第五十八話 写ってはならないもの
それは、榊原が瑞穂に会う半年ほど前……つまり二〇〇六年の秋頃の話である。
品川にある榊原探偵事務所……その主である榊原がジッと見つめるその写真には、一人の男が写っていた。年齢は三十代前半だろうか。さわやかな笑みを浮かべたハンサムな男で、どこかのオフィス街なのか背後にはいくつかガラス張りの高層ビルが写りこんでいる。
そして榊原がその写真から顔を上げると、榊原の元後輩で警視庁刑事部捜査一課第三係係長の斎藤孝二警部が苦々しい顔で正面のソファに座っていた。いつも通り、斎藤が榊原の事務所に知恵を借りに来たという状況である。
「今から約二週間前、アメリカのフィラデルフィアで殺人事件がありました。被害者はアリシア・マクリーンという貿易会社の社員で、年齢は二十八歳。現地のフィラデルフィア市警が捜査を行っています」
「日本じゃなくてアメリカの事件か。また随分珍しい話だ」
榊原はそう感想を漏らしつつも、斎藤に先を促した。
「事件発生は現地時刻十月二日午前六時頃。フィラデルフィア市内にあるアパートの空き部屋でボヤ騒ぎがあり、駆けつけた消防がこれを消火。このボヤ自体はすぐに収まったのですが、騒ぎが起きているにもかかわらず隣室の住人が出てこない事を不審に思った消防が室内を確認したところ、ベッドの上に横たわっている部屋の住人……すなわち、アリシア・マクリーンの遺体を発見したという流れです。死因は絞殺で凶器は室内にあったテレビ用の電気コード。死亡推定時刻は事件前日……すなわち、現地時刻十月一日の午後二時頃と推測されています」
「で、フィラデルフィア市警が捜査した結果……容疑者として日本人が浮上してきた、と」
榊原のその言葉に、斎藤はますます苦虫を潰したような表情を浮かべた。
「えぇ。名前は
ちなみに、日本はアメリカおよび韓国との間に犯罪者引き渡し条約を締結しており、例えば日本国内で犯罪をしでかしたアメリカ人が事件後にアメリカに逃亡したとしても、この条約に従って逃亡したアメリカ人被疑者を日本側の要請で日本に引き渡し、日本の裁判で刑罰を受けさせることが可能となる。無論これは逆もしかりであり、今回のようにアメリカで犯罪をしでかして日本に帰国した日本人をアメリカ側の要請でアメリカに引き渡す事も可能となっていた。
「被害者のアリシアという女性とその草永という男の関係は?」
「被害者のアリシア・マクレーンは大学時代に日本に留学していた経験があり、草永はその時に彼女が所属していたサークルの先輩に当たります。どうも実際に付き合っていたようですね。帰国後、アリシアはフィラデルフィアの貿易会社に就職しますが、その職業柄日本に来る事も多く、草永との付き合いも続いていたようです」
「現地の警察に草永が疑われた理由は?」
「事件後に行われた捜査でアリシアが貸金庫を借りていた事がわかり、そこからアリシアと草永のやり取りが書かれた何通もの手紙を発見。その手紙のやり取りから、両者の間に日米間をまたぐ恋愛関係のトラブルがあった事が確認されました。この二人はアリシアが時々仕事で日本に来る形で遠距離恋愛を続けていたんですが、そんな中で草永の方に縁談話が持ち上がったらしく、それをめぐってアリシアとの間にトラブルが発生していたようです。縁談相手は都議会議員の娘で、この結婚が成立すれば草永には大きな後ろ盾ができる事になります。なので、草永本人もこの結婚には前向きだったのですが、長年の間、何度も日本を訪れてまで草永と付き合っていたアリシアがこの話に納得できず、慰謝料を求める訴訟を起こす構えを見せていたんだとか」
「つまり、草永からすればアリシアの存在が婚約者にばれると困るわけか」
「えぇ。草永にとっては幸いな事に、二人の付き合いはアリシアが日本に来る事で成立していて、草永自身は海外に頻繁に行くなどという不審な動きはしていません。逆に言えば、アリシアさえどうにかしてしまえば婚約者を誤魔化す事は充分にできます」
「だからわざわざ自身に嫌疑が及びにくいアメリカ国内でアリシアを殺害した、か。なるほどね。こう言っては何だが、推理小説なんかだとよくある話ではあるな」
榊原がそんな感想を漏らす。それについては斎藤も同感のようだった。
「その上で、事件当時に草永がアメリカ国内にいたという事実も彼の容疑が大きくなる方向に響きました。まぁ、普通に考えて偶然とは考えにくいですからね。実際、同じ状況なら私も草永が怪しいと思うでしょうし」
「しかし、草永はアリバイを主張してきた、と」
榊原の言葉に、斎藤は厳しい表情で頷いた。
「えぇ。草永は事件当時アメリカにいた事は認めましたが、自分がいたのはフィラデルフィアではなくニューヨークだと主張しているんです。確かにパスポートの記録によると、彼がアメリカに入国するのに使用したのはニューヨークにあるジョン・F・ケネディ国際空港で、事件後の出国もこの空港が使われています」
「しかし、同じ国内なら気付かれずに移動する事はできるはず。フィラデルフィアとニューヨークならそれなりに近いし、不可能ではない」
ちなみに、フィラデルフィアからニューヨークの間は約一三〇キロメートル。日本人の感覚では確かに遠いが、東京と静岡市の間が直線距離で大体同じくらいなので、向こうの交通事情を知ってさえいればまったく移動が不可能な距離ではない。
「我々もそう指摘しました。すると奴は、当日ニューヨークにいた証拠としてこの写真を出してきたんです」
それが先程から榊原の目の前に置かれている写真だった。その隅には事件当日に当たる『二〇〇六年十月一日』の日付も確認できる
「草永曰く、これは事件があった日にニューヨークのマンハッタンのオフィス街で撮影したものだと言っています。ニューヨーク市警に確認した結果、確かにこのような景色の場所はニューヨークに存在する事がわかりました」
「だが、この程度の写真なら事件当日でなくとも撮影できる。その上、被疑者の草永はIT会社の社長だ。ならば、パソコンを使って画像を加工する事くらいお手の物のはず。こんな本物かどうかもわからない写真は証拠にはならないはずだが」
「確かに普通ならそうです。しかし厳密に言えば、この写真が本物だと証明するのが難しいのと同じくらい、間違いなく捏造されたものだと証明するのも難しいんです。それこそ近年は写真の加工技術も上がっていますし、榊原さんが言うようにIT会社社長の草永なら最新かつ高性能の画像編集ソフトを手に入れる事は容易いはず。今回の事件の場合、通常の事件と違って逮捕後に被疑者をアメリカに引き渡さなければならないので、アメリカとの外交関係的にも間違いは絶対に許されませんし、何より万が一ミスがあれば日本警察がアメリカの警察に大恥をかく事になります。それは今後、アメリカの警察と捜査協力をしていく上で絶対に避けなければならない話です。従って、現状我々としてはこの写真が間違いなく捏造されたものであると証明できない限り、草永の逮捕は見送らざるを得ない状況になっているんです」
「……いわゆる『悪魔の証明』か。厄介な話だな。ちなみに、鑑識の見解は?」
「どちらとも言えない、という事でした。調べた限りでは本物に見えるものの、画像編集ソフトの存在がある以上、捏造の可能性がないとは言い切れない。しかし、だからと言って間違いなく捏造だとも断言できない、との事です。要するに、捏造の有無を判断する決定打がないというのが鑑識の判断でした。普段ならこれでも取り調べに踏み切れるんですが、さっきも言ったように事件を取り巻く環境がそれを許さない状況でして」
「なるほどね。こうなると、画像加工技術の進展も考え物だな」
考え込む榊原に、斎藤は頭を下げて言った。
「我々が今回榊原さんにする依頼は一つだけです。この写真が間違いなく捏造である事を証明して頂きたいのです。これが捏造だと証明できさえすれば、あとはこちらだけでもなんとかなるのですが……」
「ふむ、なかなか難しい話ではあるがね」
そう言いながらも、榊原はジッと写真を観察する。
「いくつか確認しておくが、草永がアメリカに行ったのは今回が初めてか?」
「いえ、出入国記録を確認したところ、十年前の学生時代に今回と同じくニューヨーク、三年前に仕事でサンフランシスコに行った経験があるようです。もしこれが合成写真なら、その時に撮った写真を使っている可能性もあります」
「というより、本当に捏造をしたなら十中八九その写真を使ったんだろう。下手な写真を使って、後で同じ写真があったと指摘されるわけにもいかないだろうからな」
「それは我々も同感です」
少し間をあけて、榊原は別の質問をした。
「根本的な話だが、草永が犯人という前提で話しているが、他に容疑者はいないのか?」
「フィラデルフィア市警の話では、彼女にしつこく交際を迫っていたジョージ・アッチソンという同僚の男がいたそうですが、この男は草永以上に完璧なアリバイがあります」
「完璧なアリバイ?」
「事件前日に路上で泥酔状態だったところを警察に発見されて保護され、事件発生時には警察の留置所にいたそうなんです。従って、彼が犯人という線は考えにくく、この人物以外に被害者を殺したいほど憎んでいた人間は確認できません」
「なるほど、ね」
そう呟いて再び写真を見やり、榊原はさらにこう尋ねる。
「この写真、本人が写っている以上は撮影した人物がいるはずだが、それについては?」
「近くを通りかかった見ず知らずの通行人に声をかけて撮影してもらったと言っています。本当かどうかを証明するのははっきり言って不可能ですね」
「もう一つ。この写真の撮影場所は、正確に言えばニューヨークのどこだ?」
「マンハッタン島の南の方にあるオフィス街だそうです」
「具体的な場所を示せるか?」
斎藤は頷くと、持参したニューヨーク市内の地図を広げてある一点を指さした。
「ここです。ブルックリン橋の近く」
「ふむ……」
榊原はそのまま少し考え込んだが、やがてポツリとこう言った。
「……もしかしたら、何とかなるかもしれないな」
「本当ですか?」
「言っておくが、百パーセント確実だとまでは言えない。あくまで可能性の話だ」
榊原はそう前置きするが、斎藤からすればそれでも充分だった。
「構いません。この際、少しの可能性でも検討しておきたい」
「そうか……」
そう言うと、榊原は写真のある一点を指さしてこう言った。
「ならば、鑑識に頼んでこの辺りを調べてもらう事だ。もしかしたら……」
……翌日、警視庁は草永の逮捕に踏み切り、身柄を警視庁本庁舎内の取調室に移した。しかし、草永本人はまだ余裕がある様子であり、取調室でも余裕綽々の表情で斎藤と対峙していた。
「おかしな話です。僕のアリバイは先日ちゃんと証明されたはずですよね。アリシアが死んだとき、僕はニューヨークにいました。それを証明する写真もちゃんと提示したはずですけどね」
青系統のビジネススーツを着込んだ草永は、大げさに首を振りながらそんな事を言う。だが、斎藤はそんな草永に対し、宣戦布告のようにはっきりと断言した。
「あの写真は捏造だ」
「捏造、ね」
草永は余裕を崩さない。だが、斎藤は根気よく言い聞かせるように続けた。
「そうだ。IT会社社長のあんたなら、画像編集ソフトを使って写真を加工する事などわけない話だ。我々はこの写真について、あんたが十年前にニューヨークを訪れた際に撮影した写真と、最近のあんたの写真を合成したものだと考えている」
「はっ、随分断定的に言いますけど、そんな証拠がどこにあるんですか? 警察っていうのは、こうやって冤罪を作り出すんですね。いい勉強になります」
草永は面白そうに言う。それに対し、斎藤は淡々と事務的に取り調べを続けていく。
「パスポートに記載されている以上、あんたがニューヨークからアメリカに入国したというのは事実なんだろう。だが、その後あんたは車を調達してフィラデルフィアまで走り、そこでアリシアさんを殺害。隣室の空き部屋にボヤ騒ぎを起こすための仕掛けを仕込み、再び車でニューヨークへ舞い戻った」
「ボヤ騒ぎ、ねぇ。一体何のためにそんな事を?」
「遺体を少しでも早く発見させるためだ。こんなアリバイ工作を用意している以上、死亡推定時刻はできるだけはっきり出してもらう必要があるだろうからな」
斎藤の指摘に、しかし草永は小さく肩をすくめた、
「だから、アリバイ工作も何も、私はその時間ニューヨークにいたんですよ。それはこの写真が証明しています。それ以上、僕が言うべきことはないんですがね」
せせら笑う草永に対し、斎藤はここが正念場と言わんばかりに低い声で応じた。
「あんたが提出したこの写真だが、調べた結果『写ってはならないもの』が確認された。その事実が、この写真があんた御自慢の画像編集ソフトで捏造されたものだという何よりもの証拠になり、そんな写真を出した時点であんたがフィラデルフィアで起こった殺人のアリバイ工作をしたという何よりもの証拠になる。それさえ証明できれば逮捕するには充分だ。後の証拠固めはアメリカ護送後にフィラデルフィア市警がやってくれる」
「『写ってはならないもの』ですか。何の事かさっぱりわかりませんが、まさか亡霊でも写っていたと言うつもりじゃありませんよね?」
草永はからかうように言うが、斎藤の表情は真剣だった。
「そうだな……ある意味、亡霊みたいなものだな」
冗談に対して本気でそう返されて、さすがに草永も不審に思ったようである。
「亡霊って、この写真が心霊写真だとでも?」
「似たようなものだ。何しろ何度も言うように、本来この写真に絶対に写ってはならないものが写ってしまっているわけだからな」
そう言うと、斎藤は写真のある一点を示した。それは、写真の背景の一角にあるガラス張りの高層オフィスビルだった。
「このビルが何か?」
「見ればわかるように、このビルは全面ガラス張りの構造になっている。従ってこの写真のように晴れの日の場合、周囲の景色がこの窓ガラスに反射するという現象が発生する。ここまではいいか?」
「……えぇ、まぁ」
「それで、だ。もしかしたらこの窓ガラスに反射して写っているものの中に何か手掛かりがあるのではないかと考えてね。まぁ、一種の賭けに近い形ではあったが……その賭けに勝ったからこそ、あんたをこうして逮捕する事ができたわけだ」
そして斎藤は告げる。
「今から示すのは、この写真のガラス張りビルの窓ガラス部分に写っている『あるもの』を拡大・鮮明化した写真だ。そしてこれを見れば、あんたにも一瞬で理解できるはず。あんたがどれだけ致命的なミスをしたのかという事が、それこそ言い訳する余地がないほど明白にね」
そう言いながら斎藤はその写真を草永の正面に置いた。そしてそれを見た瞬間、今まで余裕を持っていた草永の表情がいきなり大きく歪み……
「あ、あ……」
そして、次の瞬間、草永はこの世が終わったと言わんばかりの絶叫を上げた。
「ああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「どうやら、気付いたようだな」
斎藤はため息をついて立ち上がると、わなわなと体を震わせる草永の肩に手を置いた。
「もう何も言う必要はないだろう。さて、これから長いアメリカ旅行になるが、心の準備はできているかね? 向こうの裁判所の判決次第ではもしかしたら二度と日本に戻ってくる事ができなくなるかもしれないが……覚悟を決める事だ」
だが、呆然自失となっている草永にその言葉は届いていないようだった。彼の視線の先……拡大された高層ビルの窓ガラスにかすかに映る『ある建物』は、確かにこの写真が捏造である事を決定的に指し示すものだった。そしてその理由は、今この場でその特徴的な形の建物の名を告げるだけで、誰もが簡単に理解できるだろう。
『世界貿易センタービル』と。
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