第四十七話 メリーさんの受難
その電話がかかってきたのは、男が自宅で一仕事終えてリビングのソファでホッとしていた時だった。突然机の上に置いておいた携帯電話が鳴り響き、表示には「非通知」の文字。男は訝しげにそれを手に取って耳に当てる。
「もしもし?」
『……』
通じてはいる。が、返事がない。男はいたずら電話かと思って通話を切ろうとしたが、その直前に向こうからこんな声が聞こえてきた。
『私、メリーさん。今、駅の近くにいるの』
「は?」
男は何か言おうとしたが、その前に電話が切れる。男は呆気にとられた表情で携帯電話を見つめていた。
「何なんだ、今のは……」
男は思わずそう呟いていた。いや、今のが何なのかについては理解できる。これはいわゆる都市伝説で有名な「メリーさんの電話」という奴だろう。確か、メリーさんと名乗る少女から何度も電話がかかってきて、その度に彼女のいる位置が段々自分のいる場所に近づいてくる。そして、最後にかかってくる電話でメリーさんは「今、あなたの後ろにいる」と言い、それに対して振り返ってメリーさんを見てしまうと死んでしまう……というような話だったはずだ。
「……馬鹿馬鹿しい」
男はそう言って首を振った。確かに有名な都市伝説ではあるが、そんな都市伝説が現実にあってたまるか。それに今は忙しい。そんなあるのかないのかもわからない都市伝説に付き合っている余裕など正直なかった。男は気を取り直して残っている仕事を続けようとした。
だが、その前に再び携帯が鳴る。表示は非通知。男は無視しようかとも思って着信を切ったが、即座に間髪入れずに再び電話がかかってくる。これではきりがないと考え、やむなく男は電話に出た。
「もしもし?」
『……私、メリーさん。今、××交差点の公衆電話の前にいるの』
「おい、いたずらならいい加減に……」
男は相手に文句を言おうとしたが、その前に電話が切れる。男はどうしたものかと考えたが、その考えがまとまる前に次の着信がかかって来た。少しイラつきながらも電話を取る。
『私、メリーさん。今、コンビニの前にいるの』
「おい、お前……」
電話は切れる。
……その後も、男の電話にメリーさんと名乗る少女からの電話は続いた。
『私、メリーさん、今、大学の前にいるの』
『私、メリーさん。今、公園の前にいるの』
『私、メリーさん。今、公民館の前にいるの』
確かに、電話がかかってくる度に自分の家に近づいてきている。いたずらにしては手が込んでおり、さすがにこの辺りまで来ると男も怒りよりも薄気味悪さが先行するようになっていた。ひょっとしてこれは本物なのではないか……だとすれば、彼女が実際に自分の元に来た時に大変な事になってしまうのではないか……。嫌な想像に少し背筋が凍った所で、再び着信が入った。
『私、メリーさん。今、あなたの家の前にいるの』
男が何か言う前に電話が切れる。男は思わず周囲を見回し、自分以外に動くものが室内にいない事を確認した。咄嗟に近くの壁のインターホンで玄関の様子をカメラで確認する。が、玄関には誰の姿もない。
「……馬鹿馬鹿しい! ただのいたずらだ! こんなもんにビビるなんて、俺も焼が回ったな……」
そう空元気を出しながら部屋の中央に戻ってソファに腰かけた……まさにその時、再び携帯が鳴った。
「っ……!」
男は携帯を取り出し、出るべきかどうか迷う。だが、ここまで来たら出るしかない。男は覚悟を決めて、通話ボタンを押し、唾を飲み込みながら耳に当てた。
「もしもし」
『……』
これまでと違い、電話口から応答はない。やっぱりいたずら電話か何かだったのかと男がわずかな希望にすがろうとした……まさにその瞬間だった。
『私、メリーさん。今、あなたの後ろにいるの』
その言葉に、男は思わずその場でソファから立ち上がって背後を振り返り……そして彼は目撃してしまった。
自分の背後で不気味な笑みを浮かべて立つ少女の姿……それは、まぎれもなく都市伝説の「メリーさん」そのものの姿だった……。
メリーさんは振り返った男に対し、都市伝説通りに何かを言おうとした。本来なら、ここでこの男の命運は尽きたはずだった。
……が、そこでなぜか、メリーさんは言葉を失ってしまった。目の前に立つ標的……男の姿を見て不意にその表情が凍り付き、都市伝説上の存在にもかかわらずどういうわけかその顔に恐怖が浮かんでくる。男はメリーさんの表情を見て、恐れていた事が起こってしまった事を理解していた。
メリーさんは見てしまったのだ。
足元に喉から血を流して事切れている女性がいる前で、着ているワイシャツを返り血で真っ赤に染めながら片手に血みどろの包丁を持っている鬼気迫る表情の男の姿を……。
男は凍り付いたメリーさんに向かって叫んだ。
「見たなぁァァァァァァッ!」
「キャァァァァァァァァッ!」
メリーさんは絶叫した……。
……それから三十分後、男の家にはたくさんの警察関係者がうろつき、床に転がっている女性の遺体の捜査が行われていた。連絡を受けて駆け付けた警視庁刑事部捜査一課の榊原恵一警部補と橋本隆一警部補は、虚ろな視線を虚空に向けている女性に合掌して、所轄の刑事に状況を確認した。
「発見者は巡回中の警察官だそうですね?」
「えぇ。この近くの駐在所の巡査がいつも通りこの付近を自転車でパトロールしていたところ、この家の中から少女と思しき悲鳴が聞こえたため家の中を確認し、この女性の遺体とその傍らで包丁を持ったまま呆然と立っている血まみれの男を発見。その場で男を緊急逮捕しました。男はこの家の住人で、アパレルメーカー係長の
「動機については?」
「何というか、典型的な男女関係のもつれですよ。被害者の藻南静子は川須の愛人だったんですが、川須が勤務先のアパレルメーカーの社長の娘と結婚する事になって、その件で別れ話がもつれた事から犯行に至ったという事です。血まみれの服に指紋つきの包丁など証拠はこれでもかと残っていますので、立件するのは難しくないと思われます」
事件そのものはこう言っては何だが非常に単純なものであるようだった。が、それとは別に、この事件には不可思議な点が残っていた。
「先程の話だと、事件発覚のきっかけはこの家から聞こえた少女の悲鳴という事ですが……」
「それなんですが、事件発覚後この家の中を徹底的に捜索したにもかかわらず、悲鳴を上げたと思しき少女の姿がどこにも見当たらないんです」
その言葉に榊原と橋本は顔を見合わせた。
「被害者の悲鳴と勘違いした可能性はないんですか?」
橋本の指摘に、所轄の刑事は首を振る。
「被害者の死因は喉を一突きにされた事によるものでほぼ即死。喉をやられている以上、悲鳴を上げる事は不可能です」
「という事は、発見当時、この家にはもう一人少女がいた?」
場合によっては誘拐や監禁などの話が絡んでくるだけに、この点ははっきりさせる必要があった。
「肝心の川須はどう言っているんですか?」
榊原の問いに、所轄の刑事は当惑気味に答える。
「それが、支離滅裂というか意味不明というか、わけのわからない事を言っているんです」
「と言うと?」
「何でも、部屋の中にいきなり女の子が現れて、その女の子が血まみれの自分を見て絶叫して消えてしまった、と」
榊原と橋本は一瞬呆気にとられた表情を浮かべた。
「……本気ですか?」
「本人は物凄く真剣な表情でそんな事を言っていましたね。いえ、正直我々も馬鹿馬鹿しい妄言だと思っています。逮捕された時の彼はかなり興奮していて、精神状態がまともだったとは言い難い状況なので」
「しかし、実際に少女の悲鳴が聞こえている以上、放っておくわけにもいかないでしょう」
橋本が苦々しげに言う。
「ですが、散々探しても声の主の姿はありませんし、そもそも実際に少女が監禁なりされていたならそれなりの痕跡が残るはずですが、この家の中にはそうした痕跡さえどこにも見当たらないんです」
「つまり、本人による誘拐や監禁の可能性は限りなく低い、と?」
「現場を見る限りではそう結論付けざるを得ません」
「なら、その少女の悲鳴は何だったんだ?」
橋本は自問自答する。一方、榊原は何事か考えていたようだが、おもむろにこんな事を尋ねた。
「この家の裏手はどうなっていますか?」
「裏手、ですか? 確か、別の家があったはずですが」
「その家は調べましたか?」
「いえ、そこまでは」
「行ってみましょう」
所轄の刑事が何か言う前に榊原は動いていた。橋本が慌ててその後に続く。
「どういう事だ?」
「あれだけ現場を探して何もなかった以上、巡査が聞いたという悲鳴は実は家の中からではなくその隣の周囲の建物から聞こえ、それを巡査が現場から悲鳴が聞こえたと勘違いしたと考えるしかない。とはいえ、両隣の家ならさすがにどこから聞こえたのかはわかるだろうから……」
「家の裏手の建物から聞こえた悲鳴を勘違いした、という事か?」
「しかも状況的に、現場の家と面している窓のある部屋から聞こえたと解釈すべきだ」
裏路地を通って裏手の家に到達すると、そこは空き家と思しき家だった。管理する不動産会社の看板が表にあるが、その周囲も草に覆われて長年放置されているのがよくわかる。榊原と橋本は敷地内に踏み込むと、早速周囲を調べ始めた。
「どうだ?」
「……鍵が開いている」
玄関口の扉をチェックした榊原が実際に扉を開けながら言う。いくら空き家だからと言って鍵の管理は不動産会社が行っているはずであり、それがかかっていない時点で普通ではないのは確かだった。二人は顔を見合わせると、中を確認しながら慎重に家の中に踏み込む。家の中はかなりの年月放置されているらしく、埃まみれで一見すると人の気配はない。だが、二人は油断する事なく室内の捜索を進めて行った。
「誰かいませんか?」
榊原が呼び掛けるが、返事はない。それでも二人は一つ一つ部屋を確認していき、やがて一番奥……すなわち、先程殺人があった川須邸のちょうど裏手に面している部屋の前に到達した。
「これが最後の部屋のようだが……」
そう言ってドアノブに手をかけようとする橋本を、榊原が無言で止めた。
「どうした?」
「部屋の前の床を見ろ」
榊原に言われてそちらを見ると、埃だらけの床にもかかわらず、部屋の前の一角だけが何かに踏み荒らされたように足跡が点在していた。
「これは……」
「……どうやら、この家が空き家になって以降、この部屋に人の出入りがあったようだ」
二人は頷き合うと、足跡を避けるように少し横に移動し、その上で中の様子をうかがう。部屋の中から物音などはしない。それを確認すると、榊原の合図で、橋本が一気にドアを開けて二人同時に室内に踏み込んだ。
「これは……」
その瞬間、二人の顔色が変わる。その部屋は寝室か何かに使われていたと思しき場所だったが、その部屋の真ん中に小学生くらいと思しき少年と少女が倒れているのである。榊原たちは最悪の事態を考えて即座に二人の元に駆け寄ったが、幸い両者とも息はあり、気絶しているだけのようだった。
「しかし、一体なんでこんな所に……」
橋本が不思議そうに呟くと、不意に別の場所を見ていた榊原が橋本に呼びかけた。
「理由はわからんが、二人が気絶した理由はわかった」
「ん?」
その言葉に、橋本は榊原の見ていた方を見やる。そして、その瞬間に橋本はこの場で起こった事を全て悟っていた。
部屋の隅にある古びたベッドの上……そこに汚れた衣服を着た浮浪者と思しき死体が、こちらは明らかに死んでいるとわかる状態で横たわっていたのである……。
直ちに榊原たちの要請で川須邸を捜査していた刑事たちが呼び出され、隣の空き家も大混乱に陥った。倒れていた少年少女の二人組は救急車で病院に搬送されたがやがて目を覚まし、検査の結果身体的な異常は確認できなかったのですぐに警察の事情聴取を受ける事になった。それによると、二人はこの近くの小学校に通う幼馴染同士で、地元の小学生の間からお化け屋敷と呼ばれているあの空き家に肝試し目的で侵入(ただし、暗いのはさすがに嫌だったので休日の真っ昼間から侵入したわけだが)。室内を探検中にあの部屋に入った所、ベッドのシーツの下からあの浮浪者の死体を発見し、そのショックでその場で気絶してしまったのだという。後に警察が作成した公式の捜査記録では、川須邸の殺人が発覚する原因となった少女の悲鳴は、この時遺体を発見した少女が叫んだ悲鳴であると結論付けられる事となり、実際、問題の部屋の川須邸に面した窓は大きく割れていた事から、外に悲鳴が聞こえてもおかしくないと判断される事になった。
だが、榊原たちが眉をひそめたのは、発見された浮浪者の死体がただの自然死ではなかったというのが理由だった。というのも、鑑識の結果、発見された浮浪者は側頭部に打撲痕があり、何者かに鈍器で殴られて殺害された可能性が高いと判定されたのである。これにより、川須邸の事件の捜査を早々と片付けた榊原たちはそのまま空き家の浮浪者殺しの捜査本部に入る事となり、そのままこちらの捜査を行う事となった。
証拠が少ないため捜査は難航するかと思われたが、翌日には近隣に住む浮浪者の証言から被害者の身元が判明(浮浪者仲間からは『ケンさん』と呼ばれていた浮浪者で、後の捜査で本名は
判明した犯人は、近隣の大学に通う
ところが、そうした事情を全く知らなかった被害者の鈴北研一は夜の寒さをしのぐための寝床を得るためにこの家に侵入して二人と遭遇。逢引を見られた道草と才子は反射的に激高して鈴北につかみかかり(裁判で本人たちは否定し裁判所側もそれを認めてはいるが、検察側は自分たちの住居不法侵入を見られた口封じの意味合いもあったのではないかと追及している)、もみ合いになった末に道草が無意識のうちに手近にあった瓦礫で被害者を殴りつけて殺害してしまったのだという。元々小心者だった二人は焦りに焦って死体を現場のベッドに寝かせてシーツをかけるなどといういつ発見されてもおかしくない方法で死体を隠してその場から逃走。その三日後に肝試しで訪れた小学生二人によって死体は発見されるわけだが、そうでなくとも焦っていたためか証拠はこれでもかと残っており、現場からは二人の靴跡や指紋が発見されたほか、道草の住むアパートの近くの花壇からは凶器として使用された瓦礫が道草の指紋と被害者の血痕付きで発見される始末。二人は法廷で互いに互いの責任を擦り付け合う非常に見苦しい姿を見せつけ、かなり重い実刑判決を受ける事になったという。
「……だが、一つすっきりしない事が残った」
……道草と才子を逮捕した直後、捜査本部の片づけが行われている中、榊原が不意にそんな事を呟くのを橋本は聞いていた。
「何だ?」
「例の悲鳴なんだがな……あの小学生の女の子にその辺の事を改めて聞いたんだが、そしたら彼女、気絶した瞬間に悲鳴を上げた覚えはないと言うんだ。本人曰く、シーツをめくって死体を見た瞬間に意識がスウッと遠くなって、その後は何が何だかわからなくなったらしい」
「いや……それは無意識に上げた悲鳴を覚えていないだけじゃないのか? 気絶した瞬間に悲鳴を上げたかどうかなんて大人でも覚えていない事が多いだろうし……」
「あぁ、私もそう思うし、それ以外にあの悲鳴の説明がつかないのも事実だ。他に悲鳴が上がる要素も存在しないし、だから私も報告書にはそう書くつもりでいる。だがなぁ……理屈では納得しているんだが、なぜかわからないがすっきりしない。どうも変な気分だよ」
そう言いながらしきりに首をひねる榊原を、橋本はやや呆れ気味にため息をつきながら見ていたのだった……。
一方、その頃、人知れない場所で、正真正銘のメリーさんは泣いていた。
「グスッ……もうやだぁ……何なのよこれぇ……私なんかより……人間の悪意の方がよっぽど怖いじゃないのよぉ……私がこの仕事をする意味……ないじゃないのよぉ……」
その後、人間の悪意に心を折られたメリーさんが仕事を続けたかどうか……それを知る者は誰もいない……。
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