第五十一話 通報者X 解決編

 ……それから数時間後、都内にある人気のないアパートの前に一人の男が姿を見せた。男はしきりに周囲を警戒し、何度も辺りを見回した後でアパートの中に入っていく。そのまま迷う事なく進んでいくと、一番奥にある扉の前に立った。そして、もう一度周囲を見回して誰もいないのを確認すると、ポケットから鍵を取り出して中に入る。

「っ!」

 そして、その場で立ち尽くす。そこは狭い部屋だったが、中には誰もいない。だが、だからこそこの男は慌てふためいていた。そのまま部屋の中に入ると、一番奥へと向かう。そこにはカップ麺やパンの袋、ペットボトルなどが転がっているだけで……

「来ましたか」

 いきなり後ろからそう呼びかけられて、男は全身を震わせながら慌てて振り返った。そこには懐中電灯を片手に持ったスーツ姿の男……榊原恵一が立っていた。

「あなたは……」

「失礼。私立探偵の榊原恵一と言います。ここにいた女性なら、すでに警察に確保されました。幸い命に別状はないそうです。さて……あなたはどうしてそんなものを持ってこんな場所に来ているんでしょうかね?」

 そう言われて、男は反射的に手に持つ袋……コンビニおにぎりとお茶のペットボトルが入っている……を隠したが、それが何の意味もない事にすぐ気づいたようで袋を取り落とした。

「まぁ、答えられませんよね。何しろ、あなた自身が、数日前に桃園公園で発生した殺人事件を通報した彼女をさらった張本人なわけですから。そうですよね……国交省職員の梅木悟さん!」

 そう言われて、男……梅木悟は唇を噛み締めてその場に立ち尽くしていた。

「今回の事件、私は警察から連れ去られた通報者の特定と、その通報者をさらったと思しき犯人の特定を依頼されていました。その手掛かりとなる情報は、通報者が若い女性である事、なぜか彼女が携帯ではなく公衆電話から通報したという事実、その公衆電話に残されていた『英邦大学』と書かれたボールペンなど少数の物しかありませんでした。とはいえ、情報がこれだけしかない以上、贅沢を言っても仕方がありません。私は、このわずかな情報から通報者と犯人の正体を特定できないか推理を試みる事にしました」

 そう前置きして、榊原は推理を始める。すでに現場を押さえられた事から梅木の方は追い詰めるまでもなく顔面蒼白になっていたが、榊原としてはそれでもこの男のやった事を徹底的に暴き立てる腹積もりであった。

「まず、私はこの事件における疑問点について整理してみる事にしました。こういう手懸りの少ない事件においてはまず疑問点をできるだけ抽出し、その疑問に一つずつ答えていく事で推理の取っ掛かりを見つけ、そこから真相を明らかにしていくというのが私の手法ですのでね」

 そう言ってから、榊原はその疑問点を指摘していった。

「さて、そうなると真っ先に気になる疑問が『通報者はなぜ携帯電話ではなく公衆電話から通報したのか』という事になるでしょう。今どき携帯電話を持っていない人間はまずおらず、そこから私は彼女が携帯電話をかけられない何らかの事情があったと考えました。では、その事情とは何なのか。家に忘れた、紛失、バッテリー切れ、現場で誤って落としてしまった……どれもあり得ますが、何もわかっていない現状ではそれらはすべて『可能性』に過ぎません。この疑問は推理の取っ掛かりにはなりえず、固執するといつまでたっても真実が見えなくなる。ですので、私はいったんこの疑問を保留とし、もっと根本的な疑問について考える事にしました」

「根本的な疑問……?」

「えぇ。すなわち、『そもそもなぜ通報者は公衆電話から通報する事ができたのか?』というこの一点です」

 いきなりそんな事を言い始めた榊原に、梅木は戸惑いの表情を浮かべた。

「なぜって……公衆電話から通報する事に何か問題でもあるんですか?」

「大ありですよ。警察の話では、通報者が通報した公衆電話は現場から百メートルほどの場所にあったという事です。状況から見て通報者は現場のすぐ近くで遺体とその傍らに立つ人物を目撃し、何らかの理由で携帯電話が使えなかった事からそこから公衆電話まで走って通報。その途中で追いかけてきた犯人が彼女を襲撃したと考えられます。しかし、そうなるとおかしなことが一つ。……犯人はなぜ、彼女が公衆電話に到達して通報するに至るまで、彼女に追いつく事ができなかったのでしょうか?」

 そう言われて、梅木はハッとした表情を浮かべる。

「通報内容から、彼女が遺体を目撃した際に犯人が彼女に気付いたのは確実です。すなわち、彼女は犯人に追いかけられている状態で遺体のあった場所から公衆電話まで約百メートルの距離を走って通報しているわけです。ところが、男性であるはずの犯人はその百メートルの距離の間に女性の通報者の足に追いつく事ができず、結局公衆電話で彼女が通報して数十秒会話したところでやっと追いついているんです。これ、いくらなんでも遅すぎませんか?」

「……」

 梅木は何も言えない様子である。榊原は気にせず話を続けた。

「通報者が公衆電話のある百メートル先までどれくらいの時間をかけて走ったかについては、通報者が女性であり、現場が走りにくい公園であるという点や荷物を持っているであろう点を考慮して、概ね二十秒~三十秒程度と考えましょう。その上で、通報の録音を聞いた限り、彼女が通報してから会話が途切れるまでこちらも大体三十秒ほどとなっています。実際には公衆電話に到達した後で緊急通報のボタンを押して一一〇番を入力する必要がありますから、さらに十秒程度はプラスされるはず。つまり、犯人はこの百メートルの距離を移動するのに少なくとも一分以上かかったわけです」

 言われてみれば不自然極まりない話に、榊原は推理を積み重ねていく。

「普通の平均的な男性なら百メートル走の記録が二十秒をオーバーするという事はほぼなく、その通報者の女性が陸上選手でもない限り公衆電話に到達するより前に追いつくのは確実でしょう。しかし、実際はそうではなく、追いつくのに一分近くもかかってしまった。しかも、相手が公衆電話に向かった時点で通報しようとしているのは明白で、それを止めるために犯人は全力で彼女を追いかけたはずです。つまり、この『百メートルを一分』という数字は犯人が全力で走った上での記録なんです。果たして、そんな事があり得るのでしょうか?」

 そして、榊原は静かに梅木を見やった。

「考えられる可能性は二つ。一つは、犯人が相当な高齢者もしくは子供で体力的に走る事が不可能だったという場合。しかし、今回の事件の関係者にそうした高齢者や子供は存在しないのでこの推理は否定されます。残る可能性は一つ。犯人が足に怪我をしていて、走りたくても走れなかった……という場合です。そして、そんな人間が事件の関係者の中にたった一人いました。事故で足を怪我して松葉杖をついていたという梅木さん、あなたです」

 それが、榊原が梅木悟という男に目をつけた論拠だった。

「これが今回の推理の取っ掛かりでした。犯人が通報までに通報者に追いつけなかったというこの事実から、通報者を襲撃したのはあなただという前提が生まれました。そしてその前提の上で事件を見直す事で、その通報者の正体を明らかにする事が可能となるんです」

「そんな事ができるわけが……」

 梅木は弱々しく反論しようとするが、榊原はそれを許さなかった。

「犯人は足を怪我していた。そうなるとさらに不思議な疑問が浮かび上がります。すなわち、『いくら相手が女性だからと言って、果たして足を怪我している犯人が彼女を制圧してその場からさらう事ができるのか』という点です」

「……っ!」

「現実的に考えて不可能でしょう。いくら女性でも、相手が足を怪我して松葉杖をしているとなれば充分反撃は可能ですし、そうでなくても最悪その場から逃げればいい。相手は絶対に追いかけて来られないんですからね。犯人が薬品か何かで彼女の意識を奪ったという事も考えにくい。突発的なこの状況でそんな薬品を持っていること自体不自然ですし、百歩譲って何らかの方法で彼女の意識を奪ったとしても、今度は意識を失った彼女を果たして松葉杖をついた人間がその場から連れ去る事ができるのかという問題が発生します。これは、実は犯人が彼女をあの場で殺害していたという最悪の状況を考えたとしても発生する問題です」

 梅木は黙って榊原の言葉に耐えている。榊原は容赦なく先を続けた。

「結論から言えば、足を怪我している人間が一人で大の大人の女性をあの場から連れ去る事は不可能です。足を怪我している以上、車を運転する事も不可能ですしね。では、それが可能となるのはどのような状況なのか? にわかには信じられない突飛な考え方ですが、可能性はこれしかありません。すなわち……『連れ去られた通報者の女性本人が犯人に協力している』という場合です」

 榊原のその言葉に、梅木がようやく顔を下げて反論した。

「待ってください。つい今まで通報しようとしていた相手に協力って……色々矛盾していませんか?」

「そう、普通に考えれば矛盾しています。と言う事は、普通ではない事が起こったんです」

「意味がわかりませんが……」

「通報の内容から考えて、通報時点では彼女は犯人が誰なのか具体的にわかっていなかったようです。もし犯人の名前を知っていたら通報時点でその名前を言っていたはずですから。しかし、私の推理では犯人と通報者が協力しない限り通報者をあの場から連れ去る事はできません。となれば、可能性として考えられる事は一つ。『通報者の女性は犯人が追い付いてきた時点で犯人の正体に気付き、そしてその時点から協力関係になった』というものです。つまり……」

 榊原は『通報者』の正体につながる大きな手掛かりを告げた。

「通報者の女性と犯人……すなわちあなたは顔見知りだった、という事になります」

 その言葉に、梅木は顔をこわばらせた。その反応に自身の推理が正しい事を確信し、榊原は事件の真相へと切り込んでいく。

「おそらく、遺体の傍に立っていたあなたは顔を隠すためにマスクもしくはサングラスでもしていたんでしょう。そのため、見ただけでは彼女もあなたの正体に気付かなかった。ところが公衆電話で通報中の彼女にあなたが追い付き、そこで素顔をさらした事で彼女はあなたの正体に気付いた。そしておそらく、あなたはそこで彼女に自分に協力してくれるように頼み、彼女もそれを了承したという事でしょう」

「馬鹿な……いくら顔見知りでもそんなに簡単に説得できるわけが……」

 梅木の反論に、榊原は首を振った。

「その点についてはあとで説明しますが、とにかくあなたは説得に成功し、彼女と一緒にその公園から出た。タネがわかれば非常にシンプルな話です。さて……彼女自身が協力していたとなれば、一つ怪しくなる証拠があります。言うまでもなく、現場に落ちていた英邦大学のボールペンです」

「……」

「今まで、あのボールペンは犯人と通報者がもみ合った際に落ちたものだという事になっていましたが、両者が協力関係にあったとなればその前提が疑わしくなる。通報者が、自分が通報したと悟らせないために、わざとボールペンをその場に捨てた可能性が出てくるんです。大体、いくら手袋をしていたからとはいえ、ボールペンから一切指紋が出ないというのは奇妙な話だとは思っていました。普通に使っていれば指紋の一つや二つは絶対についているはずですからね。それも自分でわざと捨てたとすれば説明がつきます」

「何のためにそんな事を……」

「単純に『通報者が英邦大学の関係者である』と錯覚させるためと考えるのが自然でしょうね。という事は、これを逆説的に考えるなら『通報者は英邦大学の関係者ではなかった』という事になってくるわけですが」

「馬鹿馬鹿しい! 英邦大学の関係者ではない人間が英邦大学のボールペンを持っているなんて……その推理は根本的に矛盾していますよ」

 梅木はどこか強がったように反論したが、それに対する榊原の答えは簡単だった。

「確かにあなたの言う通りです。だとするなら可能性は一つ。あなたの言う一見矛盾めいたその状況……『英邦大学の関係者ではないにもかかわらず英邦大学のボールペンを持っている可能性がある人間』こそが、私が探すべき通報者の正体という事です」

 そして、榊原は梅木を睨みながら告げる。

「可能性として考えられるのは、英邦大学の卒業生、もしくは英邦大学の関係者と何らかの付き合いがあってボールペンをもらったという類の人物。ただ、卒業生の可能性は低いと私は考えます。いくら現役生ではないとはいえ、そのくらいは警察も調べると容易に想定できますから。よって可能性が高いのは後者です」

「……」

「無論、これだけでは通報者の正体を特定するためには情報不足です。そこで、そこにさらに二つの条件を加得る必要があります。一つは言うまでもなく、あなた……すなわち『梅木悟と顔見知りである』という事。そうでなければ今までの推理がすべて成立しなくなってしまいますから、これは絶対的な前提条件です。そして二つ目が、先程一度推理を保留した『通報者が携帯電話で通報をしなかった』という事実です」

 推理がここまで進んだこの段階で、榊原は再び最初に提示した問題を蒸し返しにかかった。

「通報者はなぜ携帯電話で通報をしなかったのか? 私は先程、紛失、家に忘れた、落とした、バッテリー切れなど偶発的ないくつかの例を挙げてこの問題を考えましたが、今回はもう少しひねくれた考えを発展させていきたいと思います。すなわち、『偶発的要素ではなく、通報者が自分の意志で携帯電話を使用しなかった』と考えた場合の可能性です。そのような可能性は果たして考えられるのか? ……私は、これについて二つの可能性を考えました」

 榊原はその「可能性」を一つずつ検証していく。

「一つ目は『そもそも通報者が携帯電話を意図的に所持していなかった』というケース。これは家に忘れた、失くしたなどの偶発的に使えなくなったという話ではなく、最初から自分の意志で携帯電話を所持していなかったという可能性です。二つ目は『通報者は携帯電話を所持していたが、自分の意志で携帯電話による通報を断念した』というケース。この場合、『なぜ携帯電話で通報しなかったのか?』という問題が浮上する事になりますが、私はこれについては考えられる事は一つだと思いました。すなわち……『警察に通報する事で自身の携帯が特定されるのを恐れた』という可能性です」

 その言葉に、梅木はピクリと反応した。

「何しろ通報相手は警察です。通報は全て録音される上に、状況次第では通報した携帯の発信元も特定される可能性がある。逆に言えば、その携帯電話の情報を特定されたくない人間からすれば、携帯で警察に通報するなど自殺行為でしかない事になります。つまり、通報者も本音を言えば携帯で通報したかったが、そうすると通報した携帯の詳細が特定されてしまうため、それを恐れてやむなく公衆電話からの通報をせざるを得なくなった……というような可能性が浮上する事になります」

「……それはつまり、通報者側にも何かやましい事……自分の携帯電話を特定されたくない事情があったという事ですか?」

 梅木の問いに、榊原は頷いた。

「そうなりますね」

「そして、そんな人間が私と知り合いだった、と?」

「えぇ」

「……馬鹿も休み休み言ってください。私の知り合いにそんな人間がいるわけが……」

 なおも否定しようとする梅木に対し、榊原は声をかぶせるように告げた。

「梅木さん、あなたは以前、国交省の海難審判庁に所属していたそうですね?」

 その問いに、梅木の言葉が続かなくなった。

「……それが……何か?」

「あなたが関与した事故調査の記録を読みました。その中に一つ気になるものがあったんです。『伊豆沖クルーザー沈没事故』……五年前に伊豆沖で大学生四人と高校生四人の若者グループが乗っていた小型クルーザー船が操舵を誤って岩礁に乗り上げ沈没。大学生四人と高校生一人の計五人が死亡、残る高校生三人が重軽傷を負った事故です。海難事故なので国交省の海難審判庁が事故原因を調べる事になりましたが、調査の結果、当時船内ではあろう事かコカインパーティーが行われていて、操舵者の大学生がコカインをきめて注意力散漫になった結果操舵を誤り、そのまま岩礁に乗り上げて事故を引き起こした事が発覚しました。海難審判庁の調査結果が公表された結果、生存した若者三人はコカイン使用容疑で改めて警察に逮捕され、それぞれ執行猶予付きの有罪判決を受けているはずです」

「……」

「その時問題のクルーザーに乗っていた大学生四人組は全員英邦大学飲み会サークルのメンバーで、高校生四人組の方は彼らの後輩として一緒に遊ぶようになった面々だったそうです。そして、生き残った三人の高校生の中に、一人女生徒がいるのが確認されました。当時十七歳の花筏青葉はないかだあおばさん……五年後の現在は二十二歳になっているはずです。記録によると懲役一年六ヶ月と執行猶予三年の判決を受けています」

 その名前が発せられた瞬間、梅木の顔に諦念の表情が浮かんだ。榊原はそれを見て一気に畳みかける。

「あなたは海難審判庁の一人として、当然生存者からの聞き取り調査もしているはずです。つまり、あなたと花筏さんは面識がある。そして、先程も言ったように彼女はコカイン使用容疑で逮捕され、執行猶予がついたとはいえ有罪判決を受けています。となれば、彼女には前科がある。前科があってただでさえ疑われやすい立場にいる彼女が、番号から自身を特定されてしまう携帯電話からの通報をためらったとしても無理はない話でしょう。また、彼女自身は英邦大学の関係者ではありませんが、件の事故で彼女は英邦大学在籍中の先輩に連れられて船に乗っています。となれば、その事故で死亡した英邦大学の先輩から生前にボールペンをもらっていたとしても不自然ではないでしょう」

「……」

「彼女はすべての条件に合致していました。すなわち、あなたと面識があり、自身の携帯から警察に電話できない事情があり、なおかつ英邦大学の関係者でないにもかかわらず問題のボールペンを持っている可能性がある。ボールペンに指紋が残されていなかったのも、彼女が前科者で指紋データが警察にある事を考えれば納得ができます。ここに至り、私は問題の『通報者』が彼女であると特定し、あなたの周囲で彼女をかくまえそうな場所を探した結果、あなたがセカンドハウスとして借りていたこのアパートが浮かび上がったというわけですよ」

 そこまで言ってから、榊原は打って変わって静かな声で告げた。

「さっきも言ったように、彼女……花筏青葉さんはすでに身柄を確保され、今は警察病院で警察関係者から事情を聴かれています。私が何か言うまでもなく、事実がばれるのももう時間の問題なんです。……話してくれませんか、梅木さん?」

 そう言われて、梅木はしばらく何かに耐えるような表情を浮かべていたが、やがて振り絞るように言葉を発した。

「彼女を……巻き込んでしまった事については……本当に申し訳なく思っています」

「認めますね? あの日、通報者……花筏さんを説得して公園から連れ出したのは……つまり、彼女が遺体の傍に立っているのを目撃したのはあなただったと」

 その言葉に、梅木は小さく頷いた。

「あなたと彼女はどういう関係なんですか?」

「……どうせ、それも想像はついているんですよね?」

「あくまで想像ですがね。こればかりはさすがに証拠はなかったもので。ですが、単に事故の被害者と調査官という関係だけではあなたの説得に彼女が応じるとは思えませんでした。となれば、それ以上の関係があったのは間違いないと思っています」

 榊原のその言葉に、梅木は少し自嘲気味に笑うと告げた。

「お察しの通り……私と彼女……青葉は付き合っていました。あなたなら……それがどれだけリスクがある事なのか、充分に理解できると思いますが」

「……えぇ」

 榊原が短く答えると、梅木はポツポツと話し始めた。

「再会したのは一年ほど前でした。私が仕事帰りに立ち寄った喫茶店……彼女はそこでウエイトレスとして働いていたんです。先に気付いたのは彼女の方で、そこで彼女が罪を償って真面目に生活している事を知りました。それからちょくちょく会って話をするようになって……いつしか、私たちは恋人関係になっていたんです」

 梅木はそこで小さくため息をついた。

「もちろん、私も彼女もこの恋愛にリスクがある事は承知していました。罪を償ったとはいえ彼女は前科者で、おまけに以前の事故調査の仕事で知り合った間柄です。私は彼女が前科者だろうが何だろうが彼女に対する気持ちを変えるつもりはありません。ですが、自分で言うのもなんですが、国交省のエリート街道を突き進んでいる男がかつての仕事の調査対象である前科者と付き合っているというのは、法的には問題なくとも官僚としてはかなりまずい話です。だから、私たちは絶対にばれないように付き合いを続けてきました。ところが……そんな私たちの秘密に感づいた男がいたんです」

「それが、被害者の新聞記者・苗木貴元だった」

 梅木は首を縦に振る。

「奴はどこからか私たちの付き合いを嗅ぎ付けて、私に交換条件を持ちかけてきました。この事実をばらさない代わりに、国交省に対する自分の情報提供者になってほしい、と。私に選択の余地はありませんでした」

「それが、あなたが苗木記者の情報提供者になった経緯ですか」

「えぇ……。ですが、私ができる事にも限界がありますし、何よりこれ以上情報を漏らし続ける事に私自身が耐え切れなかった。だから、奴にこれ以上は無理だと言ったら……奴は手切れ金を要求してきたんです。あの日は、その金の受け渡しのためにあの公園を訪れました」

「被害者の携帯に残っていた通話記録も、情報提供ではなくそれに関する通話ですか?」

「その通りです。すでに金は用意していたので、あの電話で受け渡し場所と時間の指示を受けました」

「額は?」

「……三百万円。今の私の貯金なら払えない額ではありませんでした。……でも、奴は想像以上にゲスでした。私とは別に、彼女の方にも脅迫をしていたんです」

 梅木は吐き捨てるように言った。

「奴は私に知られないようにしながら彼女にも『自分の正体を世間にばらされたくなかったら金を払え』と脅しをかけて、金を巻き上げようとしたんです。後で聞いた話では、要求額は二百万円。彼女の貯金ギリギリの額でした」

「総額五百万円……欲張ったものですね」

「しかも、いくら人通りが少ないからと言ってあの公園で二人立て続けに取引しようとしていたというんだからどこまで人を舐めているんだという話です。私が指定されたのは午後七時半で、彼女が指定された時間は午前八時頃。彼女は時間通りにそこに行って……」

「そして、苗木記者の遺体の傍にたたずむあなたを目撃した」

 榊原の言葉に梅木は頷いた。

「人に見られないようにサングラスとマスクで顔を隠していたから、彼女はそれが私だとわからずにすぐに通報しようとして公衆電話に走ったんです。私は必死になって追いかけて……御覧の通りの足でしたから追いつくのに時間はかかりましたが、それでも何とか追いついて、そこでようやく彼女は私の事に気付いたんです。彼女はすぐに通報の電話を切りましたが、警察がすぐにやってくるのは時間の問題でした。状況的に動機も機会もある私か彼女が疑われるのは確実。だから、私は彼女を説得してすぐに一緒にその場を離れたんです。その後、彼女にはこのアパートに姿を隠してもらっていました……」

 そこまで自白して、しかし梅木は急に必死になって叫んだ。

「でも、私は殺していない! これだけは本当なんです! 私が行ったとき、あいつはもう死んでいた! 私がやったのは、死んでいたあいつの持ち物から私に関係しそうなものを回収した事と、通報していた彼女に事情を説明して隠れてもらった事だけで……」

 梅木は必死にそう主張した。が、それに対し、榊原は予想外の事を言い始めた。

「まぁ、そうでしょうね」

「……え?」

 その発言に一番驚いたのは当の梅木自身だった。だが、榊原はすました表情で告げる。

「ですから、あなたの言う通りだ、と言ったんです」

 まさかそんなに簡単に信じてもらえるとは思っていなかったのだろう。ポカンとしている梅木に対し、榊原は懇切丁寧に梅木が殺人犯ではないと思う理由を説明し始めた。

「私はあなたが花筏さんを連れ去った犯人だとは思っていますが、苗木記者を殺害した殺人犯だとまでは思っていません。大体、松葉杖をついているあなたに石を使ったあの犯行は絶対不可能です。私は物理的な不可能な状況をひっくり返してまであなたが犯人だと主張するつもりはありませんよ。それに、あなたが彼女に一緒に逃げるよう説得できたのも、あなたが殺人を犯していなかったからと考えれば説明がつきます。いくら彼女でもあなたが殺人を犯していたとなれば説得するのは難しかったでしょうが、殺人をしていなかったとすれば説得する事は容易だったはずです」

 拍子抜けするような事を言われて、梅木は途方に暮れたように尋ねる。

「だ、だったらあの記者を殺した犯人は……まさか……」

「あぁ、心配せずとも花筏さんではありませんよ。確保した時に彼女に確認したところ、死亡推定時刻の午前五時から六時頃、彼女は最寄りの二十四時間営業のレストランで時間を潰していた事がわかりましたので。レストランの防犯カメラも確認しましたが、間違いなく彼女は映っていましたよ。大体、彼女が殺したのなら、この状況でわざわざ通報したりなんかしませんしね」

「じゃあ、一体……」

「心配せずとも、そちらもある程度の推察はできています。ただ、私はあくまで通報者をさらった犯人を捜す事が依頼だったので、そちらに関しては警察に任せました。もっとも私が何か言う前に、事件を担当していた斎藤警部も犯人の目星は薄々気づいていたようですがね。まぁ、そっちよりも現在進行形で通報者の命の危機があったので、通報者の捜索を優先したというような形なんでしょうが……」

 榊原は静かな口調でこう告げた。

「すべてが明らかになった今、警察も殺人犯に対して決着をつけているはずですが、さて……どうなる事やら」

 意味深な事を言われて、自分が殺人犯だと告発されるものだと覚悟を決めていた梅木は、呆気にとられた表情を浮かべていたのだった……。


 同時刻、斎藤警部率いる警視庁刑事部捜査一課第三係の面々が真剣な面持ちでその建物の廊下を歩いていた。しばらく進むとドアがあり、先頭の斎藤がそのドアを開けて中に入る。異変に気付いたのかその部屋の責任者がすぐに駆け寄って来た。

「ちょっと、困ります! いきなり入って来られたら……」

 そんな責任者の顔の前に、斎藤は黙って一枚の紙を示した。その紙の一番上に『逮捕令状』という無機質な文字が躍っているのを見た責任者の顔が蒼くなる。

「な……これは……」

「冗談ではありませんよ。失礼」

 そのまま斎藤は部屋の中へと進み、中にいた人々がざわめく中、一人気付かぬふりをして正面のパソコンのモニターを見つめていたある人物の横に立ち、静かでありながら鋭い口調で告げた。

「捜査一課の斎藤だ。我々がなぜここに来たのか、もう既にわかっていると思うが……」

「……」

 相手は答えない。聞こえないふりをしてモニターを見つめたまま仕事を続けようとする。が、その頬には冷や汗が伝い、キーボードを打つ手も震えている。そんな相手を見つめたまま、斎藤は逮捕状を相手に突き付けて宣告した。

「残念だが、君にその仕事を続ける資格はない。……警視庁通信指令センター所属、尾鳥白音おとりしらね巡査! 新聞記者の苗木貴元殺害容疑で君を拘束する!」

 その瞬間、あの日、警視庁側であの通報を受けた通信指令センターの女性職員は、ぶるぶると手を震わせ、しばらくすると糸が切れたかのようにがっくりとうなだれてしまったのだった……。


「実の所、尾鳥巡査が怪しいという事はあの一連の通報の録音を聞いた時点ではっきりしていた。私はもちろん、斎藤を筆頭とする捜査本部側もそれは理解していて、あの時点ですでに彼女に対する内定調査をしていたそうだ。それだけ、あの通報における彼女の言葉にはあからさまに不自然な部分があったからな」

 後日、事務所にやって来た榊原の旧友である田中太郎たなかたろう弁護士に対して榊原はそんな事を言った。あの後、田中は殺人容疑で起訴された尾鳥巡査の国選弁護を引き受ける事となり、その情報収集として事件の捜査に関わった榊原の元を訪れていたのだ。もっとも、逮捕された尾鳥巡査はすっかり観念したようで、取り調べでは自身の関与を素直に認めており、裁判も有罪無罪の判定ではなくどれだけ減刑に持ち込めるかが焦点となりそうというのが田中の談である。

「その不自然な部分というのは?」

「言われてみれば簡単な話でね。あの録音の中で、尾鳥巡査はパトカーへの指令の中で『桃園公園内公衆電話から同公園内の桜の木の下で男性の撲殺死体発見の通報があった』という旨の発言をしている。だが、冷静に考えればこの時点の彼女の発言としてこれはおかしい。確かに被害者の死因は頭部を石で殴られた事による撲殺だったが、あの通報において通報者である花筏青葉は被害者について『頭から血を流して倒れている』としか言っていない。その血を流した原因が『撲殺』なのか、そしてそもそもその被害者が死んでいるのかが尾鳥巡査にわかるはずがないんだ。単に頭から血を流して倒れているだけなら撲殺以外にも突き飛ばされてどこかに頭を強打した事による墜殺も考えられるし、何より『撲殺』……すなわち『殺人事件』だと判断する根拠はどこにもない。この情報だけでは、殺人ではなく事故の可能性だってあるわけだからな。にもかかわらず、彼女はなぜか被害者が死んでいる事や、その死因が事故でも他の殺害方法でもなく『撲殺』であると断言した。なぜか? それは、その通報を受けた彼女自身が被害者を『撲殺』し、その死を直接確かめた張本人だからだと考えなければ説明がつかない。事が通信指令センターの指令である以上、彼女が言い間違えをしたという可能性は皆無だ。この仕事は現場の警官に対して指令を出す関係上、主観や憶測を排除して通報のままの正確な情報を送るのが基本のはず。日頃からその注意をしている通信指令センターの職員が言い間違えをするなどというのはあり得ない話だからな」

 確かに、改めて言われてみれば明らかにおかしな発言だった。

「ただ、通報を受けたのが彼女自身である以上、通報者をさらったのが彼女とは考えられない。しかし発言の矛盾がある以上、彼女が犯行に関わっているのは明白だ。そうなると、同一犯の手によるものだと考えられていた被害者の殺害と通報者の誘拐が実は別人の手によって行われていたという仮説が生じる事となる。そしてこの仮説の場合、通報を受けていた側で通報者の襲撃が不可能な尾鳥巡査は殺人の実行犯の役割を当てはめるしかなく、この時点で残る通報者襲撃時間のアリバイが存在する人間はあらゆる意味でこの事件に関係していない事が明確となる。なぜなら殺害犯が尾鳥巡査である以上、事件に関係するとしたら通報時しかあり得ず、その通報時にアリバイがあるとなれば事件に関係しようがないからだ。この理論で殺害時間にアリバイはないが通報時間にアリバイがある花見大平が事件に関係ない事が確定する。残るは梅木と目白だが、そこから通報者を襲撃した人間の足の遅さなど諸々の事を推理していけば、最終的に梅木が通報者を襲撃してその場からさらった犯人である事がわかるというわけだ」

「そういう事ですか……。いつもながら、君の論理は凄いものですね」

 田中は感心したように言う。そんな田中に逆に榊原はこう尋ねた。

「動機について彼女は何と?」

「本人曰く『別れ話のもつれ』という事らしいです。実際の所は、苗木が警察の情報を収集するために情報提供者として以前取材で知り合った彼女に目をつけ、妻子がいるにもかかわらず独身と偽って彼女と付き合い、そこから独自に警察関係の情報を得ていました。しかし、最近になって苗木が自分を騙していた事実に気付き、警察の情報を得るためだけに利用されていた彼女は激高して今回の犯行に踏み切ったと供述しています。犯行後、彼女は何食わぬ顔で警視庁に出勤したわけですが、まさか自分が殺した男の遺体を見つけた通報を自分が受ける事になるとは思ってもいなかったようで、心の中ではかなり動揺していたようです。榊原君の言う不自然な発言も、おそらくその動揺の結果生じたものでしょうね」

「なるほど、ね」

 田中はふうと息を吐いた。

「ところで、その梅木という国交省職員はどうなったんですか?」

 田中の問いに、榊原は首を振った。

「別にどうも。前科があるとはいえその件に関して花筏青葉はもう罪を償っているし、付き合い始めた年齢も別に未成年というわけじゃないから法的に問題があるわけじゃない。今回の誘拐騒動についても彼女自身が同意した上での話になっているから誘拐罪に問う事は不可能だ」

「まぁ、刑法上の誘拐罪は、本人の同意なく連れ去ったときに適用されるものですからね。被害者が未成年者なら本人が同意しても法的保護者の同意がなければ誘拐罪の適用が可能ですが……」

「何度も言うように花筏青葉は未成年者ではないから、本人が進んで梅木に協力していた以上、法的にとやかく言えるような話じゃない。まぁ、事件を混乱させたという事で警察からたっぷりお叱りは受けたようだし、その点については本人たちも深く反省しているようだがね。この件で梅木は国交省を自主退職する事にはなったようだが……本人曰く『しがらみがなくなって色々吹っ切れた』らしく、彼女と大っぴらに付き合いながら新しい職を探しているそうだ」

「はぁ……よかったのか悪かったのか何とも言えない話ですね」

 田中のその言葉に対し、榊原は苦笑気味にこう言い添えた。

「まぁ願わくば、二人にはこのまま幸せになってもらいたいものだがね。それがこの事件における唯一の希望と言える話だからな」

「……そうですね。それが一番いいかもしれないですね」

 榊原の言葉に、田中は小さく頷いて応えたのだった。

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