第四十九話 最後の大舞台
私はかつて舞台を中心に活動する女優だった。十年以上前、当時まだ二十代だった私の美貌に世の人々は熱狂し、テレビに映らない日はなかったと言ってもいいほどだった。いくつかの映画にも主役級で出演し、歌手としても有名な大晦日にやる歌番組に出演するなど、まさに脂がのりきっていた。今思えば、あの頃が確かに私の人生の絶頂だった。
だけど、私の栄華は長く続かなかった。程なく私はテレビにも映画にも出る事はなくなり、何もできないまま気付けばもう十年以上が経過していた。今となっては人々の記憶に私の事など残っていないだろう。まさかここまで落ちぶれる事になるとはあの頃の自分は露にも思っていなかった。だが、これが人生の現実なのだ。何がきっかけで人生がこうなってしまうかなど予想もできない。あの頃の私は人生を舐めきっていたのだろう。もしできる事なら、あの頃の自分にもっとうまくやるように助言をしてやりたいくらいだった。
しかし今日、私は再び世間に注目される大舞台に出る機会を得る事となった。この舞台は他の女優や俳優では絶対に経験できない、私のためだけの一度きりの舞台だった。私は、この舞台に全てをかける事にした。まさに、人生最後の大舞台であった。
私は控室に入ると、身だしなみを整えながら差し入れに用意されたお菓子を少し食べ、付人から差し出された煙草に火をつけた。久々に吸う煙草の味は格別で、同時に大舞台に出る前特有の懐かしい緊張感が体に湧き上がってくる。
やがて付人が時間を告げた。私のファンだという別の付人が歌う私のための歌に送られて、私はカーテンの向こうにある舞台へと足を踏み入れる。人々の視線が私に集まる中、私は舞台の中央に立った。周囲の付人たちが舞台のための準備を進めているのがわかるが今の私にはそんな事はどうでもいい。そして、久々に味わう人の視線を浴びる快感を味わいながら微笑みを浮かべていたところで……
次の瞬間、私の立っていた舞台の床が抜け、そのまま私の意識は闇の中へと消えた……。
「執行された?」
『あぁ。今朝の事だ』
その日、元刑事の私立探偵・榊原恵一の事務所に、榊原のかつての同僚で今は警視庁捜査一課長をしている橋本隆一から連絡が入った。
『昨日、法務大臣がサインをして、即日執行となった。明日には発表される』
「そうか……あれからもう十年以上か……」
榊原はそう呟くと、事務椅子の背もたれにもたれかかって『あの女』の事を思い出していた。
榊原が彼女を逮捕したのは、まだ警視庁捜査一課の刑事をしていた十年以上も前の話だった。事件は女優が連続して殺害されたというもので、当初は全て自殺と見られていたが、榊原が捜査員として事件に関与した三件目で榊原の推理から偽装自殺である事が判明し、改めて洗い直しをした結果同様の案件がすでに二件発生していた事が発覚。直ちに連続殺人として捜査本部が設置され、当時捜査一課所属だった榊原と橋本もそこに参加。そして、捜査の結果容疑者として浮上したのが、当時国民的若手女優として一世を風靡していた彼女だった。一連の被害者はいずれも彼女が出演した舞台、ドラマ、映画における役をめぐるライバル女優で、被害者らが表向き「自殺」した事で彼女はその役を勝ち取る事に成功していた。状況から見て、明らかに彼女が役を勝ち取るためにライバルたちを自殺に見せかけて殺していったのは明白だった。
とはいえ、相手は当時国民的な人気を得ていた有名女優であり、立証できなかった時に『間違いでした』で済ませるわけにはいかない。万が一立証に失敗すれば警察に対する国民の批判は想像もできず、さらに警察への批判だけならまだしもおそらく二度と彼女を逮捕する事はできなくなってしまう。それだけに、榊原をはじめとする捜査本部は徹底した捜査で彼女が関与したという証拠を集め、ついに事件発覚から数ヶ月後、成田国際空港で新作映画撮影のために海外出国しようとした彼女の逮捕に踏み切る事となった。
マスコミが大騒ぎする中、取り調べを担当したのは榊原だった。逮捕してから十日にも及ぶ取調室での榊原と彼女との論理の攻防戦は今でも警察内部では伝説となっている。徹頭徹尾事件への関与を否定する彼女と、捜査員が文字通り死に物狂いで集めた証拠を武器に徹底的な論理構築で彼女を追い詰めようとする榊原。物理的な攻撃を一切伴わない言葉と論理のみによる激しい攻防は熾烈を極めたが、最終的に軍配は榊原の方に上がり、あらゆる方面から畳みかけられる榊原の論理的追及をかわしきれなかった彼女は自供せざるを得ない状況まで追い込まれてしまっていた。
裁判ではその自分勝手な動機や被害者が三人にもなる事などが考慮され、最高裁までもつれ込みはしたものの、一審から三審までの全てで死刑判決が下される事となり、彼女の身柄はそのまま死刑執行設備のある東京拘置所に収監された。それから十年以上。今となっては彼女の名前を知る人間も司法関係者以外ほとんどいなくなっていたが、そんな彼女の死刑が、今になってついに執行されたのだ。明日の新聞には十何年ぶりに彼女の名前が新聞に載るだろうが……おそらく、その扱いは三面記事の一番隅に数行書かれる程度のものだろう。事件から十年以上が経過した今、あれだけの大事件でもそのような扱いをされてしまう事に榊原は哀れを感じるとともに、それこそが彼女に対する最大の罰のようにも感じた。
『執行に立ち会った検察官から話を聞いたが……彼女、執行直前に微笑みを浮かべてやがったらしい。最後の最後まで、反省の言葉はなかったそうだ』
それによると、彼女は刑務官と共に死刑執行所の前にある控室に入ると、軽く身だしなみを整えながらその場に用意されたお菓子などを口に含み、刑務官の差し出した煙草を口にくわえたのだという。死刑執行前の死刑囚には、心を落ち着けるためと刑務官からのはなむけの意味を込めてこのような処置がとられる事が多い。そして、何でも逮捕前は彼女のファンだったという教誨師の僧侶が唱える惜別の読経に送られる形で死刑執行所に入り、目隠しと手錠をされて立会人の検察官や刑務官たちが見守る中(死刑執行は検察官が立ち会う事が刑訴法で規定されている)、刑務官の手でロープの輪の中に首を入れた。立ち会った検察官曰く、彼女が微笑んだのはこの時だったという。それはまるで、逮捕前に舞台に立っていた時に多くの観客たちから称賛の声を受けていた時の彼女の表情にそっくりだったらしい。
だが、それも一瞬だった。死刑執行の合図を出す拘置所の保安課長の腕が振り下ろされると死刑執行のボタンを押す刑務官たちが一斉にボタンを押し(通常、死刑執行は執行する刑務官に罪悪感を抱かせないために、外れが入った複数のボタンを複数の刑務官で一斉に押す形で行われる)、彼女の足元の床が抜けて彼女の微笑みは奈落の底へと消えた。
「……彼女にとって、この死刑執行は人生最後の舞台だったのかもしれない」
『舞台?』
「犯した罪で人から忘れられた自分が主役になれる、最後にして最高の晴れ舞台だと」
『……その舞台は数名の立会人しかおらず、しかも大して報道される事もないのにか?』
「彼女にとっては大切な事だったんだろう。事実、それを手に入れるために……自身の舞台で主役になるために彼女はあの連続殺人を犯した。だから……十数年越しにそれができたからこそ、彼女は微笑んだ。その結果自分が死ぬとわかっていても、だ」
『……私には理解できないな』
「安心しろ。私も同意見だ。それに、これはあくまで私の想像に過ぎない。正解を知ろうにも本人はもうあの世に行ってしまった」
『……お前の想像、というか推理は当たるから洒落にならないんだ。まぁ、いい。とにかく、あの女と直接やりあったお前には、この事を知る義務があると思った。だからこうして連絡した』
「……すまないな」
しばらく些末事を話した後で電話を切る。榊原は事務椅子の背もたれに再度深くもたれかかると大きくため息をついた。
「……何度経験しても、慣れる事はないな」
榊原も元刑事として、そして探偵として多くの人間の犯罪を暴き、そしてその多くが逮捕されていった。その中には死刑囚もおり、その何人かはすでに死刑を執行されている。だが、犯人が死刑を執行されたと聞いても、榊原の心に浮かぶのは達成感ではなく何とも言えない後味の悪さと疲労感である。そして、それはどれだけ繰り返しても絶対に慣れない……否、慣れてはならない感覚だった。
「だが……それでも、これが私の道だ。後悔はない。この道を選んだ以上……これは避けては通れない責務だ」
そして、榊原はぼそりと呟く。
「……探偵として、な」
……それは事件を解決するという『探偵』の『正の側面』も……そしてそれによって犯人の人生や命を奪ったという事実に耐えねばならない『探偵』の『負の側面』もよく知るからこそ出てきた、とても重い言葉だった……。
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