4.自衛官を守るのは……


 夫も仕事から帰ってきたばかりなのか、スリーピースのスーツを着たままだった。

 涼やかな彼がキッチンに現れると、夫と妻で熱い討論を繰り広げられていたそこがすっと落ち着いたように柚希には見えた。胸元に抱いていた甥っ子も、いつのまにか静かになって柚希に話しかけるようにふんふんと小さな言葉を発してご機嫌なお目覚めに変わっていた。


「すみません。俺もいま帰ってきたばかりだったんですが、柚希がなかなか戻ってこいないので、様子見に来たら聞こえてしまいました」


 柚希がうっかり遭遇してしまった時のように広海にも目撃されてしまい、また百花姉と心路義兄が目をそらすようにうつむいた。


 荻野製菓本店で店長だった時のまま、夫の広海は穏やかに微笑みながら、乳児の世話でやつれた姿になっている姉に向き合う。


「百花お姉さんは、本心はパイロットを続けたいんですよね」


 自衛隊では制服に迷彩作業服を着込んだ男性にばかり囲まれているせいか、スーツを着こなしている男性には少し気後れをした顔を姉が見せる。


「もちろん……。女身でここまでやってきたんだ。私の誇りでもある。でも息子とどっちを取るかを言われたら、息子を取る」

「それは、いま、選ぶことじゃないと俺は思います。いざという時、百花さんは一路君を選ぶことができる。それがわかったのだから、いまはそれでいいではないですか」


 柚希もだが、百花姉も心路義兄もきょとんとしていた。

 ヘリコプターパイロットを辞めなくてもいい――。それに対する広海の説得は『一路君が大事とわかっただけでいいじゃないですか』だけだった。


 一気に涙を放出させていた姉も、またもや一気に涙が乾いたようだった。首を傾げて、義弟の広海へと訝しげな眼差しを向け真顔で問い返す。


「えっと、広海君。だから私は一路が大事だから、いま辞めたほうがいいと思ったんだよね。いざというときじゃ遅くない?」

「いざという時になってから、パイロットを辞めればいいと言っているんですけれど」

「災害や有事が起きたときにってこと?」

「それが例えのケースであるなら、そうですね」

「出動を断れってこと?」

「前もって、そのケースについて上官と取り決めていなければ、放り投げるしかないですよね。でもその時になれば、無責任でも子供を選ぶ母親になる、という覚悟を決めることができたんですよね」

「いや、その時に無責任に放り出すのが嫌だから、そうなる前にいま辞めるって……」

「――『その時』までに、回避ができる時間がいまはまだありますよね。『前もって』が抜けていると俺は感じましたけど」


 広海の言葉に、百花姉と心路義兄が顔を見合わせる。ふたりとも、またもや目が覚めたかのように茫然としていた。


「そうだ、モモさん! 広海君の言うとおりだ。『前もって』が抜けているよ!」

「私も思い詰めすぎていて、そんなことも考え及んでいなかった。バカだ!」


 姉が頭を抱え、ショートヘアの黒髪をくしゃくしゃとかき乱した。


「辞める覚悟は、その状況になる時に決断すればいいのに。そうだよ。私、いざとなったらパイロットより一路を選ぶ。それは決定事項だ。心路を送り出しても、私が家庭を守る側に回る。でもその状況になったときのための、あらゆるケースを想定した『準備』も必要だったんだ」


 やっと姉らしい冷静さが戻って来たように柚希には見えた。

 姉の視界が開けたことに、広海もほっと表情を緩めたのがわかる。


「自衛隊だって、せっかく技能を習得して経験を積んだ隊員をひとり失うのは損失なんじゃないですか。いまは入隊する若手も減っているんですよね? それならば余計に貴重な人材だと思うんです。他の隊員と兼ね合いを摺り合わせて、どのようなケースなら百花さんが一路君を置いて出動できるか、または一路君を優先して家庭を守る側に回れるかを決めておくべきだと思います」


 淡々と進言をする広海に、まだ廊下の影に甥っ子だっこのままで隠れている柚希も視界が開ける思いだった。

『モモ姉ちゃんが思い詰めちゃってる。なんとかしなくちゃ』とやつれた姉の姿に右往左往していて、結局、夫の心路義兄も、妹の柚希も、おなじように狼狽えて視野が狭まっていたことになる。

 広海は妹の夫という、一歩引いた立ち位置になるからまだ落ち着いた所見が打ち出せたのかもしれない。


 さらに広海は、彼だからこそ見えていた訳も話し始める。


「生意気言いますが……。自分が勤めている荻野製菓では女性が会長で、後継者も孫娘と決まっているせいか、女性優位での環境が他社より整っていると感じています。女性が結婚、出産、育児とステップしていく過程でも、どのように働いていけるかということは手厚く保証していける試みをしています。自衛隊で女性がどこまで融通をきかせてもらえるかは、民間企業にいる俺にはわからないのですけれど。同じように男性社会の組織でも定着してくれたらいいなと……。女性自衛官の義姉を持った義弟として願っています」


 今日は黒のスリーピースのスーツを凜々しく着込んでいる夫が、いつも以上に頼もしく見える。彼が働く女性のことを思いやれるのは、荻野製菓で跡取り娘の千歳お嬢様と同期であること、また、いま現在、お嬢様の父親である遥万社長の秘書をしているから、女性優位の会社づくりにさらに意識を傾けているからなのだと思えた。


 姉もそんな義弟の気遣いが心の奥まで響いたのか、またぐずぐずと鼻をすするほどに泣き始めた。

 今度の涙は、心の縛りが解けた安堵の涙だと柚希は感じる。


「ありがとう、広海君……。もっと、はやく、……皆に私の気持ちを話せばよかった……」

「いいえ。柚希から聞いていましたから。お姉さんは責任感が強くて、いつも人を守る側の人。自衛官にぴったりな人なんだと。部隊でも他の女性隊員を守るために奔走することもあったそうですね。でも……。だったら、お姉さんが弱った時は誰が守ってくれるんですか。心路さんのことも同じです。俺はそれこそ、自分を含めた『家族』だと思っています。特に、自衛官の方と家族になってから強く感じるようになりました」


 民間企業勤めの義弟にそこまで言われ、姉の百花と心路義兄がそろって胸を強く打たれたかのように、感涙の顔をそろえているが見えた。


 柚希もだった。妻の家族を大事に想ってくれている言葉に涙が滲んでくる。


「俺、そんな百花さんと心路兄さんのこと。どこにいても守りたい、力を貸したい。一路君のためなら、できることはしたいと考えていますよ。どちらも自衛官のご夫妻です。おふたりが仕事でお子さんになにもできないことがあるならば。そこはお姉さん夫妻の義務だけではなく、俺と柚希も、もちろん俺の母も、全力でサポートしますよ。その時は遠慮してほしくない。それを……。最近の百花さんを見ていて、伝えたいなと思っていました」


 また姉が。あの姉が、義弟の言葉に今度は声を漏らして思いっきり泣いている。そんなモモ姉を、制服姿の心路兄ちゃんがそばに来て優しく抱きしめている。

 心路義兄が妻を抱きしめながら、彼も涙目でスーツ姿の広海へと微笑みかける。


「ありがとう、広海君。俺もいま、先輩たちがよく言っていたことを思い出したよ。自衛官を後ろで守っているのは『家族』だって。自分たち夫妻は、どちらかが家に残って守るということができない時もあるかもしれない。だから、広海君の言葉、すごく嬉しいよ。妻と抱えていた不安が軽くなった。お言葉に甘えて、これからはなんでも相談させてもらうから」


 夫の胸の中では、か弱い女性になる百花姉がぼろぼろに泣いている。こんな時は年下の夫でも、心路義兄が頼もしい男として守る姿にも柚希は感動……。

 さらに、広海もちょっと照れ笑いをしつつ義兄に語り出す。


「偉そうなこと言ったんだけど。家族になったから――とは、ちょっと違うんですよね。なんていうか。障害者である母ひとり、息子ひとりでひっそりと暮らしていたところ、元レンジャーのお義父さんにぐいぐい連れ出されたとたんに、世界がくるりと変わったといいましょうか。同僚で距離があった後輩の柚希とも、そのおかげで良い結婚ができて、母との関係も良好。こんな賑やかで毎日が楽しい新しい家と家族ができて。頼もしい元自衛官のお義父さん、現役自衛官のかっこいいお姉さんと、男ならすげえと尊敬しかない第一空挺団のお兄さんができちゃって……」


 今度は広海が辛い時を思い出したのか、物憂げに眼差しを伏せる。


「ほんとうに。母とふたり。結婚もせず、なんとかふたりで生きていこうと、あの時こそ、俺も母も世界が狭まっていたんです。それを勝お義父さんと柚希が連れ出してくれた。母はいまでも嬉しそうに思い出話をするんです。小樽のトラットリアで偶然出会ったお義父さんと柚希とシェアするランチをしたこと。そのあと水族館まで連れて行ってくれたこと。あの時、ふたりは母のことを、両足が揃っていたころの母のままに接してくれたんです。元自衛官のお義父さんの身軽な行動力、明るさ。母と共に恩を感じているんです。だから今度は俺と母が、自衛官の家族として力になりたいです」


 それが今日、広海が姉夫妻の言い合いに遭遇して意を決して間に入った訳でもあったようだった。


「柚希。こっちおいで」


 甥っ子をだっこしたまま影で伺っていた柚希へと、広海が声をかけてきた。


 姉夫妻もそこに妹と息子がいるとわかっていても、そっとしてくれていると承知してそのままにしていた。でも、夫の広海が姉夫妻の心を解きほぐしてくれ、姉たちも落ち着いたようなので、柚希も再度キッチンへと足を踏み入れる。


 一路をだっこしたまま、夫の広海の横へと柚希も寄り添う。

 黒のスリーピースのスーツの彼が、そのまま柚希の肩を抱き寄せた。


「百花姉さん、心路兄さん。一路君をいつでも俺と柚希のこの家で預かりますから。長期でもOKです。まだ子供はいませんけれど、もし、俺と柚希に子供ができても、その後も一路君も我が子同様に大事に預かります。パパとママが遠くで働いていても、俺と柚希がきちんとお父さんお母さんの愛情も大変さも伝えていきます。一緒に育てていきましょう。お二人だけで頑張らなくても大丈夫ですよ」


 それが夫の『自衛官の家族になる覚悟』であって『恩返し』でもあるんだと柚希は初めて知った。

 そんなことは話し合ったことはない。姉の子供を預かるなんて安請け合い、本来なら軽々しく言えるものではない。それでも。話し合っていなくても、柚希も広海が言っていることには賛成でおなじ心境だった。


 彼が柚希と気もちが通じ合ったように抱き寄せてくれるまま。甥っ子の一路をしっかりと抱きしめて柚希も伝える。


「お姉ちゃん。一大事のときには、私と広海君にも任せて。一路のこと、私も守るよ。自分の子と一緒に守る」


 いちばん信頼してくれているだろう妹からの言葉に、姉がまた泣き崩れたが……。最後は椅子から立ち上がって、嬉しそうに柚希のところへと来てくれる。


 柚希の胸元で指しゃぶりをして大人しくしている一路と、百花姉の目線が合った。百花姉が手を伸ばすと、するりと一路はママの胸へと行ってしまった。やっぱりママがいちばんだよねと柚希もほっとして、甥っ子を受け渡す。


「柚希、広海君。ありがとう。ギリギリまでやるよ。パイロット。遠慮せずに甘えられる時は甘える。またお国を護るため、がむしゃらに行くよ」


 やっと姉らしいかっこいい笑顔を見せてくれた。愛おしく抱きしめた息子のほっぺにキスをして笑っている。そんな時の姉は、女性らしいママさんの麗しさも見せてくれるようになっている。


 明るくなった姉夫妻が一路を挟んで幸せそうな姿も見せてくれる。

 柚希も夫に感謝しながら、広海と笑顔で視線を合わせた。

 ほんとうに素敵な旦那様で、自分も幸せだな~と胸が熱くなって感動していたのだが――。グズグズとした妙な音が聞こえてきた。

 今度は玄関側の廊下、ドアからだった。

 柚希だけじゃない。広海も、百花姉も、心路義兄も、揃って音が聞こえるほうへと視線を向けていた。


 そこから現れたのは、ぐしゃぐしゃな顔になって泣いている父のまさるだった。


「ぶああ~。だめだ~。聞こえちゃったかー。だってさ、帰ってきたら、広海君がすんごい嬉しいことを~。元気なかったモモに~。そんなふうに、自衛官の娘と婿のこと想ってくれていただなんてさーーーー!!」


 玄関から帰宅したところで、娘たちと婿たちの絆が結ばれる話し合いを目撃して涙腺崩壊していたようだった。


「お父さん! いつからそこにいたの!?」

「じえいがんをうじろでまぼっているのば、がぞぐだから~っであだりがら~」


 なに言ってんのかわかんない! 柚希は苦笑いをこぼしたが、姉はそんな父を見て爆笑しはじめていた。


「もう、お父さんったら。あ、そうだ。お父さん。ここのキッチン、私の好きなようにして良いって言ったよね。ほんとうにそうしちゃうからね。さっそく芹菜ママにどこでなにを買っているのか聞かなくちゃ!」


 すっかり前向きの姉に戻ったようで、父も涙を拭いてほっとした顔をしていた。


 どうやらこの実家のキッチンも、小柳家風になるのかな?

 姉のセンスがどう発揮されるのか。実家のキッチンがどう変わるのか、柚希も楽しみに待ちたいと思う。

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