幽気《ゆげ》 朝風呂

青空一星

日の差したる浴場

硬い床から起きる。カーテンを閉め切っているから何時か分からない。


昨日の分の風呂に入ろう。


ガララと軽快に鳴らして浴室全体を見遣ると、窓からは薄く光が差して、壁も床も冷気を放ちながら出迎えてきた。


足を落とすと想定通りの寒気が足裏から通った。スピンドルを回して冷水を垂れ流す。


最近は寒いからすぐに湯は出ない。手を当てて温かな湯を待った。火傷しそうなほどの冷たさで指先の感覚が無くなってくる。


数秒経って湯が出始め、指先の痛みが鈍くなるとシャワーフックに固定し、手で牽制しながら背を向けた。


湯が肌に当たると途端に湯気を出して体を包み込むように広がった。そして心細げに生まれた湯気が勢いを増し、浴室に充満していく。


視界に映るもの全てが見えづらく、等しく靄がかかっているようだ。物珍しくて自然と口角が上がる。


熱湯は寝惚けた体に優しく感じて心地良い気分だ。完全に体を起こさないように伸ばしつつ、束の間の安息に浸った。


今日も生活があるし、ゆっくりと風呂には浸かれない。その分、長めにシャワーを浴びて心をリフレッシュさせたい。


湯気の元々は液体で、冷たい中に熱いのが急に現れるから湯気になる。他にも水は氷みたいな固体にもなれる。小学生の頃習った状態変化の循環、水はきっとどんな物にもなれるんだと思っていた。


惚けた視界に映るのは惚けた浴室の光景、あそこに置いてあったものは何だったかな?思い出すためにわざわざ頭を働かせない。今はこの惚けた世界を堪能したい。なのに確かに映る物があった。自分の腕だ。


何の脈絡も無くそうだと分かったのは自分だから?

否、近いからだ。


遠ざけるにも限度がある。限度いっぱいまで伸ばしても、遠ざけようと奮闘する自分の腕が見えて駄目だった。


ここは今自分だけの世界なんだ。なんでそれを自分に邪魔されなくてはいけないのだろう。


不意に現実に戻りそうになる意識を、視線を持ち上げることによって回避した。


漂う湯気は確たる自分を持っていないようで羨ましい。自由に知能も無くふわふわふわふわと浮かんでいる。


自分は固まった肉体を持っている。お前等みたいに変幻自在にはなれない。恨めしく睨んでも掴み所も無く全て躱される。


固い質量のある腕に筋を通し、確たる意志を以て指を動かし、湯気を掴む。そう、掴み所など無いから無駄なことだ。


あぁ、お前等みたいに自分もなれたらな。

はぁと息を漏らす。すると自分の口からも湯気が出た。


そうだ自分みたいな人間にも液体が通っているじゃないか。つまり完全にとはいかなくても形を変えることができる?


馬鹿馬鹿しい、止めだ。純度100%でなくて何の意味があるというのか、くだらない。


でも、そうだな。ここには自分しかいない。他の意見なんて要らない世界じゃないか。なら、くだらないことでも良いのか…


スゥーーー


息を深く深く吸い込む。湯気を体内に取り込んで自分の中の湯気の成分比率を上げる。そして自分の中の人間成分を吐き出す。びちゃびちゃと音を立てて排水溝に呑まれていく。これで更に湯気の成分比率が上がった。


スゥーーー


びちゃ


スゥーーー


びちゃびちゃボタ


スゥーーー


ボタボタ…ぴちゃ


自分はもう人間ではなく、湯気だ。何にでもなれる水だ。何者にも縛られない自由だ!


わはははと笑った。音を通す気管なんて物はない。


優雅に空中を舞う。ヒタヒタなんて床に這う肉からの声は聞こえない。


空気中にあるのだから浴室の全て余すことなく把握できる。人形の肉なんて見えない。


ああ…もう十分だ。


はぁ、とため息をつく。肺から気管を通った二酸化炭素が空気中へ押しやられる。


重い足を上げる。質量のある固体の、人間の、自分の足。


扉に手をかける。飽きるほど見た自分の腕。


ガラッ


湯気が浴室から逃げ出す。確たる世界が広がっている。まだ溜まってうらめしそうにこちらを見る湯気達を見て何も感じない。体にしがみつく水を取り払って、ドライヤーで根絶やしにしてから肉体に布を被せる。


自分の体はここにある。外へ出た。口からはまだ出切っていなかったのか湯気が零れてくる。フゥ、と浅く吐いた。


さぁ、今日も確かにある自分で生きよう、自分にはそれが似合っている。

自分の足でコンクリートへ踏み出した

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