3.パイロット辞める
心路義兄に気がつかれ、柚希は実家宅のキッチンドアを開けて姿を現す。
「さっき帰宅したから、お義母さんに洗濯物を届けるように頼まれて……いま来たけど、入ったそこで声が聞こえちゃっていたよ」
離れている場所でも声が聞こえたと知った義兄と姉が一緒にうつむいた。姉の胸元に甥っ子はいなかったので、一路は姉夫妻のベッドルームで眠っているところだとわかった。
まだ自衛隊制服のままの義兄と、部屋着でやつれた姉がダイニングテーブルを挟んで向き合っているところだった。
「えっと。ここに置いておくね。一路君の肌着とかタオルとか」
洗濯物が入っている籐かごを、ドアを開けたすぐそこの床に置く。そのままそっとして婚家宅へ戻ろうとする。ドアノブに手をかけ締めようとした時だった。
「まってユズ。ここに一緒にいてくれる?」
姉に呼び止められ柚希の手が止まる。戸惑いながらドア越しにもう一度、姉夫妻が向き合っているキッチンへと顔を覗かせた。
特に義兄が姉の呼び止めにどう思っているのか。だが紫紺色の制服を着込んでいる凜々しい義兄が、顔をしかめながらもため息を吐いただけだったので、姉の申し出は受け入れられていると考えて柚希も実家のキッチンへと踏み入れる。
座っているのは姉だけ。その向かいで大柄の心路義兄が佇んだままで言い合っていたようだ。柚希もまだ姉の隣に座る気にはなれず、テーブルの端、少し距離を保った状態で、姉夫妻の間に立った。
柚希がそこに落ち着いても、姉と義兄は互いにうつむいて黙りこくったままだった。
あ、柚希からなにか『言ってくれ』ということ? 互いになにかを言えばすれ違うから、二人とは違う視点で、妹からなにか挟んで欲しいということ?
だったら柚希はなにを言えば良いのか。
だた最近は姉を見ているともどかしいばかりなのは確かだった。
『そろそろ心路君と相談をしては』――と案じていた芹菜母の言葉を思い出し、柚希もいまだとばかりに思い切ることにする。
「お姉ちゃん……。いまは全部を一人でやりこなすのは無理だよ。お姉ちゃんがなんでもできる女性なのはわかってるよ。でも、いまはそうじゃないと思う。もちろん、お姉ちゃんと心路義兄ちゃん夫婦の邪魔はしたくない。邪魔にならない程度に、でも、お姉ちゃんの力になりたいよ。頼って欲しいよ」
姉もそれはわかってくれていると感じている。
だが姉はうつむいたまま無言だった。そしてその向かいでまた、心路義兄がため息をついているだけで、彼もまたなにも言わない。
再度、沈黙が漂う。柚希の言葉はなんら効果はなく、響きもしなかったようだった。もうなにを言ってよいのかわからない。というか、ここにいる意味は? 姉に呼び止められたからここにいるけれど、ほんとうに柚希はなんの役にも立たなそうなのに?
しかしそこで、やっと姉が薄笑いを浮かべながら口を開いた。
「違うんだよ、柚希。私がね、いま苦しいのはそれだけじゃないの」
妹に頼らずに母親の自分だけでなんとか頑張りたい。でもいまはそれはできない――。それが姉のもどかしさだと思っていたが、そこだけじゃないと姉が言いだした。
「柚希が手伝ってくれることには凄く感謝している。頼れる妹がいてくれてほんとうに良かったと、里帰り産休が始まってからつくづく思えて嬉しかった。お母さんがいなくても柚希がいてくれて良かったよ。その妹が結婚をして、一緒に暮らすようになった婚家にいるお姑さんがまた家のことができるお母さんで、私も心強かった。サポートしてくれることは感謝しているし、これからも頼りたいと思っているよ」
やっと。柚希がよく知っている『かっこいいモモ姉』の微笑みを見せてくれた。柚希もホッとして顔がほころぶ。なのに。またすぐに姉の表情が曇った。
「でもさ……。そのサポートが外れたら、どうしたらいいの? 出産が終わって、育児が始まって、一路はもう離乳食まで食べられるようになった。あと数ヶ月、あっという間に過ぎて、私は部隊に復帰する。しばらくはここ札幌にいられると思う。でも……。その後は? どうなるの?」
また姉の表情が切羽詰まったものへと変化していく。厳しいものではなく、苦しそうなもの。そんな姉の顔は見たことがなかったので、柚希は言葉を失う。
そこで心路義兄も割って入ってきた。
「モモさんの不安はわかるよ。俺とモモさんはともに自衛官だから、職務が家族より優先することはある。それでも、二人で子供を望んだ以上、産まれた以上、ユズちゃんと小柳のご家族と、神楽のお義父さんの助けがなくなっても、ふたりで育てていかなくてはならないんだ。だからこそ、俺にも頼ってほしいんだよ。どうしてだよ。俺だって、子育て手伝っているだろう。もっともっとやらせてほしいよ。そこに届けてくれた『芹菜さんの洗濯』だって、助かってるよ。でも帰宅した俺も、いまからできるよ。できることは二人でやろうって決めていただろう」
うんうん。そうだそうだ。なんだ、さすが心路兄ちゃん。柚希と芹菜義母が相談したかったこと、心持ち、ちゃんと備えているし、姉にも伝えているじゃん! あとはこの夫の気持ちに姉が素直にもたれかかれること。そうあるべきと柚希も姉に進言しようと口を開きかけたのだが――。
「でもさ!!」
また姉が鬼気迫る目つきで、心路義兄に食ってかかってきた。
「心路は厳しい訓練ばかりしているんだから。自宅ではくつろいでほしいんだよ! これから幹部としてもっと責任が重くなって、いつなにがあっても、なによりも最優先に出動しなくちゃいけないんだから。家にいるときは身も心も休めてほしんだよ! 家にいるのに寝不足で部隊に出勤とかしてほしくないんだよ! しかもさ。私はさ。そこらの女性らしい奥さんより手が届かなくて、がさつで、殺風景な家庭しか作れそうにないのにさ。せめて、ゆったりできるようにしてほしいから、一路の世話は私ができる限り――」
え、姉……。そんなこと考えていたんだと、『妻』としての愛満載から起きる気持ちが余計に追い詰めていたと柚希は知る。そんな姉の本心に驚愕していた隙に、今度はあの優しい心路義兄の目が鬼のようにつり上がっていた。
こちらの表情も柚希には初めて目にしたものだったので、ゾッとした。その瞬間――。空気が震えたかのような怒声が響いた。
「違うだろ!!!」
柚希は戦慄く――。あわあわして狼狽えるだけになっていた。
心路義兄の形相が、姉や父が本気で怒った時の顔より怖い。鬼瓦と言いたくなる。え、やっぱり心路義兄は荒々しい鬼のような武将みたいな本性を秘めているんだ!? と震え上がっていた。
姉も穏やかな彼に吠えられて、顔面蒼白になっている。
特に空挺団にいた義兄の声は大きく通る。
そのせいか、奥の部屋から赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。
ママとパパが声を張り上げていたので驚いたのだろう。
当然、姉と義兄もハッと我に返った表情で寝室へと振り返り視線を向けた。
だが柚希からさっと動く。
「私が見てくるね」
一路が泣いているベッドルームへと急いだ。
ここで止めたら駄目だと思ったのだ。せっかく姉と義兄が本心をむき出しにしてぶつかり合っている。やめてしまったら一度引っ込めた本心はまたなかなか顔を出さなくなるかもしれない。気になる息子は叔母の柚希がひとまず見ておくから、姉夫妻にはここで全て吐き出して欲しい。そう思って急いだ。
ベビーベッドで泣いている一路を見つけ、柚希はさっと抱き上げ胸に抱くと『よしよし』と、ちいさい丸い背中をぽんぽん叩いて、抱っこをして揺らしてあげる。ぐずぐずしているが声はすぼんだ。
子供は妹がそばにいるからと心の枷が取れたのか、キッチンでの夫妻の向き合いが再開する。
一路をだっこしたまま部屋から廊下に出た柚希は、キッチンが見える影で遠巻きに見守る。
紫紺の制服姿のまま、心路義兄はテーブルをバンと大きな手で叩いた。
「モモさん! 俺さ、部隊でのモモさんも素敵でかっこよくて憧れだったよ。制服も迷彩服も、男言葉で強いところも。だけどさ。俺がほんとうに欲しかったのは、そんな制服とか迷彩とか階級とか脱ぎ捨てた時の、『ふだんの百花さん』だったんだよ。プライベートではもっと女性らしくて思いやりがあって、家族思いで、もっと美人でクールでさ。そんな百花さんが俺に抱きついてきてくれたときの、俺の、俺の、あの時の感動とか、ぜんぜん今も変わってない。そんなモモさんだけで充分だって言ってんの、俺は! そんな素敵な家を、小柳みたいな家が俺はほしいんじゃない!」
うわ、心路義兄ちゃんってば、熱いなーと柚希のほうが頬が火照りそうなほど情熱的な叫び。でも、そんな兄ちゃんだからこそ、男勝りな姉が女性として幸せに結婚できたんだと妹として嬉しくなる。それに『そうだ、そうだ。義兄ちゃん、もっと熱いのお姉ちゃんにぶつけてやって』と、再度姉を陥落させてくれるよう、影で押しまくっている。
姉もまだ言い足りないのか、夫を睨みながらも遠慮はしないとばかりに声を張り上げる。
「夫を万全の態勢で任務に送り出せない妻になんてなりたくない。そんなの自衛官の妻じゃない!」
「はあ? ちょっと『神楽二尉』、もの申してもよろしいですかね!!」
階級呼びに切り替えてきたが、心路義兄は制服姿のまま下官として急に姉に刃向かっていこうとしている。今度の柚希はハラハラ。姉は若干、きょとんとしていたが、いきなり『二尉』の立場におかれて眉をひそめている。
「な、なんだよ。東三尉……」
「自分を馬鹿にするのやめてくれますか~? 自分はですね、これでもレンジャーで空挺団所属で、これから冬レンジャーも取得しようとしているんですよ」
「そ、そうだよな? そ、それが?」
「あのですね、訓練もそうですけれど、有事のときだって満足に眠れるもんじゃないんですよ。どんなときも万全に? 違うでしょ! 有事はいきなり! 有事任務展開中も、どんな状況でも気張ってお勤めできるのが自衛官! おなじですよね。子育ても家庭内の大事なミッション。夫が万全じゃない? くそくらえっすよ。息子の夜泣きで眠れなくても、父親をやるんですよ。任務遂行と一緒。むしろそれ以上!! 俺から言わせれば、妻がそこまで切羽詰まっているのが有事。有事にしちゃったろくでもない夫で父親になんかなりたくないって言っているんです!! 俺のこと、優秀な隊員だと男だと認めてくれているなら、ちゃんと参加させてくれますよね。この子育てミッションに、任務に!!」
やっと姉がハッとした表情を見せた。
心路義兄が姉の心の重しを押し除けようとしている。あと少し? 柚希はドキドキしながら、一路が泣き出さないようそっとそっとあやしつつ見守り続ける。
だが姉はまだ言い足りないのか、でも、先ほどよりも柔らかく落ち着いた声色で吐露し続けた。
「ひとりで子育てをしなくちゃと意地を張っていたことは謝る。でも、それだけじゃない、くつろげる家庭をつくってやれないだけじゃない。私がパイロット人生を貫こうとすることは、一路の子供時代を犠牲にしてしまうかもしれないとも言ってんの。でも、ここまで頑張ってきたんだよ!」
「だから。モモさんが仕事で家にいられないときは俺が――」
「二人一緒に招集されたら? 災害だけじゃないよ、有事の時に、私も心路も、一緒に部隊に招集されたら、一路がひとりきりになってしまう。もし自分の部隊がある場所が被災地だったら? 一路にひとりきりで家で留守番していろと? 柚希と広海君が、一路を迎えに行けない状況だったら? 両親がいない時、一路はどうしたらいいの? だったら、私はやっぱりパイロットをやめたらいい?」
そこでシンとした静まり返った。
姉が思い詰めていた様々なこと。それはいまだけじゃない。ずっとずっと向こうにあるかもしれないリスクを考えていたのだ。
それには心路義兄も絶句していた。二人とも自衛官だ。なにかがあれば家族を置いて任務優先になる。それが夫と妻同時に起きたら? 預けられる妹夫妻がそばにいなかったら?
急に姉の頬に涙が流れ始める。泣きながら頬を濡らしながら、姉は心路義兄に告げていた。
「ごめん。答え、いま出たかも。私、パイロットやめる。そんな状況で息子を置いてヘリコプターの操縦はできない、きっと」
唐突な姉の決断に、柚希は血の気が引く思いで硬直した。
心路義兄も茫然としていた――。なにも言い返せないのだろう。
なにかあったとき二人同時に招集をされて、誰も頼る家族もいない土地にいた時、子供をどうするか。その返答がすぐに出来ないから……。
柚希も頭の中で、引き留めるなにか、言葉を探ってぐるぐると考えていたが思いつかない。
だが柚希は焦っていて気がつかなかったのだが、夫の広海がいつのまにか、廊下の向こうにあるキッチンの入り口ドア前に立っていたのだ。
いつからそこにいたのだろうか。広海がいる場所と柚希が立っている廊下は繋がっているので、彼がむこうから『俺も聞いていたよ』という仕草と笑顔を一瞬見せてくれた。見せたと思ったら、今度は彼がドアを開けてキッチンへと入っていく。
妹の夫、二人にとっては義弟になる広海が突然入ってきたので驚いていた。
そして広海が落ち着いた笑顔で言い放つ。
「お義姉さん。辞めたら駄目ですよ。絶対に――」
広海の余裕の微笑みが頼もしいのに、なにをどうするつもりなのか柚希にはわからなくて、まだ心は落ち着かない。
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