第五十三話 白いガス

「くそっ……くそっ……」

 俺は呻くように声を漏らしながら、必死にその部屋の中を必死にさまよっていた。すでに足がもつれて床に這いつくばりながらの移動であり、息苦しさゆえに視界はすでに霞みつつある。何より、息が苦しかった。それも当然といえば当然で、この部屋の中には有毒な白いガスが充満しつつあるのである。

 目の前は真っ白だった。それは意識が朦朧としつつあるからというだけでなく、少しずつ充満するガスが俺の視界を遮りつつあるからだ。だが、俺にはそれを防ぐすべはない。ガスが部屋のどこから出ているかわからないし、わかったところでそれを止めるだけの体力はもはや俺にはないからだ。白いガスはゆっくり、しかし確実に俺の意識を奪いつつあった。

「どうして……どうしてこんな事になってしまったんだ……」

 俺は、かすれた声でそう呟いたが、それを聞く人間はこの部屋の中にいない。俺は興味本位でこの部屋に入ってしまった事を呪ったが、そんな事を思ったところでもはや後の祭りである。気付いた時には手遅れだったのだ。どう対処すべきか一瞬躊躇したのが失敗で、気付いた時にはもうガスが部屋中に充満していて、満足に息をする事もできなくなっていた。まさか、こんな事になるとは思わなかった。自業自得とはいえ、この結末はあんまりだった。

「誰か……助けてくれ……俺は……死にたく……」

 もう声を出す事もできない。体も動かなくなり、やがて視界がゆっくりと薄らいできた。眠い……猛烈に眠い……だが……眠ったら……


 ……俺の意識は、そこで途絶えた。


「……では、帰ってきたらこうなっていたと?」

「は、はい」

 その日、都内の住宅街の一角にある一軒家で、家の住人である若い主婦が青ざめた表情で駆け付けた刑事に事の次第を説明していた。家の周囲にはパトカーや救急車が停まっており、何とも物々しい雰囲気を醸し出している。

 そんな中、質問する二人の刑事……警視庁刑事部捜査一課の榊原恵一警部補は改めて主婦に確認を取っていた。

「もう一度確認します。あなたが家に帰ってきたら、家の中に知らない男が倒れていたという事ですね?」

「そうです。私、もうびっくりして……」

「それですぐに通報を?」

「そうなんです。正直、何が何だかわからないし……」

 と、そこへ状況を確認しに行っていた榊原の同僚である橋本隆一警部補が駆け寄って来た。

「救急に話を聞いてきた。幸い、気絶しているだけで命に別状はないそうだ」

「そうか……ひとまず、こんな事で人死にが出なくてよかったよ」

「それと、指紋から身元が判明した。どうやら脅迫の常習犯だったようだ。標的の家に留守中に侵入して屋根裏とか押入れの中なんかにあらかじめ潜伏し、そのまま住民の私生活を監視。後日それをネタに脅迫を行って金をゆするというのが常套手段だったらしい」

「脅迫犯というよりも一種のストーカーに近いな。で、今回はこの家を標的にしていたと?」

「その可能性が高い。ただ、本人もまさかこんな事になるとは思っていなかったようだ。正直、これについては自業自得の側面も強いが……」

 と、そんな二人の傍を、担架に乗せられたあの男が運ばれていき、そのまま救急車に乗せられて病院へ搬送されていった。それを見送りながら、榊原はつぶやく。

「ひとまず、落ち着いたら住居不法侵入の容疑で逮捕だな」

「あぁ。しかしまぁ……世の中こんな事があるんだなぁ」

 橋本の言葉に、二人は改めて現場の家の方を見上げたのだった……。


『次のニュースです。本日、東京都世田谷区××の住宅の住民から見知らぬ男が家で倒れているという通報があり、駆けつけた警察官が男を確保しました。確保されたのは無職の二十五歳の男性で、警察が駆け付けた当時、住人が家を出る際に仕掛けておいたバルサ×の煙に巻かれて気絶をしており、病院に搬送されましたが命に別状はないという事です。現場の家では数日前からネズミが天井裏をうろつくなどの被害が起こっていた事からバルサ×を仕掛けたとの事ですが、そのバル×ンの煙が家の中に潜伏していた男をいぶりだし、今回の確保につながったという事で、住民の女性は「ネズミを退治するつもりがとんでもないものをあぶりだしてしまった。あのまま男に気付かないままだったらと思うと正直ゾッとします。バ×サンを焚いてよかった! ×ルサン最高!」とコメントしています。

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