第五十二話 万引き殺人事件
その日、榊原がその少女に目を止めたのは本当に偶然の事であった。依頼人に依頼完了の報告し終えた帰り道に品川駅近くのいつも行くコンビニに立ち寄り、そこで今晩の夕食のために弁当を物色していたところ、不意にどこか挙動不審な態度で店内をうろつく少女が目についたのだ。
その少女は、必要以上に周囲を警戒しながらコンビニの棚の一角をしきりに行ったり来たりしていた。その動きに何かピンと来た榊原は、商品を選ぶふりをしながらさりげなく彼女の近くへと移動する。そして、彼女が緊張した様子で化粧品に手をやり、そのまま棚から離れて商品を持っていた鞄の中に入れてようとしたところでゆっくりとした動作で静かに彼女の前に立ちふさがった。
「え……」
少女は驚いた表情で商品を持って固まったまま榊原を見上げるが、榊原は黙って彼女を見つめている。
「あの……そこ、どいてもらえませんか? 私、急いでいて……」
「やめた方がいい」
唐突にそんな事を言われて、少女は大きく肩を震わせた。
「な、何を……」
「一般的に万引き……いや、『店舗からの商品窃盗』は商品を持って未精算のまま店の外に出た時点で成立する。もっとも、最近は未精算の商品を鞄の中に入れただけでも通報案件になりかねないが、今ならまだ、商品をそのままレジに持っていきさえすれば大目に見てもらえるはずだ」
そして、すっかり青くなっている少女に対し、榊原は告げる。
「その化粧品、今すぐ棚に戻すかレジに持って行きなさい。嫌だというなら……悪いが通報しなければならなくなる」
厳密に言えば、商品を鞄に入れていない現段階では万引きは成立しておらず、彼女が万引きの意思を否定すれば言い逃れできたのかもしれない。だが、彼女は榊原の言葉に対してガタガタ震えながら、チラリとその視線を外へ向けてその場にへたり込んでしまった。榊原が一瞬そちらを見やると、派手な格好をした別の少女が小さく舌打ちしてその場を離れようとしているのが見えた。榊原は一瞬追いかけようかと思ったが、その姿はすぐに人混みの中に消えてしまい、追跡はとても不可能そうであった。
「……そういう事か」
どうやら彼女は外にいる派手な少女にそそのかされて……というよりも強制されて万引きをしようとしていたらしい。一体どういう事情があるのかはわからないが、放っておくわけにはいかなかった。
「どうしましたか?」
騒ぎに気付いたのか榊原と顔なじみの店員が近づいてくる。榊原は震えている少女を目の前に店員に事情を説明し、店員の表情が一気に険しくなった。
「一応、商品を鞄に入れる前に阻止はしましたが、店側としてはどうしますか?」
「……ひとまず、万引き自体が成立していないので通報はしませんが、親御さんと学校には連絡します。阻止してくださってありがとうございます。うちでは未精算の商品を鞄などに入れた時点で警察に通報する方針になっていますので、あと少しで通報しなければならないところでした」
そう言いながら店員は店の一角に張られた注意書きを示す。そこには確かに、万引き対策として未精算の商品を鞄等に入れた時点で万引きと判断して通報する旨が記されていた。
「致し方ありませんね。ただ……問題はもう一人のそそのかした方の子ですが」
このままでは実行犯である彼女だけが逮捕されて、そそのかしたもう一人の少女は逃したままになってしまう。無論、万引きを実行した側にも非はあるが、大元であるそれを教唆した人間が野放しになっているというのは到底許せる話ではなかった。
「実の所、ここ最近この辺一帯のコンビニで高校生による万引き被害が多発していましてね。実際に何人か逮捕者が出ているんですが、そのほとんどが別の誰かにそそのかされたり弱みを握られて脅されたりして万引きしたという人間が大半で、かなり問題になっているんです。とはいえ、実行犯の証言だけでは逮捕は難しいらしくて……」
「なるほど、ね」
確かに、実行犯がどれだけ逮捕後に「そそのかされた」「脅された」と言って教唆犯の名前を言っても、教唆犯に「そんな事言った覚えはない」ととぼけられればそれ以上追及できるだけの証拠はなく、事実上、教唆犯の勝ち逃げになってしまう。それだけに、かなりたちの悪い犯行と言わざるを得なかった。
「榊原さん、この際ですから相談しますが……彼女たちに万引きを教唆している子をどうにかして捕まえる方法はありませんか? このまま実行犯を捕まえ続けてもきりがありませんし、もっと言えば実行犯が増えればそれだけ人生をゆがめられる子供たちが増える事にもなります。それだけに、大元をどうするかが問題なんですが……」
「そうですね……」
榊原は目の前で涙を流してへたり込んでいる少女を前にして少し考え込んでいたが、やがて小さく頷いてこう言った。
「ひとまず、彼女から万引きを教唆した子についての情報を聞くところから始めましょうか。話はそれからです」
なので、榊原は翌日からその勝村という少女について調べてみる事にしたのだが、そのために彼女の通っている学校へ向かったところ、校門の前に数台のパトカーが停車しているのを見てさすがに驚く事になった。
榊原が近づいてみると、そこには以前の事件で知り合った品川署刑事課の円城警部補の姿が見えた。
「あれ、榊原さん、どうしてここに?」
「いえ、ちょっと……何かあったんですか? 刑事課のあなたが出てくるとなるとただ事ではなさそうですが……」
「えぇ、まぁ。……この校内で遺体が発見されましてね」
遺体、という言葉に榊原は反応する。
「遺体……殺しですか?」
「現段階では何とも。被害者はこの学校の女子生徒で、校舎隅の茂みの中に倒れているのを別の生徒が見つけました」
「女生徒……」
その言葉に、榊原は何かピンとくるものがあるようだった。
「……もしやとは思いますが、その被害者、勝村紗智子、という名前では?」
その問いに、円城は驚いた表情を浮かべる。
「どうしてそれを?」
「……どうやら、ややこしい事になったようです」
それから榊原は、彼女がここ数日起こっている高校生による万引き事件を連続して教唆している疑いがあり、その件で探りを入れようとしていた事。さらに昨日、実際に彼女が教唆したと思しき万引き事件に遭遇した事を告げた。案の定、円城の表情が厳しくなり、彼は榊原に捜査協力を求めた。
「お願いできますか?」
「えぇ。私も、一度関わった事件を放棄するつもりはありません」
それから十分後、円城の許可を得て、榊原は現場に足を踏み入れていた。校舎の敷地の隅……校庭の端の茂みの中に、その少女は倒れていた。茶色の髪の毛に着崩した制服、それに厚化粧。昨日雑踏に逃げ込んだ少女と同じ格好をした、見るからに遊んでいそうな風貌の少女が、そこにうつぶせに倒れて息絶えていた。
「死亡推定時刻は?」
「この猛暑ですからね。遺体の腐敗も早くて、昨日の午後二時から午後六時までのどこかと言ったところでしょうか。死因は背後から心臓を一突き。ほぼ即死ですね。凶器は刺さったままになっているナイフです」
実際、彼女の背には小振りのナイフが突き刺さっており、その辺りの布の生地が赤く染まっている。ただ、ナイフが突き刺さったままであるせいか出血は少ないようだった。
「榊原さん、どうですか?」
「……風貌は昨日見た少女と似ていますね」
榊原は慎重にそれだけ告げる。だが、円城としてはそれで充分のようだった。
「榊原さんがその万引き犯を捕まえたのは昨日の何時頃ですか?」
「そうですね……午後三時頃だったと思います。店員に確認してもらえれば間違いないでしょう」
「その時間に彼女がそのコンビニの近くにいたとすれば、そこを去ってからすぐに殺害されたと考えるのが自然でしょう。死亡推定時刻との整合性もありますし、そのコンビニからこの学校までは徒歩十五分くらいの距離しかありません」
「……そうなると問題は、万引きの失敗を確認して店を立ち去った被害者がなぜまた学校に戻ってきたのかという事になるわけですが……」
何にせよ、問題は有力容疑者がいるかどうかという点である。
「第一発見者は?」
「この学校の生徒で、名前は
「たまたま、ねぇ」
榊原は疑わしげに言う。当然この第一発見者の二川という少女は警察にとっては第一容疑者のはずである。「第一発見者を疑え」……これは推理小説でも現実の犯罪捜査でも鉄則とされる考え方であり、実際に第一発見者が犯人だったという事例はかなり多いというのが実情だった。そして実際の所、警察が調べた限り、この二川という少女はかなり怪しい様子だった。
「もちろん、遺体発見に至る経緯が怪しすぎるという事もありますが、調べたところ、彼女には被害者に対する動機があります。同級生の話では、どうやらこの二川友里という少女は、言い方はあれですが日頃から被害者のパシリのような存在だったらしいのです。表向きは被害者取り巻きの一人として彼女の言いなりになっていましたが、友人たちの話では裏では被害者の横暴に対して相当恨んでいたようだという事です」
「ふむ……」
「それに話を聞いたところ、彼女には死亡推定時刻のアリバイもありません。本人曰く自宅にいたという事ですが、彼女の両親は共働きでその時間に家におらず、アリバイを証明する人間は皆無と言わざるを得ません」
確かに聞けば聞くほど怪しい立場である。が、そこで榊原は不思議そうに尋ねた。
「それだけ怪しい人間がいるにもかかわらず、なぜ私に捜査協力を?」
榊原のその疑問に、円城は悔しそうに唇を噛んだ。
「確かに動機と犯行機会は限りなく二川友里がクロだとしていますが、いかんせん直接的な物的証拠が見つかりません。現場からは指紋や毛髪などが一切見つかっておらず、彼女の犯行だと立証する直接的証拠がない状況なんです。もちろん任意同行くらいはできるでしょうが拒否されれば終わりですし、決定的な証拠のないこの状況では裁判所も逮捕令状に判を押す事はないでしょう」
「決定的証拠か……」
「榊原さん、どう思われますか? 二川友里を追い詰めるための決定打……何かありませんかね? それとも、彼女を疑うのは筋違いという事なのでしょうか?」
その問いかけに対し、榊原は静かに、しかし確かにこう言った。
「いえ、聞いている限り、その方針自体は私も間違っていないと思います」
「ですが、証拠が……」
なおも渋い顔をする円城に対し、榊原は遺体を睨みながら意味深に言った。
「まぁ、やり方次第でしょうね。やれるだけの事はやってみますが……」
その言葉に、円城は何かを察したように黙り込んだ。「やれるだけの事はやる」……そんな事を言いつつ、そう言った時の榊原がすべてを解決してしまう事を、彼はよく知っていたのだった……。
……その一時間後、榊原はある場所の前でジッと誰かを待っていた。そして、目的の足音が近づいてくるとゆっくり目を開け、そのままその人物の前に立ちふさがった。
「どうも」
「え……あ、あなたは……」
それは、先日榊原が万引きを止めた少女だった。
「どうやら、万引きについて今回は大目に見てもらえたようだね。まぁ、実行直前だったから『未遂』という事になんだろうが」
「何で、あなたがこんな所に……」
「いや、実は君に万引きをそそのかした人物について、その後少し進展があったものでね。それで、君に少し話を聞きたいと思ったわけだ」
「話、ですか?」
「あぁ。心配せずとも、話はすぐに終わる」
そう言うと、当惑気味の彼女に対し、榊原は単刀直入にこう告げた。
「うまくやったものだね」
「……え?」
「今回の事件だよ。君には脱帽したよ。まさか、私を利用して罪を逃れようとするとはね……。まぁもっとも、そんな甘い事は私が許さないわけだが」
「な、何を言って……」
「まだ、わからんかね?」
動揺する彼女に対し、榊原ははっきり告げた。
「私は、君が勝村紗智子を殺害した犯人だと言っているんだよ。違うかね、
その告発に、少女……有北利奈子は顔を真っ赤にして反論した。
「ど、どういう意味ですか! 勝村さんが殺されたって……私は……私は勝村さんに脅されて……」
「そもそも最初から少し違和感はあった」
彼女の言葉を遮るようにして榊原は告げる。
「いくら万引きをするのが初めてとはいえ、その態度があからさま過ぎた。しつこいぐらいに周囲を挙動不審に何度も何度も見まわし、目的の商品棚を行ったり来たりを繰り返す。典型的な万引きを企む若者のイメージだが、さすがにこれはやり過ぎだ。普通、万引きを初めてやる人間はいかに店側にばれないかを第一に考える。こんなさも今から万引きをやりますよ、などという態度はまずとらないし、もし皆が皆そんな態度ばかりとっていたら全員捕まってしまうのがおちだろうね。まるで、万引きをする前に誰かに気付いてほしそうな様子だった」
「……」
「もっとも、この時は違和感を持った程度で、正直な所、その裏に何があるのかまでは把握できていなかった。さっきの不審な態度も、勝村紗智子に脅されてやろうとしていた万引きを止めてもらいたかったと解釈すれば納得できない事もなかったからな。だがまさか……殺人を企んでいたとはね」
「言い掛かりです! 私は……私は殺人なんかやっていません! 勝村さんが殺された事も今知りました!」
利奈子はそう言って否定し、さらに涙ながらにこう反論する。
「そ、それに、勝村さんが殺されたって事は、それは私が捕まった後の話なんですよね。あの時、勝村さんは私がちゃんと万引きするかどうか見張っていたわけですから。でも、私はあの後店の人に両親や学校の先生を呼ばれたりして、ずっとアリバイがあります。なのに、私に勝村さんを殺すなんて……」
「そう、そこだ。私が君に『うまくやった』と言ったのはね。わかってみれば子供だましに近いが……うまく考えたものだ」
榊原の唐突な反論に、利奈子は押し黙る。
「確かに、私はあの時君の視線の先に舌打ちをする派手な格好をした少女の姿を見た。だが……あれが本当に勝村紗智子だったのか確認したわけではない」
「だ、だって、あれは本当に……」
「そう言ったのは君だけで、逆に言えば、あの少女が勝村紗智子だという事になったのは君の証言によるものでしかない。万引き強要の被害者である君がそう証言したからあの少女は勝村紗智子だという話になった。だが、確かに容姿は似ていたが、彼女が本当に勝村紗智子だったのかどうかを立証する物的証拠は実の所どこにも存在しない」
そして榊原は告げる。
「種を明かせば簡単な話だ。君には共犯がいた。おそらく、あの時舌打ちして去って行った少女はその共犯者の変装だったと考えるのが妥当だろう。本物の勝村紗智子は……その時点ですでに君によって殺害されていたと考えれば辻褄は合う」
「そんな……こじつけです!」
紗智子は涙ぐみながら必死に反論するが、榊原は動じない……否、そんな泣き落としに動じるような男ではない。
「考えてみれば、勝村紗智子の容姿はそう言う意味ではかなり最適な姿だ。派手な茶髪に着崩した制服に厚化粧。本人の顔を見ずとも彼女を特徴づける大きなファクターになってしまう。逆に言えば……そのファクターを真似できれば、顔が違っても充分に他人を欺く事ができる。彼女本人の顔を知らなければなおさらだ」
「いい加減に……」
「勝村紗智子の死亡推定時刻は昨日午後二時から午後六時までの四時間。君がコンビニで万引きをしようとして私に捕まったのが同日午後三時頃。今まではその時間に目撃証言があったからこそ彼女はコンビニを去った後に殺害されたと考えられていたわけだが……死亡推定時刻が午後二時からになっている以上、コンビニで『勝村紗智子』が目撃されたよりも前の一時間に殺されたと考えても何の問題もない。遺体発見現場の学校とコンビニは距離的にも近く、時間的にも合致する」
「待ってください!」
利奈子が絶叫し、榊原はあえて一度口言葉を止める。が、相手はそれを隙とみなしたらしく、ここぞとばかりに反論を仕掛けた。
「黙って聞いていれば適当な事ばかり! 大体、共犯って言いますけど、一体誰が私の共犯者だっていうんですか! それを明らかにするまで、私は……」
「二川友里」
最後まで言い終える前に、榊原は鋭く告げた。その言葉を聞いて相手の言葉が止まる。
「この名前を知っているかね?」
「……さぁ、誰なんですか?」
返答に一瞬間が空く。それで、榊原は己の推理が正しい事を確信したようだった。
「勝村紗智子の遺体を発見した第一発見者だ。彼女に動機がある事はすでに警察の捜査ではっきりしている。だが、物証が出なかった事で警察も逮捕に踏み切れず、今も必死になってその物証を探しているところだ」
「だったら、その二川って子が犯人じゃないんですか! 何で私が……」
「物証が出なくて当然だ。彼女は確かに君の共犯だが……殺人そのものの共犯というわけではないからだ」
榊原はそこで利奈子を静かに睨む。
「この事件最大のポイントはそこだ。殺人事件が起こり、被害者に強い動機を持つアリバイがない人物Aがいて、しかもAは第一発見者だった。そうなれば当然警察はAが犯人でないかと疑い、徹底的に調べようとする。ところが、極めて怪しいにもかかわらず、どれだけ調べてもAにつながる殺害の決定的な物的証拠は見つからない。しかし、他に疑わしい人間がいないがために警察はAがうまく証拠を隠したと考え、何が何でもAの周囲から物的証拠を見つけようと躍起になる。……それ自体がAと、そのAと組んで殺人を行った人物Bの思惑通りであるとも知らずに」
「何を言って……」
動揺する利奈子に、榊原は切り札の一枚を叩きつけた。
「要するに君たちの計画は、あえてあからさまに怪しい人間Aを警察の目の前に登場させて嫌疑をそちらに集中させ、しかしAには殺人そのものに一切かかわらせずに表向き被害者との関係性が薄く見える共犯Bが実際の殺人を行う事で双方ともに罪を逃れようという手法だ。実際の殺人によって発生する証拠発見のリスクと警察に疑われるリスクを二人で分散する事で容疑を逃れようという方法で、言ってみれば、交換殺人の亜種とも言えるやり方になる」
榊原の追及に、利奈子は黙り込む。榊原は淡々と自身の推理を続けた。
「言うまでもなく、Aは二川友里、Bは君……有北利奈子を指す。君たち二人がどう結びついたのかはさすがにわからないが、この亜種型交換殺人の役割としては、Bである君が実際の勝村紗智子殺害を全面的に引き受ける代わりに、Aである二川友里が君のアリバイ工作への協力と、事件後に警察の嫌疑を一身に引き受ける事で成立していたはずだ。おそらく、君は嫌疑を一身に受ける彼女が万が一にも証拠をつかまれないように、『自分が勝村紗智子を殺害する』という情報以外はその犯行方法について二川友里に一切教えていないはずだ。だからこそ、どれだけ調べても二川友里の周辺からは一切殺害の痕跡が発見できなかったというわけだ」
「……」
「一連の流れを説明するとこうなる。君は二川友里と結託した上で、まずは当日午後二時から午後三時までのどこかで『単独で』勝村紗智子を殺害。そしてそのまますぐにあのコンビニを訪れてわざと誰かに見つかるようにして万引きを実行し、発覚後は勝村紗智子に変装してあらかじめ待機していた二川友里の方を意図的に見て、彼女が午後三時頃にあのコンビニにいた事を我々に確認させた。万引きの発見者が万引きを犯した自分を置いて二川友里を追いかける可能性は低いと考えていたはずだし、仮に追いかけようとした場合は君自身が何らかの方法で私を止めるくらいの事はしたと思うが……結局、その備えを使う必要もなく、二川友里は私に『午後三時頃に勝村紗智子が生存していた事』を印象付けて現場から逃走する事に成功した。これにより、午後三時以降の君には勝村紗智子殺害に対するアリバイが成立する事になった。実際の犯行時刻はそれ以前だったにもかかわらず、だ」
「言い掛かりです! 証拠はどこにもありません!」
利奈子は拳を握りしめながらそう叫んだ。だが、こうなった榊原は相手が誰であろうと一切容赦する事はない。
「残念だが、タネさえわかればこのトリックが実行されたかどうかを証明するのは簡単だ。要するに、あの時私が見た人間が勝村紗智子ではなく二川友里だった……いや、そうでなくとも『勝村紗智子以外の誰かだった』と証明するだけでいいんだからな。そうなれば、その人物が勝村紗智子だったとあの場で主張した君の証言が嘘だった事になり、となるとなぜ君がそんな嘘をつく必要があったのかという話になる。当の勝村紗智子が殺されている以上、その被害者に関わる嘘をついた君が犯行に関与している可能性が強まるという事だ。そうなれば、警察も遠慮なく君に対する取り調べを行うだろう。実行犯である君が表に出ていなかったからこそこの計画はうまくいっていたが、逆に言えばいざ君に着目して捜査をしさえすれば、証拠はいくらでも出てくるはずだ」
「そんな……そんな事、証明できるわけが……あの時、私に万引きをしろと言ったのは勝村さんで……」
利奈子は肩を震わせながら声を振り絞り、なおも榊原の推理を認めようとしない。が、榊原は追及を緩めない。さらに厳しい声色で畳みかけていく。
「言っておくが、警察の捜査を舐めるんじゃないぞ。万引きならともかく、これは殺人事件の捜査だ。犯人を特定するために何百人でも刑事を導入できるし、最新の科学捜査も惜しみなく投入される。当然、私が目撃したあの少女が本当に被害者だったのかの検証も徹底して行われるだろう」
「できない! そんな事、できるわけがない! だって……」
あくまでそう言い張る利奈子に、榊原は低い声で追い詰めにかかった。
「まずあの時、問題の『少女』はコンビニ内にいた私が充分視認できる場所にいた。それはつまり、コンビニ内から外を映す防犯カメラにも『彼女』の姿が映っている可能性があるという事だ。昨日の時点では店側が警察に届け出なかったからカメラのチェックはなされていないが、昨日の今日だから画像は残っているはず。仮に残っていなかったとしてもあのコンビニがあったのは品川駅近くの人通りの多い界隈。周辺の建物にも多数の防犯カメラがあるから、そのどれかには映っているだろう。警察が本気で調べれば、それを見つけるのはそこまで難しくない」
「で、でも、映っているだけで別人だなんて……」
どうやら、彼女は二川の変装にかなりの自信を持っているらしい。が、榊原がそれを打ち砕いた。
「生憎だが、映像さえ残っていれば『歩容解析』という科学捜査が行える」
「ほ、歩容解析?」
どうやら利奈子にとってその言葉は初耳のようだった。それが運のつきだった。
「人間というものは『歩く』という単純な動作においても筋肉の使い方や歩幅など細かい部分で個々人ごとに違いがあり、その違いは千差万別となっている。つまり歩き方で指紋同様に個人識別をする事ができるというわけだ。これを利用し、残された画像から映っている人間の個人識別を科学的に行うのが『歩容解析』という捜査手法だ。これはどれだけ完璧に変装したところで誤魔化しきれない類の検査法となる」
「そんな事……そんな事ができるわけが……」
「その様子だと、どうやら警察の科学捜査を甘く見ていたようだな。サンプルとなる勝村紗智子の生前の映像はすでに警察も押収に入っている。結構夜遊びをしていたようだから、彼女のここ数日の足取りを追って、その周囲にある防犯カメラを片っ端から調べればそれほど難しくはないだろう。コンビニに残された防犯カメラの映像も状況が状況だからすぐにでも押収されるはずだ。後は科捜研の結果次第だが……それが出るまで無駄とわかっていながら否定し続けるかね?」
静かな、しかし重みのある問いかけだった。利奈子はガタガタ震えだし、両手で必死に肩を抱くようにしてその震えを止めようとするが効果はない。その反応だけでもすでに勝負はついたと言ってもよかったが、榊原はさらに追い打ちをかける。
「それに、君はともかく共犯の二川友里が警察の取り調べに耐えきれるかも疑問だな。共犯とはいえ、実際に殺人を犯した君と違って向こうは直接人を殺してはいない。まぁ、この場合は法的には殺人の共同正犯という形になるから直接殺人をしたかどうかにかかわらず量刑は通常の殺人罪と同等のものとなるが、それでもなまじ直接殺害に関わっていない以上、君に比べて二川の口が軽い可能性がある。事がここに至れば、警察も二川友里に対する任意同行をためらわないだろう。そして、彼女は勝村紗智子殺しの件で追及される事は想定していても、最初っからいきなりすべてのトリックを暴かれて追及されるような事態は想定していないはず。果たして、どこまで耐えられるだろうな。その取り調べの席で問題の『勝村紗智子』が『二川友里』だった事を彼女自身が認めれば……殺害の自供がなくても、それで君の計画は破綻する事となる」
「……」
「そういうわけだ。さて、これでもまだ君は抵抗するつもりなのかね?」
もう利奈子から返事はなかった。彼女の顔は顔面蒼白となり、持っていた鞄が地面にずれ落ちる。それは完璧だと思った計画が木端微塵に粉砕され、得るはずだった将来をすべて失ってしまった犯罪者特有の表情である事を、榊原はよく理解していたのだった……。
ほぼ同時刻、警察は事件後ずっと保留していた二川友里の任意同行に踏み切り、榊原から共有された推理を余すことなく彼女にぶつけた。そして榊原の想定通りいざすべてが論破されて計画が破綻すると二川友里は非常にもろく、榊原がいない状況にもかかわらず円城ら刑事の追及に見るからにしどろもどろとなってしまい、最後は泣きながら勝村紗智子のふりをしてコンビニ近くにいた事を自供。この時点で本当は存在しなかったはずの「勝村紗智子」の指示で万引きをしたと主張している有北利奈子の証言に矛盾が発生する事となり、警察はまずその場で二川友里を逮捕し、さらに裁判所に令状請求した上で榊原が追い詰めていた有北利奈子の逮捕に踏み切った。
もちろん、取り調べと並行して所轄の刑事を中心に証拠の押収も進められていた。榊原が利奈子を追い詰める時に告げたようにコンビニ周辺の防犯カメラの映像が押収されて被害者の映っていた映像と比較する歩容解析が実行に移され、その結果コンビニ近くにいたとされる『勝村紗智子』らしき少女は勝村紗智子本人ではなく、任意同行時に警察署入口で撮影した二川友里の歩容と一致するという結果が正式に出た。すなわち、この時点で二川本人の証言のみならず、科学的にもコンビニにいた人物が二川友里だったという事が立証されたのである。
また二川友里の部屋を家宅捜索した結果、さすがに変装に使用した衣服やかつらなどは処分されていたものの、共犯者である有北利奈子の指紋や毛髪を発見。その上、有北利奈子の自宅から押収された犯行当日に着ていた制服からも、袖口を中心にルミノール反応が検出。もちろん念入りに洗濯はされていたが、鑑識の執念の捜索でその前に袖口が当たる等して付着したと思しき微量の血痕を利奈子の部屋の壁から発見。この血痕を鑑定した結果、被害者のDNAと一致する事となった。
こうなると後はもろかった。この知らせを聞いた有北利奈子は完全に意気消沈してしまったらしく、しばらくして榊原の推理通り二川友里と手を組んで勝村紗智子を刺し殺した事を完全自供。そしてその中で最後までわからなかった動機についても話し始めたのだが、それによれば、被害者の勝村紗智子が他の女生徒に万引きを強要していたという話は単なるアリバイ工作のための作り話というわけではなく、実際に行われていた事だったのだという。後に警察もこの件が本当なのか補充捜査をする事になったのだが、その中で何人も彼女に教唆されて万引きをした少年少女が確認できたため、後に開かれた裁判ではこの主張に関しては「真実」だと認定されている。
そして、そうした万引き教唆の中で、有北利奈子が被害者に殺意を抱くきっかけとなった事案が存在していた。
「一ヶ月ほど前に新橋駅近くのコンビニで起こった事件?」
取り調べを担当した円城は利奈子が述べた言葉を思わず聞き返し、当の利奈子は力なく肯定するように頷いた。新橋署に問い合わせて調べてみると、確かに一ヶ月前、新橋駅前のコンビニで万引き事案が発生しており、その際店員に発見されて逃げた万引き犯の少女が誤って近くの道路に飛び出し、そこにやってきた路線バスとぶつかって死亡するという事態に発展していた。
その死亡した少女こそが利奈子の仲の良かった妹であり、彼女が万引きなどするはずがないと信じた利奈子が調べた結果、彼女に万引きを教唆した人間として勝村紗智子が浮かび上がったのだという。彼女の両親は利奈子たちが幼い頃に離婚していて、利奈子は父方、妹は母方に引き取られた事から名字が違っており、密かに付き合いのあった姉妹と違って両親たちは互いに会う事すら拒絶していたため、この事実が表向きになっていなかったのである。
「つまり……その妹さんの復讐というわけか?」
厳しい表情で尋ねる円城に対し、利奈子は小さく頷いた。当の妹が死んでいる以上、疑惑だけならともかく、勝村紗智子が彼女に万引きの教唆をした事を客観的に証明するのはほぼ不可能である。それゆえに自身が復讐するしかないと思ったというのが利奈子の主張だった。利奈子は勝村紗智子を調べる過程で、彼女の取り巻きの一人である二川友里の存在を知り、密かに彼女と接触して勝村を殺害する計画を持ち掛けた。紗智子の横暴に耐えかねていた友里はこの提案に乗り、そして二人で必死に考えた結果思いついたのが、今回の「あえて明確な動機がある友里に疑いを集中させて警察の目をそちらに向けさせ、実際の殺人を利奈子が行う事で罪を逃れよう」というトリックだったのだという。
「何で……何でこんなに早くばれちゃうの……ばれる可能性を考えていなかったわけじゃないけど……それでもたった一日しか持たないなんて……私の計画……必死に考えたのに、何だったの……」
すべてを話し終えた後、利奈子はそんな事をブツブツとうわ言のように呟いていたが、それに対して円城は少し気の毒そうにこう応じたという。
「それについては……不運だった、と言うしかないだろうな。罠を仕掛ける相手によりにもよってあの榊原さんを選んでしまったのが運のつきだ。その点だけは同情するよ」
実際、結果論的には「歩容解析」という手段で比較的簡単に二人の犯行を暴く事ができたわけだが、それは「二川と有北が共犯」というこの事件の構図をいち早く見破れたからこそ取れた手段であり、榊原がいなかったらここまで早くこの結論に辿り着けたかどうかはかなり怪しいと認めざるを得ない。警察だけでは目の前にぶら下がった二川友里という極上の餌を追いかける事で精一杯で真の殺害実行者だった有北利奈子の存在に行きつけたかも疑問であるし、仮に地道な捜査でこの構図を見破れていたとしても、表向き事件と関係がない利奈子の存在に至るまでにかなりの時間がかかったはずだ。そうなれば歩容解析に必要な各種防犯カメラのテープのデータが上書きされていたかもしれず、犯行の立証は困難を極める事になっただろう。
そう考えれば、本来であれば彼女たちの計画はうまいところまで行く可能性を秘めていたのだ。それが全く機能せずにこんなに電光石火の解決につながってしまった最大の原因は、円城の言ったように、罠を仕掛ける相手に全ての謎を解決してしまう『真の探偵』榊原恵一を選んでしまった事にあるのはまぎれもない事実であった。
「やはりあの人は恐ろしいな……」
感心するやら末恐ろしくなるやらで、円城は人知れずそんな呟きを漏らしたのだった……。
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