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 吐いていた。

 私ではない。

 船の舷側に手をつけて、海面に向かってゲボゲボやっているのは、助手の横山さんだ。

 船酔いにだいぶやられていて、吐き出しているモノは非常に汚いのだが、その様子は清々しいまでの逆流っぷりだった。

 私たちが乗っている漁船はそこそこの大きさではあるが、舷側の木材が腐っている年代物だ。まさか沈没することはないと思うが、目的地に着く前に浸水するのではと心配になってしまう。バンバンと船底が波に当たるたびに、水しぶきが顔に当たって冷たかった。

「ウゲェー、苦しい。死にそうだあ」

 絶賛船酔い中の横山さんは気の毒だけど、その様子を見せられているこっちも、気持ち悪さを不用意にもらってしまいそうだ。風圧がついた酸っぱいニオイが来てしまい、除けるのに苦労する。

「だから、あんまり食うなといったんだ。朝っぱらから三杯もおかわりするやつがあるか」

 バカタレ、と先生が怒っている、というか呆れていた。胸ポケットからシンセイを取り出してマッチをこするけど、潮風にあおられてすぐに消えてしまう。

 チャッチャッチャッと三本ほどこするが、どれも瞬く間に消えてしまった。すると、イラだってマッチ箱をくしゃっと握り潰した。角刈りでコワモテな顔をしているが、じっさいも気が短かったりする。医者によくある感じだなあと思う。

 仏頂面した先生に、操舵室から船長さん出てきてオイルライターを投げてくれた。火を点けてようやく煙を吸い込むことができて、鼻から信じられない量の煙を二直線に吐き出した。なお、借り物をポケットに仕舞い込んでしまうのは先生のいつもの癖で、なんというか仕様でもある。

「あんまりにも美味しかったもんで、つい。ああ~、でも無理しちゃったかな。へへ」

 言い訳する横山さんは、青白くなった顔に無理やり愛想笑いを浮かべ、こみ上げる酸っぱさと苦みをこらえている様子だった。

 宿の朝食が豪勢だった。カニのぶつ切りがたっぷりと入った味噌汁が美味しいのなんの。キンキの焼き物も、干し具合と塩っけが絶妙で、横山さんではないが私もご飯をおかわりしてしまった。骨の髄をしゃぶったら、銀シャリをもう一杯いけそうであった。

「この船、沈みそうだけど大丈夫なのか」

 ぶっきらぼうな言いかただが、先生はいつもこんな感じだ。初対面であるガタイのいい漁師に向かって恐れを知らない。オイルライターは返さないままだ。

 船の乗員は、私と先生、先生の助手の横山さん、船長の四人だけだ。目的地というか、目的の島は眼前にあるはずだが見えてこない。前方に濃いガスがかかっていて、白色の圧力が重いと感じた。

「けっこう速いですね、この船。すごいですよ」

 船長が、あきらかに敵意の目線を先生に向けている。ただでさえゲボ臭い空気が、さらに淀んでしまいそうだ。だから機嫌をとることにした。    

「そりゃあ、おめえ、この船はよう、零戦のエンジン付けてっからな」

「え、そうなんですか」

「もと陸軍の駐屯地になげてあったのを、オヤジがかっぱらってきたべや」

「へえ、それはすごい」

 この船長、けっこうなホラ吹きだ。

 航空機の大きなエンジンを、しかも空冷発動機を漁船に使うはずがない。真っ黒い煙をポンスカポンスカと吐き出しているこの船の動力は、どう考えても、そのへんの安物じゃないか。零戦は海軍機だったし。

「アホか」先生が呆れ顔だ。船長は知らん顔をしている。

「お、ガスが晴れてきたぞ。あそこに見える瘡蓋みてえのが、保古丹島だ。オレらは瘡蓋島っていってけどな。あとジャンジャ島な」

「けっこう大きいなあ。小島っていうから、もっとこじんまりしているんだと思ってた」

 ちょっと目を離している間に、唐突にガスが晴れてきた。白い靄が遠ざかっていくほどに、赤茶けた島が近づいてくる。自称零戦の発動機が過給でも始めたのか、船の速さは快速だ。見えた瞬間はそれほどでもなかったが、間近にくると島の大きさに圧倒される。

「島の端から端まで八キロ弱あるから、まあ、そこそこだ」と言ったのは先生だ。

「山もありますね」

 平らな島だと聞いていた。起伏があるのだったら疲れそうだ。とにかく歩くのが仕事になると先生が言っていた。雑用係の私は、当然重たい荷物を運ぶのだろう。

「山っつうほどでもねえよ。こっち側か見れば盛り上がってるけど、後ろっ側はほぼ平だ。馬も牛飼ってたしな。まあ、気色悪いから行ったことはねえけどよ」

 なるほど、よく見れば丘というレベルだが、周りが海しかないので大仰に見えてしまうのは心理だな。

「うわあ、ホントに瘡蓋みたいに見えますね。あれ、べりべり剥がしたら痛そう。血が出てきたりして。ハハハ」

 横山さんの調子が良くなってきた。もうすぐ船酔いから解放されるので、気持ちが上向いている。

「あんたら、島の連中に瘡蓋瘡蓋って言うなよ。あいつら、なまら気にしてっから」

 島の姿は痛々しく見えた。崩れやすいのか岩肌が露出して礫が多い感じだ。デコボコしているし、ガスが晴れて陽ができてきたから、光が当たって色が強調されている。全体的に赤黒い印象だ。

「なんで、あんなに赤黒いんですかね」

「そりゃあ、おめえ、無残に死んでいった島のモンの血だべや」

「無残?血?」

「最初はなあ、アイヌが住んでたんだけど、ラッコ漁のことで松前と戦争になって攻め滅ぼされたんだ。とにかく侍どもがひでえことしたみたいで、女子供でも容赦しねえで、叩き斬ったらしいぞ。この島にはなあ、昔っからいい噂がねえべや」

 船長のバカでかい声の話を要約すると、その昔、あの島にはアイヌの集落があって、けっこう栄えていたみたいだが、ラッコ猟の権益のことで松前藩と戦争になってしまい。島民が虐殺されたとのことだ。

「島が血だらけになって、海にまで滴っていたってことだあ。それが瘡蓋になって、剥がれても剥がれても、また膿んできやがるんだとよ」

 遠い昔の誰かの記憶を、船長は得意な顔で話していた。本当の史実なのかはすごく疑わしいが、創作として言い伝えられるほどの惨劇があったかもしれない。これからしばらく住むところなのに、縁起でもないことを聞いてしまった。

 唾をあらかた飛ばし終えた船長がいっぷくしたくなったのか、バットを取り出して一本を口にくわえた。火を点けようとするが、ライターがなくて服のあちこちをバタバタと叩いていた。先生がオイルライターで火つけてやると、「すまねえ、先生さん」と言って三回ほど頭を下げた。もちろん、それが持ち主に返されることはなかった。

「赤く見えるのは、酸化鉄が多い土壌なんじゃないですかね」と横山さんが言う。

「それとアッケシソウだ。霧で、あっちこっちシケっているから、アッケシソウが群生しているんだ。ここのはどういうわけか、秋でもないのに一年中赤くなっているがな」

 やっぱり鉄分が多いんでしょうね、と横山さんが頷いていた。

 アッケシソウという赤い植物がけっこう生えているらしい。島民が赤シソを好んで植えているとも言っているが、土壌の色や植物などで赤茶けた見た目となっているようだ。けして、首を斬り落とされた人間の血などではない。

 私たちの乗った船が、少しばかりくぼんで湾みたいになった浜辺に入った。木製の桟橋があった。減速しながらゆっくりと進み、そこへ滑るようにつけた。浜の奥のほうに数隻の小舟が見える。砂地ではなくて丸い石が敷かれていた。船長によると、晴れの日には昆布を干す場所とのことだ

「ようやく着きましたね。いやあ、長かったなあ」

 横山さんの青白く不健康な笑顔がまぶしい。所要時間は二時間弱だが、船酔いに苦しんだので長く感じたようだ。

 私はというと、人生初の小航海があんがい興味深く感じたので、横山さんの風上に移動して、もう少し楽しみたかった。 

「ここが保古丹島だ。横山と芳一(よしいち)、くれぐれも島の連中にヘンなこと言うなよ。札幌と違って、いろいろと変わっているからな」

 船長は瘡蓋島やジャンジャ島と言っていたが、正式な名称は保古丹島(ほこたんじま)だ。先生は島民を気づかっている。汽車の中でも宿でも、イザコザを起こすような言動や態度をするなと、何度も念を押された。

「ちっ、さっそくガキどもがきやがった。さっさおろすべや」

 いかにも小学生な子供たちが数人、黄色い声をあげながらこちらへやって来る。荷下ろしは私の仕事だが、船長が率先して出番を奪っていた。

「芳一、おまえの仕事だ。でめんちん分は働け」

 先生にハッパをかけられた。グズグズしていたら蹴飛ばされそうなので、でめんちん分の仕事はしようと思う。

 医療品の荷物には、顕微鏡やスライドグラス等のガラス製の検査器具と試薬の瓶、薬品類がたくさん入っているので、乱暴に扱われると壊れてしまう。漁師気質なのか船長の手さばきが豪快だ。放り投げられるバック類を、桟橋でキャッチするのが私の役目となった。

 瞬く間に荷下ろしが終わった。桟橋で背中を伸ばしている私たちとは対照的に、船長はアタフタと焦っている様子だ。子供たちは桟橋への入り口付近で一時停止して、こっちを見ている。

「船長さん、せっかく来たんだし、お茶でも飲んでいけばどうですか」と、横山さんが声をかけた。

「冗談じゃねえ。ここにいるとジャンジャになっちまうべや。ガキどもに触ってもあぶねえぞ。ここは呪われてんだ、危なくてじっとしてられるかっ」

 そう言い放って操舵室に駆け込んでしまった。ボボボボーッと偽零戦の発動機が唸り、錆だらけの排気管から真っ黒な煙が一直線にあがって、急ぎ足で船が遠ざかってしまった。

「ええーっと」

 島の風土病のことはそれとなく聞かされていたが、症状の詳しいことは知らない。触っただけで感染してしまうとか、それはかなりイヤだ。ちょっと心配になってきた。

「芳一さん、大丈夫ですよ。ここの風土病は接触感染や空気感染はしませんから」

 私の心理を察知したのか、横山さんが笑みを浮かべてそう言ってくれた。

ただし、「蚊には気をつけろよ。なるべく腕をまくったりするな。蚊取り線香をもってきているから、一晩中焚いとけ。のっつり発病すっぞ」と先生は不安なことを言う。ウソか冗談かと思いたい。

「ははは」と愛想笑いしていたら、横山さんが少し遠くのほうを見ていた。

「あれは村長さんたちですかね」

 子供たちが立っている向こうから大人たちが歩いてくる。女性を先頭に、ここから数えると七人の男女だ。けっこう歳がいっているように見える。中年以上だろうな。若い女でもいれば独り身の私としてはうれしいのだけど、そんなことを考えただけで先生に怒られそうだ。

「堂島先生、よく来てくれました。お久しぶりですね」

 出迎えの一行が桟橋まで来てくれた。子供たちは大人の尻尾についてきて、物おじしている感じだ。先生と女性が対面する。

「日名子(ひなこ)さん、ご無沙汰しています。七年ぶりですか」

「わたしにとってはつい昨日のことみたいだけど、先生は忘れていたのではないかしら」

「いつもお世話になりっぱなしで、恩人のことは忘れたくとも忘れられませんよ」

「それは、こちらこそですよ。こんなさびしい離れ小島にお医者さんがきてくれたんですから、島のみんな共々、ありがたくて、ありがたくて」

 日名子さんという女性の方は村長さんだ。なんというか物腰が柔らかそうで、しかも上品な感じがする。五十代の女性だと聞いていたけど、どう見ても四十そこそこに見えた。少しぴっちりなスカートが素敵である。先生とは知り合いであり、さも親し気に話をしていた。

 ここはソ連にほど近い沖合の孤島なので、うす汚れた襦袢に丹前を被った潮臭いばあさんでも出てくると思っていた。後ろの人たちも、札幌人から比べるとやっぱり田舎っぽいけど、ふつうな感じだ。  

「でも正直言うと、もう来てくれないのではないかと心配もしていましたよ」

「ほんとうは、もっと早く来たかったんですが、道からなかなか予算が出なくて」

「なんでもお金ですものね」と言って日名子さんが笑うと、「いやあ」と先生がバツの悪そうに頭を掻いていた。

「日名子さん、あいかわらずきれいでビックリですな。ちっとも歳をとっていない。それどころか、より女の味が増したというか」

 先生は身内の男には厳しいが、他人の女性には対極となる。とくにきれいな人には、めっぽう弱い。

日名子さんは、「なあもだ、ババアになったっしょ」とケラケラ笑っている。

「こんにちは。僕は横山日出夫(よこやまひでお)と申します。道立公衆衛生・防疫研究所で堂島先生の助手をしております」

 ほどよいタイミングで横山さんが挨拶した。さすがにちゃんとした勤め人は、登場の時合を心得ている。

「あらあ、前の助手の方とは違うんですね。めずらしい苗字の若い方」

「五軒家(ごけんや)は北大病院に行きましたよ。まあ、あっちは国立だから金がいいんですわ」

 日名子さんは、あらためて「保古丹島の村長をしています西出日名子と申します。よろしくお願いします」と、気品のあるお辞儀を披露した。

「そちらのお若い方も、お医者さんですか」

 いよいよ私の出番となった。注目されることに慣れていないから、少し緊張してしまう。医学生などとんでもないただのでんめとりなのだが、偉そうに咳払いなどしてしまった。

「なんもですよ。こいつは甥っ子の芳一で、高校を出てからロクな仕事をしてなくて、つい最近も飲み屋のボーイをやめてぶらぶらしていたから、実家から引っぱり出してきたんですわ。雑用係なんで、便所の汲み取りでも馬糞集めにでも使ってやってください」

 これはひどい。

 私の紹介がぞんざい過ぎて泣けてきた。それに飲み屋のボーイじゃなくてホテル務めだったから。今回は雑用係だけど、もうちょっとカッコよく紹介してくれてもいいんじゃないか。

「もう二十五にもなるのに、定職にもつかないで、書生になるとか漫画を描くとか、夢みたいなことを言って、どうしようもないやつなんですよ」

 そこまで追い打ちをかけなくてもいいと思う。それと、目指しているのは漫画家でなくて、いちおう小説家だから。ほんとに叔父は、テキトーで口が悪くて困る。戦争で南方に行ってから性格がきつくなったと親父が言っていたが、生まれつきではないだろうか。

「若いうちは、いろんなことをしていたほうがいいのよ。先生と仕事をすると、きっとすごい人になるのじゃないかしら」

ありがたいことに、初対面の日名子さんが気を使ってくれた。

「ははは。まあ、そういうこともあるのかな。芳一、精進しろよ」

 きつくなるのは、あくまでも私や横山さんにであって、美人の村長さんには適用されない。

「立ち話もなんですから、行きましょうか。島の物しかないのだけど、お酒や料理を用意しましたから」

 日名子さんがそう言うと、子供たちが、わあわあと騒いでまとわりついてきた。荷物を運ばないとならないのだけど、手足を四人のちびっ子に奪われてしまい自由が効かない。さっき船長に言われたことが一瞬頭をかすめたが、横山さんを信じてされるがままにした。子供たちにじゃれ付かれるのは、そんなにイヤではない。

「芳一。おまえは雑用係なんだから、仕事しろ、仕事」

 はいはい。

 でもですね、そうしたいのはやまやまだけど、笑顔のちびっ子たちを無碍にはできないでしょう、と思ってウダウダしていたら、村の人たちが荷物を持って運んでくれている。先生の目線が痛いと感じた。でめんちんに響くのはイヤだな。子供たちを引っぱりながら、桟橋を出ようとした時だった。

「うおおおー、ぐおおおー」

 唐突に三人の男の子がやってきた。真ん中の一人を両側の二人が肩にかつぐ格好で、小走りでやって来る。怒鳴るような大声を張り上げていた。三人とも中学生ぐらいだろうか。五分刈りくらいの坊主頭二人と坊ちゃん刈りが一人だ。叫んでいる男の子の横っ側には、十円玉ほどのハゲがあった。

「日名子おばさん、日名子おばさん」

「哲男、どうした」

「俺、確率がきたよ。きたよっ、なんまら寒いんだ。震えるし、絶対そうだ。キターッ」

「そうか、きたか。いま確率がきたか。いよいよおまえにもきたか」

「ジャンジャ、ジャンジャ」と叫んで、哲夫と呼ばれた十円玉のハゲ中学生が、両肩を振りほどいて一人で立った。両手で拳をつくって、何度も突き出していた。プロレスラーほどではないが、なかなかに気迫を感じさせる。

「哲夫、おまえのジャンジャはどんなんだ。おばさんに見えてくれ」

「俺のジャンジャは、ううー、寒、寒、さむいよう」彼は震えていた。

「そうだ、ジャンジャは寒いだろう。おまえのその寒さがジャンジャだ。みんなのジャンジャだ」

ジャンジャ、ジャンジャと言い放つ日名子さんの表情が真剣だ。哲夫少年もジャンジャと叫んで、その場で足をジタバタさせている。

これはなんなんだ。なにが起こっているんだ。

「ジャンジャ、ジャンジャ」

「ジャンジャ、ジャンジャ」

 ほかの男子中学生が言い出した。荷物を運んでいた大人たちも集まっている。哲夫少年を取り囲む輪ができた。こころなしか、私にしがみ付いている子供たちの締め付けが強くなったように思う。 

「哲夫のジャンジャだ。哲夫、がんばれ、がんばれ」

 哲夫少年が両腕を身体の前に並べて肘から折り曲げた。そしてグルグルと回し始める。腕を交互に回しながら何度も何度も屈伸して、さらに腰を落として歩きはじめた。ステップみたいのを踏んでいる。ゴーゴーで、こんなダンスがあったような気がするな。

 だけどキレがないし音楽もないので、すごくさびしい感じだ。おだった中学生の恥ずかしい悪ふざけでしかない。担任の先生に見つかったら、張り手を食らわされるのは確実だ。

 輪になった大人たちから手拍子が始まった。中心にいる哲夫少年がジャンジャ言いながら、ダンスらしきヘンテコな動きを続けている。それがけして楽しそうではないのは、本人が歯を食いしばって必死の表情をしていることからわかった。

「いいぞ、いいぞ、哲夫。おまえのジャンジャは、じつに活気がある。これで立派な保古丹の男だ」

 日名子さんがそう言うと、少年の動きが速くなった。

 褒められたから、なおさら頑張るという子供らしい心境なのだろう。だけど、具合が悪いんじゃないかな。さっきは寒い寒いと言っていたし、だんだんとふらついてきた。顔色というか全身の様子が、船酔いに苦しんでいた横山さんとそっくりだ。息づかいが荒くて、かなり熱が出ているように見える。たぶん、彼の口元に手を当てると熱いだろう。

「哲っちゃん、ほら、ケッパレ。ジャンジャ、ジャンジャ」

「オレもやるから。オレもやるから、ケッパレー。ジャンジャ、ジャンジャ」

 二人の中学生たちが哲夫少年のそばに寄って激励している。ジャンジャ、ジャンジャと掛け声をぶつけて、一人は鶴の舞のように両手を掲げて片足立ちをして、もう一人はというと、うわあ、これはツイストだよな。坊主頭の中学生たちのダンスだ。ゴーゴー喫茶ではなくて、離れ小島の浜でロックン・ロールだ。

 私にまとわりついていたちびっ子たちが、いつの間にか離れていた。少し間隔をあけてじっと見つめている。中学生や大人たちみたいに賑やかな感じではなく、男の子も女の子もすました表情である。

「先生が言っていたのは、このことか。たしかに、これはすごく変わっているなあ」

「横山さん、あれはなんですか。なんかの儀式とか」

 私と同じく横山さんもこの島へは初上陸だけど、先生の助手なんだから前もって事情を聞かされているはずだ。

「この島の人たちは、長いことジャンジャと呼ばれる風土病と付き合っているんですよ。ふだんの生活とかお祭りとか、なんでもかんでもジャンジャに関連付けられてしまって、独特の風習というか、決まりがあるみたいなんです」

 という説明を聞いていたら、いよいよ恥ずかしくなってきたのか、哲夫少年の動きが突然止まった。真っ直ぐ前を見つめたまま棒立ちして数秒間後、半回転しながらぶっ倒れてしまった。

「こりゃイカン」

 先生が駆け寄ると同時に横山さんも続いた。なんだか知らないけど、医療調査班の雑用係の私としても、何かしなければいけないのではないかと焦る。少年は手足が震えているというか、ひきつけを起こしたみたいに揺れていた。

「悪寒戦慄ですね、先生。やっぱりフィラリア症でしょうか」

「前回、そういう結論を出して駆虫薬を投与したが、効果はほとんどなかった」

「手足に軽い振戦が見られます。口蓋もなにかを噛んでいるみたいだ。先生、これは神経系の機能障害ということもあるのかと」

「この風土病には筋の異常な反復性や顔面の不随意運動が見られることがあるが、そうならないこともある。いろいろとわからんことが多い。でも、初期症状が出たときに遭遇したのは具合がいいぞ」

「採血はここでしますか」

「もちろんだ。芳一っ」血液をとるから検査器具を持って来いと、先生に命じられた。

「ええーっと」いきなりそんなことを言われても、どのバッグに入っているのか、荷物運びでしかない私は知らない。仕舞い込んだのは先生と横山さんだ。だから、もたもたしてしまう。

「ちっ」と舌打ちしながら、先生が取りに行った。申し訳ないと思ったが、私が時間をかけてゴソゴソやるよりも、医者本人が直接探したほうが早い。

 なぜか、日名子さんと大人たちは黙って見ていた。

 島の中学生が昏倒状態なのに、治療している先生と横山さんを手伝おうともしない。二人の中学生男子も同じだ。不思議に思って口を出してしまう。

「あのう、心配じゃないんですか。ひきつけを起こしてるようだけど」

「ジャンジャの最初は、みんなこうなるのよ。死にやしないし、どんな薬を飲ませても治まらない」と素っ気ない返答だった。

「でも、先生が」

「堂島先生は血をとって検査するだけよ。症状が落ち着くまで見てればいいの。待つしかないわ」

 さっきの歓迎の時と比べると、二トーンぐらい低い声だった。それ以上の無駄話は受け付けたくない、との雰囲気が強い。

「なあに、三十分もすれば、震えがスーッと引いて、ウソみてえに気分がよくなるって」

「そうそう。あたしの時なんかさあ、震えてるときにウンコ洩らしちゃったよ。ホヤにあたった次の日で、ばあちゃんの下痢止めで、なんとか抑えてたのにさ」

「あんときのおまえは、なまら臭かったべや。教室がすっげえニオイで、鼻つまんでも臭え。口で息すったら、ホヤの味したぞ、ホヤの味」

「グラマンが空襲に来た日だよ、なつかしいねえ。安田のじいさんが番屋の前でションベンしてて、機関銃でチンポコ撃たれちゃってさあ。立ったままお尻から煙だしてたって」

 近所にある豆腐屋の奥さんに似ている小太りの女の人と角刈りの旦那さん、ソバカスだらけの女が話していた。

「そんなウンコたれの女を女房にしてんだから、あんたは好き者なんだべさ」

「まあ、そういうのもいいべや」

 きゃははははー、と笑ったのは日名子さんだ。世間話に花を咲かせている場合ではないと、ガタガタ震えている中学生を見て思うのだけど、大人たちは手を叩いてゲラゲラやっていた。哀しいことに、中心にいる哲夫少年は注目されていない。

「痙攣が止まらんな」

「鎮静剤を使いますか、先生」

「そうだな。皮下注射ならあんがいといいかもしれない」

 先生が聞きなれない薬剤名を言って、横山さんがバックから注射器を出した。アンプルの頭の部分を折って逆さにし、液体を注入する。注射が大嫌いなので、なるべく見たくはないが目がいってしまう。哲夫少年の腕に刺してから、ちょっとの間を置いた。

「治まってきました」

「経口薬はさっぱりだったが、注射なら効くのか」

 バタバタと震えていた中学生が静かになった。友だちの一人が、いまだ鶴の舞をしながらジャンジャと小声で言っている。 

「まさか、ジャンジャが治ったのかい」

 眉間に皺を寄せて、日名子さんが近づいてきた。先生が施した治療の成果に驚いている様子だ。うちの叔父は、口は悪いんだけど名医なんだ。なにせ軍隊仕込みだから、数多の修羅場をかいくぐっている。そこのところは親戚の者としては自慢したい。

「先生、魔法の薬でも使ったの」

 日名子さんは、タイトなスカートを気にしながら屈んで、哲夫少年の顔をあっちからこっちから覗き込んでいた。

「鎮静剤なので一時的なものです。ジャンジャという病気が治ったわけではありませんよ」

 横山さんがそう説明すると、日名子さんは?の表情のまま立ち上がった。

「この前のときの薬は効かなかったのに」

「医学は日々進歩するもんですよ。飲み薬は即効性に欠けるので、今回は注射を持ってきたんです。この島のジャンジャも、きっと治療法があります。いや、今回の調査で治してみせますから」

 先生も立ち上がっている。横山さんが哲夫少年の容態を診ていた。

「先生、ひょっとして奇跡が起きるのかしら。ジャンジャがなくなることは、西出の家の、保古丹の悲願だから」

「そのために俺が来たんですわ」

 胸を張ったわけではないが、そう言い切った先生は頼り甲斐があった。

 いい年なんだけど、若い頃に第七師団で鍛えただけあって、いまでもガッチリとした体格だ。医者というより、渡世人みたいな風格がある。男やもめにしておくのがもったいない、とは母さんの口癖で、ことあるごとに縁談の話を持っていくのだけど、若い娘でなければ話にならん、と先生はいつも断っていた。だけど紹介されるのは、いつも若い娘なんだけどな。私に欲しいくらいだよ。

 誰が伝えたのか、また島民がやって来た。男だけの四人が、担架代わりに一畳ほどある板を持ってきた。そこに痙攣が治まった中学生をのせて運び出す。先生と日名子さんが傍について歩いていた。ほかの人たちもぞろぞろと付いてゆく。最後尾の中学生は、鶴の羽ばたきをしながらジャンジャジャンジャと言い、もう一人は、あの痛々しくも切ないツイストでジャンジャと唸っていた。笑っていいのか、呆れてしまおうか、私の戸惑いはけっこう深い。

 上陸した途端に騒動となってしまったけれど、ようやっと落ち着いた。どこに行ってしまったのか、私にまとわりついていた子供たちの姿はなかった。キャッキャと黄色い声を聞かされるのは、まんざら悪い気もしなかったので、あとで見かけたら遊んでやろうと思う。



 札幌市内中心部のたいして立派でもないホテルでボーイをやっていたが、半年くらい前に辞めてしまった。理由は人間関係っていうか、まあ、そういう類だ。三年くらいしか働いていなかったので未練はなかった。

 それからは定職につかないで、造園屋の日雇いとか、社員食堂の皿洗いとかをやっていた。ホテル務めとは違って時間に余裕ができたので、小説の構想を練るにはちょうどよかった。

「それで、どんな本を書いているんだ。見せてみろ」

ふらりと叔父が家に立ち寄って、居間で母さんと世間話をしていた。運悪く、ちょうどそこへ通りかかってしまった。

「本とかは、まだだよ。いろいろと準備して書かなきゃならないから」

「出版社に話はついているのか」

「そういうのは、まあ、ないよ。完成してから原稿を持っていこうと思ってるんだ」

「東京まで、わざわざ行くのか。どうやって、金あるのか」

「汽車と連絡船を乗り継いでだよ。鈍行だったら安くすむから」

「おまえみたいな田舎もんの書いたものなんか、相手にされるわけないだろう。夢みたいなこと言ってないで、ちゃんとした勤め人になれ」

 いきなり説教されてしまい、あまりいい気分ではなかった。母さんはいつも叔父さんの味方なので、そうだそうだと相槌を打っていた。言い返しても、よけいに火力を強くしてしまうので黙っていた。二度と小説の話をしないと心に誓った。

「根室のちょっと沖合に保古丹っていう島があるんだけど、今度、防研の医学的な調査というか、臨床治験に行くことになったんだ」

 さらなる説教が始まるかと構えていたら、急に話題が変わった。叔父の怒ったような顔が少し柔らかくなっている。栗羊羹をむしゃむしゃと食べて、すごく熱いお茶を平気な顔で一気に啜った。

「その島にしか発症しない興味深い症例があるんだ。横山を連れて行くんだけど、もう一人が都合つかなくてな。治験は二人でできるんだけど、いろいろと雑務があるから、人が足りないんだよ」

 母さんが栗羊羹の追加を持ってきて、さらにしょうゆ煎餅も追加した。柔らかくて硬質な菓子を、叔父さんは遠慮せずにムシャムシャバリバリボリボリと食べすすめて、全部平らげてしまった。

「どうだ、芳一。手伝いとして一緒に来ないか。まじめに働いたら知り合いの病院に口をきいてやるぞ。事務で欠員が出たとか言ってたからな」 

 なにかと思えば仕事の誘いか。縁故で就職っていうのも、なにか違う気がするし、事務係は地味だ。その前に根室の島に行って、病人の相手をしなきゃいけないという。

 どうせ暇なのだから手伝ってきなさいと、母さんの強気が鬱陶しかった。札幌から離れるのは面倒くさいと思ったが、仕事のことで父さんとケンカして気まずくなっていたから、しばらく家を離れたほうがいいのではとの打算が働いた。

 日当はいくら貰えるのかと訊くと、意外にもおいしい答えが返ってきた。根室はすごく遠いけれど、汽車にゆられながら知らない土地に行くのも旅気分ではないか。素敵な出会いがあるかもしれない。



 そんな悠長な考えで雑用係を引き受けたが、上陸して十分くらいで後悔し始めた。来てはいけない所に足を踏み入れてしまったのではないかと、心の中の不安が大きくなった。。

 まずはジャンジャと呼ばれる病気だ。

 奇病であると汽車の中でなんとなく聞かされていたが、目の前で苦しむ中学生を見たのは、なかなかの衝撃だった。船長は伝染病みたいなことを言って、島へ上陸することすら嫌がっていた。専門家は人から人への感染はないと断言したが、もしもということがある。

 それと島民の対応がなんというか、すごく奇妙だった。哲夫少年がジャンジャという病気を発症して苦しそうにしているのに、みんなで病気になったことを喜んでいた。ふつうは心配したり、看病したりするだろう。だけど、どういうわけかお祭り騒ぎで、当の本人もぶっ倒れるまでダンスをしていた。どこかが狂っているように思える。

「芳一、おまえが荷物を持たなくてどうするんだ」

 考えながら歩いていると、先を行く先生に怒らてしまった。

「え」

 私は、なにも持っていないことに気がついた。つまり、仕事をしていないのだ。

「芳一さん。ひょっとして自分の荷物を置いてきたんじゃないですか」

 しかも、下着類が入った私用のバックも忘れてきてしまった。さっき運ぼうとした島民に、それは自分の物なのでと断っていた。

「バカタレが、すぐにとってこい。俺たちは先に行っているからな。道がついているから迷うなよ」村役場にいるからと言われたが、どこにあるのかわからない。初めての島なのに、一人でたどり着けるのか微妙なところだ。

 病人がいるので先生たちは先を急ぐとのことで、私は一人で桟橋がある浜辺まで戻った。

「ん?」

 誰かいる。女の人だな。

 哲夫少年が倒れていた付近にある私のバックを開けて、興味深そうに中身をほじくっているではないか。けっこう夢中だったらしく、そばに立っても気づかなかった。

「おっほん」と、わざとらしく咳払いをすると、急に立ち上がって気をつけの姿勢になった。地味な色のズボンにとっくりセーターと、いたって田舎の人である。二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。

「ええっと、それはオレのバックなんだけど」

「知ってる。べつに、ちょしてたわけじゃないから」

 いや、しっかりと中身を見ていたどころか、私のパンツを握っているではないか。母さんがしっかりと洗ってくれたので、衛生的なのが安心である。

「あんたなんか知らないんだけど。なんなの」

「いや、なんなのと言われても、先生の助手の助手というか」

 雑用係という役職は、初対面の女性には言いづらかった。

「ジャンジャのお医者さんがくるって聞いたけど、あんたなの。東京から来たんでしょ」

 都会から医者がやって来るとの、噂レベルの告知が全島にあったらしい。しかしながら、私の街は東京ほど大きくない。

「札幌だけど」

「へえ~、威張ってんの」

「いや、東京ではないってことだよ」

「札幌のお医者さんだから自慢したって、あたしは気にもしないんだから」

 この女、なかなか好戦的だぞ。しかも、私は雑用係であって医者ではない。

「あたしさあ、アヤメだから。犬井アヤメ(いぬいあやめ)」

「ええーっと」

 ぶっきらぼうだったのに、いきなり自己紹介されて焦る。あれえ、私は嫌われているんじゃないのか。まあ、でも、いちおう、自己紹介を返さなければならないだろう。

「オレは堂島芳一(どうじまよしいち)、だから」

「知らない」

「え」

「だから、あんたの名前なんか知らないって言ってるっしょ。はんかくさいんじゃないの」

 アヤメは、プイッと顔を背けてしまった。日名子さんとは違って、会話が成り立たない性質の島女かもしれない。

「オレの下着を返してくれないか。その手に持っているのだよ」

 私のパンツを握っているので、それはぜひとも持ち主へ返還してほしかった。

「ダメ」

「なんでだよ。この島じゃあ、人のバックから勝手にものをとっていいのかよ」

「だって、カナコに履かせるんだから仕方ないっしょや」

「え」

 カナコ、とは誰だ。

 妹、いや、娘か。どちらにしても女性に男もののパンツは似つかわしくないし、なんというか不純だ。ひょっとして貧しくて下着も買えないのか。少しばかりの金を持参しているので、もし家族の誰かに下着が欲しいのなら、買ってやってもいいと思った。

「カナコは、保古丹に一匹しかいないウサギなんだよ」

「ウサギかよっ」

 まさかのウサギだった。ぴょんぴょん跳ねる白いアイツである。

「ウサギに下着を履かせるなよ。しかも、なんでオレのパンツなんだ」

「だって、テレビでやってたから」

「こんな離れ小島にテレビがあるんだ」

 近所にもテレビのない家があるのに、極東の果てのソ連領のすぐ近くで、電波がきちんと届いているのだろうか。

「バカにするな。映りは悪いけど、あたしの家にはテレビだってレコードだってあるんだ」

 本気で怒っているのか、口元をへの字にさせた顔がすごく近い。嘲られたかと思ったのか、手にしていたパンツを私にではなくて向こうへ放り投げてしまった。慌てて取りに行って、とりあえずズボンのポケットにねじ込んだ。

「これ、あげる」

 いきなり木の枝みたいなのを差し出されて、反射的に受け取ってしまった。

「トバだよ」と言って笑顔になっていた。

 くれたのは鮭の燻製だ。鮭トバは父さんの大好物で、ぬる燗を飲みながら永遠とくちゃくちゃやるのが楽しみとなっている。

「あたしが作るの。ばあちゃん直伝なんだよ。すっごくおいしいんだ。保古丹で一番だから、みんな買いにくるんだよ」

「へえ」せっかくなので、味見をしてみる。

 たしかに美味い。父さんが買ってくるやつは、乾ききって歯が欠けそうなほど固いが、これはほのかに半生で、鮭の脂のうま味が舌の奥にまで絡みついてくる。沁みだした脂で手がテカテカと光った。

「おいしいっしょ。家にまだあるから、お土産にあげるね。持って帰ればいいんだ」

 つい数分前までは、手強く敵意のある女だったのに、急に親しくなってきた。こういうのが島独特の接し方なのだろうか。ちなみにアヤメの容姿はすごくいいので、そんなに悪い気はしない。日名子さん同様、美人の範疇に入るというのうは過少申告であって、じっさいは突き抜けた美女である。

「ねえ、芳一は、なして一人でいるのさ」

「バックを忘れて取りに来たんだよ。みんなは村役場に行ってる。哲夫っていう中学生くらいの子が、具合が悪くて倒れちゃったんだ」

 目を見つめられながら名前で呼ばれるのが、なんだかモゾ痒い。

「スケベ哲夫がジャンジャになったの?」

「よくわからないけど、ジャンジャって言ってたな」

 まだ中学生なのにどうしてスケベと呼ばれるのか興味があるけど、訊かないほうがいいいだろうな。

「あいつも、いよいよジャンジャになったか。ふんっ」

 あの十円玉ハゲのスケベ中学生は、少なくともアヤメに同情されてはいない。

「村役場って、どこなんだろう。道がついているって言ってたけど」

「あたしが一緒について行ってあげる」

 道案内してくれるだろうとの目論見だったが、まんまとうまくいった。道に迷わないためというのは、見え透いた言い訳だとしておく。



 アヤメと歩きながら、あらためて自己紹介をした。医者ではなく、医者の助手でもなく、叔父のツテで働かせてもらっているただのでめんとりだと白状した。

「お医者さんの手伝いなんだから、ちゃんとしてるよ。頭のいい人しかなれないっしょ」

 ありがたいことに、私の弁解じみた口調を察して気づかってくれたようだ。 

「さっきジャンジャを見たけど、すごく辛そうだったよ」

「保古丹の者はね、ジャンジャになるのは運命だから仕方ないのさ」

「島の人たちが全員なるのか」

「全部じゃないよ。かからない人もたまにいる。でも、男はジャンジャになる。中学を出るころにはなる。逃れられないよ」

「それは大変っていうか、なんというか」

 ここは希望を持たせなければと思った。

「先生がきっと治すよ。口は悪いけど名医だから」

「治らないよ」

「え」

「だから、絶対に治らない。だって、ジャンジャは病気じゃないんだから」

 ジャンジャが病気でないのなら、さっきの中学生はなんなんだ。ダンスの要素がある新手の信仰とかではないだろう。そもそも、私たちは風土病の医学的調査に来ているのであって、病気でないと困ってしまう。

「呪いだから」

 どこかで聞いたことのある言葉だ。ふざけている様子は感じられなかった。

「昔ね、保古丹ではひどいことがあったんだ。鬼や畜生どもでもやらないような、おぞましいことをしたんだ。島のあちこちに血溜まりができて、それが地面に染みて、いつまでも赤いんだよ。ここは呪いの赤で染まってるの」

 鉄分の多い地質となんだかの草の赤色だと、横山さんと先生が言ってたっけ。周りを見ると、地肌も植物も、たしかに赤い。

「瘡蓋の島」と呟いてしまってから、しまった、と口をつぐんだ。たしか島の人には禁句だったはずだ。

 アヤメが立ち止まった。私の前に来て、少しきつくなった目でじっと見つめている。怒らせてしまったのかもしれない。謝ろうかと思っていたら、とんでもないことをし始めた。

「おいおい」この女はなにをしているんだ。

 とっくりセーターを脱いで、ズボンも下ろして下着姿になった。けっこう寒いのに、そんなに薄着で大丈夫なのだろうか。

 いやいや、気候的なことはどうでもいい。問題は倫理的にハレンチな行為を初対面の女がやっていることだ。

「ちょ、ちょ、ちょっとー」

 私がうろたえているうちに、必要最低限の布切れまで自ら剝ぎ取ってしまった。

な、なんと、東の果ての小さな島で、スッポンポンの女が私の前にいる。これは奇跡とかではないだろう。

「あたしのカラダに、カサブタなんてないっしょや。どこにあるのさっ」

 厳めしい表情になって食ってかかってきた。露わにした体を少しも隠そうとしない。むしろ、くっ付かんばかりに接近して見せつけている。ただし怒気を含んだ気合が放たれていて、ちっともエロチックではなかった。

「あの、だから、君が瘡蓋なんて言ってないよ。ええーと、すまない。ヘンなことを口走ってしまって、ごめん」

 こういう女の機嫌を損ねるとすごく面倒くさいことになると、過去の経験でわかっている。だから、すぐに謝ることにした。

「カサブタは、あるんだよ」

「へ?」

 目の前の裸体は、まさにつきたてのモチみたい白肌で、気になるような傷跡も瘡蓋もなかった。肉の付き具合がちょうど良くて、張りもあってじつに健康的だ。スケベ心の前に美的な審美眼に目覚めてしまう。スケベな哲夫少年には見せたくないと思った。

「ジャンジャになるとね、お腹や背中が爛れるの。それが膿んで破れて血が出て、そこがカサブタになるんだよ。死ぬまで治らない。ずっと治らないから。そういう呪いなのさ」

 ジャンジャの症状を説明しながら、素っ裸の島女がゆっくりと二回転した。後ろも側面も、前面と同じように美しい。

「お終い」と言って服を着始めた。堂々と脱いだときとは違い、こちらに背中を向けて、小さく纏まりながらモサモサとやっていた。

 いったい、いまのはなんだったんだろうか。自分がジャンジャに罹っていない、ということを私に知ってもらいたかったのかな。初対面の男に対して大胆不敵というか、無謀というか、なんと肝の座った女なんだろう。

「この道のとおりに行けば、保古丹の集落に着くよ」

 家に帰るから後は一人で行けと、微妙に目線をずらしてアヤメが言う。

「一緒に来てくれるんじゃないのかよ」

「あたしは行かない。西出の家はイヤだから」

 体ごとあっちを向いてしまった。さっきは一緒に行ってくれると言ったのに、裸を見てしまったから拗ねてしまったのだろうか。

「先生たちがいるのは村役場で、村長さんの家じゃないよ」

「役場は西出の家と一緒よ。西出の家が役場の仕事をしてるから。あそこはなんでもっているもん。昆布だって電気だって、保古丹のものは、たいていが西出のもの」

 村長の西出日名子さんは、この島の名主というか実業家というか、とにかく実力者らしい。昆布漁場の大半の権利を持っていて、小さいながらも発電事業を営んでいる。食料品や雑貨を売る島唯一の店は、西出商店だという。アヤメが淡々と語ってくれた。

「ばあちゃんの薬より、西出商店の薬が売れるのよ。あそこは憎たらしい」

「君は、ばあちゃんと暮らしているのか」

「ばあちゃんは死んだから。あたしは一人よ」

 両親はと訊こうとしたが、寸前で思い止まった。一人ということは、すでに他界しているのだろう。個人の事情にあまり首を突っ込んではいけない。会って、まだ一時間もたっていない相手なんだ。

「おわっ」 

 突然、アヤメが私の手を握ってきた。少し前に露わだった形良き胸の前で、ほどほどの優しさで包み込んでくる。女性との経験がないわけではないが、いきなりの急接近でドックンと心臓が弾けた。

「ジャンジャにならないおまじないをしてあげようか」

 あの十円玉ハゲ中学生の痙攣を見るに、ジャンジャにはなりたくない。しかも体に瘡蓋ができるとのことで、もし少しでも避けることのできる方法があるのなら、それが迷信でも気のせいでもなんでもいい。多少ハレンチなことでも、気前よく受け入れようと思った。

「保古丹から、いますぐ出て行け。とっとと帰れ」

 可愛いと感じていた瞳から、射るような視線が突き刺さってきた。突然の豹変であり、態度の手のひら返しだ。

「ここにいると、きっとジャンジャになる。芳一も、芳一の先生も、助手の先生もジャンジャになる。だって、この島には呪いがあるから。生乾きのカサブタをさ、何度引っ剥がしても、そのたびに汚い膿や血をにじませても、ジャンジャの呪いは消えないんだ。絶対に消えない」

 帰れっ、と命令してアヤメが離れた。裸足で尖った礫の上を歩くような危うい足取りで、私との距離をとってゆく。

「ゆるくないと思ったら帰ればいいんだ。だから、すぐ帰りなよ」

 言いかたが少し優しくなった。緩急をつけてくる作戦だろうか。

「仕事が終わらなければ帰らないよ。いや、そもそも帰れないし」

「そう。だったら・・・」

 離れすぎて声が聞き取りづらかったが、次の行動でだいたいがわかった。

「♪ ジャンジャジャ~~ン、ジャジャジャンジャ、ジャンジャ、ジャンンジャ、ン~~ジャン、ジャンジャ~ ♪」

 やや大仰で即席的であるけど、ちゃんとしたゴーゴーダンスになっていた。さっきの中学生たちよりもよほどキレがあって、本格的だ。ススキノのゴーゴーバーに何度か行ったことがあるけど、あの時の踊り子たちより動きがいい。メロディーが楽器ではなくて、自分の声で風土病を連呼するというのが、なんとも滑稽というか不謹慎というか。

 奇抜なことをする女なのでまた服を脱いだりするのではと、ある種の興味をもって見ていたが、それはなかった。アヤメは徐々に遠ざかって行って、やがて声も聞こえなくなり、姿も見えなくなった。数分間棒立ちのまま待ったが、島の踊り子は戻らなかった。


 あの島女との遭遇はなんだったのだろうかと戸惑いつつも、バックを持って歩き出した。ジャンジャという風土病のことや、その病気に対する島民たちの奇行、アヤメの態度や裸のことを考えながら村役場へと急いだ。もたもたしていたら先生に怒鳴られてしまうし、でめんちんの減額や没収もあり得る。地の果てまで来て、タダ働きだけは避けたいところだ。周囲の景色を眺めながら道なりに進み、村役場を目指した。

 島の南西方面は草原があって牛や馬が放牧されているらしいけど、このあたりは赤茶けた岩と礫が多く、生えている植物も同じような色をしていた。横山さんは鉄分の影響だと言っていたが、大昔に殺された人たちの血が染み込んでいるというのも、まんざら嘘ではないのではないか、と私もこの奇妙な孤島に染まってみる。まあ、本気ではないが。

 小説家志望ということもあり、その辺りの岩陰に血だらけの生首が転がっているのではないかと、四谷怪談みたいな想像を膨らまそうとしたが、やっぱり止めた。それこそ顔に瘡蓋のあるお岩よりもつかみどころのない性格だが、島女であるアヤメのほうが断然いいんだ。

 小高い丘を越えるころには集落が見えてきた。すぐそばに浜があって、小さな船が並んでいるのが見えた。桟橋もいくつかあった。家々からほど近くに波止場があるのに、わざわざ離れた場所に上陸したのが謎だな。島外の人たちは、そんなに保古丹島民と接触したくないのだろうか。 

 海風が強くて、この時期としては肌寒い。塩ワカメを揉みほぐしたような潮臭さがまとわりついて、肌感覚としてはあまりいい気分ではない。低木ばかりで高い木がなく、オンコや低い松と思われるそれらは、浜風に吹かれるまま枝葉がヘンテコな具合にひん曲がっていた。こういう髪型のやつらが夜のススキノにたむろしているなあ、と思った時だった。

「ん、アヤメか」

 錆だらけの鉄塔のそばで一休みしていると、誰かがこちらに来る。集落とは別の方向から一人でだ。ふつうに歩いて来るのではなく、両手をそろえて上げたり下げたり、腰を下ろしてイモを掘る仕草をしたり、立ち止まって一回転したりと、とにかく忙しい。近づくほどに、「ジャンジャ、ジャンジャ」と聞こえてくる。

「おう、あんたが東京から来た医者だべか」

 目の前に来た男は四、五十くらいの中年で、見事なタヌキ腹である。唇から顎にかけて楕円の痣があった。いかにも酒焼けした赤ら顔で、下はズボンだが、上半身は丸首の白い肌着のみだった。

「タラさばいてたら、いきなり確率がきちまってよう。なんまら寒いべや。ジャンジャ、ジャンジャ」

 そう言いながら、相変わらず下手くそな盆踊りを繰り返している。タラを捌いていたというのは冗談ではなくて、じっさいにタラの頭部と思しき魚の頭を握っていた。シャツやズボンに跳ね返った鱗がこびり付いている。ある程度の対人距離をとってはいるが、なんとなく生臭かった。

「背中がすんごいつっぱるんだあ。こりゃあ、いっつものジャンジャじゃねえぞ。おっかしいんだって。これよう、おっかしいって。ジャンジャ、ジャンジャ」

 体の不調を雑用係に言われても、私としてはどうしようもない。それに、タラ臭い手をあっちにこっちに振るので、魚臭い汁が飛んできそうで、ちょっと迷惑だった。

「先生は村役場で治療中だから、そっちに行ったほうがいいですよ」

「あんたも医者だべや」

「オレは先生の手伝いで、正式な医師ではないです。薬も先生が持ってますし」

 ただの雑用係とは、やっぱり言いづらい。

「西出のとこまでよう、もたねえ気がするんだって」

「具合が悪いんだったら、とりあえず、その踊りみたいのやめたほうがいいと思うけど。とにかく安静にしたほうがいい」

「したっけ、ジャンジャになったら、これやらんとダメなんだ。やればやるほど、ジャンジャが早くおさまるべや。やらんと、クッソ悪くなるんだ」

「ああ、なるほど」 

 だから、必死になってダンスをするのか。ジャンジャになったら無理矢理にでも踊って、体から邪気を振り祓うということだ。周りの者が囃し立てるように同調するのは、早く病が出て行くように励ますのだろう。おまじないや宗教的な儀式の領域だが、治療法のない病気に対しての唯一の処置だ。肉体的な苦しさは変わらないが、少なくとも気持ちの上では楽になる。

「これよう、ひょっとしてよう、変異がきたんじゃねえか。変異」

「変異」とは、なんのことだ。さっきは確率というのもあったな。哲夫少年も確率のことを言っていた。

「ジャンジャ・ドウー、だべや」

「ジャンジャ・どうーう?」

 ジャンジャが、どう?したというのだ。

「なんか、あっつくなってきたべや。あっつ、熱」

 暑い暑いと言いながらシャツを脱いで、そのへんにぶん投げた。

 漁師の上半身が露わになった。肩や胸のあたりは分厚い筋肉質でプロレスラーみたいだ。アヤメの時とは違い、ちっとも胸がドキリとはしない。「ジャンジャ・ドウー、ジャンジャ・ドウー」と言いながら、また盆踊りのような挙動をしている。

「うわ」妊婦のように丸く突き出たお腹と横っ腹、そして背中のあちこちが酷いことになっていた。

 まず目立つのは赤茶けた痣、いや瘡蓋だろう。大小十か所ぐらいあるだろうか。腹より背中のほうが大きくて、なんとこぶしほどのものがあり、不定形なそれらはどこかの地図を見ているようだ。瘡蓋のない場所も膿んだように爛れていて、皮膚が汚らしく波打っている。水膨れならぬ血膨れもあった。針で刺したら、プチッと弾けてしまいそうだ。

「いててて。背中がつっぱる。したっけ、やっぱりジャンジャ・ドウーだべや。呪いがきやがった。なしてワシなんだべか。呪いなんか知らねえっつうの。冗談じゃねえぞ、コノヤロー」

「痛っ」

 いきなり激高し始めた漁師に、タラの頭を投げつけられた。上唇に当たって、意図せずして魚と接吻してしまう。けして甘いものではなく、生臭い味がした。

「ジャンジャ・ドウー、ジャンジャ・ドウー」

 漁師が手のひらを顔に当てて、握りながら真っ直ぐ引いていた。まるで、顔に貼り付いている何らかの悪い影を引き剝がしているようだ。

「ドゥー、ドゥー、ドゥー、ドゥー」

 その動作を連続して、何度も繰り返していた。それはもう一心不乱に、親の仇をとるが如く一生懸命で、充血した目玉をまん丸にとび出させて、とにかく必死だ。

「ドゥードゥードゥー、ドゥドゥドゥドゥドゥドゥ」

 叫びというより絶叫しながら、徐々に天を仰ぎ始めた。たいがいに突き出したタヌキ腹を私に向けて、上半身が逆エビ状に反っている。ふざけているわけではないと思うのは、そのアクロバティックな姿勢を維持するのが ふつうの人間にはすごく困難なはずだ。体操選手でもない太った中年男が、面白半分でやるべき技ではない。危険でもある。

「ちょっと、もうやめたほうがいい。体がもたいないって」

 ジャンジャに対するおまじないとして、わざとやっているのか。気持ちはわかるが、ものごとには限度がある。病気を説得力のない気合で治そうとして、かえって体を痛めてしまうのはよくあることだ。

「ドゥーーーーーーーーーー、ゥ」

 絶叫というより、咆哮だった。

 腰の湾曲はいよいよ限界に近づき、もうすぐ頭が地面にくっ付きそうだ。ひっくり返ってしまわないようにと、逆エビ反りのまま両手が礫をつかむ。張り出した下腹の皮が伸びきり、血膨れが破れて出血し始めた。吹き出しているというわけではないが、痛々しさを感じさせるほどには濡れていた。

「ジャンジャ・ドウー、ドゥッ、ドゥッ、ドゥッ、ドゥッ、」

 激しく反り返った中年の男が歩き出していた。拙くて、ヨタヨタとし、それでいて体勢を立て直そうという意志が見られない。奇妙で奇っ怪な四足歩行の生き物なんだ。

「助けてくれ、助けてくれ、苦しい、背骨が折れるべや。おい、医者を呼んでくれ」

 もとに戻りたくないわけではなくて、戻れないのだ。漁師が地面に向かって喚いている。

「とにかく、その姿勢をなんとかしないと。ゆっくり寝てください。」

 先生を呼びに行っているヒマはないと思った。応急処置で、なんとか背中の反りを戻さなけばならないが、私はひらの雑用係であって医学的な処置方法を知らない。

「ワ、ワシに触るな。けったくそ悪いんだっ。くっそ、くっそ、ジャンジャ・ドウー」

「そんなに動かないで。落ち着いて。安静にしよう」

「ドゥー、ドゥー、ドゥー、ドゥー」

 ブリッジ状態の漁師は、私の言うことをまるで聞かない。唸りながら、妙ちくりんな姿勢のまま動き回る。心底そうしたくはなかったが、無理矢理抱きついて地面に組み伏せようとした。

「うわあ」

 だけど、逆さ四足歩行生物は止まらない。もとが頑健な漁師なだけあって、たとえ逆さになっても相当の馬力があり、しがみ付いた私を引きずって走り出した。これは人間ワザじゃないぞ。

「痛っ」

 引きずられまいとして地面に摩擦力を集中させていたが、漬け物用みたいな丸石に足をぶつけてしまった。膝の皿が粉々に割れてしまったと思うほどの激痛で、思わず腕を離して膝を抱える。ウーウー唸りながら顔を上げると、信じられない光景を見ることになった。

 逆エビ反りの漁師が鉄塔に登り始めていた。体全体が逆側に大きく湾曲しているくせに、まるで正対しているかのような滑らかさで上へ上へと行く。どうやって手足の運動神経に指令を出しているのか理解できない。錯覚を見ているのではないかと、痛む膝から手を離して何度も目を擦った。

「見ろーっ。これがジャンジャの呪いだっ。ジャンジャ・ドウーだ」

 十メートル以上は登っただろうか。漁師の反り返った体はこちらを向いているが、逆さになった顔はあちらを向いている。それでも地声が野太いので、言葉はハッキリと聞こえた。

「英雄を殺したからだっ、たてわきを殺したからだっ、島がワシを呪ってんだ。呪いを被せてきてるべや、ジャンジャジャンジャ」

 早口にそう言って、漁師はさらに登ろうとして腕を伸ばすが、体重を預けていた方の手が鉄骨をつかみ損ねている。頭部が逆さになりながら、上に行こうとして喉の部分が鉄骨の横梁に引っかかっていた。宙に浮いた右足が苛立ったように蹴りを繰り返している。

「あぶない」

 極めて不格好な生き物が、しかも不安定な足場で身動きが取れずにいる。どう見ても転落一歩前の危機的な状況であって、偶然による奇跡的なバランスで保っているだけだ。ふいに飛んできたトンボが当たっただけでも落ちてしまうぞ。

「折れる折れる、おれるーっ、チックショー」

 漁師の逆エビ反りが、万力でギリギリと締め付けているように重苦しかった。さらに両肩の関節も背中側に向かって狭まっている。Cの字の完成に限りなく近づいていて、ただでさえ異様で切羽詰まった症状なのに、発作を起こしているのが鉄塔の上という場所が致命的すぎた。

「ジャンジャ―ッ、ドゥーーーーーー」と、鉄塔のCの字が絶叫した。

大型犬の遠吠えのように、咆哮が果てしなく引き伸ばされている。これはしぶとく耳に残りそうだと覚悟した。

 ゴキッ、と音がして、Cの字の左の中間点が折れた。いや、その響きは幻聴かもしれないが、漁師の背骨が逝ってしまったのは確かだ。なぜなら、後頭部とお尻がくっ付いてしまっている。ぽこんと盛り上がった下腹から、なにかがとび出したように見えた。

「あっ」

 落ちてしまった。

 なんと漁師が鉄塔から落下して、途中で一瞬足が引っかかったが、勢いが衰えぬままブロック塀に背中から激突したではないか。

 漁師はブロック塀の上の笠木の部分に、腰を基点として二つ折りになっていた。逆エビ反りを通り越して、サバ折りである。

「うわあーーー」

 慌てて立ち上がり駆け出した。最初の一歩で膝がしらに強烈な電流が走ったが、その痛みは心の衝撃と相殺となった。ブロック塀の高さは、私の目線より少しばかり低い。そこへ行くと、起きたことのすべてがわかった。

 呆然と立つしかなかった。すぐに介抱するなり手当するなりをしなければならなかったけど、それは難しい。日常の生活では、けして出会うことのない異常な状況に遭遇してしまい、毒針を打たれたように頭も体も一時的に麻痺していた。

 瘡蓋が点在する下腹の一部が裂けて、そこからモリモリモリモリと真っ赤な内臓が出ていた。体が二つ折りになっていたので、折れた背骨がお腹を突き破ったのかもしれない。腸の一部、いやすべてが出ていた。

「なんだこれ、なんだこれ」

 どうしてこれほど勢いよく溢れ出てくるのか、見ていて気持ちがおかしくなってきた。体の内部から意識して押し出しているのではないか。たとえが非常に悪いが、十分に便秘したあとの脱糞のようであり、極めてグロテスクな絵面でありながら、ある種の爽快感があるのは逆説だった。

 一分がたって、ようやく神経に手ごたえを感じてきた。とにかく応急手当をしなければならない。だから手で押し止めようと思って近づくが、吹きあがる血生臭さと生温かさに躊躇してしまい、手が止まってしまう。さらに漁師の尻から「ブヒッ」と勢いのある放屁をされて 私の中の何かが切れた。

「ダメだっ」

 走った。

 すでに死んでしまっているのだろうと自分に納得させ、いけないことだが、そうであると思っていた。見捨てたわけではない。先生を呼びに行くために、一時的にここを離れるだけだ。私だけではどうしようもないし、瘡蓋と内臓があふれる体には絶対に触れたくなかった。

 駆け足で集落の入口に来たのだが、村役場がどこかわからない。どこの建物も同じような平屋が多かった。高さについてメリハリがなくて迷ってしまう。

「村役場はどれだ」と、ひとり言を吐き出しながらアタフタとしていた。

「なあなあ、おじさん、東京から来たんだべ。おれさあ、バッタとってんだよ」

 ウロウロさ迷っていると、十歳くらいの男の子が一人まとわりついてきた。

なんだ、チョコレートでも欲しいのか。いまはかまっていられない。人が死んでるんだ。

「東京のバッタって、どんなんだよ。なあ、トノサマバッタとってこいよ」

 子供は嫌いじゃないけど、口の利き方が対等なのはなぜだ。能天気な態度にイラつくが、ちょうどいい利用方法を思いついた。

「おい、村役場ってどこにあるんだ。教えてくれ」

 村の子供ならもちろん知っているはずで、だから道案内させればいい。

「あけ美の家の便所になあ、便所バッタがいるんだけど、あいつのとこ、なんまらくっさいから一人でとりにいきたくないんだ。おじさん、いっしょにいくべや」

 だがしかし、この子は私の話を聞いちゃいない。バッタに対する執着が強く、あきらかにバッタの生息域ではない場所での捕獲を模索していた。

「人が死ん」だと言いかけて止めた。あの凄惨な状況を子供に知らせてはいけないし、もちろん現場を見せるべきではない。教えれば面白がって行ってしまうかもしれないからな。

「西出のうちなら、こっちだよ。こっちに来いって」

 そう言って、少年が走り出した。バッタ獲りを後回しにして、私の道案内をしてくれる。どうやら緊急事態であると悟ってくれたようだ。

 バッタ少年の後を追うが、すばしっこくてついていけない。言い訳するわけではないが、さっき石にぶつけた膝が痛んで早く動かせないのだ。

「おじさん、おっそいって。なにやってんだよ」

 バッタ少年が戻ってきて、私の背後へまわり尻を押してくれた。少しだけ補助になったのはありがたかったけど、ほんのりと便所のニオイがするのが難点だ。模索していただけではなく、すでに実行もしていたんだな。

「なあ、ジャンジャか。ジャンジャで死んだんだろう」

 後ろから、ジャンジャで誰かが死んだのだろうと訊いてくる。さっきは死んだと言いかけたが死んだとは言い切っていない。こいつは、子供ながらに察しがいいぞ。

「大人はさあ、ジャンジャで死なないっていうけど、ウソばっかりだ。ジャンジャはおっかないんだ。死んじゃうんだよ」

「ジャンジャでは死ぬことはないって、先生が言ってたぞ」

 いまさっきジャンジャの発作で犠牲が出たが、あれは事故の可能性もある。医者が言うのだから間違いはないはずだ。

「先生ってだれだよ。おじさんが先生なんだべや」

「オレは、そのう、助手の補助をするんだ。正式な医師ではない」

「なんだ、三下かよ」

 できることならぶっ叩いてやりたかったが、村役場に行くことがなによりも優先される。あの漁師は死んでいると思うが、もし息があれば先生が助けてくれるかもしれない。

「ジャンジャはなあ、すっごく苦しくて痛くて死ぬんだ。だってノロイなんだもん。ジャンジャのノロイは大魔神でも倒せないから。すっごく怖いんだ」

 バッタ少年の勢いが増してきた。相撲取りに押し出されているみたいで、どんどん前進するしかない。

「犬のお姉ちゃんから教えてもらってるから、おれは知ってるんだ。ジャンジャは病気じゃなくてノロイなんだ。だからさ、お医者さんにはなおせないって。東京から来たって、どうせダメだべや」

 アヤメもそんなことを言っていた。犬のお姉ちゃんとは彼女のことだろうか。苗字は{いぬい}だったはずだ。

「ほら、あそこが役場だよ」

 相変わらず平屋だが、目の前に比較的大きめの建物があった。門と板塀があって保古丹村役場と記されている。敷地が広くて、役場とは別に奥のほうに住宅らしき建物があった。左側には鳥居が見えるし、神社もありそうだ。

「ありがとう」

 礼を言って振り返ったが、バッタ少年の姿はなかった。まさにバッタのようにすばしっこくて、身を隠すのが上手だ。口の利き方が生意気だけど、後で会ったら駄菓子でも買ってやろう。

 役場玄関の前に立った。扉は開けっ放しにされていて、中からざわめきとけっこうな人数の気配がする。島の人たちは心配していなかったが、哲夫少年の容態が悪くなったのだろうか。惨事を知らせなければならないのに、緊迫した場面だとよけいに混乱するぞ。伝えるべきことを頭の中で整理しながら、中へ入った。

「うわっ、酒臭っ」

 すごく酒臭かった。タバコの煙がもうもうで、ワイワイガヤガヤと騒がしいったらありゃしない。なんだここは。町役場というより町内会の集会場みたいだ。奥のほうに机や棚があって、いちおう事務の体裁はあるが、畳敷きというのが古めかしい。

「芳一、ずいぶん遅かったな。ここの芋焼酎は美味いぞ。飲みやすいから何杯でもいける」

「芳一さん、ツブの刺身どうですか。日本酒もありますよ」

 宴会だった。まだ陽が高いというのに大勢で酒盛りをしている。

 おいおい、十円玉中学生はどうしたんだ。ひきつけを起こしていたはずだろう。

「哲夫君は薬が効いて寝ていますよ。ジャンジャを発症しましたが、ひどくはありません。夜には目が覚めるでしょう~~」

 私の心を読んだように、酒臭い息を吐きながら横山さんが言う。

「先生、大変だ。人が死んだ」と言おうとした時、いきなり背後から羽交い絞めにされた。

「まあ、飲んで飲んで」と私を押さえつけている者が言った、がっちりとした腕が首に回っているので身動きができない。すごい力だ。

「これが、ここの流儀だ。芳一、まずは駆けつけ三杯を飲んだら、言いたいことを聞いてやるからな、ハハハ」

 すでに先生も酔っぱらっているようで、すこぶる機嫌がいい。おそらくは横山さんも三杯以上は飲まされたのだろう。叔父は酒豪であるが、助手のほうは船にも酒にも弱い。

 コップになみなみと注がれた芋焼酎が目の前にあった。のん気に酒盛りなどしている場合ではないが、これを片付けなければ私は声も出せない。一気に飲み込むと、野太い縛りが解けた。

「先生、先生、人が落ちたんだって。お腹が破けて、なんか出てたんだ。とにかく、助けないと。もう死んでるかもしれない、うわっ、なんだ」

 私の精一杯の説明は、突然鳴り出した音楽にかき消されてしまった。景気づけとばかりに誰かがレコードをかけたようで、流行りの歌謡曲が大音量でうるさかった。何人かが歌って、さらに先生までがなり始めた。横山さんの目が、いい具合にとろんとしている。いまにも寝てしまいそうだ。

「先生、とにかく立って、医療器具はオレが持っていくから」

 無理矢理にでも先生を連れて行くしかないと決心して、手を引っぱろうとするが、そうこうしているうちに、またもや島の男に羽交い絞めされてしまった。今度はコップを直接口に当てられて芋焼酎を流し込まれた。この島の流儀は乱暴すぎるだろう。気管に入ってしまい、ゲッホゲホやっていると音楽が止んで、唐突に静寂が訪れた。

「みなさん、本日は札幌から堂島先生と横山先生がお越しくださいました。無医村の保古丹にお医者さんがきてくれるのは、ホントにありがたいことです」

 村長の日名子さんがしゃべり始めた。宴もたけなわとなったところでのスピーチは効果抜群で、皆が注目している。先生はニコニコしながら聴いていた。無遠慮な男に私は三杯目を飲まされそうで、イラついたので一気に飲み干してやった。

「東京オリンピックも終わってしばらくたちますが、今度は大阪で万博があるそうで、この国もいよいよ発展してきました。北海道も開発局に予算がついて、わが保古丹にも新しい港ができたり、道路が通ったり、これからは暮らしが良くなると思います」 

 日名子さんの演説に島民たちはウンウンと頷いている。横山さんの顔色が良くない。寝るか吐くかするだろう。

「それと甥っ子の哲夫がジャンジャになりました。まだ中学生ですが、保古丹の男となって、叔母としてうれしいですよ」

 うおー、と歓声があがった。ジャンジャ、ジャンジャと活きのいい掛け声がこだまする。日名子さんが満足そうに皆を見回していた。

「そのジャンジャで人が落ちたんだ。酒なんて飲んでる場合じゃないぞ。あんたら、なにやってんだよっ。のん気すぎる」

 大声で言ってやった。やっと言えた。いい頃合いであって、その場がシンと静まって、私が注目されている。

「こらっ、芳一。おかしなことを言うんじゃない。島のみんなが俺たちのために用意してくれたのに、失礼だぞ」

「叔父さん、酔っぱらってる場合じゃないんだって。うっぷう、だから、人が落ちて大変なことになってるんだ、だ、うう~、ふう、れられろ」

 急に酔いが回ってきた。ろれつがちゃんと回っているのか不安になった。舌を下の歯の裏側で何度か転がしてから話を続けたる。

「て、てっとうから落ちて、ふう~、腰の骨を折ったあ。四十過ぎの、ちょ、ちょっとお腹の出た男だー、はあ~」

 立っていられなくなった。いったん、その場にしゃがみ込んでクラクラするのをやり過ごす。青白い顔色の横山さんが「大丈夫ですか」と、いまにも吐きそうな形相で心配してくれた。 

「いったい、なんのことかしら」

 日名子さんの表情が固い。目線に刺すような鋭さがあり、機嫌が悪い時の母さんと同じ痛覚を感じた。私は立ち上がらなければならない。

「だから」

 魚の頭部を持って、口から顎にかけて痣がある漁師がジャンジャの発作になったこと。錯乱したようになって錆びた鉄塔にのぼって、落下して大ケガを負っている、もしくは死んでいることを告げた。もちろん、この島の流儀にのっとって大声で言ってやった。

「それよう、ひょっとして、山じゃねえのか」

「そういえば山ちゃん、タラ捌くって言ってたわ」

「鉄塔って、電探塔のことか。あそこはなまら錆びついてて、ヘタにのぼると落ちるべや」様々な意見が出された。幸い、私の非礼が責められることはなかった。

「堂島先生」

 日名子さんが先生を見た。ほんの数秒の目線で必要なことを伝えたみたいだ。

「バカタレ、なぜそれを早く言わん。横山、バックを持て。だれか、担架を用意してくれるかっ。ホントにバカタレが」

 尻を蹴り飛ばされたように先生が立ち上がった。それを合図に宴会に興じていた者たちが一斉に動き出す。そこへ決定的な情報がとび込んできた。

「おい、大変だ。山本が電探塔から落ちて死んでるってよ」

 玄関に私と同い年くらいだが、すごく馬面な男がやってきて、大声で言った。先生が先頭で出て行き、島民たちが続き、日名子さんも後を追った。 

「オレたちも行こう」

「バックを持たなきゃ、ふああ」

 横山さんが立ち上がろうとするが、よろけて伏せってしまった。なんとか四つん這いになったが、じっと床を見ている。これは船の再現だと直感したので、とりあえず予想逆流地点に新聞紙を敷いてやった。

「オレが持っていくから」

 助手は役に立ちそうもないから、雑用係が働くことにする。薬や医療器具が入ったバックはどこかと尋ねると、崩落一歩手前の男が部屋の隅を指さした。皮が擦り切れた茶色の大きいやつが、それらしい。

 バックを持って役場を出た。だけど足がもつれてうまく歩けない。私自身も相当に酔っぱらっていた。あまり酒が強くないのに芋焼酎のストレートを、駆けつけ三杯はキツすぎた。

「あっわあわあわあ」と口走りながら斜めに斜めにと進んだ。右手に持っているバックが重くて、その質量に引っ張られてしまう。もうすぐ転んでしまうだろうなあと思っていると、すうっと柔らかい何かが私の脇へと入ってきた。

「なにやってんのさ、芳一」

 甘い匂いがした。丸っこい感触が腕から脇腹にかけて擦っている。

「ああ、そのう、ごめん」

 私は女性の肩を借りていた。薄生地のとっくりセーターは見覚えがあるが、その肌触りは初体験で、見た目よりもずっと滑らかだった。

「でめんとりが酔っぱらったらダメっしょや。まだお日様が沈んでないさ。しっかりしなさい」

 アヤメであった。いい塩梅に熟した古女房のように、酔っ払い亭主を叱咤している。

「みんなして、やくばでお酒を飲んでいたんだ。ごちそうをみんなで食ってさあ、大人はずるいなあ。おれにも食わせてくれよ。はらへった」

 そう言ったのはバッタ少年だった。アヤメとは逆に位置して、私の手を握ってくれている。

 なさけないことに、私は女性と子供に支えられて、ようやく立っていられる状態だった。下戸ではないけど、酒に弱い体質であることを恥ずかしいと思った。酒にも船にも呑まれてしまう横山さんよりは多少はマシかもしれないが、あの人はれっきとしたお医者さんであって、雑用係とは根本が違うんだ。

「山本のおっちゃんが電探塔から落ちて大ケガしてるって、すごい騒ぎになってるんだよ。コッタが見つけてね、あたしに教えてくれたんだ」

「おれが見つけたんだ。急いで知らせてやったのに、誠人のあんちゃんがよこどりして、手がらとられちゃったよ。こづかいもらえたかもしれないのにさ」

コッタというのがバッタ少年の名前なのだろうか。

「コッター、落ちた人はどうなってた。死んでしまったのかあ」

「お腹からまっ赤なウンコしてたけど、まだ息してたよ。ジャンジャ・ドウーだって言ってた」

 あの漁師は、まだ生きていた。やっぱり応急手当てをすればよかったんだ。逃げ出してしまった自分の不甲斐無さが呪わしい。致命的なサボタージュとなってしまった。

 コッタのやつ、血相を変えた私の様子から重大事件が起こったと察したんだな。子供の野次馬根性が役に立つこともある。

「それと、おれの名前は宏太(こうた)だよ。コッタって呼んでいいのは、犬のお姉ちゃんだけだからな。おじさんはダメ」

「先生たちが行ってる~んけど、ふう、このバック持っていかないと~、治療ができない。おれの仕事だけど、酔っぱらって歩けない~、もう、だめだ」

 ぶふぇ。

 なんと、ここで屁をたれてしまった。酔っているので、気持ちだけではなく大事な部位の筋肉まで緩んでしまっている。女性と密着しているのに、なんてことだ。だけど酔っているので、そんなに恥ずかしい気はしない。むしろ、もう一発出したら笑ってくれるのではないかと、社会不適格者みたいなことを考えてしまう。

「うっぎゃあ、おじさんが屁えこいた。おっえ、くっさい」

 コッタが大仰に騒いでいる。いかにもイヤそうな顔して、それでいて十分に喜んでいた。シモの話題に食いつきたくて仕方のない年頃だろうな。アヤメは露骨な態度を見せることなく、平然として肩を貸し続けてくれている。そして臭い臭いと騒いでいる男の子に向かって、唐突に檄を飛ばした。

「コッタ、走れ」

「え」

「このバックを先生のとこへ運びな。バッタばかりつかまえてるんだから、あんたは足が速いっしょ。バッタ食ってるしょや」

「バッタは食ってねえよ」と、バッタ少年が不服そうだ。

「とにかく行きな。山本のおっちゃんの生き死にがかかってるんだから」

「おれ、あそこに行くのはヤダよ。おっちゃん、腹からウンコしながらジャンジャ・ドウーだって言ってたし、たぶん西出のおばさんもいるし、先生って、おれ知らねえし」

 グズグズ言っているが、アヤメがバックを私の手ごと強引に持たせた。

「コッタ、なあ、頼むよ。ほらあ、駄賃やるから」

 私は立っているだけで精いっぱいで、とてもじゃないけど走れない。頭は比較的ハッキリとしているけど、体がなまくらになりすぎている。だから、けっこうな量の駄菓子が買えるじゃら銭を、ズボンのポケットにねじ込んでやった。

「おれ、行ってくる」子供は元気があっていい。

「先生に芳一からだって伝えてくれ」

 ヒヒーーーンとは啼かなかったが、馬が疾走し始めるように鼻息が荒く駆け出した。バッタを食っているだけあって脚力にキレがあった。

「コッタ、バッタは食べてないんだって」

 私の心を読んだのか、アヤメの言葉にドキリとした。酔っている分だけ鼓動が大きく感じた。

「ねえ、歩けるの。役場で寝てたほうがいいよ」

「いや、オレも行かなきゃ。あそこにいたし、ふう、そのう、なんというか」

 もしあの漁師が先生の治療で命をとりとめたのなら、放っておいて申し訳なかったと謝りたかった。それに、肝心な時に雑用係がサボっていたら先生に怒られてしまう。かなりめまいがしてなぜか手足もしびれているけど、スローに歩いていけばたどり着けるはずだ。

「じゃあ、あたしが手伝ってあげる。そのかわり、お駄賃は高いんだからね」

 アヤメに肩を借りながら、そろりと歩き出した。まず初めに、あまりお金を持っていないことを白状した。

「ツケにしておくから心配しなくていいよ。そのかわり高いから覚悟してね」

 どのくらい高額になるのか、それは先生からのでめんちんで足りるのか、母さんから借りたほうがいいのかとぼんやりと考えていた。

「ねえ、大丈夫。足が地についてないよ。誰かに殴られたの。まあ、お酒臭いけど」

「それは」

 誰にも殴られたわけじゃなくて、村役場で芋焼酎を駆けつけ三杯飲まされたこと、じつはさっき漁師と出会って落下の現場にいたこと、重症の男の手当てもせずに逃げ帰ってしまったことを淡々と吐露した。アヤメに聴いてもらいと思ったんだ。

「逃げたんじゃなくて、芳一は急いで先生さんを呼びに行ったんでしょ。それにコッタが見たときはジャンジャのことを話していたんだから、きっとまだ生きてるよ」

 そういう解釈をしてくれとありがたい。アヤメは、なかなかに気のいい女だな。

「島の芋焼酎を飲まされたんだね。あれ、ハネモノのゴショイモでつくってるから、じつは毒入りなんだよ。ジンよりも強いお酒だし」

 芽が出たり、表面が青くなったジャガイモを発酵させて蒸留しているそうだ。どうりで効きが強烈なはずだ。酔っぱらっているんじゃなくて、中毒になっているのかもしれない。

「ジャンジャになってるから毒も効かないって、島のみんなは平気で飲むんだ。でもさあ、お客さんに飲ませたらダメだってさ。ほんとに保古丹の人間は雑なんだから」

 だとすると、先生もよほど雑だな。私以上に飲んでいるのに、尻に焼きゴテをされたイノシシみたいに、一目散に駆け出して行った。脚力はバッタ少年といい勝負で、高濃度のアルコールどころか毒も効いちゃいない。我が叔父は、いろいろと持ち過ぎていてうらやましい。

 アヤメと密着しながら歩いていると、背後から人の気配を感じた。二人同時に立ち止まって、振り返った。 

「ねえ、あのヘンな人って、お医者さんなの」

 横山さんがやって来る。ふらつく体のバランスを保とうと、両腕をデタラメに振り回していた。下半身の、とくに腰の振りにエッジが効いているのが独特で、アヤメの琴線に触れたようだ。ヘンな人、と表現されるくらいに格好悪く、滑稽な走り方だった。

「すっごく、ヘン、過ぎない?」

「まあ、先生の助手の横山さん、だけど、酔ってて、ふふふ」

 アヤメの言い方と声の抑揚のつけ方がツボに嵌ってしまって、なんだか可笑しくなった。

「なにさ、芳一。勝手に笑うな、うふふ」と、とっくりセーターの女も笑いだす。

「だってさあ、君がヘンとか言うから。横山さんは医者なんだし、っくくく」

「あたしの、なにがヘンなのさ、ふふふ。あの人のほうが、おかしいっしょや、アハハハ」

 アヤメの息が首に吹きつけてくる。ほんのりと生温かくて、ごくわずかな生臭さを感じた。もっとくっ付いてくれたらなと、この緊急事態の最中に不謹慎なことを考えてしまった。

「お~い、お~い」と横山さんが言っている。私たちへ近づいているのだが、その動き方は絶妙に活きが悪くて、コッタみたいな躍動感がまるでなかった。ヘロヘロしてフラフラし、ときおり思い出したようにツイストする。まるであの世で盆踊りをしている亡者みたいだ。

「ぷっ」

 アヤメが口元を押さえて笑っている。耐えきれないようだ。

「あれって、鬼に鞭打たれているみたいだな、くく」

「ジャンジャの踊りに負けてないっしょ」

 三歩進むごとに突き出される、鋭角的な腰つきが独創的だった。たしかに、奇妙さにおいては中学生たちのジャンジャダンスに負けていない。

「キャハハハ」

「ハハハ」

 二人で笑っていると、やっと横山さんが到着した。奇怪な踊りはやめて、ハアハアと息を荒く吐き出している。私とアヤメが笑っていたので不思議そうな表情だったが、楽し気な雰囲気が伝染したのか、彼も笑いだした。三人でお互いの顔を見ながら、しばらく笑っていた。

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