的ゆっくりと歩いている。あのちびっ子たちは、そのまま家に帰るようで放っておいても大丈夫だとのことだ。
見知らぬ男とすれ違った。顔をまっすぐに固定し、私たちを一瞥することなく、やや早足で遠ざかってゆく。この先にはアヤメの家しかないと思ったが、どこへ行くのだろうか。
「アヤメのところに行くのかな」
「犬のお姉ちゃんのシソジュースを買いに来たんだ。水筒を持ってたよ」
たしかに水筒を持っていた。わざわざアヤメの家にまで買いに来るのか。
「犬のお姉ちゃん、いろいろ売ってんだ。なんでも美味いから、お客さんがくるんだよ」
日雇いのほかに定職はなさそうだったけど、なるほど、ちょっとした商店を営んでいるというわけだ。レコードが買えるくらいには稼げているのだろう。
「おい、あけ美がいたぞ」
コッタの言ったとおり、家の近くでウロウロしていた。二時間近く、一人でそうしていたようだ。
「おーい、あけ美―、ホットケーキもらってきたぞ」
「なにさーっ」
コッタが走って行き、あけ美に新聞紙を差し出した途端にビンタされた。それほど本気が入っていなかったが、ピシャッといい音がした。
「コウタなんか、ジャンジャになって死ねばいいしょっや」
大声で叫んで、ついでにホットケーキの新聞紙包みを強奪して走り去ってしまった。
「ほほほほ、ほ~ん」
頬をさすりながらコッタが戻ってきた。喜んでいるような、驚いているような、なんとも不可解な事象に遭遇した表情であり、少年の心中は混乱している。
「なして、はたかれたんだべか。おれ、なんかしたか」
「呪いだな」
この島には呪いがある。誰にでもふりかかる恐ろしい呪いだ。
「ノロイなら、しゃあねえべか」
少年の諦めは早かった。
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