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苦しいと思った。
「芳一、芳一」と遠くで誰かが呼んでいるのだが、体がすごくだるい。鉛を飲んだようではなくて、溶けた鉛の海で藻掻いているように重かった。瞼を開けるのも億劫で、だからそのままの状態でいたかった。
「うぐ」
唇と舌に柔らかな感触が押してきた。ぬめっとしているわりに弾力があり、貝のように閉じている私の中に力づくで入ってくる。
シャバシャバとした感触が喉を通過すると、あれだけ重かった体が軽くなってゆく。筋肉のこわばりが徐々に解きほぐされているのがわかった。
気分が良くなってきたので目覚めてみることにした。大きな影が視界のすべてを塞いでいて、生温かな液体が私の中にこぼれてくる。奇妙な味のする汁をゴクゴクと飲み干してから、視界中央に焦点を合わせた。ゆっくりと起き上がるアヤメの顔があった。
「うわあ、大人って、こんなことするんだなあ。すんげえや」
「コウタは見るな」
横を見ると正座したコッタが見ていて、そのニヤついた両目をあけ美の両手が覆っている。
なんだ、と思った。まどろみの海から浜辺へと上陸するには、多少の間を必要とする。
私は役場の寝部屋に寝かされていて、アヤメとコッタとあけ美がいた。先生と助手の姿は見えない。
「芳一、西出のお酒をどんくらい飲んだのさ。あれにはさあ、ワルナスビが入ってるからヤバいんだよ」とアヤメが言う。
悪いナスビとは何だろうか。夜のススキノにたむろしている不良たちよりも悪いのかと、顔がナスビとなった男たちを想像してしまう。
「犬のお姉ちゃんが、芳一と{ちゅー}したさ。はひゃひゃひゃ、うっきー」
発情した子ザルのようにコッタがはしゃいでいる。可愛いという感情はなく、どちらかというと鬱陶しかった。
「ちゅー?」
そういえば、アヤメの顔が覆いかぶさっていたな。
うっ。ひょっとして、してしまったのか。
「なかなか目を覚まさないから、薬を口移しで飲ませたんだ。湯飲みからだとこぼしちゃうし。西出の毒酒をたくさん飲んだみたいだから、早く解毒しないとオシッコが詰まって死んじゃうからさ」
それはあまり推奨されない死に方である。解毒の方法に、アヤメは最善を尽くしてくれた。
「ワルナスビだけじゃないんだ。ほかにもアヤシイのがいくつか入れてあるさ」
アヤメの話によると、お祭りの振る舞い酒にはいくつかの毒植物の成分が入っていて、それらは麻薬みたいに気分を高揚させる効果があるみたいだ。一杯ぐらいでは健康に害はないけど、多量に摂取すると死ぬ可能性がある。だから口移しという非常手段を使ってまでも、毒を打ち消す薬を飲ませてくれたということだ。いろいろな意味でありがたかったが、いったいどんな解毒剤を飲まされたのだろうか。
「ウサギの背中のデキモノから作るんだよ。ばあちゃん直伝でさ、すっごく効くんだ。ほんとうは神経痛の薬なんだけど、毒をなくすこともできるんだ」
いまは亡きアヤメのばあちゃんと、ウサギの背中に感謝だ。おかげさまで尿が詰まって死ぬことはないし、安心したらオシッコがしたくなってきた。
「先生はどこに行ったんだ。それと、あの騒動はどうなった」
「村川のとこの若いのが刺されて瑠々士別に連れ帰ったんだけど、死にそうだからって先生が呼ばれて行ったさ。どっちにもケガ人が出たよ。西出がすんごい怒ってた」
「横山さんは」
「役場の広間で寝てるよ。あの人もけっこう飲んでたみたいだから薬を飲ませておいた。口移しは気持ち悪いから、鼻の穴に指を入れて、むりやり飲ませたんだ」
助手も無事なようでなによりだ。処置の仕方も適切であった。
「感電した人たちは」
「もう、お棺に入ってるよ。明日葬式をして、すぐに焼くってさ。あたしの出番で、三人分だから、いい稼ぎになるっしょ」
焼き場の臨時作業員となる女は、腕まくりして笑顔を見せた。人が死んだのに嬉々としてやる気満々である。
「なあなあ、犬のお姉ちゃん。芳一との{ちゅー}は、どんな味がしたんだよ、なあなあ」
好奇心旺盛で、おませな少年の質問にアヤメは率直に答えるのだった。
「ゲボの味」
そういえば、さんざんゲボを吐いたな。命の恩人に不快な味覚を与えてしまった。
「ちぇっ、なんだよ、ゲボの味って。イチゴとかチョコとか、そんなんじゃねえのかよ」
「わたしので、たしかめてみればいいっしょ」
「なしておれが、あけ美と{ちゅー}するんだよ」
疑問を呈する少年の太ももを、少女の尖った指がつねる。「いててて」
だいたいの状況を把握できた。とりあえず安心してアヤメの感触を反芻しているのだが、その場が静かになってしまった。なんとなく気まずい空気である。
「コウタ、ご飯食べてこようよ。仁美のばあちゃんがおはぎ作ってたよ」
「さっき食ったばかりじゃんか。おれ、そんなに食えねえよ」
「いいから、きなって」
バシバシとコッタの頭を叩いて、あけ美が連れだしてくれた。空気の読める良いお嫁さんになりそうだな。そして、アヤメと二人っきりになることができた。
「薬をありがとう。それと介抱も」
「どういたしまして。でもさ、あたしの口移しはイヤだったでしょ」
「そんなことはない。最高だった」
私の返答は正直に過ぎた。
「ええっと、今夜は客をとらないのかい。ここにいたら仕事ができないんじゃないか」
よせばいいのに、よけいなことを訊いてしまう。心につっかえていることを口に出さなければならない性分なんだ。
「もう、そういう商売はやめたの。さっきの男にはシソジュースを売っただけ。しつこかったから、キンタマを蹴っ飛ばしてやったさ」
アヤメはそう言って、じっさいに右足をシュッと力強く蹴りあげた。朗らかな表情で、感情の引っかかりを見せていない。
「やめたって、なんで。稼げなくなるじゃないか」
「だって、あたしがパンパンだったら、芳一はイヤっしょや」
ものすごくイヤだ、ということを示すために首がもげるくらい何度も頷いた。
「だから、やめたの。もうしないんだ。でめんとりして稼ぐさ。ばあちゃんから薬の作りかた教えてもらってるしね。今度は体じゃなくて、薬売りのアヤメさんなんだよ」と言って胸を張った。
「そっか」
いや、たぶん売春はやめないだろう。この場を取り繕うための方便だと思う。さっきの男とも一戦交えた後かもしれない。私に気を使っているのか、それとも自分へ言い聞かせているのか。悲観的で猜疑心に富んだ思考へと偏っている気がしたので、話題を変えることにした。
「ステージで一緒に踊っていたあの巫女さんって、アヤメの妹なのか」
「そう、カナエだよ。西出の家に養子にとられたんだ。父さんも母さんも死んじゃって、借金返せなくなったから」
借金のカタに身内を差し出すっていうのはよくある話であるが、こんな辺境の島でも経済的苦境がつきまとう。いや、貧しい場所だからこそかもしれない。
「カナエは、ちょっとおかしいのよ。気持ちがね、なんか、はっきりしないというか」
妹には、生まれついて心の病気があるみたいだ。知能はそこそこなのだが、精神状態が不安定になるみたいだ。微妙な雰囲気になったので、さらに話題を替えることにした。
「この島の人たちって、ちょっと変わってるよな。病気に苦しめられているのに、その病気のお祭りがあって、うれしそうに踊ったりするし」
「ジャンジャの踊りはね、島の者たちにいっつもジャンジャを考えさせるためさ。踊ることでジャンジャを心の芯になすりつけるの。こうやって、こうやって」グリグリと、見えない心柱にアヤメのゲンコツがめり込んでいる。
「西出の家がね、昔っからそうしてんだ。だから、そういうことなのさ」
ジャンジャという風土病が、日名子さんの家にとっては都合がいいということだ。島民たちを束ねる手段に使っているという疑惑がわいてきた。少なくとも、アヤメの言い方はそういう意味を含んでいる。
「そういえば、ジャンジャの秘密を知っていると言ってたけど」
「知ってるよ。でも、芳一には教えてあげないんだから」
プイとあっちを向いた。機嫌が悪くなったのではなくて、いじわるゲームなのだ。その証拠に、ちょっとばかり微笑んでいる。私とふざけ合いたいとの空気が醸成されていた。
「なあ、教えてくれよ。原因がわからなくて先生が困っているんだ」
「ダメよ」
「このままじゃあ、オレは蚊の採集ばかりやらされそうだよ。でめんちんが出ないって」
「蚊じゃないって言ってるしょや」
蚊でなければなんだ。便所虫とかか。またはハエとか。
「だったら今度カナエに会わせてあげる。コッタに内緒でね」
コッタは巫女さんにメロメロだから、抜け駆けがバレたら恨まれそうだな。
「だけど、命の保障はしないよ。秘密を知る者にはなにがあるかわからない。この島には呪いがあるんだから」
意味深長な言い方だ。あの巫女に会うことでジャンジャの解明になるとは思えないけど、アヤメの指示に従うのはやぶさかではない。
「その時は、まあ、なんとかするさ」
「その時は、あたしが芳一を守ってあげる」
「その時は、よろしくたのむよ」
私がアヤメを守るよりも、彼女に守られるほうが現実的であると自嘲してしまう。力こぶを見せようとする彼女が、心強かった。
「よう、芳一、気がついたか」
ドカドカと床を踏み壊すほどの足音が近づいてきたと思ったら、引き戸が壊れんばかりの勢いで開け放たれた。現れたのは先生で、なにか良いことがあったのか意気揚々と部屋に入ってきた。
「瑠々士別に行ったら収穫があったぞ。これを見ろ」と勢いよく差し出したのは一升瓶である。
「村川さんのとこの治療費の代わりに、酒をもらってきたんですか」
「どうだ、一杯やるか」
「いや」解毒したばかりなので、迎え酒を飲みたいとの欲求はない。
「ニオイだけでも嗅いでみろ。興味深いぞ」
ポン、っといい音がして一升瓶の栓が開けられた。三分の一ほど入った液体は白色で、どぶろくだと思った。中途半端な量だが濁り酒は嫌いじゃないので、毒が抜けきったら飲もうかと気軽に嗅いでしまった。
「うっ、臭っ。おえっ、な、なんですかこれは、腐ってんじゃないか」
香ばしかった。ただし食欲をそそられる類の臭気ではない。どちらかというと吐き気を催すほどの悪臭であった。つねに尿臭がするツヨシを数十倍に濃縮したようなニオイが、鼻腔の敏感な部位に突き刺さった。
「じいさんのションベンだからな」
「しょ、小便?」
一升瓶の液体は、なんと年寄りの尿だと言う。そんなゲテモノをもらってくるなんて正気なのか。
「先生、それはひょっとして乳糜尿ですか」
引き戸の柱に体をもたれかけているのは横山さんだ。私ほど丁寧な解毒を施されていないためか、まだ回復の途中である。顔色が良くなく、足元もたよりない様子だった。
「そうだ。村川の息子の腹を縫ってやったら、孫の容態を見にきたじいさんの下肢がひどく肥大してたんだ。訊くと、戦慄と熱発作を何度も繰り返したあとで浮腫となったようだ。最近は小便が白いとこぼしていたから、これは! と思ってもらってきたんだ。じじいのくせして、こんなに出しやがったよ」ガハハと笑う。
「やりましたね、先生。採血はしましたか」
「これからだ。だけど間違いないぞ。ビューだ、ビュー」
先生の話によると、お祭りの会場に村川の息子も来ていた。大乱闘となった時に血気盛んな若者は、騎人古地区の誰かに腹を刺されてしまった。大騒ぎしていたが内臓に達するほどではなく、縫って抗生物質を処方して終わりとなった。元激戦地の軍医だけあって、外傷治療はお手の物なんだ。
村川の家にはじいさんもいて足がかなり腫れていた。尿も白く濁って困っていると、医者に訴えた。先生が探し求めていた症状が、そこにあったわけだ。
「にゅうび、尿って、なんですか」
「体のなかには血液のほかにリンパ液というのが流れているのは話したでしょう。それはリンパ管を通るんですが、フィラリア虫がそのリンパ管を塞ぎます。すると腸で栄養を吸収したリンパ液が腎臓付近で尿へと逆流してしまいます。白いのは脂肪ですよ」
横山さんが説明してくれた。ようは寄生虫がリンパ管に詰まってリンパ液が全身に行き渡らず、栄養が尿へと流れてしまうとのことだ。
「つまりだ、この島にはフィラリア虫がいるってことだ。これでキンタマも腫れあがってたら間違いないな、でっかいキンタマだ、キンタマキンタマ」
先生が目を輝かせて言う。アヤメの前でハレンチな言動はやめてほしかったが、彼女は素知らぬ顔をしている。タマが腫れあがるというのは陰嚢水腫のことで、フィラリア症の典型的な病態とのことだ。
「横山、いまから瑠々士別に行くぞ。住民を検査しまくってやるんだ。器具一式と薬を全部持っていく。芳一、おまえは荷物運びだ。真っ暗で足場が悪いから気をつけろよ。給金をはずむぞ。でめんちんを倍にしてやる」
「採血してギムザ染色して塗抹検鏡ざんまいですね。ひひひ、胸が躍りますよ」助手の喜ぶところがおかしい。
今夜は徹夜になりそうだ。足場の悪い真夜中の道を、重い荷物を持って歩かなければならないのは憂鬱だ。医者たちは嬉々として働きがっている異常者だから、きつい仕事になるだろう。報酬が倍になるはうれしいけど、その前に疑問というか、懸念がある。
「瑠々士別の人たちから断られるんじゃないですか。村川さんが嫌がっていたはずだけど」
「その村川が協力すると約束してくれたんだ。息子を助けたのが効いたんだよ。話してみれば、日名子よりも、よっぽど道理のわかる男だ」
ふらつきながらもやる気満々の横山さんと、さっそく支度は始める。私の分をアヤメが手伝ってくれた。気の利く女は重宝する。一緒になって意義のあることをするのが楽しいと感じた。
先生が傍にきて、器具類をテキパキとリュックサックに詰め込むアヤメを見ていた。
「あんたがアヤメさんか。なるほどな、これほどの美人は札幌にもそうそういないわ。ダンスも上手いしな。芳一、おまえは果報者だ。まっとうに働いて、しっかりと食わせてやれや」
アヤメは顔を上げない。少し首をかしげるが手を止めたりはしなかった。
準備が完了して出発となった。先生と横山さんが部屋を出たので、私も続いた。役場の前でいったん立ち止まり、それぞれの懐中電灯に火を入れた。背負った荷物がうず高くて、後ろに立っているであろうアヤメが確認できないが、声は届いた。
「先生はいい人なのね」
お人好しほどいい人ではないが、情に厚い人ではある。
「でも、この島ではいい人は邪魔になるかもしれないさ」
見送ってくれたアヤメは、私の背中にそう言った。振り向くと、すでに彼女の姿がなかった。役場の中に入ったのか、あるいは外の闇へ溶け込んでしまったのか、残り香すら感じられなかった。
外灯もない真っ暗な夜道を、僅かな星明りと懐中電灯の光点を頼りに歩いている。先頭は先生で次が横山さん、しんがりが私だ。荷物の積載量は、その逆順である。
嵐が近づいているのか、海から湿った風が強く吹きつけていた。解毒明けなのに、大量の荷物が体に堪える。向かい風に何度もあおられてしまい、無駄に疲労がたまってしまう。たまらず先生に泣きつくと、やっと小休止となった。
ダンプ一台分ほどの大岩の陰に腰を下ろした。先生はタバコを吸って、横山さんと私は仁美婆さんが作ってくれた甘すぎるおはぎを食った。糖分が効いてきたのか、助手の背筋が伸びてくる。いっぷくが終わって、立とうとした時だった。
突如、頭上からグエーグエーと不気味な鳴き声がしたかと思うと、バサバサと何かが落ちてきた。先生の前でのたうち回るそれを、三つの光点がポイントした。
「なんだ、この鳥は。誰かに毟られたのか。表面になにか付いているな」
前にアヤメの家に行く途中で見た鳥だった。羽がほとんど抜け落ちてしまって、デキモノだらけになっている。保古丹島と同じく、いたるところが赤黒くて醜かいであり、昼間はもとより闇の中では極力遭遇したくない類の生き物だ。
「ジャンジャの鳥だってコッタが言ってたよ。呪われているから触ったらだめだって」
先生が捕まえようとしたので、私は知っていることを伝えた。コッタの言っていたことが本当なら触らないほうがいいだろう。呪われてしまうからな。
バカを見るような気配を先生から感じた。その鳥は転げ回るように行ってしまった。
「あれはカモメじゃないな。渡り鳥か。けっこうデカかった」
「腫瘍だらけで、もとが何の鳥なのかわからないですね。羽が抜けて飛べなくなっていますよ。感染症にもかかっている。ひどいですね」
「まあ、ある意味呪われているな。ったく、日名子といい鳥といい、この島にはロクなものがいねえ」
先生と日名子さんは険悪になっていると、助手から聞いている。今夜、私たちが瑠々士別地区に行くことを、村長は猛然と反対したようだ。もちろん、我が名医は研究のためなら人間関係の破綻もお構いなしなので、彼女を無視しての強行軍となった。
お祭りの最中に逆エビ反りで死んだ三人の遺体を警察に引き渡すべきだと言っていたので、そのこともイラつかせたようだ。周囲に当たり散らし始めたので、仁美婆さんの夜食をのん気に食っていたコッタとあけ美が逃げるように帰宅したとのことだ。子供は早く寝るに限るというのは世界共通の認識だな。夜になると鬼が出るんだ。
海藻臭い海風が吹きつける夜道は、いちおう車道なのだが、舗装されていない上に尖った石が地面に半没していたりして歩きにくい。ほんとうは自動車を使いたかったが、騎人古には数台しかなくて貸してくれる人がいなかった。仁美婆さんがトラックで送ってやると言っていたが、誰も本気にはしなかった。
一時間くらい歩いて瑠々士別地区へ到着した。曇っているうえに外灯がないので集落の家々がほとんど見えない。行先は瑠々士別小中学校なのだが、先生は場所を知らないと言う。闇の中で見知らぬ集落をさ迷うのはトホホだなと思っていたら、前の方から一つの光点と人の気配がやってきた。
「暗い中をよく来たな」
暗い中で出迎えてくれたのは村川であった。
いきなり、「ジャンジャ・ドウー」と、あのポーズを見せつけられるのではと身構えたが、さすがにそれはしなかった。瑠々士別小中学校へと案内してくれて、私たちに体育館をあてがってくれた。学校は、騎人古地区のそれと比べると建物自体が小さかった。数えるほどしか子供がいないのだろう。
体育館は、その用途にふさわしいほど広々していない。ふつうの教室を一回り大きくしたほどの空間しかなかった。そこが瑠々士別地区の診療所兼ジャンジャの採血・検査場となる。運用は明日からであるが、すでに村川の奥さんとじいさんが待っていて、眠そうな顔をしていた。
さっそく、じいさんの診察と採血が行われた。とにかく足の腫れがひどかった。たとえば{くるぶし}とか{ふくらはぎ}とか{太もも}とかの一部分ではない。上から下まで、足と定義づけられる部位全体が醜く膨らんでいた。針の先で突くと、パンパンと破裂しそうである。
「リンパ管にフィラリア虫が詰まっているので、リンパ液が下のほうに滞ってしまいます。それが{むくみ}となるんですが、痒いので掻いたりすると傷ができて炎症を起こして腫れが慢性化し、こうなってしまうんですよ」じいさんの腫れた足をまさぐりながら横山さんが説明してくれた。
「フィラリア虫がいれば、の話だがな、ふんっ」先生にしては珍しくシニカルな顔をしていた。
「いるでしょう」助手の返事は力強かった。
「もちろんだとも。俺の見立てに間違いはねえ」
名医というのは、いつでも居丈だけで傲慢で、そして心強いのだ。
じいさんの診察と、村川本人を含めた家族全員の血液採集が終わった。薬品や顕微鏡を使って、医者たちはさっそく虫探しを始めている。荷物を運び終えた私はお役御免となって、先生から寝てもいいとお許しが出た。お祭りで酔っぱらい、アヤメの踊りを見て、乱闘騒ぎとなったのが、遠い昔の出来事だったように思えた。急に眠気が襲ってきて、落下するように眠った。
「やった、やりましたよ。芳一さん、朗報です、朗報」
バシバシと頬を叩かれて起こされた。けっこう強い張り手で、寝ぼけながらも頭にきた。「なんだ、このやろう」
「ミクロフィラリアを見つけましたよ。村川さんのおじいさんからです」
腹立ちまぎれに起き上がると、横山さんの笑顔があった。目覚めたばかりで意識が結束しきれず、キョロキョロと辺りを見回した。私は小さな体育館の隅で寝ていた。
すでに夜が明けていて、窓から靄のような明るさが入り込んでいた。時計を確認すると五時過ぎだ。やたらと薄っぺらな布団だったが、数時間は眠ることができた。板張りの床は灰色に煤けていて、甲虫や羽虫の死骸があちこちに散らかっている。運動場らしく、すえた汗のニオイがした。
向こうで先生が検査器具やら薬品やらを前にして胡坐をかいていた。昨夜、村川の家の者が作ってくれた握り飯を食って茶を飲んでいる。私もそこへ行って、朝飯を食うことにした。横山さんも一緒だ。
「幼虫はバンクロフト糸条虫で、なんと、日本のフィラリア症の北限ですよ。これは発見ですって、すごいです」
助手は自慢げに胸を張るが、意外にも先生は浮かない表情だった。
「たしかにフィラリア症の発見はできたが、これはジャンジャではない。村川のじいさんは、そもそもジャンジャを発症していなかった」
そう言って、不貞腐れたように握り飯の残りを口の中に放り込んだ。
「先生、こんな寒冷な島で南方の寄生虫症が発見されたのは驚きですよ。どういう経路でやってきたのでしょうか。日出夫は気になりますねえ」
「横山、俺たちはジャンジャの原因を見つけに来たんだぞ。ほかのことは二の次だ」
「でも先生の見立てでは、ジャンジャはフィラリア症だったでしょう」
「・・・」
助手がやり込めているのは面白いと思った。ちなみに、この二人は寝ていない。もともと頑健な先生は二晩ぐらい寝なくても大丈夫そうだが、虚弱な横山さんは悪酔いしてさんざんに嘔吐したのに、なぜか意気揚々である。体の疲労を精神の高揚が上回っているようだ。
お茶を飲んで冷たくて固い握り飯を食っていると、村川と奥さんが来た。
「診察は今日の八時から始まるって、ほかの者に言っておいた。雨が降りそうだから、どんだけ来るかわからんがな」
差し入れは出来立ての握り飯で、タクワンと一夜干しの焼き魚があった。すでに二つ食って満腹になっている。もう数分寝坊していればと、叩き起こした横山さんを恨めしく思った。なお助手は、さも美味しそうにムシャムシャバリバリと食っている。
「息子どころか親父の治療までしてもらって、先生には世話になったな」
村川のじいさんというか、父親にはフィラリア症の駆虫薬が投与される。副作用で高熱が出る場合が多いと、先生は注意を怠らない。
「警察からは、すぐに来れないと連絡があったよ。海がシケてきたからな。それに西出から病死との連絡があったそうだ」
不審死した三人の処置は司直に任せるべく、先生が村川に連絡を頼んでいた。あれはジャンジャではない何かだとの見立てをしている。日名子さんのとこでは電話を借りられないので、ここで連絡をとってもらったのだ。
あれは「ジャンジャ・ドウーで、島の呪いだ」と村川が言うが、先生は取り合わない。医学的な根拠を模索している最中なのだ
午前八時からの診療には大勢の島民がやってきた。瑠々士別地区は日名子さんの集落よりも住民が少ないが、病人の数は負けず劣らずであった。満員御礼なのは、村川の力によるところでもあるが、無医村の人たちにとっては滅多にないチャンスだからだ。
「芳一、役場に戻って薬をとってきてくれ。こんなに診るとは思わなかったから置いてきてしまった」
荷物をすべて持ってきたわけではない。必要量だけのつもりだったけど、患者が予想より多く来てしまった。おもにはジャンジャだったが、その他の疾病もあって医者は忙しかった。雑用係も同様で、とくにカルテの整理には手間と時間がかかった。学校は休みとなっている。
夕方になって診察が終る前に、私は一人で騎人古地区に戻って薬を持ってくることになった。先生と横山さんは、採血で得た血液を検査する仕事がある。彼らは今晩も徹夜するようだ。驚くべき生命力である。
「おまえは、今晩は向こうの役場に泊まってこい。明日の朝早くに出発すればいい」
夜道を一人で戻るのは危険だと先生が心配してくれた。だけど、日名子さんとなるべく顔を合わせたくない。私が原因ではないのだが、絶対に八つ当たりされてしまうだろう。
コッタの家では追い出されてしまうので、アヤメの家にでも泊めてもらえないかと考えている。私たちの間には話すべきことがたくさんあるし、けして、やましい企みなどしていない。
海風に背中を押されながら歩いていたら日が暮れてきたので、早歩きで騎人古地区に入った。役場に着いて部屋に行こうとしたら、男の職員とすれ違ったのだが、十分に距離をとって避けたつもりだけど肩が触れてしまった。あれっと思っていたら胸ぐらをつかまれて、「ぶっ殺すぞ」とすごまれた。すみませんと謝って、姿勢を低くして部屋へと逃げ込む。昨日まではふつうに挨拶していたのに、いきなりの態度豹変に肝を冷やした。
部屋の前に仁美婆さんがいたので、おはぎが美味しかったと言うと、目を合わせることなくそそくさと行ってしまった。なんだか空気が悪い。布団はしっかりと敷きなおされていて、いちおう世話をしてくれている。気に障る発言でもしたのかと思って記憶を探ってみるが、心当たりはなかった。
天気の具合を確かめに外へ出てみた。荒れるようなら雨具が必要となる。暗くなった空を見上げていたら、薄闇の向こうから二人の少年がやってきた。近くにきてコッタだとわかり、もう一人は、ええーっと誰だ。
「俺の子分のヤスオだべや」
そんなのがいたな。コッタよりも貧相で、ツヨシよりも臭くない。この島にちょうどよい具合の男の子だ。
「オラァ、ハラへったな」
前にも聞いたことのあるセリフだ。お菓子でも食わしてやりたいが手持ちがない。仁美婆さんにおはぎをもらいたかったが、さっきの白々しい態度を当てられるのはイヤだなと思った。ほかに頼める人物はというと。
「犬のお姉ちゃんなら、焼き場にいるよ。きのう死んじゃった大人の人を焼いてるんだ。おれの母ちゃんも手伝ってんだよ」
アヤメの話題を振ってはいないのだが、私の心の内を見透かしたようにコッタが言った。島の呪いが子供たちに超能力を与えているのかもしれないな。
「それとさあ、なんかあ、先生が良くないことしてるんじゃないかって、みんなが言ってるよ」
「ん?」良くないこととは、なんだ。
「なんか知んないけど、ジャンジャをなおさないで、かってなことしてるって。ホコタンには、お金もうけに来たんだって」
妙な噂が立ってしまっている。自分の指示を無視する先生に対し、日名子さんが激高してあることないこと撒き散らしているのだろうか。だから、職員がつっかかってきたのか。仁美婆さんまで塩っ辛い態度で、これは良くない兆候だな。
二、三日もしたら落ち着くはずだけど、今晩は役場に泊まる予定なので居心地が悪そうだ。急いで瑠々士別へ戻ったほうがいいのだろうか。それとも緊急避難できる場所で夜を明かすべきだろうか。
「犬のお姉ちゃんのとこにとまればいいべや」
だから、人の心を見透かすのは止めろと言いたかった。コッタは、したり顔だ。
「おれさあ、母ちゃんのとこに行くんだよ。ついでにイモ焼くから、食いに来いって言われてんだ。まだ晩めし食ってねえし、ヤスオにも食わせるんだ。焼き場で食うイモ、なんまらうめえんだよ」
まさか人を焼いた残り火でイモを焼くのではないよな。ずいぶんと人間臭いイモになると思う。
「犬のお姉ちゃんもいるから、焼きが終わったらいっしょに帰ればいいべや」
アヤメに会いたいのは本心だ。彼女の家に泊まれるかは未知数だが、なりゆきでどうにかなるかもしれない。
「こっちだよ」
すでにコッタとヤスオが歩きだしていた。薬のバックを持っていこうか迷ったが、後で取りに戻ることにした。
私たちは海沿いの細い道を進んでいる。先頭はコッタで、次が私で、最後がヤスオなんだけど、「腹へったへった」とうるさかった。もう暗くなっているのにコッタの足は速い。子供の目はフクロウ並みの能力がありそうで、懐中電灯を持ってなかったら見失うところだ。
「ほら、あそこだよ」
コッタが指さす方向に灯りがあった。近づいてみると巨大なトーチカを思わせるコンクリート製の武骨な建物があった。窓から橙色の光が漏れ出ている。長い煙突が夜空に屹立していて、先っぽから真っ黒な煙を吐き出していた。
「芳一、こっちだよ」
「おいおい、勝手に入っていいのかよ」
遺体を焼いている最中に、赤の他人が侵入したら遺族が怒るだろう。
「ここにはさあ、母ちゃんと犬のお姉ちゃんしかいないんだよ」
だから遠慮や気兼ねはいらないし、不敬にもあたらないと、懐中電灯で照らされる少年の顔が言っていた。
保古丹島の焼き場は遺体を焼くだけの施設だ。遺族の控室も簡単な食事をとる部屋もなければ、坊主も来ない。葬式は別の場所で行われ、遺体だけが運ばれてくる。焼き場の係員、今晩はアヤメとコッタの母親が骨になるまで薪をくべて、遺骨を骨壺へと納めて、後日、遺族の家に届ける仕組みだ。コッタの拙い説明だが、なんとなく流れをつかめた。
「コッタは、前にも来たことがあるのか」
「何回も来てるよ。初めはさあ、ゲボ吐いちゃったけど、いまはなんともない。ああ、でもヤスオはダメだ。おまえは入ってくんなよ。ここで待ってろな。イモ持ってくるから」
死んだ人間を見たら、それは吐きたくもなるだろう。子分のヤスオに見せるのは酷であるという判断は正しい。
少年が錆だらけの鉄扉を押し開けた。内から暖かい空気がムワッと押し寄せる。すごく煙臭かった。咳き込むほどではないが、目に沁みるくらいには煙っていた。燃える音が絶え間なく鳴っていた。
焼き場はたいして広くない。天井から電球があって、その下に女たちがいた。照明としては光量が足りなかったが、炎が発する光が直接的に補っているのでよく見えた。
その者たちが女だと一目でわかった。なぜなら二人とも胸が露出しているからだ。上半身が裸なのだ。乳房が陥没しているのがアヤメで、老婆のように仰々しく垂れ下がっているには、おそらくコッタの母親だろう。
二人が裸なのは、ここがいちじるしく熱いからだ。女たちはバチバチと燃えさかっている窯の直前にいた。業火の照り返しに焼かれるので、強い熱波を浴びている。上着なんか着てられない。下半身にはモンペのようなズボンを履いていた。頭には手拭いを巻いている。顔や上半身は黒く煤けていた。燃料には薪だけではなく、炭や石炭を使っているからだろう。背後に山と積まれていて、それらを次々と窯へ放り込んでいた。シャベルで石炭をすくっては放り込み 木炭をつかんでは投げ込む。火力を維持しなければならないのか、手を休めることなく集中していた。
炎が揺らめくと、薄暗い空間に女たちの影が不気味に動いた。バチバチと燃料が爆ぜて大量の火の粉が上がるが、彼女たちは気にしていない。前時代の炭鉱婦みたいに汚れながら、手を休めることなく黙々と作業している 垂れ下がった乳房が邪魔なのか、しきりに位置を直していた。
「・・・」
そして、私は台の上に盛られているモノを知って目を疑った。
肘から先の腕や膝から先の足、ドロドロとした臓物があった。あろうことか、生首の一部が見えているではないか。
「・・・」
なんと、人の部位であった。バラバラになった手や足のみならず、内臓まであるじゃないか。幾重にもとぐろを巻いているのは大腸か小腸か。一人では手に余るようで、二人して持ち上げていた。それでもヌルリと落ちて床でとぐろを巻いてしまう。裸の女たちが、それをつかんでは喫茶店のナポリタンのごとく巻き上げて、燃える窯の中へ放り込んだ。すぐに薪と炭を足して、粉炭をすくって投げ入れる。途端に炎が跳ね上がり、ジュージューと香ばしい音が弾けた。
「ぐおえ」
吐いてしまった。
私がだ。
硬質の床に膝をついて、少量を洩らしてしまった。
この焼き場では、遺体をバラバラにしながら焼いているのだ。アヤメとコッタの母親が、それをやっている。乳房を丸出しにした女二人が、まるで屠殺した家畜を各部位へと切り分けるように人間の死体を解体しているのだ。
私とコッタに気づいて、ここでようやく女たちが手を止めた。アヤメが目の前に来て手を差し出してきた。炭で汚れ、さらに泥みたいな血でべっとりと濡れている。生臭さが、プンと臭った。
「わっ、さ、触んな」
腰が抜けてしまって尻もちをついた。アヤメの体が熱いと感じた。窯の炎が彼女の体を熱しているのだと思った。切断した人の手足や臓物で勢いを増した火が、ずっと灼熱を放射しているのに違いなかった。
「芳一、芳一、」
地獄の焼却女が私の名前を呼んでいた。顔も腕も乳房も黒く煤けて、おまえはいったい何者なんだ。都会にもそうそういない稀有の美人が、分厚いコンクリートに囲まれた閉鎖空間で、汚れた乳房を露出しながら人の手足を燃やしている。前世でどういう罪を犯したのなら、こんな罰を受けるのだ。
「これは仕事なんだって。稼がないと生きていけないんだよ。いい金になるからさ、ちっともやましいことじゃないんだ。大丈夫なんだよ」
言い訳がましい口調ではない。男をたぶらかす女の、なまめかしい口ぶりだった。
「焼却炉が壊れてるからさ、仏さんをそのまま入れても、奥の方に空気がいかなくて焼けないんだよ。バラして入れないと骨にならないんだ。仕方ないんだよ、仕方ないっしょや」
私を上から見下ろしている。なぜだろう。彼女の瞳に熱を感じなかった。こんなにも燃やして表面は熱いのに、アヤメの中はいたって静かなんだ。
向こうに見える台の上に肉塊があった。すでに手足は窯に喰われたので、それらは遺体の残った部分であり、雑ではあるが頃合いの大きさに切断されていた。
存分に垂れた乳房の女が、それらを炎に放り投げた。火の粉が舞い、火力が咀嚼する間、いい匂いがしていた。そんなことを考えては不謹慎極まりないが美味しそうだとも思った。想像の中で噛みしめて、その酸っぱい肉の味に吐き気がした。
「コッタ、コッタ」
誰かにすがりたかった。血生臭いバラバラの死体を素手でつかむ女ではなくて、まだ幼くて純真な魂に触れたかった。
ただちに私を浄化しなければならない。できなければ、地獄の業火とこの女に取り込まれてしまう。
「なんだよ、芳一」
コッタの表情が異様であった。酸っぱい梅干を頬張ってしまったかのように口をすぼめて、視界を極限まで制限しようと目もほとんど閉じられている。
「おまえ、なんだ、その顔は」
「だって、ゆめに出てくるからさあ、あんまし見たくないんだよ」
悪夢を見ないための幼稚な工夫なのだが、意外に効果があるのかもしれない。
コッタの母親がアヤメを呼んでいた。私を覗き込んでいた半裸の炭鉱婦が、ゆっくりと体を起こした。なにかを言いかけるが、再び呼ばれたので背を向けて行ってしまう。
「女の人だ」
イヤになるほど反り返った女の遺体が台の上にあった。祭り会場で夫とくっ付いて死んだ佐藤の女房だ。電気で焼かれたので服も皮膚も焼け焦げている。Cの字状になったモノを、垂れた乳房の女と陥没した乳首の女が、真っすぐになるようにそれに整えていた。バキボキと不穏な音が響き渡る。私は耳を塞いで、コッタは顔の芸当をさらに緊張させていた。夫婦の娘はどうなったのだろうと、一瞬脳裏をよぎった。
燃料を与えられて活発になった炎が、その大きな舌を窯から突出させて女たちを舐めようとしている。だが絶妙の距離を保っているので、ヘラヘラと舞う炎に焼かれることはない。二人の後ろにはもう別の台があって、武骨で呪わしい道具が無造作に置かれていた。そこからアヤメがナタを持ち上げ、コッタの母親が出刃を握った。
おいおい、やめろやめろ、それは止めろ。その光景を私に見せるな。少年の魂に焼き付けるな。
「バンッ」と叩きつける音とともに、腕が弾けて台から落ちた。ナタを握ったまま、アヤメがそれを拾い上げる。コッタの母親は肩の関節に執着していて、出刃の切っ先をグリグリと差し込んでいた。力を込めて押し切るたびに、過剰に垂れた乳房が右に左に揺れた。昔話に出てくる山姥みたいだ。垂れた乳房が出刃に当たって切れてしまうのではないかと、よけいな心配をしてしまう。
二人はデタラメに刃物を振り回しているわけではない。切断しやすい関節を狙って、刃を何度も何度も叩きつけた。軟骨が砕ける音はけっこう小気味よかった。脂身の破片が飛び散り、一部は窯に近づきすぎて、灼熱の舌に囚われて焼き爛れていた。
「おれ、やっぱりゲボ出すわ」
コッタがゲボゲボとやりだした。嘔吐しながら笑ってもいるようで、彼の心理が難解である。ニラを食ったのか、吐き気を催すような悪臭だ。
「ガンッガンッ」と、遺体を叩き切る作業が続いている。窯の熱気は天井知らずで、私まで熱くなってきた。
「はらへってきたべや」とコッタが呟いた。吐いてしまったので腹がへったようだ。人間が焼ける匂いで食欲を刺激されているのか。その欲求は倫理的に間違っていることをこと細かく説明してやりたかったが、この場にいることが我慢の限界だった。
「うわああああ」
外に逃げた。後ろでコッタがなにか言っていたが、酸っぱいニオイのするトーチカから離れなければならない。とにかく走った。役場には行かず、先生たちがいる瑠々士別の学校を目指した。風がゴウゴウと唸っていて雨も降り始めていたが、雨具のことは考えなかった。
懐中電灯を点けたまま両腕をブンブンと振り回した。夜道を走っているのに転ばないのが不思議だった。本能という感覚器官が絶妙にバランスをとってくれた。雨風が激しくなってきた。上から降ってくるのではなくて、真横から叩きつけてくる。さんざんに熱を浴びたからか、寒さは感じなかった。
瑠々士別小中学校の体育館に着くころには、なんとか平静を取り戻していた。先生と横山さんに会って、生きた心地が戻ってきた。
「あれえ、芳一さん。今夜は向こうに泊まるんじゃなかったんですか」
「おう、芳一、なんだ、もう来たのか。薬はどこだ」
薬は持ってこなかった。とてもじゃないが、役場に立ち寄る余裕なんてなかった。
「忘れた。すんません」
怒鳴りつけられることなく、先生が私を見ていた。ただならぬことがあったのだと察している顔だった。
「なにがあった」
焼き場でアヤメやコッタの母親が半裸で遺体を切断して燃やしていたこと、小学生のコッタがかろうじて見ていたこと、辛抱たまらず私が逃げ出してきたことを話した。
「それはひどい。いや、考えられませんよ。ご遺体を司直の許可なく切断するなんて、死体損壊罪になります」
「いや、そうとも限らんぞ。焼却炉の故障で焼けないんじゃあ仕方ないだろう。離れ小島で、遺体を安置する設備もないんだ。本土で焼くにしても時化て船が出せないからな。かえって疫学的・衛生的な観点からすれば正しい行いだ。客観的にみて違法性を問われることはないだろう」
バラバラ死体など、激戦地を経験した先生にはさして吃驚することではないのだろう。もっと凄惨な現場を経験しているはずだ。
「まあ、そうですね。その国や地方によって、いろんな方法がありますよ」先生に言われて、助手はあっさりと前言を翻した。
二人にそう言われると、あのコンクリートのトーチカみたいな建物で、アヤメやコッタの母親がやっていたことが合理的であるように思えてきた。たしかに作業自体はグロテスクで残虐ではあるけど、死んだ人の霊や魂を冒とくしたわけではない。骨になってきちんと壺に収まってしまったら、よくやってくれたと感謝される仕事なんだ。腐ってウジが涌いたまま放置したのでは、それこそ敬虔な感情の欠如となる。
「あんなにきれいな顔しているのに豪胆なことをやるな。たいしたもんだ」
先生がアヤメを褒めた。なるほど、たいしたものだと思えてきた。
「芳一、今晩はここで休め。明日、役場に行って薬をとってこい。嵐になっているから気をつけろよ。それと、あの美人さんには失礼なことを言うなよ。困難な人生を歩まざるえない者もいるんだから」
アヤメとコッタの母親がやっていることは悪逆非道ではない。通常の業務の範疇なのだ。医者が遺体を解剖する方が、よっぽど気持ち悪い。そう考えると気持ちが楽になった。
「先生たちは、これからどうするんだよ。まさか、今夜も徹夜で採血とか」
「それがフィラリアの幼虫でない、なにかの虫の一部らしきものが採血した中にあったんです。文献にも載っていない形状なのですよ」
「形がミクロフィラリアとはまったく違うからな。ただし、全体像がわからんだ。一匹丸々じゃないとな」
かすかな進展があったみたいだが、それがジャンジャの原因かどうかはまだ不明だ。あまり喜んでいないので望み薄なのかもしれない。
「おー、先生たち帰ってきたか。ジャンジャ・ドウー」
村川と奥さんがやって来て、あいさつがてらに、いきなりあのポーズを披露した。
「あのう、その仕草って、どれくらい効果的なんでしょうか」
空気の読めない愚直な助手が問うた。先生が苦笑している。
「こうやることで、ジャンジャ・ドウーにならないんだ。呪いを弾くには、これしかない」
あんがい、日名子さんとこのジャンジャダンスよりも効果があるのかもしれないな。
「今晩みたいな嵐の夜はジャンジャが疼くんだ。体中が痒くてしょうがねえべや。ジャンジャは死にやしねえが、ジャンジャ・ドウーは死ぬんだ。だから念入りにやらんとな。ジャンジャ・ドウー」
ボリボリと腹を書いた後に、締めのポーズをキメてニヤリと笑みを浮かべる。そんな亭主を、後ろにいる奥さんが拍手で讃えた。
村川の様子を見ていた横山さんが、ふっと思いついたように呟いた。
「先生、ミクロフィラリアは夜間定期出現性でありますから、ひょっとしたらジャンジャの寄生虫は・・・」
そこまで言いかけて黙ってしまった。思いついたことを理論として整理してから話したいようだ。
「もし嵐の夜にジャンジャがひどくなるんだったら、嵐の夜にジャンジャの虫が這い回るんじゃないの。まあ、よくわからないけど」
テキトーなことを言ってしまった。なんとなくであったが、たぶん横山さんはそう言いたかったのではないかと思う。
先生が私の顔を見ている。バカを見るような目ではなく、慧眼を得たように見開いていた。
「おい、そうだよ。それだ」
どれですか、とマヌケな返答をしてしまった。助手のほうは端的だった。
「低気圧に関係あるのでは」
「それだ」
先生が跳びあがるように立った。間髪おかずに助手が弾かれて、バックをまさぐる。外出の用意を始めた。
「村川さん、これから瑠々士別の家を回って採血したい。協力してくれ。あんたがいれば事がいいように運ぶ」
「先生よう、採血なら昼間にさんざんやったじゃないか。診察に来た者全員からとったのに、夜にまたやるんかい。寝てるもんもいるべや。天気も悪いし」
村川は村長ではないが、瑠々士別地区の顔役である。地区の人たちに、夜間の突撃訪問と吸血行為を承諾させるには心強い存在だ。しかし雨と風が強くなっている。強情で勝気な医者と一緒に、嵐の夜の夜道を何時間も付き合いたくはないだろう。
「嵐の日にやるのがいいんだ。頼むよ、このとおりだ」
めずらしく、先生がへりくだって拝んでいた。
「先生よう、ジャンジャは呪いなんだよ。なんぼ検査をしたって、なんもでねえべや」
「ジャンジャは病気なんだ。病気というのは原因がある。原因がわかれば治せる可能性が増す。呪いが病気になることは絶対にない」
先生は自説を曲げない。
「わかった、しゃあねえわ。ジャンジャは呪いだということがわかるまで、あんたらに付き合ってやるよ」
村川も自説は曲げない。だけど協力はするようだ。息子と父親を救ってもらったことが、よほど効いている。
「先生、ヒステリーは呪いという思い込みでも発症しますよ」
余計なことを口走ってしまった助手には、先生の「黙れ」という声が突き刺さった。
先生と横山さんと村川が島民の家へ血を採りに出かけた。風雨が激しくなっているので、雨合羽を着ての強行軍である。
私には、今夜するべきことの指示がなかったので飯を食って寝ることにする。心に衝撃を受けて、けっこう疲れた。アヤメのことは明日から悩めばいい。
日付が変わった早朝、先生と助手が帰ってきた。同行していた村川は自宅に直帰したようである。瑠々士別地区の家々を回って、全部ではないが、かなりの数を採血してきた。すでに薬液につけているので、これから顕微鏡で調べると言う。雨が降りしきっていたので、雨合羽を着ていてもびしょ濡れだった。着替える動作がじれったいほどノロくて、まるで、わざとフィルムの回転数を落としているようだ。
「少し寝たほうがいいんじゃないですか」
先生の顔がやつれ果てていた。目の下に濃い藍色のクマができて、顔から筋肉がずれ落ちそうなくらいであった。
「大丈夫ですよ」と言う助手は鼻血を出している。まったく大丈夫じゃない状態だ。
「俺はちょっと寝るから横山も寝ろ。芳一は薬をとってこい。以上」
さすがに限界だと悟ったようで、先生が就寝宣言した。とたんに助手が崩れ落ちて、その場でカタツムリのように小さく固まって寝始める。先生もイビキをかいていた。これほど早く寝てしまう人間を見たのは初めてだ。
二人に丹前をかけて、村川の奥さんが作ってきてくれた握り飯を食ってから学校を出た。風雨が強くて海藻のニオイが濃かった。アヤメのことをあれこれと考えながら早足で歩く。
全身をぐっしょりと濡らして騎人古の役場へ到着した。誰かに見つかる前に荷物を持ち去りたいと思う。金もうけな悪徳医者の仲間だと、あらぬ言いがかりを吹っ掛けられても厄介だ。
あの奇妙なジャンジャ祭りは中止になっただろうと考えていたが、甘かった。役場へ入ると数人が踊っているではないか。朝っぱらからレコードをかけている。曲は「ブルーシャトー」であって、おもわず笑ってしまった。アヤメがいれば針を蹴飛ばしていただろう。
「おめえ、べしょ濡れだべや。なんつっか、カッパか。メシ食うか」
仁美婆さんに出会った。昨日はよそよそしい態度だったが、今日は友好的である。食事は遠慮して部屋へ行った。濡れているのがイヤなので、すっ裸になって替えのパンツへつま先を通そうとしていると、突然、ガバッと引き戸が開いた。
「うわあ」とつんのめって転んでしまった。具合の悪いことに、尻を突き出した格好になってしまう。
「いいのよ、ゆっくりやってくれれば。急がないから」
むき出しの尻の深部を見せつけているのだ。ゆっくりはしてられない。そそくさと下着を身に着けて、ズボンと上着も整えた。なにごともなかったように装う。日名子さんだった。
「あの、なにかありましたか」
「晃はどうしたの。向こうでなにをやっているの。あなたはどうして一人なの」
矢継ぎ早の質問攻めだ。晃とは誰だと斜め右上を見て、あの見慣れた顔を思い出した。
「先生と横山さんは瑠々士別で検査をしてますよ。ここでやったのと同じです。おれは薬を取りに来ただけです」
「そう」
一瞬、キツネのような目つきになったが、すぐに温和な中年女性の笑顔に戻る。
「わたしもちょっとばかり言い過ぎちゃってね。仲直りしたいかなと思って」
てっきり詰め寄られたりするのではと警戒していたので、ちょっと拍子抜けした。
「はあ、そうですか」
日名子さんの右手にはボトルと、左手にはグラスが二つあった。でも先生はいない。
「晃は洋酒が好きだから持ってきたのだけど残念だわ。せっかくだから飲みましょうか」
輸入物ですごく値の張るブランデーである。札幌でも高級店でしかお目にかかれない銘柄で、もちろん私は飲んだことがない。女村長が仰々しい封を開けると、スポンといい音がした。ほのかに香るアルコールの匂いが、安物とそれとは全然違う。
「いや、オレはすぐに行くんで」宴会をやっているヒマはない。
「もう、注いじゃったのよ。おばさんに恥をかかせる気かしら」
二つのグラスに濃い琥珀が映えていて、それぞれが半分ほどを満たしている。
「ほら、若いんだからグッといきなさいよ」
そう言ってグラスを差し出した もう一方のグラスに自らの口をつけて、ずずっとすする。
「ええっと、じゃあ、一杯だけ」
いちおう世話になっているので恥をかかせるわけにはいかない。ただし、日名子さんを信用しているわけではない。あの振る舞い酒の件もあり、いろいろと疑問が出てきているからだ。
だけど、この酒は安全だと思う。新品の封を目の前で開けたので、気分がおかしくなる悪いナスビは混ぜられてなさそうだ。舶来品の高級ブランデーなんて滅多に飲めないので、ぜひとも味わってみたいとの本音があった。よせばいいのにカッコつけて、グイッと一気に飲み干した。
「あら、いけるじゃないの。晃の若い頃よりも男っぷりがいい。あなた、モテるでしょう」
「いや、そんなことは」
二杯目は、すでに注がれていた。一杯目よりもよほど量が多く、なみなみと注がれている。焼けるようなノド越しはあったが、まろやかで甘く舌にねっとりとまとわりつく。甘露というほかない。
「ほら、もう一度、いい男を見せてよ。保古丹には魚臭いのばかりで、教養のある男がいないのよ、将来の作家さん」
日名子さんは頭のいい人なので、話し相手には相応の知識を求めるのだろう。私がその対象であることが嬉しかった。いままで就いていた仕事や家族のこと、その他の世間話をした。思いのほか話が弾むし、あんがいと物腰のやわからい人だ。
「それで、晃はどうするのかしら。今回も原因がわからないままで帰ると思うけど」
「それが、どうやらいけそうですよ。糸口を見つけたみたいです」
「えっ、まさか見つけたの、ジャンジャの原因を」
「原因かどうかはまだですけど、虫の尻尾だか足だかがあったみたいで、なんか、嵐の日に出るとか出ないとかかなあ、くわしいことは知りましぇんけえぞ」
すでに酔っぱらっていて舌が回らなくなってきた。日名子さんが体を寄せてくる。
「どういう虫を見つけたの」
「だからあ、それはまだハッキリしないんですよ。昨日徹夜で集めていましゅたけら、だからええーっと、仮眠をとって、昼からでも調べるんじゃないですかねー」
「今日中に、その虫は見つけられそうなの」
「見つかるんじゃあ、ないでしゅか、うい~」
日名子さんが静かになった。ブツブツと言っているようにも聞こえるけど、聞こえないような気もする。すっかりと酔っぱらっていたので、気まずいとも感じずに飲み続けた。そのうち眠気がさしてウトウトしてしまった。まどろみの海に気持ちよくぷかぷか浮かんでいると、誰かが私を気安く呼んでいた。
「芳一、芳一、おきろよ。なして昼間っからねてんだよ。うっわ酒くっさ。ゲボでそう」
コッタの声に似ていた。日名子さんが少年のモノマネをしているのはなぜだとぼんやりしていると、耳たぶを千切れんばかりに引っ張られた。とたんに浮ついていた気持ちが一気に収斂した。
「イタタタタ。コッタ、やめろ。こら、やめろって」
いつも通りの小汚い帽子をかぶったコッタがいた。しかも、コッタしかいない。
「あれえ日名子さんは、どこ行った」
「西出のおばさんなら、なんか、はっちゃこいてたけどさ」
酔っぱらって不覚にも寝入ってしまった私に愛想をつかして部屋を出たのか。コッタが顔を近づけてきた。
「なあ、芳一。昨日の母ちゃんのことはさ、だれにも言うなよ。な、な」
焼きやすくするために、遺体をバラバラにしたことを言っている。出刃やナタで三人分を、コッタの母親がアヤメと一緒に解体していた。秘密にしてくれとの息子からの依頼だ。その事実を島民は知らないということだ。
「誰にも言わないよ」
「ぜったいだよ、ウソ言っちゃだめだよ。指切りげんまんするべや」
私の小指が細くて短い小指に絡まれてしまう。コッタが指切りの呪文を唱えた。違反すると千本もの針を吞まされることになるのだが、じつは先生と横山さんにはすでに密告済みであった。コッタは人の口の中に鋼鉄の針を押し込むようなことはしないだろう。アヤメならわからないが。
「犬のお姉ちゃんが、芳一と話したいって言ってたよ」
「アヤメが。なんだろう」
一瞬、燃えさかる炎を背景にナタと千切れた足首を持っている半裸の女を想像してしまい、心の中で慌ててかぶりを振った。まだ酒が残っていて気持ちが浮ついているのだ。
「ジャンジャのヒミツだってさ。芳一に教えてもいいって」
また呪いの話なのか。先生が医学的な突破口を見つけそうなのに、水を差すようなことを吹き込まれても盛り上がらないな。
「家にいるから、来てほしいって」
しかしながら、アヤメの家に行くのはやぶさかではない。瑠々士別に帰る途中で寄るのもありか。
「おれさあ、大阪に行くかもしんないんだよ。母ちゃんのかせぎが良くなってっから、お金がたまるんだって。みんなで行きたいなあ。連れて行けるかなあ」
身支度をしながらコッタの話を聞き流している。
「みんなって誰だよ」コッタの家族は母親だけのはずだ。祖父母がいるとは聞いていない。
「ヤスオや杏子やミノルだよ。ホコタンから出たことないからさ。みんなで夜汽車にのって、五目おにぎり食うんだよ」
「ツヨシは」
「あいつは、いっつもションベン臭いからさあ。大阪の人にバカにされちゃうって」
「あけ美は」
「あけ美は、ええーっとう、あけ美は、なんかあ」
肯定も否定もできないコッタの様子が愉快だ。おもしろいので、もう一つ、ダメを押してやった。
「巫女さんは」
「みー、巫女さんーっ、ウッキーキー」
少年が見悶えている。現実の対象には思慮深く、憧れにはサカリのついたサルみたいに興奮してしまう。まだ小学生というのに、男とはかくも哀しい生き物だとしみじみと実感してしまった。
「おれ、ばあちゃんとこで昼めし食うわ」
お祭り期間なので学校は休みとのことだ。ここに来れば仁美婆さんからメシをもらえる。一緒にと誘われたが仕事を優先させなければならない。あんまり遅いと怒られてしまうからな。まだ酔いが残っていたけど、雨の中を歩くと醒めるだろう。コッタとわかれて役場を出た。
途中でアヤメの家に寄るつもりだったが、近くまで来たところで家の前に先客がいることに気がついた。遠かったが、あれは間違いなく日名子さんだ。焼き場の日当でも渡しに来たのだろうか。用心棒の富田と斎藤もいる。避けたほうが賢明だと判断して、素通りすることにした。
瑠々士別の学校に着くと、先生と横山さんは握り飯とイカの一夜干しを食いながら作業していた。テーブルの上には、採血して定着させた大量のスライドガラスや検査器具があった。
「芳一、遅いぞ。雨に打たれすぎて死んだかと思ったわ」
「先生、それではまるで、芳一さんが雨の日に水膨れして死んでいるミミズじゃないですか」
横山さんのたとえにカチンときたが、遅れたことを素直に詫びた。理由は天気が悪くて道に迷ったことにしておいた。仮眠をとったせいか、二人は元気を取り戻している。
「まあ、それはいい。芳一、喜べ。とうとう見つけたぞ」
「え、なにを」
バカを見るような視線をぶつけてきた後に、先生はしてやったりの得意顔だった。
「ジャンジャの原因だ。寄生虫だよ」
「しかも、全体像がハッキリとです。これを見てください。新種ですよ、新種」
なんと、先生たちは採血した血液から寄生虫を発見していた。ジャンジャという厄介な風土病の元凶を、とうとう見つけ出したのだ。
横山さんが手招きしている。顕微鏡を覗き込むが、ぼやけた画しか見えない。助手が焦点を調整して、どうだと言わんばかりの顔だ。もう一度見ると何かがいた。
「そいつは村川から採ったやつだ。まだ生きているのがわかるだろう。すごくしぶとくて、なかなか死なんのだよ」
わかる。わかるぞ。動いている。うねうねと動いているじゃないか。
姿はつるんとした細長いイモ虫みたいだが、胴体の前半分が後半部に比べてやたらと太い。というか、ぷっくりと膨らんでいる。しかも、その部分がすごく特徴的なんだ。
「どうだ、まるっきり顔だろう」
顔だ。
前半分の膨らんでいる箇所が、どう見ても人間の顔にしか見えない。女性よりも少し厳めしい感じで、目鼻口があって、耳のような突起も出ていた。悲しいような怒っているような、あるいは笑みを浮かべていて、動くたびにそれらの表情が変わる。喜怒哀楽を秒単位で繰り返していた。その顔には躍動感があって、意志というか魂というか、生き物の根源的な力を感じさせた。
さらに奇妙で奇怪であるのは、頭の先っぽと顔の両側からちょこちょこ出てくる手足のような触手のような、何かだ。常時七、ハ本は出し入れしていて、またそれらの先端に数本の毛のようなものがわかれている。その部分が指のようであり、より小さなエサを掴もうとしているように見えた。
「うわあ」なんだこれ。気持ち悪いにもほどがあるぞ。鳥肌を通り越してサメ肌状態だ。
「こいつがどこからきて、最終的な宿主は何なのか。予防するには生活史を解明しないとな」
「媒介しているのは、やっぱり蚊でしょうか。それとも知らぬうちに島の飲料水や食物から取り込んでしまっているとかですかね」
「この島の水や食い物だったら、俺はとっくの昔にジャンジャに罹っているはずだ。今回で三回目だし、おまえらもいきなり悪寒がきて高熱を出すかもしれんぞ」先生が私を見てニヤリとした。
冗談じゃない。こんなゲテモノを体内に宿して生きていくのは、一秒だってイヤだ。文字通り虫唾が走る。
「大きさからいって、こいつは成虫じゃない。数も多いしな」
「親はどこにいるんでしょう。やっぱりリンパ管の中でしょうか」
「過剰なまでの痂皮を生じさせるのは、なぜだろうな。リンパ液が詰まってのリンパ浮腫が原因なら、象皮病のように腫れあがるはずだ。痒みが強すぎて、患者が知らず知らずのうちに出血するまで表皮をえぐってしまうのか」
「無意識に掻いても、あれだけの瘡蓋を生じさせるのは、相当に力を込める必要があります。ひょっとして、ジャンジャの幼虫が皮下組織へ侵入してアレルギーや炎症を起こし、患部が膿んだりして、血液や漿液が滲出するからでないでしょうか」
「ふむ、それはあり得るな」
医者たちは楽しそうである。あれこれ言い合って一息ついて、先生がイカをくちゃくちゃしたところで横山さんが私に講釈をたれた。
「ミクロフィラリアは夜間定期出現性でして、幼虫は夜に出現するんです。それに比べて、このジャンジャの虫はなんと低気圧不定期出現性なんですよ。気圧がぐっと下がると夜だけではなく、日が昇ってからも出てくるんです。村川さんのこの血液は、さっき採ったばかりですから」
「今日みたいに、かなりの低気圧にならなきゃ出てこんがな。ジャンジャの虫は、なかなかの厄介者だぞ」
握り飯を頬張りながら、先生は熱心に顕微鏡を見ていた。興味がありすぎて目が離せないといった様子で、呆れるほどの執着と集中力である。あんな不気味な寄生虫など、私は二度と見たくはない。コッタではないが、あの顔が夢に出てきそうだ。
「横山、芳一、嵐が去らぬうちに残りの仕事をやり終えるからな」
握り飯を飲み込んで、先生が立ち上がった。瑠々士別地区の島民全部を調べなければ気が済まないようだ。雨の中を歩いてきて疲れていたが、私も早飯を食べてお供することになった。
瑠々士別地区での残りの島民検査は、採血よりも一般診療に時間をとられた。先生が顔を出すと、どこからか人が集まって来て、尻が痛いだの腹が下るだのたたなくなっただのと訴えてきて、それらの対処に忙しかった。ようやく診察が終わって帰ることには、すっかり暗くなってしまった。新種の発見でウキウキしている先生と助手の足取りは軽く、私は疲れきって重かった。そして瑠々士別小中学校の体育館に戻ると、予想だにしなかったことが起こっていた。
「おい、なんだ、これは」
先生が絶句している。
「・・・」
横山さんは言葉が出ない。
「ひどいな」
照明を点けたとたんに、そこは滅茶苦茶だった。
ひどく荒らされていた。空き巣がやる家の中を物色なんて生易しいものではなくて、とにかく目につくものが破壊されまくっていた。
壁に投げつけられたのか、顕微鏡とカメラはバラバラに壊れてしまっている。薬の入った瓶や血液サンプルであるスライドガラスは、すべて粉々にされていた。カルテやノート、メモ類などもすべてのページが破られて一部は焦げ付いている。マッチが何本もなげてあるので、火をつけたようだ。火事にならなかったのは水をぶっかけたからであろう。床の一部がびょしょびしょに濡れていた。賊は好き勝手に壊したが、大火にはしたくなかったと思える。とにかく、私たちが持ってきた物品は無残な状態になってしまった。
「おー、こりゃあ、どうしたことだ」
三人でぼう然としていると、背後からも驚きの声があがった。村川と奥さんだ。晩飯の握り飯と魚の煮つけを持ってきてくれたのだが、のん気に飯など食える雰囲気ではない。
「せっかく幼虫を発見できたのに、また一からやり直しですか。は~」
助手は、しょんぼりとため息をつく。先生はタカの目になって、粉々になったスライドガラスの破片を見つめていた。
「こりゃダメだ。採血したすべてがやられている。検査器具は使い物にならん」
「染色液もですよ」
「役場にまだ予備がある。すぐ戻ろう。天気が悪いうちはジャンジャの幼虫を発見できるはずだ。さっき採ったのもあるしな。騎人古地区でもやれるさ」
「顕微鏡の予備はないですよ、先生」
「薬液で固定すれば腐らないから、防研に戻ってからやればいい。設備が整っているほうが、より精密に検査できるからな」
先生は保古丹島から離れて研究室に戻るみたいだ。これだけ壊されたらそうするしかないけど、私の仕事も終了ということになる。心残りがあって、帰ることを素直に喜べない。
「それにしても、いったい誰がこんなことをしたんでしょうか」
横山さんが言い、先生と私が村川を見る。奥さんがわざわざ煮つけの鍋を床に置いてから手を振って、自分は一切関係ないと示した。
「うちの集落にも悪ガキはいるけど、さすがにここまではやらんぞ。雑にみえて丹念にぶっ壊しているし、こりゃあガキの仕業じゃねえべ。いったい、誰がやったんだか」
村川にも心当たりはないようだ。
「まあ、コソ泥だろうな。俺たちは医者だから、金を持っていると思ったんじゃないか。それで忍び込んで探したけど、薬品や血の付いたガラス板しかなくて頭にきたんだろう」
都会から医者が来ていると知った泥棒が侵入したが、金目の物がなくて腹立ちまぎれに大暴れした、との見立てだ。それにしてはカルテやノート類まで焼却しているのは解せないし、高価な顕微鏡を無駄に壊している。島では金に換える手段がないから価値がわからないともいえるが、なんだか腑に落ちない。
「飯を食ったら役場に戻るぞ。日名子に頼むのはなんだが、採血に協力してもらおう。ジャンジャの大元が見つかったんだ。それを知ったら機嫌よく人を集めてくれるさ。今夜が勝負だ」
日名子さんは先生と仲直りしたがっていたから、それは大丈夫だと思う。飯を食い終えた私たちは、村川夫婦に見送られながら瑠々士別地区を後にした。
それにしても、今日は良く歩く日だ。足がこん棒みたいに硬くなっている。人肌のように柔らかな寝具に包まれて眠りたいが、そのためには真っ暗な夜道を、雨風に打たれながら歩き続けなければならない。
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