第五十七話 三枚のスケッチ

「しっかし、何で高校生になってまでこんな事をしないといけないのかなぁ」

「まぁまぁ、そう言わずに」

 ある秋の日、親友の磯川さつきがぶつくさ文句を言うのを、瑞穂はそう言いながら慰めていた。その手元にはそれぞれ画板と画用紙があり、そこには鉛筆によるデッサンが行われている状態だった。

 この日、瑞穂たちの通う都立立山高校では写生大会が行われていた。名目上は校外学習という事になっているが、その実態は生徒それぞれが訪れた場所でスケッチを行い、後日そのスケッチを校内のコンクールで審査するというものだった。どういうわけかこの行事は選択科目の美術を選んでいるかどうかにかかわらず全校生徒強制で、さすがにスケッチする場所は毎年変更されるが、校内行事の中でもかなり不人気のものの一つであった。今年度は立山高校近くにある市民公園が題材という事になり、生徒たちは公園のあちこちに好き勝手に散らばって悪戦苦闘しながらスケッチを試みていた。

 ちなみに、瑞穂もさつきも美術に関しては可もなく不可もなくと言った腕前で、要するにうまくはないがさりとて「画伯」と言われるほど奇抜でもない、というのが実態であった。

「美穂はどう? ちゃんと描けてる?」

「難しいですね……」

 もう一人の親友である西ノ森美穂は、さつきの隣で首をかしげながらスケッチを続けていた。ちなみに美穂の腕は、瑞穂やさつきよりは多少うまい程度と言ったところだろうか。とはいえ本当に「多少」なので、三人ともドングリの背比べといった感じであった。

「まぁ、とにかく、時間もないし、さっさと済ませちゃおう」

「うん」

 それからしばらくの間、三人はひたすら自身のスケッチ帳に没頭する事になった。一時間ほどして、瑞穂は何とか自身のスケッチを完成させる事はできたが、下手ではないとはいえ正直我ながら平凡な出来であり、まぁ、どれだけ頑張っても賞を取るのは無理だろうなぁと思えてしまうのが何とも悲しかった。

「できたぁ~」

 と、横にいたさつきが疲れ果てたようにそんな事を言いながらスケッチブックを閉じた。さらにその横では、美穂がホッとしたように鉛筆をしまっている。どうやら三人とも完成はしたようだった。それからしばらくして、予定していた集合時刻となった。

「何とか間に合ったね」

「うん。これでやっと帰れる……」

 さつきがぐったりしたようにそんな事を言う。三人はそれぞれの道具を片付けると立ち上がって集合場所に向かおうとしたが、そんな時、ふと瑞穂がどこかへ顔を向けた。

「どうしたの?」

「えっと……何か今、パトカーのサイレンの音がした気がして……」

 さつきと美穂は顔を見合わせる。

「気のせいじゃないですか?」

「そうそう。普段からあの探偵さんと一緒に色々な事件現場に行っているからそう思えただけじゃないのかな?」

「そう……なのかな」

 もっとも、仮に本当にパトカーのサイレンがしていたところで瑞穂はどうする事もできない。結局、その場は気のせいという事になり、三人はその場を立ち去ったのだった……。


 それとほぼ同時刻、市民公園近くにある住宅地の一角に、何台ものパトカーが集まっていた。そこは空き家となっている場所で、その庭に警視庁刑事部捜査一課第三係の斎藤孝二警部ら数人の刑事が集まっており、厳しい表情で目の前に転がる物体……若い女性の死体を見下ろしていた。

「所持していた免許証から身元がわかりました。名前は高富成子たかとみなるこ、二十八歳。同じく所持していた名刺によれば、職業はこの近くにあるカラオケバーの経営者という事です。鑑識によれば、死亡推定時刻は一日から二日ほど前。死因は絞殺の可能性が高いと」

 斎藤の部下で三係主任の新庄勉警部補が今までわかっている情報を告げる。

「この家は空き家という事らしいな」

「えぇ。かつては一人暮らしの老人が住んでいたそうですが、その老人が亡くなって、その後は放置状態になっていたそうです」

「つまり、遺体を隠すにはもってこいというわけか」

 斎藤が見下ろす遺体は、今でこそその血の気の失せた姿をさらしているが発見当初はビニールシートに包まれており、しかも庭の一角にはかなりの深さまで掘られた穴と、その横に放り捨てられたスコップが放置されていた。どう考えても、遺体を穴に埋めようとしている途中の構図である。

「第一発見者は郵便配達員という事らしいが」

「はい。この辺りで配達を行っていたところ、空き家であるこの家の庭から何かを掘るような音が聞こえたため、気になって敷地内に入って確認したところビニールシートに包まれた物体の横で一心不乱に穴を掘る不審人物を目撃。直後にその人物は郵便局員を突き飛ばして逃走し、それが原因で郵便局員は足をくじいて負傷。追跡を断念した彼がビニールシートの中を改めたところこの遺体を確認し、すぐに携帯で通報したという流れです」

「いくら空き家だからとはいえ真っ昼間からこんな住宅地の真ん中で遺体を埋めようとする犯人も犯人だが……それよりも、問題は犯人の正体だな」

 どう考えても遺体を埋めようとしていたその不審人物が怪しいわけであるが、第一発見者の郵便局員の話では、問題の不審者はニット帽にマスクにサングラスという明らかに顔を隠すような格好をしており、その他の服装も上下黒のジャージに軍手という完全武装の状態で、表情どころか男か女かさえわからなかったようだ。

 ただ、郵便局員は足をくじいて追跡こそできなかったが、その人物がどちらへ逃げたのかはちゃんと見届けていた。そしてその証言によれば、不審者はこの近くにある市民公園の雑木林の方へ逃げ込むのを見たのだという。

「市民公園……という事は、目撃者がいるかもしれないな」

「犯人にとっても、こうして発見された事は想定外のはずです。何か証拠を残している可能性はあります」

「そうだな。とにかく、今は現場検証と聞き込みだ。どんな些細な事でもいいから手懸りを集めるんだ」

 斎藤の言葉に、その場にいた刑事たちは即座に動き始めたのだった……。


「……で、これはどういう事かね?」

 その数日後、榊原探偵事務所のソファに、どういうわけか斎藤と瑞穂が気まずそうな顔で並んで座っていた。

「えっと、ですね……何というか、ややこしい事になっちゃったんですけど……」

 瑞穂が何とも要領の得ない事を言うが、当然ながらそれで通じるわけがなく、首をかしげる榊原に対して斎藤が咳払いをして事情を説明した。

「榊原さんは、先日発生したカラオケバー経営者殺しの事をご存知ですか?」

「カラオケバー経営者殺し……あれか、どこかの民家の庭に遺体を埋めようとしているのを郵便局員に見つかり、犯人がそのまま逃走したという」

「それです。今、私はその事件を担当しているんですが、発見者の郵便局員によれば、逃走した犯人はそのまま現場近くの市民公園に逃げ込んだようでしてね。で、目撃証言を探していたところ……」

「何か、その時たまたまうちの学校がその市民公園で写生大会をしていたらしくって……」

 瑞穂の説明に、榊原は呆れたような顔をした。

「写生大会って……今どきの高校はそんな行事があるのかね?」

「いえ、多分うちの学校だけだと思いますけど」

「……まぁ、いい。それで?」

 榊原が先を促すと、斎藤が苦々しい表情で言った。

「それで、もしや彼ら彼女らが描いたスケッチの中に犯人の姿が描かれているものがあるのではないかという話になりましてね。今日になって、事件当日に立山高校の生徒たちが書いたスケッチを全て押収する事になったんです」

「いやぁ、凄かったですよ。いきなり斎藤警部たちが学校にやって来て、令状片手に『スケッチを全て押収する!』って言い始めた時は、何がどうしてそんな事になったのかわからなくてみんなポカンとしていました。ただ、警察の方も『なんでわざわざ令状まで取ってこんな事をしなくちゃいけないんだ』みたいな顔をしていましたけど」

 正直、想像したくない光景ではあるし、別にそのくらいならわざわざ令状を取らなくてもスケッチの写真を撮るだけで充分だったのではないかと思ったりしたが、そんな事を言ったら斎藤達の努力がすべて無駄になってしまうと思ったので榊原は何も言わずに話を続けた。

「で、結果は?」

「さすがに高校生のスケッチなので公園内にいた人まで描いている人はそう多くありませんでしたが、それでも何人か人物までちゃんとスケッチしている人はいました。で、その中からさらに犯人と思しき人物を描いているものがないか全部チェックしたんですが、その結果、何枚かそれらしきものがあったんです」

 そういうと、斎藤はわざわざ持ち込んできた問題の何枚かのスケッチを来客用の机の上に出した。榊原は早速それを確認する。

「逃走時の犯人の格好は、上下黒のジャージにサングラス、マスク、ニット帽というものです」

「……そこまで異様な格好なら、スケッチした時点でおかしいとは思わなかったのか?」

 榊原が至極当然な突っ込みをするが、斎藤は物凄く苦い顔で答えた。

「それが、このスケッチ大会は生徒にとって物凄く不評らしく、さっさと終わらせたいがために『とにかく、目の前にあるものを何も考えずにありのままに描いておけばいい』と思っている生徒が多かったようで、変なものがあっても何も考えずにそのまま描いているというケースが多かったようなんです」

 例えば、と言いながら斎藤はある一枚のスケッチを示す。それなりにうまい絵ではあったが、そこにはどういうわけか頭にネクタイをまいて逆立ちをしながら噴水の前で謎の踊りをしている上半身裸の男の姿が描かれていた。

「……」

 榊原は無言という形で応じる。はっきり言ってツッコミどころ満載だが、どこから突っ込むべきかまったくわからないし、正直殺人事件よりもこの男の正体の方が気になって仕方がないようである。

「……おい、これを描いた生徒は、本当にこの光景に何の疑問も持たなかったのか?」

「さっさと終わらせたかったので、何も考えずに無心で目の前の光景をありのまま描いたそうです。なので、描いた本人がこのスケッチを見て『え、こんな奴いたっけ?』みたいなことを言っていました。彼以外にも、そうした一種の悟りか何かの境地に至っている生徒が数名いましたね」

「それでいいのか……というか、そこまで不評ならやめた方がいいんじゃないか?」

 それは多分、立山高校の誰もが思っている事だろうが、こういう伝統行事というものはなかなか変えられないのが世の常なのだろう。

「ちなみに、このあからさまに不審な逆立ち男は何だったんだ?」

「さすがに不審過ぎたのでこちらとしてもちゃんと調べましたが、その結果、酔っぱらった大道芸人だった事が判明しています。ただし、アリバイがあるので事件とは無関係ですね」

 酔っぱらった大道芸人が何で真っ昼間の公園で頭にネクタイをまいて逆立ちしながら上半身裸で踊らなければならないのかはよくわからないし、正直これはこれで警察に通報されても仕方がない案件にも思えたのだが、榊原もこの件についてこれ以上突っ込むのは野暮だと思ったらしく、それ以上何も言わずに早速問題の人物が描かれているという一枚目をチェックした。

 その絵は、公園の一角にある林の辺りをスケッチしたもので、お世辞にもそこまでうまいとは言えず何が描かれているのか確認するのにやや苦労したが、確かに画面の隅の方に上下ジャージ姿の人間が描かれているのがわかった。

「……なるほど、確かにそれらしい人物は描かれているな。遠かったせいか顔は描かれていないが……」

「それは仕方がないでしょう。高校のスケッチでそこまで高度な技術は求めないでしょうし」

「にしても、できればもう少し上手に描いてくれればよかったんだがな。ないよりましとはいえ、この絵だけでは『問題の人物が公園にいた』ことしかわからないぞ」

 榊原がそんな感想を漏らす。すると、なぜか瑞穂が少しふくれっ面をしてこう言った。

「悪かったですね。どうせ私はそんなに絵が上手くありませんよ」

「って、これ、瑞穂ちゃんの絵なのか!」

 今度こそ榊原は思わず突っ込みを入れていた。

「そりゃ、私も自分の絵が上手いとは思っていませんけど、先生にだけはそのセリフを言われたくなかったです」

「いや、そう言われてもね……私はありのままを言っただけで……」

「むぅ」

 ますます瑞穂はふくれっ面をする。まったくフォローになっていないし、これ以上この話題を続けるのは危険と考えたのか、榊原は大きく咳払いをして強引に話を事件に戻した。

「それで、スケッチした君はこの人物の事を覚えているのかね?」

 その問いかけに、瑞穂は打って変わって気まずそうにこう言った。

「えーとですね……それが、私も一刻も早く終わらせたいと思って無心で鉛筆を動かしていたので、正直な所、そんな人を描いていた事自体、斎藤警部に言われるまで気付かなかったくらいで……」

「瑞穂ちゃん、君もか」

 どこぞのカエサルのようなセリフになってしまったが、榊原がそう言いたくなる気持ちもわからないでもない。ちなみに瑞穂曰く、一緒にスケッチしていたさつきや美穂の絵にはそもそも人物自体描き込まれていなかったようだ。

「……瑞穂ちゃん、君はなぜこの人物を描こうと思ったんだね?」

「さぁ……何でなんでしょうね……」

 自分で言っていたら世話はない。とにかく、このスケッチだけでは全く何の手掛かりにもならない。

「二枚目は……」

 榊原は続くスケッチを確認したが、それを見た瞬間、ぽかんと口を開けてしまった。

「何だ、こりゃ」

 思わずそんな言葉が榊原の口から漏れ出てしまう。それも当然で、そのスケッチに描かれていたのは、何というか言葉で表現しにくいというか、よく言えば前衛的というか、例えるなら近代アートというか、構図的にはサルバドール・ダリとかピカソとかマグリットにそっくりというか、それを全部まぜこぜにした作品というか……とにかくそんな感じの絵である。

「要するに私以上に下手くそって事ですよね」

「いや、どうなんだろうね。ここまで前衛的だとむしろこれこそが真の芸術なのかという気もしてくるし……」

 とはいえ、目の前の物をありのまま描くスケッチにこんな前衛的な技術が必要なのだろうか。何というか、色々挑戦しすぎてかえって意味不明な感じになっている事が否めない作品であるというか、岡本太郎的というか「芸術は爆発だ!」と言うべきか……とにかく文章では形容しづらい『作品』である。正直、この表現で読者に伝わっているかも怪しいというのは事実であるし、とにかくそういう類の凡人には理解しがたい作品であるという事を理解して頂ければ非常に助かる次第である。

「で、問題の人物はどこに?」

「これです。……多分」

 言っておきながら斎藤も自信なさげだ。その前衛的な作品の一角に、おそらく人だと思しき棒人間(?)が描かれていて、その棒人間にまとわりつくようにジャージと思しき黒い衣服とサングラスにマスク、ニット帽が描かれていた。まぁ確かに、特徴は一致しているのでこれが犯人と考えるしかないが、肝心の人間が棒人間ではどうしようもない。というか、絵が前衛的すぎて、これが公園のどこを描いた絵なのかさえさっぱり理解できないのである。一応斎藤曰く、その場所は瑞穂のいた場所から少し東に行ったところにある小さな池の辺りらしいが、絵を見ても一体どこに池が描かれているのか全くわからなかった。

「ちなみに、描いた本人は何と?」

「それが、小難しい芸術理論ばっかり言われてしまって、正直意味がさっぱりわかりませんでした」

「どんな理論だ?」

「……とても説明する事ができません」

 とにかく意味不明な理論らしい事はよくわかった。確かなのは、描いた本人は芸術を爆発させるのに夢中で、目の前のモデルには一切興味がなかったという事くらいだ。

「作者は美術部か何かなのかね?」

「いえ、空手同好会の女の子でした」

「……瑞穂ちゃん、君の学校の生徒はどうなっているのかね?」

「いやぁ、どうなっているんでしょう……」

 瑞穂も自信なさげである。榊原は不安を抱えながらも、続く三枚目を見やり……そして今度は驚愕の表情を浮かべた。

「何だ、これは……」

 三枚目は、打って変わって滅茶苦茶上手い絵だった。ただし、『上手い』の方向性が違う。端的に言って、美術的にうまいのではなく、どういうわけなのか漫画チックに書かれてしまっているのである。

「えーっと、それを描いたのは漫研の人みたいです」

 瑞穂が恐る恐る言う。榊原は少し頭が痛くなってきた。

「君の学校にはまともにスケッチをする人間はいないのか?」

「さぁ、どうなんでしょう……」

 さっきと同じようなやり取りである。とはいえ、さすがは漫研というか他の二人に比べると圧倒的に見やすい絵であり、その一角……ちょうど公衆トイレの近く辺りに問題の格好をした人物がはっきりと描かれていた。ただし、タッチが漫画風なので絵もかなりデフォルメされており、実際の風貌を特定するのはほぼ不可能と言ってもよかった。

「いくつか突っ込みたい事があるんだがね」

 榊原が斎藤に尋ねる。

「何でしょうか?」

「まず、この絵を描いた生徒は、なぜ数多あるポイントからわざわざ公衆トイレのある場所を選んで描こうと思ったのかね?」

 真っ先に聞くのがそれかよとも思うが、確かにそれは突っ込みたくなる疑問点だった。

「えー、本人曰く、『この場所に感性を刺激された!』との事ですが」

「公衆トイレの何に感性を刺激されるというんだ……」

 というか、それは単にトイレに行きたかっただけではないかとも思ったが、さすがの榊原もそこまで野暮な事を言うような事はしなかった。

「というかこれ、よく見るとトーンみたいなものまでしっかり貼られているようなんだが」

「本人は『ベストを尽くした。やるからには妥協したくなかった』などと供述しています」

「ベストを尽くす方向を全力で間違えているような気がするんだが……」

「ちなみに一緒に描いていた生徒曰く、あの場にトーン一式を持ち込んでいたみたいですよ」

「公園の真ん中でトーン貼りをしたというのか」

 榊原は頭を抱えたくなった。斎藤もこれ以上は本筋から離れると思ったのか、強引に話をまとめにかかる。

「とにかく、以上三枚が被疑者と思しき人物が描かれている絵になります。とはいえ、正直な所、三枚が三枚とも被疑者の顔を明確に描いていないので、ここから犯人を特定するのは難しいとは思いますが……」

「……つまり、私にこの三枚の絵から犯人の手がかりを探ってほしい、と?」

 榊原は心底疲れたような視線を斎藤に向ける。

「可能でしょうか?」

「うーん、さすがに難しいな……」

 そう言いながらもここでできないと言わないのが榊原の一味違うところである。そしてしばらく絵を見ながら考え込んだのち、榊原はおもむろにこう言ったのだった。

「先に言っておくが、いつもと違って決定的な根拠があっての推理ではない。いくらなんでもこれだけでは証拠不足だからな。だが、それでよければ一応の考え……というか『参考意見』を示す事はできるが、どうするね?」

「それでも構いません。この際、藁にもすがる気持ちですので」

 斎藤は真剣な表情で言った。どうやら本気で困っているようである。それを見て、榊原は今日一番の深いため息をついてこう言った。

「わかった。ならば、推理ではなく私の『参考意見』を言う事にしよう。当たっているかどうかまではわからんがね」

 そう前置きして、榊原はその『参考意見』を語り始めたのだった……。


「で、『参考意見』とか言っておきながら、結局その推理が当たっているんだから、瑞穂の御師匠さんも大概よね」

 その数日後、立山高校の教室で昼休みに弁当を食べながらさつきがそんなボヤキを言うのを、瑞穂は曖昧な笑みで受け止めるしかなかった。さつきの言うように、事件は急転直下の解決を迎え、犯人の身柄もすでに拘束されたというニュースが流れていた。

「まぁ、何て言うか、先生らしいっていうか……」

「でも、あんなスケッチからあれだけの推理ができるのはさすがですね」

 さつきの横から美穂が控えめに言う。確かに、毎度のことながら榊原の推理が圧倒的だったのは事実であり、瑞穂はその際の榊原の言葉を思い出していた。

『問題なのは、顔の有無ではなくこの犯人の行動だ』

 開口一番、榊原はそう言って論理を展開し始めた。

『公園の地図を確認したが、瑞穂ちゃんがいた場所は遺体発見者の郵便局員が目撃したという、犯人が逃げ込んだ公園の雑木林の位置と一致する。すなわち、瑞穂ちゃんの絵は犯人が市民公園に逃げ込んだ直後のものだと判断してもいいだろう。多分、雑木林に飛び込んだ犯人が公園内に出てきたところを瑞穂ちゃんがスケッチしたんだと思うがね』

 さらに、榊原は二枚目の芸術が爆発しているスケッチを示した。

『次にこのスケッチだが、絵だけではどこをスケッチしたのかはわからないものの、これを描いた生徒は特定されているのだから、そのポイントは容易に判別できる。斎藤の情報によれば、それはこの場所……瑞穂ちゃんがいた場所と公衆トイレのちょうど中間地点だ。つまりこれは、公園に逃げ込んだ犯人が公衆トイレの方へ向かっている図だと考えれば辻褄が合う』

 そして榊原は三枚目の公衆トイレに並々ならぬ執念を燃やした絵を示す。

『となれば、この三枚目の公衆トイレ付近を描いた絵が、時系列的には最後という事になるだろう。そしてこれ以降、他の絵には犯人の姿は一切登場しない。すると、犯人が公衆トイレの中でこの目立つ服装を脱ぎ、着替え等をして何食わぬ顔で堂々と公衆トイレから出て行った可能性が考えられる』

 確かに、他の絵にこの特徴的な格好の犯人の姿が描かれていない以上、その可能性は当然浮上してくるであろう。もっと言えば、逃走する犯人がわざわざ公衆トイレに立ち寄る理由など、警察をかわすための着替え以外には考えられなかった。

『しかし、そうだとすると犯人の行動には不審な点が発生する。一つは、なぜ犯人はスケッチしている高校生がたくさんいる公園を突っ切ってまでこの公衆トイレで着替えようとしたのかという点。スケッチしている高校生が多数いる事は公園に入った時点でわかるはずだし、目撃者の事を考えればこの時点で引き返すなりして別の場所に逃げるのが得策だ。実際、こうして数名のスケッチにその姿を描かれてしまっており、その危険性は犯人にも充分に理解できたはずだからな。にもかかわらず、犯人は自身の姿を描かれるリスクを冒してまで公園内の公衆トイレで着替えた。なぜそんなリスクを冒す必要があったのかというのが疑問の第一だ』

 榊原はさらに疑問を提示していく。

『二つ目に、着替えるとは言ったものの、犯人がその着替えをどこに用意していたのかという点。当たり前だが、遺体を埋めていた現場に着替えを持ち込んでいた形跡はないし、そもそもそんな事をする意味もない。身元を隠すためにあの格好をしているのに着替えをわざわざ持ち込んだりしたら何のための変装なのかわからなくなってしまうからだ。では、着替えはどこにあったのか? その疑問については、第一の疑問と併せて考えるとその答えはおのずとわかってくる。すなわち、犯人は遺体を埋めに行く前にあの公衆トイレで変装し、着替えをそのまま公衆トイレに隠していたという可能性だ。だからこそ、犯人は目撃される危険を冒してでもあの公園を突っ切って公衆トイレに行かなければならなかった。あの目立つ変装のまま逃げるわけにはいかなかっただろうし、そのためには着替えを隠してあった公衆トイレに行くしかなかったというわけだ』

 しかし、と榊原は続けた。

『そうなると次の疑問が浮上する事となる。すなわち、犯人はなぜ数多ある場所の中から、着替えを隠す場所として公衆トイレを選んだのかという疑問だ。こう言っては何だが、公衆トイレは衣服を隠す場所としてはあまり適しているとはいいがたい。不特定多数の人間が出入りする上に隠し場所も少なく、万が一遺体を埋めに行っている間に誰かに残された着替えが発見されたら明らかに不審に思われてしまうからだ。というか、そんなところで着替えて変装するくらいなら、最初から自宅なりで変装した方がどう考えても効率的だし余計な証拠を残さずに済む。追いかけられたときにすぐに着替えられるようにあらかじめ近場に着替えを備えていたという推理は成り立たない。なぜなら、遺体を埋める場所を見られてしまったのはどう考えても予想外のアクシデントのはずで、その想定外を見越してあらかじめ衣服を隠しておいたという推理は成立しないからだ。状況的に、犯人が公衆トイレ内で変装をして着替えをトイレ内に隠していたと考えなければ犯人の行動に説明がつかない』

 そう言って、榊原はさらに告げる。

『では考えられる可能性は何なのか。これについて私はこう考える。すなわち、犯人が自宅などではなく公衆トイレで着替えたのは、公衆トイレ内で着替えるのが犯人にとって一番効率が良かったからだ。例えばそう……犯人が何らかの理由で公衆トイレを日常的に訪れており、その合間を縫って遺体を埋める計画を立てたとすれば、公衆トイレ内で着替える行為に説明がつく。さらに言えば、放置された着替え自体が万が一第三者によって公衆トイレ内で発見されたとしても何ら不自然ではないものだったとすれば、公衆トイレに着替えを残す事に犯人は何ら躊躇する事はないだろうな』

 それを聞いた瞬間、瑞穂はこの事件の犯人の正体が何となくわかった気がした。それを知ってか知らずか、榊原は話を続けていく。

『以上より、怪しむべき人間の情報は出そろった。すなわち、あのトイレに日常的に出入りしており、なおかつ本来の衣服を公衆トイレ内に放置しても不審に思われない人物だ。そう考えると、該当する職種は一つしか考えられない』

 そして、榊原は瑞穂と斎藤に告げたのだった。

『この公園の公衆トイレの清掃を担当している清掃員……それが怪しいと私は考える。清掃員ならトイレ清掃の途中で密かにあの服装に着替えて遺体を埋めに行ったとしてもおかしくなく、それなら自宅などではなく公衆トイレ内で着替えるのが一番効率的といえるだろう。また、トイレ内に清掃員の制服を放置しておいたとしても、トイレ内に設置されている備品と思われて怪しまれる可能性はかなり低いはずだ。まずは、その辺りから調べてみればいいのではないかね』

 ……その後、榊原の『参考意見』を受けた斎藤は早速公園の清掃を請け負っている清掃業者の捜査を行い、その結果不審な人間が一人浮上した。黒地健夫くろちたけおという問題の清掃会社の清掃員で、被害者が経営していたカラオケバーの常連客だった人物である。さらに詳しく調べたところ、黒地が日頃から被害者に対してしつこく交際を迫っては断られていたという証言も複数得られ、彼に対する容疑は一気に高まる事となった。

 とはいえ、いくら怪しくとも物的証拠がなければ逮捕はできない。もちろん、問題の公衆トイレにも鑑識が入り、その結果黒地の指紋や毛髪が複数発見されたが、清掃員である彼の痕跡が公衆トイレに残っていてもそれ自体は何ら不思議な話ではない。捜査は壁にぶつかったように見えたが、ここは捜査を担当する斎藤が踏ん張る事となった。

 斎藤が考えたのは、なぜ犯人は人に見つかりやすい真っ昼間に遺体を埋める作業をしていたのかという問題。そして、仕事中に着替えて遺体を埋めに行ったのだとすれば、肝心の遺体はいつあの場所に運び込まれたのかという問題だった。そして、遺体の死亡推定時刻が遺体発見の一日から二日前だったという解剖記録を思い出した時、斎藤の中でその謎は全て氷解する事となったのである。

 その答えとはすなわち、遺体を埋める作業は実は郵便局員に発見されるよりもはるかに前……はっきり言ってしまえば前日の夜の段階ですでに行われていたのではないかというものだった。死亡推定時刻から見れば被害者は遺体発見前日の昼間に殺されていたとしても問題はないので、犯人の行動的にもその日の夜に遺体を埋めようとしたと考えれば行動に矛盾が出ない。ところが、夜間、光源もない場所で慣れない穴掘りをするのに犯人は手間取ってしまい、おそらく穴を掘りきれないまま朝を迎えてしまったのだろう。

 犯人が何らかの職に就いていたとすれば、不審に思われないために朝になれば穴掘りより出勤を優先せざるを得ない。しかし、だからと言って長時間遺体をあのまま放置しておくわけにもいかない。その結果、犯人は仕事の途中で隙を見て例の空き家に行き、穴掘りを再開するという工程を踏まざるを得なかったのだ。そう考えれば、犯人……というか黒地がなぜ自宅などではなくわざわざ仕事中の公衆トイレで着替えをしたのかという疑問にもより具体的な説明をつける事ができるのである。

 この推理が正しいとなれば、犯人は前日の夜にもあの空き家で穴掘り作業をしているはずである。そこで、遺体発見当時ではなくその前日の夜の時間帯に絞って現場周囲の防犯カメラ等を調べたところ、近くのコンビニの防犯カメラが事件前夜の午前二時頃に現場の方向へ向かう怪しい車を映しており、画像解析した結果この車のナンバーが黒地所有の車のものと合致。これを根拠に斎藤らは黒地の家宅捜索に踏み切り、黒地の車を調べた結果、車内の床で押収された微量の土と現場の空き家の庭の土の成分が完全に一致。すなわち、黒地があの空き家に足を踏み入れた事があるという事実が科学的に立証される事になった。

 しかし、この事実を突きつけられても、黒地はなおも「事件の一週間くらい前に酔っ払った勢いであの庭に入ってしまった。その時靴に付着した土が後に運転した時に車の中に落ちただけだ」とギリギリの言い訳をして逃れようとした。さらに車内からは遺体を運んだ際に落ちたと思しき被害者の毛髪も発見されていたが、黒地はこれも「以前被害者を乗せて遊びに行った時に落ちたもの」と白を切り、黒地と警察によるギリギリの駆け引きが続く事となっていた。

 だが最終的に、警察は黒地の証言の矛盾を見つけ出す事に成功した。それはすなわち、先述したように問題の車内から被害者の毛髪が見つかったにもかかわらず、なぜか同じ車内から被害者の指紋が一切検出されなかったという事実だった。毛髪が残されていた以上、黒地の車内に生死は別として被害者が乗った事は間違いない。しかし、黒地の主張するように「遊びに行くために被害者を乗せた」のであるならば、指紋だけ検出されないというのはあまりにも不自然な話である(少なくとも乗降の際に必ず触れるドアやシートベルトには絶対に指紋が付着するはずである)。そして、この矛盾を説明するには、車に乗った被害者が車内を一切触る事ができない状況にあった……すなわち、被害者が遺体だったと推測するしかない。この矛盾を突き付けたところ、黒地はなおも「乗せた時に被害者は手袋をしていた」などと悪あがきを見せたが、秋とは言えまだ残暑が続くこの時期に被害者が手袋をつけるなど不自然極まりなく、それを追及したところついに黒地は犯行を認めて完全自供する事になった。

 動機は大方の予想通り、一方的に交際を迫る黒地と被害者の間で口論になり、カッとなった黒地が衝動的に被害者を絞め殺してしまったというもので、凶器は事件当夜に黒地がしていたベルトだった事が判明した。その後、以前からあの空き家の事を知っていた黒地は斎藤の想像通り夜間に空き家の庭に遺体を埋めようとしたのだが、予想以上に時間がかかってしまって気が付くと朝になってしまい、やむなく作業を一時中断して出勤。清掃担当が空き家近くの公園の公衆トイレだった事を利用してトイレ内で変装して仕事中に再び空き家に戻って作業を続行したのだが、その途中で郵便配達員に見つかってしまい、慌てて公衆トイレに逃げ帰って元の清掃の服装に戻ったというのが事件の真相だった。

 黒地の証言から警察は黒地の自宅にあったベルトを押収し、鑑定の結果このベルトが被害者の首に残された索状痕と一致。これが実質的な決定的証拠となり、近いうちに検察は黒地を起訴する方針だという。

「ちなみに、押収された私たちのスケッチはどうなるの?」

 さつきが瑞穂に聞くと、事情を知っている瑞穂は複雑そうな顔で答えた。

「事件が終わったから戻ってくるみたいだけど、さすがに直接的な証拠になった三枚のスケッチは法廷に提出される証拠になるかもしれないから、原本は検察が保管してコピーが帰ってくるみたいだよ」

「……って事は、瑞穂の絵や、あの芸術が爆発しているアートや、トイレに並々ならぬ執念を燃やした漫画絵が法廷に提出される事になるわけか」

 正直、その点については瑞穂としても不本意だが、こればかりは致し方ない事だと瑞穂はもはや悟りの境地に達していた。というか、ずっと榊原にくっついて色々な事件に関わり、裁判も榊原と一緒に何回か傍聴した事があるだけにその辺の感覚がマヒしているのかもしれない。

「とにかく、これでやっととんでもない尾ひれがついた写生大会が終わったって事でいいのよね」

「そうだと思います。後は校内コンクールだけですけど……これだけ大騒ぎになると、もうそんな事は些細な事に思えてくるから不思議ですね」

 美穂が遠慮がちにそんな事を言う。

「うん……正直、しばらく絵を描くのはもう勘弁かなぁ……」

 瑞穂はどこか遠い目でそんな事を言い、昼休みが終わるまで、三人はしばらくその話題を続けたのだった……。


 ちなみに……後日、問題のスケッチは実際に法廷に提出されて色々物議を醸したのだが、その中で例の芸術が爆発している絵を見た法廷画家が感銘を受けて同業の絵画関係者にこの話を広め、その結果この絵を描いた空手同好会の女の子が後々に新進気鋭の現代アーティストとしてデビューする事になったりしたのだが……それはまた別の話だったりするのである。

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