2

 死んでいた。

 あの漁師が、である。

 コッタが発見した時はまだ息があったとのことなので、先生たちが駆けつけたら助かるだろうと少しは楽観していたが、結果は最悪だった。アヤメと横山さんと私が鉄塔に着いた時には、すでに布がかけられていた。災難を聞きつけた島民たちが集まっていて、あたりは騒然としていた。私と横山さんの悪酔いは徐々に醒めていた。

 先生は日名子さんと話していたが、私たちを見つけると、彼女との会話を切ってこちらへ来てくれた。 

「まさか、ジャンジャで死んだんですか」と横山さんが訊く。

「いや、転落死だ。電探塔から落ちてブロック塀の先端部分に背中を打ちつけていた。見事なほどにくの字に折り曲がっていたよ。腰椎が折れているし、内臓もやられていた。俺がみたときは、もう死んでいた」

 目の前にある錆びついた鉄塔は、島では電探塔と呼ばれていた。先の戦争の際、米海軍の艦上機を探知するために、島の人員を使って日本軍が建てたそうだ。肝心の電探部分がなく骨組みだけなのは、レーダーを設置する前に終戦となったからだ。解体されることのないまま放置されていた。

 いったん、横山さんが離れて死んだ漁師のもとへ行った。かがんで合掌してから布をめくって死体を検分していた。

 アヤメがいなくなっていることに気づいて周囲を見渡すと、少し離れたところにいた。右手で左ひじに手を当てて、うつろな感じで立っている。彼女を連れて来て先生に紹介しようかどうか迷っていると、横山さんが首を振りながら戻ってきた。

「芳一、おまえが見たことを話してくれ」

 先生に訊ねられて、私は偶然漁師と出会ったこと、ジャンジャと言いながら絡んできてしまいには背中が反り返り、なぜか鉄塔にのぼって落ちてしまったことを話した。先生は真顔で、横山さんはウンウンと頷いていた。

「ジャンジャの発作による意識障害でしょうか。せん妄だったのかも。なんらかの精神的な疾病があったとか」

「さっき奥さんと話をしたんだけど、ジャンジャのほかには、これといった症状はないと言っていたな。肥満だから血圧が高いだけで、頭も体も、いたって健康だそうだ」

「では、お酒を飲んでいたとか」横山さんはまだ酒臭い息を吐きだしている。

「それも確認したさ。シラフだった」

「背筋の異常な収縮というのはなんでしょう。筋緊張の原因は、ジャンジャの初期症状にみられる不随意運動と関係があるのでしょうか。背中に出るのは初めてじゃないですか」

「そうだな。しかし、あの男の死因はジャンジャじゃなくて、転落したことによる腰椎その他の骨折と内臓の損傷、出血によるショック死だ。後頭部に傷があって腫れていたから、急性硬膜下血腫かもしれんがな」

 先生たちは、実際に逆エビ状になって動いていた漁師を見ていない。あれは発作なんて生易しいものではなかった。まるで異界のおぞましい生物が憑依したかのように歩いていた。地獄の鬼蜘蛛のような、あの奇っ怪な姿勢を今更ながら思い出してしまった。

「死んだ漁師が呪いだっていってた」

 思わず口走ってしまったが、これについては言及しないほうがよかったのかもしれない。先生の表情が固くなった。

「芳一、ヘンな噂を真に受けるな。俺たちは部外者なんだから、いいかげんなことを口に出すと、いらぬ騒動になるぞ」

「そうですよ、芳一さん。呪いで人を死に至らしめるのは、医学的に不可能です。少年雑誌の世界ですって」

 先生と横山さんのいうことはもっともだが、その少年雑誌のような噂を死ぬ間際まで言っていたのは、あの漁師本人だ。

「でも、あの人は言ってたんだ。アイヌとかたてわきとかって。島の呪いだ、ジャンジャがどう?って必死になって言って、腰を逆に曲げてたんだ。折れ曲がっていくうちに腹から内臓がとび出してた。先生たちが思っているよりも、すごく悲惨っていうか、もの恐ろしいっていうか、とにかく異常だったんだ。病気だけだとは思えないよ」

 もう酔いは醒めているが、呪いという科学的にあり得ない現象に固執したいという欲求があった。体から酒が抜けてしまった副作用なのか、アルコールが原因の陽気さが言い知れぬ不安へ変異しているのを感じた。

「腹腔内っていうか、お腹の中の圧力はけっこう強いんですよ。裂け目が少しでもあると、外へとび出そうとするんです。きっと転落したさいに、お腹を鉄塔のどこかにぶつけたんでしょう。背中を曲げたくらいで腸が出ることはないです」

 横山さんが常識的なことを言って諭してくれるが、私は現場を見ているんだ。

「違う。ジャンジャの呪いで内臓がとび出たんだ」

「いいかげんにしろっ、芳一。それ以上言うな」

 先生に怒られても、ひるみたいとは思わなかった。逆エビ反り漁師が口にした{呪い}が、どういうわけか、たしかな情感を伴って湧き上がってくる。たぶん、あの惨い死にざまが目にも心にもしっかりと焼き付いてしまったんだ。それとも見捨てて逃げ出したことを、{呪い}のせいにして誤魔化したいのかもしれない。

「だから、呪いが」

 その気配は電気のようにビリッとした。すぐそばまで日名子さんが来ていたことに気づいて、とっさに口をつぐんだ。

「なんとも申し訳ない、日名子さん。甥っ子がバカなことを言って。まだ若いんですわ。漫画好きで、ほんとにまったく、どうしようもない」

 先生が、さもバツの悪そうな顔をしていた。すでに、かなりの部分を聞かれてしまっているようだ。

「そのとおりよ。この島には呪いがあるの。ジャンジャはね、呪いなのよ」

 日名子さんは、先生や横山さんではなく私の目を見つめていた。微笑んでいるのか、機嫌が悪いのか、心情が読み取れなかった。

「堂島先生も知ってらっしゃるでしょ。保古丹島での戦いで大勢が死んだことを」

「まあ、昔のことですよ。戦いなんてどこにでもありましたわ。いちいち気にしていたら、それこそ日本全国が呪いだらけだ」

「かなり残酷なこともあったようです」

「だから、それはどこでもそうですよ。俺は軍医として、南方の戦場を転戦したけど、どこもかしこも悲惨に尽きた。呪いなんかよりも、人のやることのほうがよっぽど悪質で救いがない」

 先生の快活で明瞭な回答に、日名子さんが安堵したような笑みを浮かべた。

「呪いのせいにでもしないと、この島ではやっていけない。外の人にはわからないけど、ここは年がら年中寒くて、物もお金もなくて、とても大変なのよ。自分の努力だけではどうにもならない。そしてジャンジャがある。ジャンジャと共に大人になって、ジャンジャに苦しみながら死んでゆくの。だから、わかるでしょ」

 日名子さんが言うところの{呪い}は、不便な孤島ならではの生活のやるせなさや病気の苦痛などを、つかみどころのない怪奇現象のせいにして諦めるということだ。

 だけど私は、じっさいに死んでいる人間を間近で見ている。それこそ少年雑誌の怪奇譚なのだが、常識を超えた何かがあるような気がするんだ。

「山ちゃんは残念だったわ。ほんとうに可哀そう。背中の瘡蓋が夜中に痒くなって眠れないってこぼしてたから、きっと体調が悪かったようね。せっかく先生が来たのだから、早くに診てもらえばよかった。いの一番に手配しなかった私の責任だわ」

「日名子さん、仕方ないことだよ。どうにもならないこともある」

「発作による一時的な意識障害なのかもしれませんね」

 横山さんの入る間合いが絶妙だ。素人の言動で無秩序になりがちな空気に秩序を取り戻そうとする。先生はウンウンと頷いていた。しかし、私はジャンジャと呪いに関して、まだ意見を持っていた。

「ジャンジャが、どう、ってどうなんですか」

「?」というのが、先生や横山さんの最初の反応だった。

「ジャンジャがどうって、それを調査しに来たのが俺たちなんだ」

「{ジャンジャ・どうーう}、って、あの漁師の人が言ってたんだ。どう、どう、ってしつこいくらいに。きっと何かを訴えていたんだと思うんだ」

 日名子さんが黙っている。無表情だけど、なにも感じていないのではなくて、気持ちの内側に封をしているように感じた。瞳が灰色に見えるのは気のせいか。

「そういえば、コッタも聞いたとか言ってた」

「コッタって何だ」

 何ではなく、誰だというのが正しい。

「小学生の男の子で、先生にバックを届けるように頼んだけど」

「あの少年か。あれは、おまえが持たせたのか。これはまた具合の悪いことになったな」

 先生が頭の後ろを掻いていた。なにか不都合なことをやらかした時の癖だ。

「バックを盗んだんだろうとか言われて、誰かに怒られていたな。まさか、おまえが持たせたとはな。気づいてやれなくて可哀そうなことをした」 

 せっかくバッタのすばしっこさで届けてくれたのに、コッタは盗っ人扱いされてしまったようだ。私と横山さんのふがいなさの後始末をしてくれたのに、残念なことになった。

「宏太はふだんから手癖が良くなくて、きっと役場から盗んだんだろうって、島ちゃんにゲンコツもらってたわ。ふふ」

 同情しているようで、それでいて面白がったように日名子さんが言った。駄賃だけではなく、ゲンコツまでもらってしまったコッタには後で謝っておこう。

「コッタが見たときは、あの漁師の人はまだ生きていたみたいで、ジャンジャがどう、って言ってたって」

「きっと宏太の聞き間違いでしょ。父親が亡くなってから、あの子はいろいろとブレるのよ。気持ちの整理がつかなくてね、いつも虫を捕っているし」

「コッタのお父さんはジャンジャで死んだんですか」

「違うわ。コンブ漁の最中に転落して溺れちゃったの。波があったのに、久しぶりにガスが晴れたからって無理したから」

 コンブは海から採ったらすぐに干さないといけないので、天気の良い日には多少の無理をすることもあるそうだ

「葬儀や火葬の準備があるから、わたしは行きます。堂島先生、またあとで」

 日名子さんが行ってしまった。この島でもっとも責任ある立場の人なので、すぐに数名の島民が付き添い、あれこれと話しながら歩いていた。

「芳一」

 先生が私の前に来た。これは怒られるぞ。呪いとか、医者の前で呪術師の助手みたいなことを口走ってしまった。豪放な性格なので、ひょっとして殴られるかもしれない。

「来た早々厄介なことになって、すまんな」

 意外にも謝罪であった。

「俺は死体を見慣れているが、おまえは初めてで、さぞ肝を冷やしたことだろう」

 それは少し違う。私が逃げ去った時には、あの漁師は生きていたはずだ。かなりの重傷だったけど、後に来たコッタが生存を確認している。だから死体は見てないが、逆エビ反りの蜘蛛中年男が鉄塔をのぼる異様な光景には、たしかに肝を冷やした。

「横山と遺体をもう少し調べてみるから、俺たちは先に村役場へ戻るからな」

「遺体の血液検査をしないと」

「そうだ」

 先生と横山さんが行ってしまった。二人は、担架で運ばれる漁師の遺体につき添っている。その後ろ姿をなんとなく見送っていると、入れ替わりに小さな人影が駆けつけてきた。

「お医者のバックをかっぱらったって、島田のクソオヤジにゲンコツされたんだ。すっごく痛くて、おれがかわいそうだよ」

 コッタだった。少し涙目になって頭のてっぺんを撫でている。私を見つけたので、そのやるせない気持ちをぶつけたくてしかたないのだろう。

「コッタは盗みばかりやってるからって、言われたぞ」

「そんなにやってないよ。なげてあるから、ひろっただけだって」

 拾っただけというのは、盗人が言い訳をする際の常套句だな。

「痛かったんだから、だちんくれよ。あれじゃあ足りないよう」

 コッタが手のひらを突き付けて、追加の駄賃をクレクレと催促する。この可哀そうな少年に慰めの報酬は必要だろうと、さっそくその手に握手をした。

「よく届けてくれたよ。コッタはえらいぞ」

「ちがうよう、こういうのじゃなくて、だちんだって。十円でもいいからくれよう」

 十分な報酬に納得したようである。

「なあ、オラあ、ハラへったな。なんか、ハラへったなあ」

 コッタとは別の男の子が私の太ももを触っている。青っ洟を垂らし、うす汚れたズボンと黄ばんだ長袖の肌着姿だ。まとわりついてもらいたくない範疇に属する子供であった。

「この子はコッタの友だちか」

「ダチじゃないよ。ヤスオっていうんだ。いちおう弟分にしてやってるけど」

 舎弟と言いたいようだ。コッタよりは年下なんだな。

「腹がへっているんじゃないか」

「ヤスオの母ちゃんはメシつくないんだよ。いっつも寝てるか、どっか行ってるから。今日は学校休みで給食がないし」

 悲しいことだが、世の中には子供をほったらかしにする母親がいる。私の母を思うと、そうなる心情がわからないな。常識的には、母親って我が子には過剰に接するものだろう。

「ヤスオ、いつメシ食った」とコッタが訊いた。

「オラァ、今日はまだ食ってねえ」

「ちっ、しょうがないなあ」

 私が渡した小銭をポケットから出して、一枚一枚慎重に数えている。

「それだけあれば足りるだろう。コッタ、パンでも買ってきてやれよ」

「西出商店にパンなんてないよ。まんじゅうあるけど、高いし」

 保古丹島には商店が一軒しかない。日用品雑貨や衣料、薬、米・日持ちする菓子などが売られているが、値段がかなり高いらしい。船で不定期にやって来る行商人に、欲しいモノを頼んで本土から買ってきてもらうのが一般的なのだと、あとでアヤメに教えてもらった。

「父親はどうしてるんだ。仕事が忙しくても、なにか食べるものくらい用意しているだろう」

「ヤスオの父ちゃんもおれんちとおんなじで、死んだからいないよ」 

 下手に子供たちの家庭環境には触れないほうがいいな。いかにも腹を空かせたような表情で見上げるヤスオを見ながら、西出商店でビスケットかチョコレートを買ってやろうかと考えていた。

「コウタ、コウタ」

 今度は女の子がやって来た。コッタと同じ学年くらいの小学生だ。彼よりは少し背が高く、着ている服も男の子たちと比較すると小奇麗だった。

「コウタさあ、お医者さんのものかっぱらったんだって」

「だからあ、かっぱらってねえって。なしておればかり悪者なんだよ」

 コッタは冤罪がまとわりつく人生になりそうだな。盗んだ、盗んでないと一通り言い合った後、女の子の視線が私に向いた。

「その人だれさ」

「お医者のお手伝いさんのケライみたいな人」

「コウタみたいっしょや。わたしのケライだもん」

「おれは、あけ美のケライじゃねえよ」

 家来の分際で小学生同士の会話には割り込みたくないと思い、あえて口出しをせず黙っていた。あけ美というのが女の子の名前だ。

「山本のおじさんが死んだんだって」

「知ってるよ。おれ、そこにいたもん」

「よっぱらって、でんたん塔から落ちたんだって、お母さんが言ってた」

「ちがうって。ジャンジャで死んだんだよ」

「ジャンジャで死ぬわけないっしょや。バカじゃないの。バカコウタ」

 女の子の叱咤は、彼女の年齢に関係なく手厳しくなることが多い。私も何度か当てられたことがある。

「おれはバカじゃねえよ。ジャンジャ・ドウー、っておっちゃんが言ってたんだって」

{ジャンジャ・どうーう}ではなくて、{ジャンジャ・ドウー}であると、今更ながらに気づいた。あの漁師は、どう?という疑問形で私に訊いたのではなくて、{ジャンジャ・ドウー}という単語を言っていたんだ。

「コッタ、ジャンジャ・ドウーって、なんだ。ジャンジャが、どうかなるのか」

 たしか変異とかって言っていたな。ジャンジャの進行形かもしれない。

「ジャンジャ・ドウーってのは、」

「だから、そんなのないって。ヘンなことばっかり言ってると、はたかれるんだからね」

 あけ美はジャンジャ・ドウーを知っているのだろうか。否定の仕方が感情的になっているように思えた。

「おれは・・・、したっけ・・・」

 あけ美が鋭い目線と迫力で睨みつけているので、コッタは言い淀んでいた。猟犬に見つめられたウサギは、下を向いてもじもじしている。

「コッタ、怒られたんだって」

 急に背後から声がした。振り返る前にアヤメが私の右横に来た。

「そうだよ。バックをちゃんと届けたのにさあ、あたまのテッペンをさあ、島田のハゲオヤジにゲンコツされて、おれがかわいそうなんだよ」消え入りそうだった声が、がぜん元気になった。

 私に訴えたのとほぼ同じ文言なのが小学生らしい。ただし、バカオヤジという罵倒がハゲオヤジへと格を上げたのは、アヤメを意識してのことだろうか。

 彼女の後ろに三人の子供がいた。どいつも小学生で、服装とか表情とか、あまり清潔とはいえない。みんなが母子家庭というわけでもないだろうけど、ちゃんとした境遇には見えなかった。 

「犬のお姉ちゃん、オラなあ、ハラへったんだあ。なんか食わしてけろ」

 飢えた子犬がさっそくおねだりする。すると背後にいた子供たちも、おれもわたしもと空腹を訴えた。小さな顔が、そろってアヤメを見上げている。

「芳一、なんか持ってる?」食い物があるかとの問いだ。

「いや。ああ、でも金なら少しあるから、店に行って、お菓子でも買ってこようか」

「西出商店はロクなモノがないんだよ」

「アイスキャンディ―くらいないのか」

「あるけど高いし、アイスくらいじゃ、ちびっ子たちの腹はふくれないべさ」

 洟を垂らしたヤスオとほか数名を、よくよく観察してみる。もう戦後でもないのに、この子たちには終戦後の浮浪児みたいな雰囲気が漂っていた。アイスキャンディーなど瞬間的に食べつくしてしまいそうだ。腹の足しになりそうもないな。

「役場に人が集まっているから、炊き出しをやると思うんだ。うまくいけば、ちびっ子らにも分け前があるかもしれないさ」

「宴会の料理が余っているはずだから頼んでみようか。先生がいえば役場の人もイヤとは言わないと思う」

「芳一にしては、気が利くじゃないのさ」

「それほどでも」なんとなく、アヤメとの呼吸が合ってきたような気がする。

 たぶん、役場はてんやわんやの大騒ぎになっているはずだ。子供が行っても追い出されてしまうと予想されるので、食べ物だけを持ってくればいい。先生に頼めばこころよく手伝ってくれるだろう。口は悪いけれども、情には厚い人だ。

「コッタ、みんなを連れて行きなよ。役場に着いたら、芳一が食べ物を持ってきてくれるから」

「君は来ないのか」

「あたしはほら、なにかと忙しいから」

 役場に来ないのであれば、とくに忙しいことはないと思うけど、そういえばアヤメの仕事を訊いていなかった。

「コウタ、あっちに行こうよ」

 あけ美がコッタを連れて、この場から離れようとした。私はもちろんのこと、アヤメも眼中にはないような態度だ。

「おれ、やくばに行くよ。ヤスオになんか食わせないとなんないし、杏子とミノルとツヨシも腹へってるみたいだし」

「役場に行ったって子供は入れないんだよ。大人におこられるっしょや。なんも、もらえないって」

「そん時は、犬のお姉ちゃんの家にいくよ。なあ、なんか食わしてくれよ」

「ホットケーキだったら作ってあげる。みんなの分あるかわからないけど」

「オラァ、ホットケーキ食いてえなあ」

 ヤスオが青っ洟を豪快にすすった。アヤメがポケットからちり紙を取り出して顔に当てる。「チーンチーン」と号令をかけて排出を促すが、腹がへって力がでないのか、子供ながらに大量の鼻汁なのか、いまだに青っ洟のままだ。アヤメと子供たちの間には、こんなことが頻繁にあるのだろう。

「コッタ、早く行かないと日が暮れちゃうよ」

「うん、わかった」

 コッタを先頭に、子供たちが村役場へ向かって歩き出した。私も最後尾についてゆく。アヤメがタタタと近づいてきて、ふうっとカラダをくっ付けてきた。

「え」と戸惑っていると、「これ、あげるね」と言って、尻ポケットになにかをねじ込まれた。

 恋文か、恋文の内容が記された紙切れかもと胸が高鳴った。さっそく、彼女の気持ちのほどを検分しようと、それを取り出した。  

「げ、ちり紙かよっ」

 ヤスオの小汚い鼻汁をぬぐったちり紙だった。しかも、私が見ていたよりもけっこうな量の液体が吐き出されたらしく、ちり紙から溢れ出ていた。折りたたまれていたが、はみ出したネバネバが指についてしまい絶望した。家の近くのパン屋も、これくらい多量のジャムサンドを売ってくれたらと、縁起の良いことを考えて誤魔化した。

 ケラケラと笑ってアヤメが遠ざかった。少し離れたところで立ち止まり、小憎たらしい笑みを浮かべて手を振っている。あとでなにかを返さなければと心に誓う。

 役場を目指して一列になって歩いていたが、いつの間にか一塊となっていた。ゆっくりダラダラと、とりとめなく進んでいる。

「犬女の家になんて行くわけないっしょ。汚いって、お母さんが言ってた」

 あけ美はアヤメに対しては辛辣だった。私にも、あまり親しみのない態度だった。

「だったら、ついてくんなよな」

「わたしはやくばに行くっしょや。犬女の家になんて、ぜったいに行かないんだから」

「だったら、さきに行けばいいべや。なしておれにくっ付くのよ」

「あんたがチンタラチンタラ歩いてるから、ガマンしてるっしょや。バカコウタ」

「バカじゃねえよ」

「ツヨシがオシッコくさいけど、なしてさ」

「知らねえよ」

 口うるさい女が横にいるのだが、コッタはそれほど嫌がることなく、彼女の好きにさせていた。他の子どもたちは呆然としながら歩いている。ヤスオの鼻汁が上唇を突破して口の中へ入っていた。ちり紙で拭いてやろうとしたけど、「ヤスオのは、なんぼとっても出てくる」から無駄だとコッタに言われた。できれば触りたくなかったので、放っておくことに良心の呵責を感じずにすんだ。 

 ジャンジャ・ドウーに関してコッタにもっと詳しく訊きたいのだが、その話をすると、あけ美の否定的な横やりが入ってしまい会話にならなかった。もし死の原因に関係しているならば、ジャンジャでは死なないという先生の見解は間違っていることになる。医学的な調査の前提に誤りがあったら、この先の治療にいい結果は得られないし、そうすると島の人たちが失望してしまうだろう。

 医療とは別に、島の呪いの話にも興味があった。もの書きを目指しているという私の人生の建前上、怪奇譚の類は創作の肥やしとなる。現実としてあり得ない話だが、そういう伝説めいたものが口承されているということは、元になった事件や事故がよほど奇異であり、さらに血塗られた歴史であるはずだ。不謹慎ではあるけど、知りたいという欲求にはできることなら応えておきたい。

 しかし、病魔と真剣に向かい合っている先生や横山さんに呪いのことを話すのは、さっきで懲りた。コッタには、ヒマになった時にこっそりと訊いてみようと思う。


  

 役場に着くと、予想通りの混雑具合だった。

 すでに仮通夜の準備が始まっていて、人の出入りが多くバタバタしていた。先生と横山さんによる検死は終わっていた。結論は変わらず、鉄塔からの転落による事故死だった。血液検査もしたが、寄生虫の発見には至っていないとのことだ。大広間の片隅で、二人の医者が気難しい表情で座していた。なんだか、食い物のことで話しかけるのが憚られる空気である。

「食い物がないかって、俺じゃなくて日名子さんに訊いてみろよ。なにか用意してくれるだろう」

「いや、オレじゃなくて、子供たちに食べさせたいんだ。宴会の残り物でいいんだけど」

 コッタとあけ美が、私の後ろで控えていた。他の有象無象たちまで来ては目立ってしまうので、役場の外で待機させている。子供たちの事情を説明すると、先生がため息まじりに言う。

「大きな声じゃ言えんが、この島は貧しい者ばかりだ。来たのはこれで三回目だが、あまり変わっていない。国がどんどん発展しているのに、ここだけが取り残されている気がする。病院がないから、怪我や病気で働き盛りの大人が働けなくなることもあるし、おまけにジャンジャがあるからなあ」

 そう言って、たいして濃くもないお茶を渋そうな顔でグイッと飲み干した。

「国や道の予算がこないから、電気や水道は個人が設備している。だから何ごとにおいても高くて、出費ばかりがかさむんだ」

「電力や水道は西出村長がやっているんですね。島唯一の商店も持っているし、あの方はなかなかの実業家ですよ」横山さんは、小さな女の子のようにちびちびと口をつけていた。

「西出は漁場の権利も持っているからな。西出家と一族以外は、どこも生活が苦しくカツカツなんだ」と言ったところで、いったん口をつぐんだ。

 日名子さんの一族は、島の公共施設どころか、漁場や土地の権利の大半を有している。西出家は、この島では財閥なんだ。アヤメもそんなことを言っていたな。

「だからといって、日名子さんが暴利をむさぼっているということではないぞ。役場や神社を建てたりしているし、港の整備も私費でやっている。テレビが映るのも受信施設を建てたからだ。発電所も赤字だと言っていた。西出の家がないと、そもそもこの島での生活がなりたたん」

 今回の医学調査も、日名子さんの全面協力がなければ泊まる場所すらなかったそうだ。だから悪く言ったりするなと釘を刺された。政と経済は、良いも悪いも一筋縄ではいかないということだ。

「芳一、一緒に来い」

 先生が膝を押して立ち上がった。二人で台所に行って、そして三人分の夜食をお願いすると、おばさん連中がにぎり飯と少々のおかずを作ってくれた。それをコッタに渡そうと大広間に戻ると、いつの間にか子供たちがいるではないか。辛抱たまらず侵入してきたようだ。道端に捨てられて三日経った子犬のような目玉がキョロキョロと落ち着かない。コッタが済まなさそうに私を見ている。

 夜食用のにぎり飯と煮しめを与えると、その場に座り込んで食べ始めた。よほど腹が空いていたのか、足をハの字に開いて正座をしながら床に顔を近づけて、貪るように頬張っていた。犬食いに近い体勢だ

「ちょっとなんだい、子供らが入ってるっしょや」

 おばさん連中の一人がやってきて、飯を食っている子供たちを見て、なんだなんだと騒ぎだした、すると、すぐに他の主婦連中もやってきて、同じように口うるさくまくし立てた。

「こいつら、犬井の子分たちだよ。食べ物を盗みにきたんだね」

「そうだそうだ。犬女の仕業だべさ」

「あの女、この大変なときに子供らを焚きつけやがって。山本さんもうかばれないよ」

「ちょっとう、犬女がきてるのかい」

 主婦というか、おばさんたちの鼻息が荒い。同じ島に住んでいる子供たちに対し、あまりにも冷たい態度で言い草もぞんざいだ。しかも、アヤメの仕業と決めつけられて非難が集中していた。まあ、それは正しいのだけども、少なくとも腹を空かせた不憫な子供たちを助けようとしているんだ。そう考えると、なんだか頭にきた。

「いや、この子らはお腹が空いているんだ。母親が食事をつくらないから」

「芳一っ」と、先生の鋭い声が私に突き刺さった。叱咤と制止交じりである。

「芳一さん、検査器具の整理があるので手伝ってくれませんか」

 横山さんが、この場の雰囲気とはまったく関係のないことを大きな声で言い出した。それ以上、島の事情に口を出さないほうがいいとの緘口令だろう。もちろん、先生の意を酌んでのことだと思う。

「ガキどもに食い物を持たせてやれ」

 先生がそう言う前に、すでに横山さんが動いていた。食いかけのにぎり飯とおかずを均等に分けて、新聞紙に包んで、ツヨシ、杏子、ミノル、そしてヤスオに手渡した。子供たちは嫌がることなく従っている。 

「宏太、人が亡くなったんだよ。ここは遊ぶどころじゃないんだ」

「自分の家で遊ばせな、って犬女に言いな。なに考えてんだべか」

 さっきから、アヤメに対する主婦たちの感情が穏やかではない。嫌いを通り越して憎悪の対象ではないか。

「わかってるよ、うっせーな。おばさんたちに言われなくとも、出て行くって」

 アヤメの分までコッタに当てつけられている。多少イラついているのか、小学生らしからぬ態度を隠しもしない。どこに行ってしまったのか、あけ美の姿はなかった。

「ほらあ、行くぞ」

 コッタが子供たちを立たせた。小さな体が一列になって大広間の敷居を跨ごうとするが、先頭の少年がいきなり立ち止まった。

「うわあ、村川のオッサン!」

 コッタが叫ぶと、ちびっ子たちが最後尾から順序よく戻ってきた。

 口と意地の悪いおばさん連中が静かになった。口を閉じたのではなく、その場の空気が凍りついたのだ。

 男が入ってきた。先生と同い年くらいの中年で、私より背が高い。短めの頭髪で、岩石のような顔をしている。ねずみ色の作業服を着ていて、遠くから見ると水道局の職員みたいだ。ただし目つきが悪く、見つめられた者の心の不可侵な部分を舐めとるような眼力を感じさせた。

「ジャンジャの医者っていうのは、どいつだ。ツラみせろ」

 しゃがれた声だが重みがあった。ホテルに勤めていた時に何度かヤクザの幹部と遭遇したことがあるが、似ている感じがした。この手の人間とは、なるべく対峙しないほうがいいと本能が叫んでいる。

「俺だ」

 先生が前に出た。まったくひるんでいないのは、医者という職業に自信と誇りを持っているだけではないだろう。若い頃に軍医だった経験が大きい。戦場で何度も死ぬ目に遭ったという話を聞いている。

「俺は忙しい。なにか用があるなら手短に言え。文句があるなら、かかってこいや」

 死線を潜り抜けてきただけあって、我が叔父は度胸が分厚すぎる。

「クソ医者が性懲りもなくまた来やがって、無駄なことがわかんねえのか」

 保古丹の水道局員が、いきなりケンカ腰だ。コッタが青い顔で見上げている。ちびっ子たちは新聞紙の包みを開けて、にぎり飯を頬張っていた。

「初対面のバカ者に、クソ医者呼ばわりされるいわれがないな。おととい来い」

 水道局員の後ろには、仲間か手下と思われる若い男が三人ほどいて腕組をしながらこちらを睨んでいた。三人とも私の二の腕の倍の太さで、浮きだした血管のドス青黒さもよほど濃い。

「そうですよ。僕たちはクソな医者ではないんです」

 おっと、ここで横山さんも一歩前に出た。船にも酒にも弱いヒョロガリ医者なのに、先生の助手という使命感がそうさせているのか。ならば助手のケライとして、私も前に出なければならない。

 コッタがいるので、あとでアヤメに報告されることは子供の口の軽さを考えて確実だ。いいところを見せておこうというスケベ心であるが、少しばかり伏し目がちなのは内緒だ。

「ジャンジャはなあ、おまえのようなトーシロー医者がどうにかできるものじゃねえ。保古丹のモンは、ジャンジャから逃れられねえんだ。昔っからの定めなんだ。薬や注射じゃあ、どうにもなんねえ」

 医者とケンカする上で、医学を否定するのは常道だろう。医者側からの反論が待たれるところだが、先生の行動は斜め上からの急降下爆撃だった。

「うわあ」っと、思わず声が出してしまったのは私だ。

 なんと、先生が角刈り水道局員の首を右手で掴んで、グッと押し出しているではないか。アゴを大概にあげた岩石顔が、苦しそうにイヤイヤをする。腕は太いが長さは先生に分があった。水道局員の苦しそうな手が空中を何度も掴んでいた。

「こ、くっ、このっ、やろう」

「とりゃー」

 体勢を低くした先生がすり足で前進し、岩石男の後頭部を壁に押しつけた。ゴンとすごい音がしたけど、頭は大丈夫だろうか。首から上が岩みたいに堅そうだし、先生は医者なので手加減はしているはずだろうけど。

 若い男たちのうち、やたらと腕の血管がドス青い奴が私に向かってきた。殴られてはたまらないので後退りするが、飯を食っているちびっ子に突き当たってしまった。ほのかに尿臭がするので、こいつがツヨシなのだろう。

「君たち、やめたほうがいいぞ。先生は軍隊仕込みの柔道の達人なんだ」

 横山さんが啖呵を切ると、彼らの動きが止まった。そんな話は初耳だけど、さも真実であるかのように私も頷いてやった。意外と説得力があったのか、手下たちが戸惑っている様子で、とりあえず私が殴られることは回避された。

「あら、村川さん。わざわさ来てくれたんですね」

 日名子さんが来た。くさびを打ち込むように、先生と岩石男の間に立った。そばで固まっていたおばさん連中が、いかにもホッとしたように胸に手を当てている。ちびっ子たちは煮しめを食っていて、コッタが私を見て鼻をすする。先生が首から手を放してサッと離れた。

「ジャンジャで人が死んだって聞いたからな」

 水道局員は、首元の着衣の乱れを何事もなかったように払っていた。

「村川さん、それは間違いですよ。山ちゃんは電探塔から落ちたんです。遺体を先生にも調べてもらいましたが、間違いなしです。ジャンジャで亡くなることはないですから」

 村川というの岩石水道局員の名前らしい。日名子さんの口ぶりから、けっこう気を使っていることがわかる。尊敬ではなくて、警戒の意味合いが強いような気がした。

「ジャンジャ・ドウーだって聞いたが、変異が起こったんじゃねえのか」

 村川がそう言うと、息が止まったかのように日名子さんが凝り固まった。沈黙の中を重たい男の目線が室内を睥睨すると、コッタはゲンコツを食らったように真下を向いた。

「ジャンジャがどうした、こうしたって、ここで言っても仕方ないでしょ。山ちゃんは落ちて死んだんだから、ちゃんと弔ってあげないと可哀そうでしょ」

 日名子さんが早口でまくし立てているけど、村川は無視して先生の前に来た。

「おい、クソ医者。悪いことは言わねえから札幌へ帰れ。この島にかかわるな。ジャンジャを治そうなんて絶対にするな。ジャンジャは保古丹のモンが背負った業なんだ。首を突っ込みすぎると、あんたが島の呪いにやられっぞ」

「呪いなど、この世の中にあるはずがない。風土病には必ず原因がある。それを突き止めさえすれば、ジャンジャを防圧できるんだ」

「前に来た時も、そんなこと言っていたと聞いたぞ」

「前回も、前々回も成果はあった。ジャンジャを、もう少しで解明できるんだ」 

「逃げ口が達者なやつだな」

 村川が水道局員風の上着をむしり取るように脱いだ。白い肌着のシャツに黄色や赤褐色のシミがたくさんあって汚らしい。最初はなにかの模様というか柄なのかと思ったが、湿った感じがするし、イヤなニオイを感じた。 

「これを見ろ」

 さらにその小汚いシャツを脱ぎ捨てて、上半身を大胆に露出させた。

「うわっ」と声をあげてしまったのは、またしても私だ。先生も横山さんもおばさん連中も、ただ黙って見ていた。

 村川の体が病魔の巣ではないか。

 あの死んだ漁師の皮膚もひどかったが、いま目の前に立っている男のほうが、不謹慎な言い方をすれば、より派手で豪華だった。

 爛れて出血した痕が多数の瘡蓋となり、胸やお腹周りを覆っている。それらは赤黒かったり灰褐色だったり、赤褐色だったり、錆黄色だったり、いろいろな色彩が目に映えた。さらに火山のように盛り上がった血の塊の頂上から、まるで乳首からほとばしる母乳のように膿んだ汁が滲みだしてていた。村川のジャンジャは重症といっていい。シロウトの私でも、入院したほうがいいのではないかと心配になった。見ようによっては、重度の火傷よりも強烈なんだ。 

「クソ医者、成果があったんだったら、いますぐこれを治してみろ。おまえの信奉する医学で、ワシのジャンジャを消してみろ。この醜く腐った呪いを注射や薬で祓えるのか、やってみろ」

 ヘソの左横の瘡蓋が巨大で分厚く、ほぼ黒色だ。よせばいいのに、村川はそれを剥がし始めた。もったいぶったようにゆっくりと、数ミリ剥がしては顔を上げてこちらを注視し、また下を向いては剥がしにかかる。本人よりも見ているこちらが痛くてたまらない。 

「もういい、わかったからやめろ。汚い手でいじれば化膿するし、ヘタすれば破傷風にもなる」

 たまらず先生が言う。横山さんがバックにとびついて、中から包帯やら消毒液を取り出していた。

「消毒するから、そこに座れ。仏さんがいるのに言い争っても仕方あるまい」

「ふんっ」

 先生の申し出を無視した村川が私のほうに来て、なぜか握手をした。イヤな予感がしたが遅かった。ヌルッとしたと思うとザラザラと硬いものが手の中にあった。

「うっわ」あわてて投げ捨てて、反射的に手のひらのニオイを嗅ごうとして寸前で止まった。一生涯にわたる後悔になることが確実だったので、危ないところだった。 

 村川が数歩後退する。若い手下たちが彼の左右に並んだ。

「そこの若いのも気をつけろ。ジャンジャはなあ、この島が保古丹の人間に課した呪いなんだ。血で穢されたことを、血で償うまで呪い続けるんだ。邪魔するやつに、この島は容赦しねえんだ。死ぬぞ」

 まるで、保古丹島自体に独自の意思があるような言い方であって、そんなことは信じてはいないが、なんだか背筋が寒くなってきた。船から見た瘡蓋のような孤島、赤茶けた地面と赤茶けた植物の群生、奇怪な姿勢になって鉄塔に登って転落した漁師、露出した真っ赤な内臓、そしてアヤメのまっ白な肌。精神の奥のほうで、島で経験した光景が情景に変換され、さらにぐちゃぐちゃと錯綜している。ほぼ全身に痛ましいほどの病巣を抱えた男を前にして、恐怖が常識を支配しようとしている。

「村川さん、札幌からお医者さんが来てくださっているのに、そういうことは」と、日名子さんが言った時だった。

「ジャンジャ・ドウー」

 張り裂けんばかりの大声で村川が叫んだ。手を開いて顔に当て、掛け声とともに握りしめながら真っ直ぐに引く独特の仕草をしている。それには既視感を感じた。

「ドゥーーーーーーーーーーーーー」と、右にいた若い奴が叫んで同じポーズをとった。

「ドゥーーーーーーーーーーーーーーー」今度は左の血管野郎が、十分に息を溜めて長めにやった。手を引ききった後の、どうだと言わんばかりの流し目が憎たらしかった。

「ジャンジャ、ジャンジャ、ジャンジャ・ドウードゥドゥーー」

 最後のやつは、足をバタバタさせながら「ジャンジャ」を連呼していた。おそらくタップダンスだと思うのだけど、ステップのキレが絶妙に悪くて、その素人さが恥ずかしい。ただし、下半身が忙しく動くのだけど顔は定位置のままで微動たりせず、どういう仕掛けか知らないが、そこだけは凄いと思った。

「ジャンジャ・ドウー、だ」

 コッタが叫んだ。そして手足を振り回して踊りだした。どこで覚えたのかロックン・ロールのものまねであり、多分にデタラメであるのだけど、どこかプレスリーみたいである。

「コッタ、なにやってるんだよ」 

「おじさんもやれよ。これやらねえとジャンジャで死んじまうんだって」

 ジャンジャ・ドウーが何なのかわからないが、コッタの必死な表情から死の恐怖が伝わってきた。村川のひどい体を見たことで、真夜中の便所でお岩に遭遇したような絶望を少年は感じたのだろうか。

「ドゥーーーーーーーーー、ジャンジャ・ドウー、ドゥー、ドゥー、ドゥー」

 私は、大胆で居丈高な男の演舞を見ていた。

 顔から手を引き延ばす動作は相変わらずだけど、一度しゃがんでその身を沈み込ませてから、「ドゥー」との掛け声で盛り上がるようにして立ち上がるのが、新しい躍動を感じさせた。手下の若者たちも主に続けとしゃがみ込み、「ドゥー」と掛け声を張り上げて順番に立った。一周すると、また村川から始まり若者たちが続く。それを三回繰り返した。ジャンジャ・ドウーの動く輪唱であった。

「ジャンジャになりたくなけりゃあ、ジャンジャを歌え、ジャンジャを敬え。ジャンジャを称えろ」

 そう言い放って、血の塊だらけの体を見せつけながら村川たちが出て行った。駆け寄って生乾きのそれらを剥がしてやりたい倒錯した衝動に駆られながら、私は黙って見送った。先生も声をかけたりはしなかった。ふうと息を吐いて、横山さんが包帯と薬をバックに戻している。

「村川さんのジャンジャは、気合がすごいわ」

「久しぶりに見たけどカッコよかったさ」

「うちのひとにも見せたかったわあ。なまら良かったしょや」

 ヒソヒソとではあるが、おばさん連中は高評価を与えていた。

 たしかに尋常ならざる迫力があったのは認めるけど、あの奇っ怪な踊りのどこにカッコよさがあるのか理解できないな。だけど、感激する基準はその土地土地にあるのだろうと、あらためて文化の奥深さを知った気がする。はるばるソ連領の間近までやって来た甲斐があったというものだ。

 舞踏団は去ったが、コッタがまだジャンジャ・ジャンジャとジタバタしている。日名子さんが近づき、バシッと素早い張り手を食らわして、ようやく静かになった。

「宏太、ご飯を食べたんだったら、みんなを連れて帰りな。母さんには言っとくからね」

 ゲンコツには慣れている少年だけど、ビンタは思いのほか効いたようだ。涙目になって頬に手を当てていた。男の子にとっては打撃の力よりも、気持ちへの叱咤のほうがへこたれることがある。

 腹を満たしたちびっ子たちを連れて、コッタが半べそで大広間を出て行った。家を追い出された可哀そうなネズミの群れみたいで、ちょっと同情してしまった。

「日名子さん、あれが村川という男か」

「そうです。まさか、今日ここに来るとは思わなかったけど」

「ずいぶんと派手に踊っていましたね。ビックリしましたよ」と言うのは横山さんだ。 

「いつも通りですよ。保古丹の者はジャンジャで踊るでしょう。あれが村川さんのやり方なんです。なんでも大仰な人で、とくにジャンジャに対する思いは人一倍、いいえ十倍は強いんです」

 あれは、ただのジャンジャ踊りではない。ジャンジャ・ドウーだ。転落死した漁師が言っていて、コッタも知っている。たぶん、特別な意味があるはずだ。この島が持つ呪いに関することで、でも日名子さんは、そのことについてさらりと流そうとしている。先生も、あくまでも医学的にジャンジャを調査するから、迷信めいた言い伝えには興味を示さないだろう。

「あの村川って人は、この島でどういう感じなんですか。そのう、副村長さんとか」

日名子さんの言葉遣いから、彼女が遠慮しなければならないほどの地位にあるのではと思った。要注意人物ということになる。

「こことは別に、もう一つ集落があってな。やつはそこの顔役だ。いろいろと影響力があって、見ての通り一筋縄ではいかない」

 先生の説明によると、この島には二つの集落があるとのことだ。

 いま私がいるのが騎人古(きどこ)地区で、南東部に位置するのが瑠々士別(るるしべつ)地区だ。両集落はそれぞれ島の対極に位置していて、島民同士の行き来はあまりなく、ほぼ独立している。両方ともに小さいながら港があり、定期船はないが行商や貨物の船が波の状況をみて不定期に出入りしている。併設の小中学校が二つの地区にあるが、高校はない。行政上は同じ保古丹村だが、瑠々士別のほうは分村扱いだ。役場の出張所の小屋があるらしい。

「村川さんは、瑠々士別を代表しているから名士だから、みんなが言うことをきくの」と言う日名子さんは、あまり愉しい感じではなかった。

 村川家は瑠々士別地区の有力者で、そっちのほうの漁場を仕切っているそうだ。名士とはいうよりはプロレスラーの悪役が似合っている。有名人らしく、騎人古地区の人たちにも顔が知れていた。瑠々士別地区の人口は百人ほどで、騎人古地区の半分くらいだ。あらためて言うまでもないが、どちらの地区も無医村である。

「あの様子では、検査に協力してくれなさそうですね」

「そうだな。前回も、その前も瑠々士別地区では誰も検査させてくれなかったよ。俺たちは門前払いだ。見向きもされないどころか、姿を見せただけで怒鳴られる始末だった。どうやら村川や、その家の者の指示だったようだが」

 先生が医療調査で保古丹島に来るのは、これで三回目となる。

 最初に来たのはまだ戦時中で、珍しい風土病の調査・研究のために陸軍が派遣した。南方の戦線で現地の疾病に悩まされていたことで、国内の症例にも興味を持ったようだ。その時は島民から事情を訊いて、症状・病態を記録しただけで帰った。滞在期間は、ほんの数日だった。終戦間際の緊迫した時期だったので、長逗留はできなかった。瑠々士別地区からは理解を得られず、騎人古地区だけの調査となった。

 二回目は七年前で、前回の調査結果をもとに、道の予算を使って道立公衆衛生・防疫研究所と先生が企画した。寄生虫症の疑いがあるとして、おもにフィラリア症の検査と治療、薬の投与を行ったのだが、かんばしい結果が得られなかった。なお調査に協力したのは騎人古地区だけであり、瑠々士別地区からは拒絶された。

「七年前に、村川の集落を検査できていれば突き止められていたかもしれない」

 先生がそう考えるのには理由があって、どうやら瑠々士別地区のほうがジャンジャの発症率が高く、重症度も高いということだ。死んだ漁師の皮膚よりも村川の体のほうが、より爛れていた。転落した男の瘡蓋は乾いていて回復の予感があったが、村川のそれは瑞々しく膿んでいて、いつまでもジクジクと湿っている感じだった。

「ジャンジャだけではなくて、通常の診察も拒絶されたんですか」

「ああ、そうだ。とにかく俺たちは信用されてなかったな」

「困りましたね。そこまでとは」

 保古丹島に病院や診療所の類いはなく、医者は常駐していないから重病人は本土の病院へ行くしかない。でも、ジャンジャであることを気にかけて島を出たがらないらしい。だから医者の訪島診療は歓迎される。騎人古地区の島民は、七年前の調査の際に診察を受けていた。先生と別の助手の二人だけであったが、激務だったにもかかわらず熱心に診察して、たいへん喜ばれたとのことだ。 

「あの人、ええっと村川さんでしたか。ジャンジャ・ドウーって騒いでいたけど、あれはなんなんですかね。ジャンジャの症状が進行したということでしょうか。それとも厄除けのなにかか」

「わからん。まあ、なんだ、ここはいろいろとあるからな」

「ああ、まあ、そうでしょうね」

 日名子さんがいるので、言いにくいこともあるようだ。ジャンジャに関連する踊りや奇行には触れないでおこうという合意は、医者たちの間でしっかりと履行されていた。



 ちびっ子たちがいなくなり、役場は仮通夜の準備で忙しくなってきた。転落死した漁師の奥さんと娘がきて、日名子さんと会っていた。泣き崩れてはいないが、何度も嗚咽を洩らしていて、いまにも崩れ落ちそうではある。 

 周囲の様子を眺めていると、弔問客の検査をするから用意しておくようにと先生からの指示があった。 

「まさか、葬式の最中に血をとるんですか」

 先生は厚かましい医者だけど、さすがに非常識だと思った。

「葬式じゃない。仮通夜だ。人が集まるし、夜からだから、ちょうどいい。検査は俺と横山でやるから、おまえは名簿を作れ。誰が何時に採血したのかをしっかりと記録しておくんだ」

「先生、人が亡くなったばかりですから、気分を害してしまうかもしれません。今回の調査は期間も長いですし、じっくりいきましょう」 

 横山さんも懐疑的だ。島の人たちの不興を買ってしまうと、今後の調査がしづらくなる。自重すべきだと、やんわりと諭した。

 私たちが動かないでいると、先生がバックから器具を取り出し始めた。その様子をチラ見していた日名子さんがやってきて、「どうしましたか」と訊いたので、先生が弔問客の採血をすると言った。

「堂島先生、島の者のためにやってくれるのは重々承知していますけど、今夜は山ちゃんの魂を静かにしてあげたいんです。血を見るようなことは控えてくれませんか」

 なにかと協力的な日名子さんも、さすがに迷惑なようだ。それでも先生はやると強情を張る。村川にいろいろ言われたためムキになっているようだ。

「山ちゃんの本葬が終わったら島の者を集めますよ。みんな、喜んで協力すると思います」だから今晩は静かにしておいてほしいと、懇願のような要請のような、はたまた命令のようなことを言われて、先生がようやく諦めた。

 役場の大広間は仮通夜の会場となるので、私たちは荷物を別室へと運んだ。そこが寝部屋となる。外見からはわからなかったが、この建物はけっこう大きくて部屋数もあった。炊事場も広くて、便所も大きい。役場でもありながら冠婚葬祭にも使用するのだろう。

「先生たち、晩ご飯はどうするべか。今晩は忙しくなりそうだから、ちゃちゃっとやるか」

 仁美(ひとみ)という婆さんから声をかけられた。私たちの食事やら身の回りの世話をしてくれる人で、日名子さんが手配してくれた。先生は苦手そうな顔をしているが、横山さんは仁美婆さんと話が合うらしく、カニ汁を食べたいと懲りない要望をしていた。

 晩飯まで時間があるけどやることがない。先生がおとなしくしているので、今日は仕事がないということだ。散歩でもしようと役場の外へ出ると、アヤメを見つけた。塀の陰の目立たぬ場所で日名子さんと一緒にいる。二人とも対面しているのだが、お互いの視線がかち合わないように微妙にずらしていた。西出の家には行きたくないと言っていたので、手癖の悪さが発覚して怒られているのかもしれない。

「そんなわけないべさ。あたしは正直者なんだから」

 そう言って、私のパンツを奪おうとした女がケラケラと笑う。日名子さんがいなくなるのを待って声をかけたんだ。アヤメの調子が軽快でホッとした。

「じゃあ、なんでここに来たんだよ」

「芳一と同じ、でめんとりだよ。仕事をもらいにきたんだ」

 仮通夜の最中に日名子さんから仕事をもらうと言う。そういえばアヤメの職業とは何だろうか。

「なんでもだよ。コンブ干しをやったり、漁の魚をさばいたり、船のペンキ塗りを手伝ったり、とにかく、島のなんでも屋さんなんだ」

「葬式の準備を手伝いにきたのか」

 お茶くみとか弔問の受付をするのは、若い女性と相場が決まっている。不謹慎な言い方だが、なんでも屋さんの稼ぎ時だ。

「違うよ。死んだ人の後始末」

「後始末」とは、どういうことだ。

「焼き場のボイラーが、ずっと壊れたままなのよ。油が使えないから薪をくべるんだけど。あたしがやるんだ。いいお金になるから」

 焼き場と言われてもピンとこなかったが、火葬場のことだ。

「ちゃんと焼かないと肉が残っちゃうんだよ。やせてる人はすぐ焼けるけど、太っている人はけっこう生焼けになるの。漁師は骨が太くてさ、薪を何回も足さなきゃなんないから時間がかかってイライラしちゃう」

 なんと、アヤメは遺体を焼く作業をするのだという。しかも機械を操作するのではなく、直接薪をくべるという原始的な方法であった。札幌の女だったら卒倒するような仕事だぞ。

「焼け具合を見ながら薪をくべるんだけど、人の肉が焼けるのは、じつはけっこうおいしそうなニオイがするんだよ。食べたくなるような気になるんだ。食べないけどさ」

 ジュージューと脂を燃やしながら焼ける遺体へ、アヤメが薪をくべている様を思い浮かべた。反射熱を顔に受けて、目を細めながら木片をもくもくと放り込む島の女。人間の脂でたぎった煙を体全体で受けながら、金を得るために焼け具合を見極める女。可哀そうでもあるし、逞しくもあり、また別の角度から見れば怪談でもある。悲しくて、そして怖い仕事だ。 

「焼き場は、これから忙しくなるから稼ぎになるんだ。薪が足りればいいんだけど、西出はケチで、足りなかったら流木を使えっていうしさ。流木って潮気があるから燃えづらいし、煙がすっごいし、バッカじゃないのってさ」

「これからって、ほかにも亡くなった人がいるのか」

 アヤメの言い方に、不吉な{含み}を感じた。

「ジャンジャで人が死ぬと、それが続くの。コッタのお父さんが死んだ時は、立て続けに四人死んだよ」

「コッタのお父さんはコンブ漁の事故じゃなかったのか」

「西出は認めないけど、確率の変異が起こって、ジャンジャがジャンジャ・ドウーになったんだ。島が呪い殺すんだよ。芳一だって気をつけたほうがいいよ。この島はね、だれにも容赦しないんだから」

 おどろおどろしくも物騒な警告だった。冗談なのかと思ったが、アヤメの表情が静的で、温もりや感情を意識的に排除していた。本気で言っているんだ。

「そもそも、確率ってなんだよ」

「ジャンジャになることさ。島の者は確率がくるって言うの。そんで変異すると、ジャンジャ・ドウーなんだよ」

{ジャンジャ・ドウー}とは、致命的な呪いが発動されることだと理解した。あり得ないことだけど、強くそう信じる人たちがいる。村川やコッタ、アヤメがそうだ。そして鉄塔から落ちて死んでしまったあの漁師も、今際の際で確信していた。

 島民のうち、どれくらいの人が呪いを信じているのだろうか。迷信が人の心に深く根ざしていると、科学的な見解を捻じ曲げて妄想に固執してしまう。先生の調査もやりづらくなり、ジャンジャの治療という目的が果たせなくなるかもしれない。日名子さんは常識人だけど、村川を説得するのは難しそうだ。私の仕事も、どうなるのか心配になってきた。


 役場の敷地の隅でアヤメと話をしている。もう日が暮れてきたが、人の出入りはより多くなってきた。 

「おい犬、ここでなにしてんだ」

 痩せた主婦が私たち前にきて、開口一番、配慮の欠けらもない言葉を投げつけてきた。

「山ちゃんの奥さんも来てるのに、あんたみたいな汚い女がウロチョロするな。わかったか、犬」

 いきなり、すごい剣幕でまくし立てられた。こちらの反応などお構いなしに罵声を浴びせられた。

「犬が、あっちいけ」シッシと手を振られてしまう。

 アヤメについては完全に野良犬扱いであって、彼女たちの間でどういう事情があるのか知らないが、失礼にもほどがあるだろう。

 アヤメは黙っている。憤慨している様子はなく、ただ無表情でやり過ごそうとしていた。私は、思わず言ってしまうんだ。

「ちょっとひどいんじゃないか、おばさん。なにがあったか知らないけど言い過ぎだろう」

「おまえはなんだ、犬の男か、だったらオス犬だべさ。メス犬が都会のオス犬を引っぱって咥えてんのか。山ちゃんが死んだ日に、罰当たりもいいとこっしょや」

 今度は、私に対する口撃だ。アヤメに対してと同様に容赦がなかった。小さく細い顔が般若みたいに尖っていて、その激情ぶりが怖いと感じた。

「どっか行け、フンッ」

「うっわ」

 なぜか私の膝裏を蹴って、細身のおばさんは行ってしまった。たいして痛くはなかったけど、見ず知らずの女性から暴力を受けたのは少なからずの衝撃だった。アヤメは知らん顔を決め込んでいる。

「あたしってさ、島のおばさん連中から、あんまり好かれていないんだよ」

 あんまり好かれていない、ではなくて、相当に嫌われているという状態だろう。陰口もけっこう言われていたが、面と向かっても手加減なしに罵られた。私が蹴られるほどに、どうしてアヤメが目の敵にされているのかを訊いてみた。

「仕事上のことよ」

「仕事って、コンブ干しとか、漁の手伝いとかか。ペンキとか」

「あたしね、ほら、仕事がでめんとりだから、おばさんたちの分まで取ってしまうんだ。焼き場の仕事だっていい日給になるし、やりたいって人がいるんだよ。お金のことは恨みを買っちゃうからさ」

 小さく貧しい島なので、働ける職種は限られている。稼げる仕事は奪い合いとなり、あぶれた者は憤懣やるかたなしというわけだ。

「仕事は日名子さんに頼むのか」

「ここで仕事をくれるのは西出くらいだから」

「日名子さんが嫌いなのに、よく仕事を回してもらえるよな」

「あたしはよく働くのっ。おばさん連中みたいに、くっちゃべってばかりでロクに働かないのと一緒にするな。それに私情と仕事はべつなのよ、別。あたりまえでしょ。あったり前田のクラッカーだべさ。なに言っての、バカっしょや。バカ芳一」

 なぜかアヤメの琴線に触れてしまったらしく、プイッとあっちのほうを向いてしまった。ふつうに話をしていたら、いきなり怒り出すのだ。この島の女性は難しいぞ。あけ美にとやかく言われていたコッタの心境が、なんとなくわかったような気がする。今度会ったら、あいつに前田のクラッカーを買ってやろう。西出商店にあればよいのだが。

「芳一、あしたにでもさ、あたしの家に来なよ。ホットケーキ作ってあげるから」

 唐突にお誘いを受けた。ええっと、どういうことだ。機嫌を損ねていたのではないのか。

「いや、君の家を知らないし、なんていうか、そのう」正直にいうと、かなり戸惑ってしまった。

「コッタが知ってるから大丈夫だよ。連れてきてもらえばいいんだ」

「コッタの家を知らないし」

 間のぬけたことを言ってしまった。口をへの字に曲げたアヤメが真正面に立って、私の足を思いっきり踏んだ。

「あ、イタッ」小指の付け根をやられた。足の指でもっとも弱い箇所だ。気持としては嬉しいのだけど足は痛いという、相反する感覚がむず痒い。 

「コッタはバッタをとってるから、野っ原にいけば転がってるんだからっ」

 バッタ少年らしく出没場所は明快なのである。いやまてよ、あいつも一緒ということか。

「それと、名前で呼んでよ。君、君って、ここは都会じゃないんだからさ」

「じゃあ、アヤメ」と、とりあえず言ってみた。とっくりセーターの女がニコッと微笑んだ。

「約束はできないよ。オレも仕事で来ているから、そのう、先生しだいだ。たぶん、忙しいと思う」

 葬式の準備やなにかで、当分は調査をできないのではないか。だとすると、ヒマな時間がけっこうあると皮算用してみる。だけど、もったいぶった態度を見せるのは必要だろう。

「ジャンジャのこと、島の呪いのことを、もっと教えてあげる。どんなに発展した医学でも、都会のお医者さんでも絶対に治せないってことをさ」

「なにを知ってるんだ」

「芳一が知らないこと。島の者でも知らないこと」

 ひょっとして、アヤメはジャンジャの核心を知っているのか。いや、医学者でもない無学の島娘が、病理に関する知見など持ち合わせているはずがない。シロウトの当てずっぽだろう。思いこみが激しいタイプの女性みたいなので、自分の中で物語を作っているんだ。

「そしてさ」

 ググっと体をくっ付けてきた。小首を傾げながら、妖しげな目線を貼り付けてくる。

「あたしのこともね、教えてあげるから」

 最後にそう言うと、パっと離れた。少し距離をとって、私を見つめている。彼女の表情の内側を読み取ろうとしたけど、高鳴る鼓動が気になって集中できなかった。夕闇の向こうへ行ってしまうアヤメを黙って見送るしかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る