10.新しい娘たち
姉の育休が明け、復帰すぐの職務が『チヌーク一般市民搭乗体験』にて、操縦パイロットを務めることと決定したようだった。
館野三佐がどう提案して事を運んだのかわからないが、あの時彼が言ったとおりに『ママパイロット、育休から復帰フライト』というコンセプトも付けられていたとのこと。
「それで、特別招待枠で、うちの家族をということで……。三人どうぞと言われたんだ」
この日、姉は久しぶりに制服を着込んで、『地本さんに呼ばれた』と言って市内にある『自衛隊地方協力本部』へと出掛けていったのだ。そこで『広報の一環として、ママパイロットの紹介も兼ねている』とのことで、姉に白羽の矢が立ったことを聞かされて帰ってきたところだった。
そこで地本のお偉いさんが『ご家族もどうぞ』と三名までの搭乗を用意してくれたとのこと。
帰宅してきた姉は、神楽家ではなく、妹が過ごしている小柳家へと帰宅すると、キッチンで夕食の準備をしている柚希と芹菜義母に声をかけてそう報告してくれたのだ。
凜々しい紫紺の制服を着ている姉が、そろって驚いている嫁と姑へと視線を向ける。特に、芹菜義母へと優しく滲ませた目線を向けていたのだ。
「芹菜ママ、私が操縦するチヌークに搭乗してくれますよね」
芹菜義母は茫然としていた。そしてすぐ隣の柚希を見て、おろおろしている。
「えっっと、あの、自衛隊に行って、乗せてくれるってことよね?」
「そうです。北海道の皆さんに乗ってもらう企画です。習志野から私が操縦していた機体がやってくるそうなので。復帰を兼ねて操縦して欲しいとの指名をいただけたんです。あ、そのまえに、操縦の勘を取り戻すために何回か訓練飛行をする予定ですけれどね。ママパイロットも育休明けても働いています――という広報も兼ねているそうです。ですから安心して乗って欲しいです」
「……でも、私、足……」
「いえいえ、ママ。チヌークの大きさも機内も、もう存分にご存じでしょう。あんなに乗り物雑誌を買い込んで、勉強してくれていたじゃないですか。いつか乗ってみたいって言っていたでしょう。チヌークの大きさも座席の広さも知っているでしょう。ちゃんと乗れますよ」
わかっているけれど、芹菜義母は戸惑っているばかりだった。ユズちゃんどうしよう……ではなくて、『私なんて』という顔だと柚希は気がつく。久しぶりに見た義母の顔だった。車椅子に乗って、息子の付き添いでやっと外出ができる、出会った頃に見せていたなにもかも諦めていた芹菜さんのお顔だった。
義母が怖じ気づいている。そこに『搭乗して私のせいでなにかあったらどうしよう。モモちゃんに迷惑がかかっちゃう』と案じていることが通じてくる。自分は『お荷物』というあの頃の精神がぶり返しているのだ。
そんな義母に柚希ははっきり告げる。
「行きましょう、お義母さん。私と広海君も一緒にいれば大丈夫ですよ。それに姉は百戦錬磨の婦人自衛官ですよ。トラブル起こればこそ、動ける訓練をたくさんしているんですから!」
「そうですよ。ママ。私、芹菜ママを空に連れて行きたい。ママ、一緒に大空に行こう。育休を手伝ってくれた御礼をさせて。ううん、私の新しいお母さんに、見てほしいの。私がパイロットとして頑張るところを!」
示し合わせたわけではない。でもここは姉妹か、柚希と百花姉は声を揃える。
「芹菜ママはもう、私のお母さんなんだから」
「芹菜さんはもう、私とモモ姉の母親なんですよ」
揃って姉妹で驚いて顔を見合わせたほどだった。
仰天している姉妹を見て、芹菜義母も目を瞠っておののいている。
しかし、そのあとすぐ、表情を和らげて笑い出したのは芹菜義母だった。
「女の子ふたりの声が揃って、びっくりしちゃった。すごくかわいいの!」
いやいやもう、三十過ぎた姉妹ですけど、かわいいって――と柚希は思ったが、なんと姉の百花はちょっと照れたようにして嬉しそうに微笑んでいた。『かわいい』と言われたのがちょっと嬉しかったよう?
さらに、そうして笑い出した義母なのに、今度は目を潤ませ光る涙を浮かべている。
「娘がほしかった、いたら、どう楽しかったのかなって……。事故に遭った後、家でどこにもでかけられず、車椅子生活の日々で。ひとりで留守番をしている時に思い描いては、泣いていたの。広海にも弟とか妹とか一緒にいられるようにしてあげていたら……、あの子ひとりに、こんな苦労はさせなかったのにって。なのに、いまは……、ユズちゃんがいてくれて、かっこいいモモちゃんがいてくれて……。そんな私が、あのチヌークに乗れるの? ねえ、ほんとうに乗っていいの? 信じられない、私にそんなことが起きてるだなんて。かわいい姉妹の娘が出来て、一緒に空へ行けるだなんて……」
そこで芹菜義母は堰を切ったように、涙を蕩々と流しながら嗚咽を漏らしたのだ。もう感動しきりで、喜びの許容範囲を超えて感情コントロールができなくなって号泣しているようだった。
「お義母さん……」
「芹菜ママ、泣かないで――」
柚希と百花姉はともに、華奢な芹菜義母を囲んで抱きしめた。
制服姿の姉もちょっぴり涙ぐんでいる。
「搭乗は、北国がいちばん爽やかな九月だよ。ママ、楽しみに待っていて」
「う、うん。楽しみ。モモちゃんのパイロット姿と撮影、一緒にしてね」
「もちろんだよ、ママ」
芹菜義母が、自衛官の制服へと頬をもたれて泣き崩れるのを、また百花姉がしっかり笑顔で抱きしめている。
義母は娘が欲しかったが姉妹との出会いでそれを叶え、姉妹は母を若くして失ったが、家族が縁を結んだことで再度母性を得られた。そんな気もちになれるいまだった。
女三人で感極まって何度もぐずぐず泣き合っていると、颯爽としたスーツ姿の広海が帰宅してきた。
リビングのドアを開けるなり、キッチンの入り口、ダイニングテーブルのそばで女三人抱きあって涙ぐんでいるので、ギョッとした顔をしている。
「え、なに。なにかあった? え? 百花義姉さん、制服だし――」
女三人で顔を見合わせ、揃って目尻の涙を拭って笑い合う。
夫には柚希から報告する。
「聞いて、広海君。あのね――」
姉の操縦で、『みんなで空に行こう!』。
柚希の報告に、広海も仰天し、でも、母親がどうして涙ぐんでいるのかもすぐに察したようだった。
彼がいつものように、優しい眼差しで母親へと歩み寄り、寄り添った。
「母さん、良かったな! ずっと言っていただろう? 自衛隊に行ってみたい、チヌークに乗ってみたいって。しかも百花義姉さんの操縦だなんて、凄いことじゃないか!」
「そうなのよ! 広海も一緒に来てくれるでしょう」
「もちろん。俺だって乗ってみたかったんだ。しかも自慢の義姉さんの操縦だろう。千歳と伊万里君に伝えたら羨ましがられるよ絶対!」
荻野の姉弟がなかなか経験できないことが俺の自慢――と、広海が得意そうな顔になった。
義弟に『自慢のお姉さん』と言われた百花姉も嬉しそうで、柚希も顔がほころぶばかり。
制服の姉を囲んで、小柳の義母と若夫妻と賑わう中、ベビーベッドで眠っていた一路も目覚めてさらに賑やかに。
この幸せな和のまま、このまま、空に持っていきたい。
柚希はこの和がいつまでも続くことを、その時にさらに願いたいと心に決めた、この時――。
◇・・・
その土地の『良い気候の季節』はそれぞれかもしれない。
北国では九月がそれなのではと柚希はよく思っている。
あれからずっとわくわくして待ちわびた日がついにやってくる。
芹菜義母も前もって体調を整えることに神経を尖らせていたほどで、今日は万全の態勢でおでかけの準備を終えていた。
広海と柚希も準備を終えて、芹菜義母に付き添い、出発をする。
でかける時に、父の勝が見送ってくれた。
「芹菜さん。楽しんできてくださいね。今日は館野も受け入れで待機してくれているとのことなので、安心してくださいね」
「まあ、館野三佐自ら? それなら安心ね」
「この広報飛行観覧を終えると、百花は一度、丘珠駐屯地航空隊の配属で職務復帰をするので、育休中の御礼をママにするんだとはりきっていましたよ。私はチヌークは何度も乗ったことがあるので、今日は広海君と柚希と遠慮なく楽しんできてくださいね」
父は招待枠の中に入れなかったので芹菜義母が気にしていたのだが。そもそも、仕事で嫌というほど航空機からロープなどで降下してきた元レンジャーの父だ。『もういい、充分』という父の言葉に、芹菜義母もそれならばと気負いなく出掛ける準備を整えられた。
父に見送られ、柚希は夫の広海と一緒に芹菜義母をサポートしながら車に乗り込む。
「なにも起きませんように……。お父さんも一緒に行きましょうね。私たちの新しい娘なのよ」
今日、芹菜義母の胸には事故の時に他界してしまった小柳義夫の写真が忍ばせてある。そう呟きながら、芹菜義母自身は義足と切断された足とのつなぎ目を何度もさすっていた。
今日は痛くなりませんように。疲れませんように。モモちゃんに迷惑かけませんように。モモちゃんの操縦になにごとも起きませんように。そして、お父さん。一緒に行きましょうね――。そう呟いている義母をそっとして、運転席には息子の広海がハンドルを握って発進をしようとしていた。
助手席にいる柚希は、そんな夫をちょっと案じて見つめている。母親の独り言に、彼が胸を熱くして目頭も熱くしているのがわかるほどだった。
柚希も夫・広海の苦労を思う。
新卒という若い年頃に、両親が事故に遭い、自分たちを一番に守ってくれていた父親を失った。優しく息子を包み込んできた母は片足を失い車椅子生活になった。母ひとり子ひとり、広海が小柳家を支えてきたのだろう。彼の二十代はそんな日々だったはず。
柚希と元レンジャーだった父・勝に出会って新しく家族になり、芹菜義母と広海の生活は一変する。繋がった新しい親族には、レンジャー教官だった父を
『あんな大きなヘリコプターを空に持ち上げちゃうって凄い。モモちゃんがそれをするのよ。ほんと凄い!』
自分のことのようにはしゃいで、喜んで、夢見心地にヘリコプターパイロットの女の子になったような顔で、思い馳せている芹菜義母はほんとうに少女のようだった。
だが時に『私も違う生き方、もっとできたのかな』なんて呟くこともある。きっと深窓のお嬢様のような生活だった義母にしてみれば、百花姉の生き方は正反対なのだろう。少し羨ましそうだった。
そう思っていたら、憧れの対象ともなりそうだった百花姉が逆に『芹菜ママみたいに女の子らしくなれない』という沼に落ちてもがき始める。
その時にきっと『私は私、モモちゃんはモモちゃん』と思えたのではないのだろうか。姉の産休育休期間を見守ってきた柚希は、振りかえるとそのように感じているのだ。
でもこの期間中、芹菜さんには娘はひとり増えたとも言えるのでは。しかも柚希と百花という姉妹で。
今日はその娘が、ママを空に連れて行ってくれる。
ワクワクするのと同時に、芹菜義母は……。
事故で失った足、突然に逝ってしまった夫の写真。交互に確かめている義母を見ている柚希は『今日は芹菜さんがほんとうに抜け出す日になるのでは』と思えて仕方がないのだ。
それは夫の広海もだ。見送った父、支えてきた母、ひとり奮闘してきた息子。もう重苦しい哀しみに沈んだ日々は遠くなるのだと実感できるかもしれない。柚希は願う。
そして自分はそんなふたりの『妻、嫁』としてそばにいたいと、決意を新たにしている。
広海が運転する車は丘珠駐屯地と併設している丘珠空港へと向かっていく。
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