第四十六話 見られていた男

 田本正親たもとまさちか長壁安馬おさかべやすまを殺害する事になってしまったのは、色々な意味で不運な偶然の積み重ねと言えなくもないものだった。

 きっかけは些細な事だった。年末に京都に出張する事になったはいいものの、その出張先の路上で前からやって来る通行人とすれ違い、その通行人が高校時代の悪友だった長壁だったのが運のつきだった。何でも大学卒業後に京都で就職したそうだが、話しているうちにどういうわけなのかいつの間にか口論になってしまって、悪い事にそこは京都市の中心部にもかかわらず人通りの少ない路地だった事もあり、互いにヒートアップして収拾がつかなくなってしまった。で、反射的に田本が相手を突き飛ばしてしまった結果、長壁はそのまま派手に路上に倒れ込み、その際に打ち所が悪かったのかそのまま帰らぬ人となってしまったのである。まぁ、刑事ドラマだのサスペンスドラマだのではよくありがちな話である(多分、一般人を簡単に犯人にできるから脚本家としてもやりやすいんだろう)。

 だが、ドラマではありがちな話でも、それが現実で起こってしまったとなればたまったものではない。当然、田本は顔を真っ青にして、反射的に辺りを見回した。幸いと言うか何というか、周囲に人影らしい人影は見えず、ひとまず事件を目撃した人間はいないようだった。となれば、一刻も早くここを離れるしかない。幸い、寒かった事もあって田本は手袋をしており、突き飛ばした時の指紋を気にする必要はなかった。

「くそっ」

 田本はそう言うと、踵を返してその場を立ち去った。路地を抜け、そのまま京都の中心部を貫く大通りに合流して人込みに紛れる。現場を離れさえしてしまえば、彼と長壁を繋げる線はなくなるはずだった。大学の同窓生ではあるが、卒業後はさっき偶然出会うまではっきり言って交流はないも同然であり、二人が出会った事を証明できる人間などいるはずがない。事件当時に京都にいた事は怪しまれるかもしれないが、その程度で逮捕できるほど日本の司法制度は甘くないはずだ。目撃者がいない以上、落ち着いてさえいれば、自分に疑いがかかる事はない。田本はそう確信して、小さく深呼吸しながら気持ちを落ち着けようとしたが、やはり初めて人を殺してしまった感触はそうぬぐえるものではなく、心臓は相変わらず走った後の様な鼓動を打っている。

 田本はやむなく手近な喫茶店に入り、ここで一度気持ちを落ち着ける事にした。コーヒーを注文し、出されたコーヒーをゆっくり飲んでいるとようやく気持ちが落ち着いてくる。とにかく、こうなった以上は一刻も早く京都から離れなくてはならない。幸い、出張の用事はすでにすんでいるので後は帰るだけであり、これを飲み終えたらすぐに京都駅に向かって新幹線で帰京しようと決めた。大丈夫、絶対にばれるわけがない。何しろ、あいつと自分を結ぶ線は存在しないのだ。そう何度も心の中で繰り返し、田本はもう一度コーヒーカップを口元に運ぼうとした。

 と、その時だった。突然、何人かのスーツの男たちが喫茶店の中に入って来て、店内を見回し始めた。何事かと思っていると、男の一人の視線が田本の所で止まる。そして、その瞬間、男たちは険しい表情で田本のいる席に押しかけて来たではないか。何が起こったのかわからず呆然としている田本に対し、男たちの一人が話しかける。

「京都府警刑事部捜査一課の中村だ。くつろいでいるところ悪いが、お前に殺人の容疑がかかっている。おとなしく同行してもらおうか」

 それを聞いた瞬間、田本はコーヒーを跳ね飛ばしながら反射的にその場に立ち上がろうとした。が、それを逃げようとしていると解釈したのか、後ろに控えていた刑事たちが一斉に田本に飛びかかり、その場に田本を組み伏せた。

「おとなしくしろ! お前がすぐそこの裏路地で男を突き飛ばして殺した事はわかっている! 抵抗するなら、こちらも容赦はしない!」

「な……何で……何でこんな早く……」

 思わず田本の口からそんな言葉が漏れ出る。事実上の自白に近い発言だったが、田本にとってはそれどころではなかった。

 いくらなんでも早過ぎである。田本が長壁を殺してからまだ三十分も経っていない。仮にあそこから逃げてすぐに遺体が見つかったとしても、現行犯でない以上はそこから鑑識だの初動捜査だので一日程度はかかるはずであり、おまけにあの死に方では殺人か事故かを判断するにもそれなりの時間はかかるはずだ。にもかかわらず一時間もしないうちに殺人と断定して、あまつさえ京都市にいる何百万人もの人間から自分が犯人だと特定するなんて、あまりにも早すぎると言わざるを得なかった。

 が、その疑問に答えたのは中村と名乗った刑事だった。

「残念だったな。うまく誰も見られずに逃げられたと思ったんだろうが……お前の犯行を最初から最後まで見ていた目撃者がいたんだよ! その目撃者はお前が路上で被害者を突き飛ばして殺害し、その後現場から逃走したところまでしっかり見ていたんだ!」

 田本の顔に驚愕の表情が浮かぶ。が、中村の言葉はさらに続いた。

「しかもその目撃者はお前が現場から逃げた後この喫茶店に入ったところまでしっかりと見ていた。我々はその目撃者の通報でこうしてここにやって来たというわけだ」

「も、目撃者!?」

 田本はその言葉を受け止められずにいた。あの場所に目撃者なんか絶対にいなかったはずだ。犯行後に周囲を確認して誰もいない事をちゃんと確認したし、百歩譲って誰かいたとしてもそれを見逃すほど田本も馬鹿ではない。それに、今の話ではその目撃者とやらは自分がこの喫茶店に入るところまでしっかりと見ていたようだが、そうなると確実に自分を尾行していたはずで、そんな人間がいなかった事を田本は確信していた。何しろ殺人直後だったもので逃走した後も無意識に周囲を警戒していたのだ。自分を尾行するような人間がいたら間違いなく気付いたはずだ。だからこそ、田本は目撃者がいたという事実をにわかには信じられずにいた。

 だが、そんな田本の表情から彼の混乱の理由を悟った中村は、不意に声のトーンを落としてこう言った。

「まぁ正直、お前には同情するよ。何しろ……あまりにも運が悪すぎる話だからな」

 そう言いながら、中村は喫茶店の窓の外からある場所へ視線を向けた。それを見た瞬間、田本はその目撃者とやらがどこから自分の犯行を目撃していたのかを完璧に理解し、そしてあまりの運のなさに顔を喫茶店の床に押し付けて嗚咽を漏らし始めたのだった……。


「……そうですか、無事に逮捕できましたか。いえ、お役に立てたなら光栄です。しかしまぁ、運の悪い犯人もいたものですね。では、また後で」

 そう言うと、品川に事務所を開業する私立探偵・榊原恵一は携帯電話を切り、傍らにいる自称助手の少女・深町瑞穂に声をかけた。

「もういいよ。中村警部から連絡があって、犯人は無事に逮捕されたそうだ」

「言われなくてもわかっていますよ。だって、今まさにパトカーに連行されていく姿が見えていますから」

 瑞穂は何とも複雑そうな口調でそう答えた。それに苦笑しながら、榊原はこう続ける。

「しかし、犯人もまさかこんな所から殺人を目撃されるだなんて夢にも思っていなかっただろうね」

「冗談じゃありませんよ。せっかく先生の依頼が終わって京都観光できると思ったら、いきなり人が人を突き飛ばす光景を見る事になるなんて……」

「でもまぁ、一応観光にはなっているんじゃないか? 私も何度か京都に足を運んだことはあるが、ここに来るのは初めてだしね」

 そう言いながら、榊原は自分が今いる場所……すなわち、京都タワー大展望台を見回しながら告げた。

 その日、ある依頼で京都を訪れたこの探偵師弟コンビは、依頼が終わってから少し時間があったので、瑞穂の発案でこうして駅前の京都タワーに登る事になっていた。景観条例だの高さ制限だので市内で一番高い建造物である京都タワーの大展望台から見る景色は絶景で、テンションが上がった瑞穂はこの手の展望台によく設置されている望遠鏡で市内を見ようとしたのだ。……まさか覗いた瞬間に、たまたまレンズを向けた先で通行人の男が別の男を突き飛ばす場面を目撃する事になろうとは、さすがの瑞穂にとっても予想外の出来事ではあったが。

 さっきも言ったように、高さ制限だのなんだので京都タワー以外の市内の建物は軒並み低い事から遮るものがあまり存在せず、その結果場所によっては裏路地まで京都タワーの望遠鏡ではっきり見えてしまう状態だったのが田本にとっては最大の不運だった。田本が周囲をいくら見回しても目撃者がいなかったのは当たり前で、目撃者がいたのは何百メートルも離れたタワーのてっぺんだったのである。これでは気付かないのは当たり前だ。

 で、事件を目撃した瑞穂はすぐに榊原にその事を伝え、瑞穂が望遠鏡で田本の姿を追いかけている間に榊原が携帯で警察に通報。そのまま犯人の特徴やどこへ向かったかなどの情報が逐一警察に送られ、事件発生からわずか三十分でのスピード逮捕につながったというわけだった。

「まさに、壁に耳あり障子に目あり……と言うのはいささか乱暴か。この場合は『障子』じゃなくて『天空に目あり』と言うべきなんだろうが……何にせよ、悪い事はできないものだな」

「まぁ、それはいいんですけど……この後どうなるんですか?」

「当然、君は重要な目撃者だからね。この後京都府警本部に直行して調書を取る事になると思う。まぁ、帰るのは明日になるだろうね」

「ですよねぇ……。素直に駅で待っておいたらよかったって、ちょっと後悔している私がいます」

「まぁまぁ。君が観光しようと言いださなかったら、一つの事件が迷宮入りしていたかもしれないんだ。それを阻止した事は充分誇っていいと思うがね」

「まぁ、そうですけど……はぁ……」

 広大な京都市の景色を背景に瑞穂が深いため息をつくのを、榊原は苦笑しながら見ていたのだった……。

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