第五十五話 0点の隠し場所
やばい……俺は手に持っている日本史の答案を握りしめながら冷や汗をかいていた。今日返却されたショートテストの答案……そこにはすべての回答欄に赤ペンでバツが付けられ、得点欄にはデカデカと0の文字が記されていた。漫画ではそれなりに見るが現実だと逆に滅多にお目にかからないもの……つまり、0点を俺は取ってしまったのである。そんなのび太君じゃないんだから、まさか自分が実際にこの点数を取ってしまうとは思いもよらなかった。というか、現実問題として真剣に解いたはずの記号問題をすべて外し、部分点くらいもらえるはずの記述問題を全部ちゃんと充分な字数で書いたのに全く点をもらえないなどという確率はかなり低いのではないだろうか。むしろ数々の悪条件をクリアしてこんな点数を取ってしまったこと自体が奇跡……いや、そんな事を言っている場合ではない!
一体なぜこんな事になってしまったのか。もしやテスト前日にもかかわらず発売された新作ゲームに没頭して徹夜してしまったのが悪かったのだろうか。それとも……いやいや、今はそんな事はどうでもいい。問題なのは、いかなる理由であれ0点を取るわけにはいかない理由があるのだ。というのも、ここの所の成績不振を嘆いた両親が、いかなるテストであっても低得点を取ったら問答無用で鬼のように厳しい指導で有名な予備校に叩きこむと事前に宣告していたからである。低得点というのが一体どれくらいの事を指すのかはわからないが、その基準が何であれ0点なら関係がない。このテストを見られたら、その瞬間、俺の今後の学生生活がお先真っ暗になるのは間違いなかった。
隠すしかない……俺はそう決断した。幸いこれは定期試験ではなくショートテストだ。テスト自体を隠してさえしまえば、そんなテストはなかったと白を切ることができる。問題はその隠し場所である。
俺は散々に考えた。親に絶対見つからないテストの隠し場所を必死になって考えた。そりゃもうテストの時以上に頭を振り絞ったと言っても過言ではない。何だかどこかから「本末転倒じゃないか!」というような声が聞こえてくるような気もしたが、多分気のせいだろう。そうに違いない。というか、そうでも考えないとやっていられない!
そして俺は、最高の隠し場所を思いついた。具体的な事は言えないが、絶対に誰にも見つからないであろう隠し場所に心当たりがあったのである。善は急げというし、俺は即座に行動を起こし、テストをその場所に隠した。今回は油断したが、こんな事はもう二度と起こすつもりはない。すべてを隠蔽した俺は新たにそう決意し、思い出したくもない過去の記憶に封印を施したのだった……。
……後で思えば、なぜ俺はこの時「シュレッダーでテストを細断する」という単純かつ明快な手法を思いつかず、馬鹿正直に昔の漫画なんかにありがちな「テストを隠す」などという行動に出てしまったのだろうか。それを思いつけさえすればあんな事にはならなかったはずなのに……。
「被害者は
その日、河川敷に建つ朽ち果てかけた物置と思しき廃屋の中で、一人の男がうつぶせに倒れて事切れているのを、警視庁捜査一課の斎藤警部と私立探偵・榊原恵一が見下ろしていた。
「第一発見者は榊原さんだそうですね」
「あぁ。別の依頼でこの辺りをうろついていた時に、この建物の中から異臭がするのに気付いてな。確認したらこの有様だった」
「ちなみに依頼というのは?」
「この辺でいなくなった猫探しの依頼だ」
「……榊原さんも、そんな普通の探偵が受けるような依頼をするんですね」
「確かにこの手の依頼は珍しいが、その言い方だと、まるで私が普段から普通じゃない依頼ばかり受けているようにも聞こえるが」
「実際、そうじゃないですか」
少なくとも恒常的に殺人事件の解決を依頼される探偵なんか榊原以外にいるわけがない。
「まぁ、その話はまた今度ゆっくりするとして……どうですか?」
「背後からナイフで一突きされたようだ。ただ、即死じゃない。刺されてから少しの間息があったようだ」
斎藤の問いかけに、検視をしていた鑑識の圷守警部が不愛想に答える。
「で、これですか」
榊原の目が被害者の手元に向く。被害者の両手はうつぶせのまま前方へ伸ばされ、そこに陶器か何かが割れた破片が散らばっているのが見えた。
「多分、この小屋に放置されていた壺か何かが犯行の弾みで割れたか、あるいはまだ息のあった被害者が手近にあった陶器を割ったというところだろうな」
圷が見解を述べる。確かに、辺りを見渡せばこの小屋の中には使われなくなった壺だの食器だの植木鉢だの空のビール瓶だの蛍光灯だの豚の貯金箱だの信楽の狸だのが多数置かれているようではある。正直、小屋の使用目的が今一つわかりかねるラインナップであり(特に豚の貯金箱と信楽の狸)、そしてそんな小屋にこの被害者は一体何の用で入ったのか榊原をもってしても全くわからなかった。
「まぁ、破片から見るに少なくともビール瓶や蛍光灯とかではないでしょうね。もちろん、豚の貯金箱や信楽の狸という線は絶対にあり得ないでしょうが」
「逆に信楽の狸だったらそれはそれで興味深い話だったんだがな。今にも死にそうな被害者が最後の力を振り絞って信楽の狸に手を伸ばそうとしていたとなれば、そこにどういう意味があるのか大きな謎になっていたはずだからな」
「……ひとまず、信楽の狸の謎を解くような話にならずにホッとしていますよ」
圷の言葉に対してそう答えながら、榊原は前方へ伸ばされた被害者の右手を見やった。
「で、榊原の見立ては?」
気楽に尋ねる圷に対し、榊原もさらりと答える。
「多分、死の間際に何かを書き残したんでしょうね。右手人差し指に血がついています」
榊原の言う通り、伸ばされた被害者の右手人差し指には自らの物と思しき血が付着しており、明らかにその血で何かを書いたとしか思えない状態だった。
「だが、そのメッセージはどこからも見つかっていないぞ。ここに散らばっている陶器の欠片にもそれらしいものは書かれていない」
圷は面白そうに反論する。
「だったら、メッセージの書かれた何かはここからなくなったと考えるしかないでしょう」
「つまり?」
「割れた陶器の中に何かが入っていて、被害者は最後の力を振り絞ってそれに犯人の情報か何かを書いた。その後、何らかの要因でその『何か』はこの小屋からなくなったと考えるのが筋でしょうね」
「ふーん。で、その『何か』はどこに行ったんだ?」
試すような圷の言葉に、榊原はジッと被害者を見下ろしながら答える。
「メッセージを残されている事に気付いた犯人が持ち去ったか、あるいは……窓から飛んでいったか」
その視線が、すぐ傍にある割れた窓の方へ向く。小屋の外まで異臭がしたのも、この窓が割れていたからこそだった。
「一週間前の台風のせいでしょうね。割れたガラスも新しいですし」
斎藤が傍らから補足する。実際、窓の下に散らばっているガラス片はまだ割れたばかりと言った風だった。
「だが、殺しよりは前だ。遺体に雨に濡れた痕跡がないし、殺しが先なら割れた窓ガラスの破片は位置的に遺体の上に散らばっているはずだ。詳しい死亡推定時刻の特定は解剖する必要があるが、ガラスの件と遺体の腐敗具合から見て、おそらく四日から五日前くらいだろうな」
圷はそう断言した。一方、榊原は冷静に続けた。
「もし、被害者が何かを書き残したものが紙もしくはそれに類するものだった場合、その間に風で窓から外に飛んで行ってしまった可能性があります」
「……なら、まだこの辺のどこかにあるかもしれないな。川にまで飛んでいたらどうしようもないが、幸い先週の台風以降、雨は全く降っていない。河川敷にあるなら、被害者のメッセージが残っている可能性はある。安心しろ。うちの鑑識は優秀だ。本当にあるなら絶対見つけてやる」
圷は闘志を燃やしているようだった。その一方で、斎藤は慎重である。
「後者の可能性ならそれでいいでしょうが、前者の可能性……犯人が持ち去った可能性は考えなくてもいいのですか?」
「もちろん、その可能性もないとは言わない。ただ、犯人が被害者がメッセージを書こうとしている事に気付いたのなら、完成したメッセージを持ち去るよりも、メッセージその物を書かせないようにするはずだ。ここには犯人がそんな事をしようとした痕跡が確認できない」
「犯人がメッセージを残されている事に気付かず、死後に初めて気づいた可能性は?」
「状況から見て犯行時、もしくは犯行後に陶器が割れるような事態があったのは確かだ。犯人がその場にいた場合、この状況でそれに気付かないという事はあり得ない。当然、陶器の中にあった何かにメッセージを書く行為にもだ」
そこまで言って、榊原はこう言い添えた。
「もっとも、違っていたのならその時はその時で推理を最初から考え直すだけだ。それが私の仕事でもあるしな」
榊原は淡々とした口調で言うが、彼がそのセリフを言うとなかなかに重い言葉である。
「……まぁ、いいでしょう。それより、榊原さんの予想が正しかったとして、その場合この陶器……仮に壺としますが、とにかくその中に紙が入っていて、被害者はそれにメッセージを残した事になります。一体壺の中に何の紙が入っていたんですかね」
「さぁ、そこまでは私もわかりかねるが……」
と、そこへ周辺の河川敷を捜索していた鑑識職員が飛び込んできた。
「圷警部! 河川敷の一角で、血文字が書かれた紙が見つかりました!」
その知らせを聞いて、榊原たちは顔を見合わせる。
「……どうやら、榊原さんの言うように、後者の可能性が当たりだったようですね」
「それよりも、その紙には何が書かれていたんだ?」
圷の言葉に、その鑑識職員は緊張した様子でビニール袋に入れられた一枚の紙を示す。そこには血文字で大きく以下のように書かれていた。
『ハンニンハオオタケンジロウ!』
……あまりにも堂々と書かれていて、逆にその場の面々は呆気にとられた表情を浮かべていた。
「……こんなにはっきりしたダイイングメッセージ、久しぶりに見ましたよ」
「ここまではっきり書かれているとむしろ偽造の可能性を考えなくていいのか?」
「というか、何で全文字カタカナなんでしょうね……」
「『!』も意味がわかりませんが……」
散々な評価である。全員、ダイイングメッセージに対して疑い過ぎな気もするが、まぁ、現実にダイイングメッセージが残される事件なんかあまりないし、あったとしてもそのほとんどが偽造なのだからこの反応も致し方なしと言ったところだろうか。あと、ついでに言っておくと偽造の可能性が常に付きまとうため、ダイイングメッセージ単体では法的には決定的証拠となりえない。仮に今回のようにでかでかと犯人の名前が残されていたとしてもそれだけで該当人物を逮捕する事はできず、逮捕状を請求するにはその人物が犯人である事を立証するための決定的証拠の提示が必須となる。
「とにかく、まずはこの血文字の筆跡の鑑定。それからその『オオタケンジロウ』なる人物を調べるところから始めた方がよさそうですね」
斎藤の言葉に榊原も頷いた。
「あぁ。名前を書けたという事は、おそらく被害者とその『オオタケンジロウ』は顔見知りだ。周囲を探せば必ずそんな名前の人間が出てくるはずだ」
「……どうやら今回は、榊原の手を煩わせることもなく解決できそうだな」
圷はホッとしたようにそう言う。何だかんだ言って、捜査が長引くのはどの刑事も嫌なのだろう。
が、ここで榊原は一つ疑問をぶつけた。
「ところで、その紙は一体何だったんだ?」
そう、確かにそれは重大な問題である。こんな小屋の壺の中に隠されていた紙となれば、何かよからぬものである可能性も否定できない。全員の視線が向く中、その紙を持つ鑑識職員はなぜか微妙な顔を浮かべていた。
「ええっとですね……正直、そんなに期待されても困るんですが……」
そう言うと、その職員はビニールに入った紙を裏返してみせた。そして、そこに書かれていたものを見て再び捜査員たちは絶句した。
「こ……」
「これは……」
「そんな事が……」
誰もが驚愕の表情を浮かべるその視線の先……そこにはこう書かれていた。
『第三回日本史ショートテスト 広沼雅也 0点』
……俺は今、テストを隠した事を心底後悔している。
テストを隠してから一週間ほど経って、そろそろほとぼりが冷めた頃かと思ったその日、俺はいきなり怖い表情を浮かべたスーツ姿の刑事二人(『警視庁刑事部捜査一課第三係』といういかつい肩書の名刺ももらってしまった)の訪問を受け、話を聞きたい旨の宣告を受けた。何か事件に巻き込まれたのではないかと血相を変えた両親同席の元、全く心当たりのない俺に対し彼らは容赦なく告げたのだ。
「殺人現場から、あなたの0点の答案が発見されました」
……この時の俺の、そして両親の間抜け面、みんなにも見せてあげたい。続いて刑事たちは、ものすごく真剣な声色で俺のテストが発見された経緯、そして俺のテストの裏側に被害者がダイイングメッセージを残していたという話をしてくれた。
「そのダイイングメッセージをヒントに捜査をした結果、事件は早期解決をする事となりました。メッセージに書かれていた被害者の友人で土木会社勤務の
動機は金銭トラブルとかそんな感じらしかったが、そんな事は俺にはどうでもよかった。ただただ頭が真っ白になっていて、刑事の話が右から左へ抜けていくように感じていた。
「事件当日、被害者は自身の会社が管理していた現場の河川敷にある小屋を視察しに行っていたんですが、それを知った太田は後をつけ、小屋の中に入った所で被害者をナイフで刺して殺害。そのまま小屋を後にしました。しかし生死を確認しなかったのが運のつきで、被害者はこの時点ではまだ生きており、最後の力を振り絞って近くにあった壺を割り、その中に偶然あった紙……要するにこれが君の答案だったわけですが、とにかくそこに犯人の名前を書き記した次第です」
事件の概要はとてもよくわかった。しかし、俺にはそれ以上にとても気になる事があった。
「あ、あの……それで俺の答案は……」
返してもらえるのかと聞くつもりだったが、そう言う前に刑事たちは少し答えにくそうに答えた。
「それなんですが……申し訳ありませんが、被害者のダイイングメッセージが書かれている関係上、決定的ではないとはいえ有力証拠の一つとして扱われる事となります。従って、今後東京地裁で行われる太田健次郎の公判に検察側から証拠として提出される事になるでしょう」
「しょ、証拠……ですか」
俺の0点の答案が裁判の証拠として公の場に提出されてしまう……その事実に俺はもう充分罰を受けた気分になっていた。が、神はなお残酷だった。
「それと、証拠提出の際には問題の答案がなぜあの小屋にあったのかを立証する必要があります。従って、君には検察側の証人として実際に東京地裁に出廷し、あの答案を小屋に隠した経緯を証言してもらう必要があります。もちろん、公式な証言ですので虚偽の証言をした場合は偽証罪に問われる事になりますが……」
「証言……」
俺のライフはもうゼロだった。何が悲しくて0点の答案を隠した経緯を東京地方裁判所の証言席で正直に白状しなければならないのだ。しかも、証言という事は検察と弁護側の双方から「0点のテストを隠した経緯」について厳しい尋問がなされ、さらにその尋問の経緯はニュースで報道されてしまうという事になる。ここまで来るとそれはもう一種の拷問ではないだろうか。
だが、刑事たちは容赦するという事を全く知らないようだった。
「その上でお聞きします。あなたはあの小屋に0点のテストの答案を隠したのですか?」
「そ……それは……」
一瞬ためらったが、こうなっては俺に逃げられる道などありはしなかった。
「……はい。俺は通学路の途中にある河川敷の小屋の壺の中に0点のテストを隠しました。ごめんなさい……」
……その後も刑事の話は続いたが、正直、その後の事はもはや頭の中に残りさえしなかった。覚えているのは、刑事が帰った後で両親からのかつてない本気モードの説教を受ける事になってしまったという事だけである。だが、もう少ししたら法廷という公の場で尋問という名の公開処刑を食らう事を考えれば、こんな説教などとてもかわいく思えてしまったのだった……。
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