2.女性がいる家庭


 本日は早番のため、いつもより少し早く自宅に帰宅。夫と義母と生活をしている小柳家の玄関からリビングへと入ると、芹菜母がひとりでうろうろしていた。

 キッチンで行ったり来たり、リビングの壁時計へと視線を流したところで、柚希が帰宅したことに気がついてくれる。


「あら、もうそんな時間! おかえりなさい、ユズちゃん」


 時計を見る前に、柚希が帰ってきたことで時間を知ったようだった。


「お義母さん、なにかあったんですか」


 時間を忘れるほどキッチンで落ち着きなくしていたように見えて、柚希はそう尋ねる。そのとたんに、芹菜母も急に大きなため息をついて苦々しい顔つきになる。


「お昼にね、またモモちゃんがこちらで過ごしていたのよ。今日はね、離乳食の作り置きを一緒に作ったの。今日の分も一路君、おいしそうにパクパク食べてくれて、モモちゃんも嬉しそうだったのよ」


 姉が一日を穏やかに過ごせたと聞いて柚希はほっとして微笑みたくなった。だが、義母が落ち着きない様子を見せているということは、万事上手く行ったわけではないことも悟って、すぐに笑みは引っ込んでいく。


「そのあともなにかあったんですか」

「一路君がそこで寝付いている間にね。ここのキッチンでお料理をしたんだけど。うちにある道具とかいろいろな調味料とか、冷蔵庫の中を見て、また落ち込んでいたのよね……」


 妹としてその先がわかってきてしまい、柚希はバッグをダイニングテーブルの椅子において、今度は自分がため息を落とした。


「えっと……。実家というか、父が主である神楽の家は、なんというか男所帯といいましょうか」

「そう、そんなこと言いだしたの。『女性らしいキッチンってここのようなものなんですね。私、ぜんぜん、こんなキッチンにしていない』って!」


 なんていうのだろう。姉、初めて女性としてコンプレックスを発揮していると言えば良いのだろうか。


 美人だし優秀だし、性格だって明るくて強くて申し分ない。ただひとつ。『男勝り』すぎて、本来でいうところの『女性らしい志向』までは備えていないのだ。

 ジェンダーレスが叫ばれる時代だからこそ、姉のような女性でもパイロットとして起用されているわけだし活躍できている。

 いや、『女性らしさ』という言葉は姉がそう感じているだけで、ここでは不適切かもしれない。

 いわゆる、モモねえは『かわいいものは皆無、料理は適当』なのだ。


 この二世帯住宅でともに姉夫妻と生活をするようになったころ。最初のころは姉も『凄い。芹菜ママのような女性らしいコーデのおうちって憧れだったんだ』とたいそう喜んでいた。

 しかも、母性全開、女性らしさ満載の芹菜母に触れて、姉も久しぶりに母親のような女性らしさに触れられて、とても嬉しそうだった。

 産休中は芹菜母と柚希と一緒に、女同士で買い物に行けることも楽しんでくれていた。


 そんな姉が徐々に変化していったのは、やはり出産後だ。


 ある日、柚希にとっては実家になる隣世帯の神楽家で過ごしていた時。そこのキッチンで父と一緒に『神楽家用のつくりおき惣菜』をこしらえていた時だった。

 新生児の一路をだっこして、ダイニングテーブルで休んでいた姉が呟いたのだ。


『やっぱさ。こっちの家って男所帯だよね。キッチンが殺風景』


 言わんとすることはよーくわかる。柚希だって結婚前、広海と芹菜母が二人きりで住んでいたマンションに初めて訪問して、キッチンをお借りしたときの感動を忘れていないからだ。


 お料理好きの女性が構築してきたお洒落キッチンの素晴らしさ。それがいまは柚希が住まう小柳家のキッチンでも発揮されている。海外のカントリーを思わせるハイセンスなキッチン。いま柚希はそのキッチンを自分のもの同然で使って、義母と仲良く楽しく料理をしている。

 だが元の神楽家、父と二人暮らしをしていたキッチンは、道具のみと、ごく一般的な調味料だけがそろえられている、最低限の『男主キッチン』だった。


 その時、父も苦笑いをこぼしていた。

『いやいや。そりゃ、芹菜さんには負けるよ。彼女のセンスなんだから。元から乙女チックなお育ちのお嬢様だったみたいだしなあ』

 そこで父が『モモも目覚めたなら、芹菜さん風に真似して増やしていけばいんじゃないか。ここのキッチンも好きに飾っていいぞ~』と付け加えたのだが、ここは男親のわからんところか。柚希は思わず父の足を踏んづけて言葉を止めようとしたが遅かった。


 姉はそこでふいっとそっぽを向けて、いま使っている部屋へと甥っ子と消えていった。


 父も『俺、なにか変なこと言った?』と聞いてきたので――。


『モモ姉に、――いままで女性らしくなかったのだから仕方がない、今から増やせ――は、そのセンスがゼロだったと言っているのと同じだよ。そこいまお姉ちゃんがいちばん気にしているんだから』と伝えると、父はギョッとしてしゅんと頭を項垂れていた。


 もちろん、いまの神楽家キッチンは女性らしさが一欠片もないのが現状なのだから『増やしていくしかない』のは正論なのだが、そこはなくてものが『女心』!


『女心、疎くて……』と。逆に次女の柚希はそれなりに女の子をしていたので、父は女心の難しさに直面したことがないとも言えた。


 そうなんだよ、そうなんだよ。柚希も結婚してようやく悟ったというか。神楽家は『自衛隊モードの空気が取り囲む』実家なんだよと。

 父親に姉に、義兄と、自衛官が三人も住んでいれば、そこはまさにミニ駐屯地なんだよ! と、言いたい。


 がっつりと空腹を満たしスタミナをまかなえれば、それでよし。大事なのは時間を合理的に管理して、やるべきことを無駄なく遂行すること。シンプルな衣食住で充分、そこに『お花やかわいい小物や、いいにおいの生活雑貨』を選ぶ余裕は最初から削ぎ落として生きているのだから。


 そして姉は初めて気がついたのだ。合理的でシンプルなものだけが正解ではないと。もっと余計と思っていたものも、心を満たしてくれるのだと知ったのだと思う。そして……。そんな女性らしさが自分にもあって、『私も女性らしいものにときめいて、そんなものを選んで、自分の結婚生活に取り入れたい』のだと。でも、いきなりすぎて、すぐにはなれない。いまは産まれたばかりの息子のことでていっぱいでそんな余裕はないと、また、身動きができないことに雁字搦めになっているのだろう。



 夕日が入り込んできたキッチン。芹菜母の綺麗な白髪ボブにも、茜の色が映えてくる。義母も姉の気持ちがわかるのか、眉根を下げてさらに深いため息をついている。


「離乳食もね。こちらの小柳のキッチンで、私とユズちゃんが作ったものとか、私たちと一緒にモモちゃんが作ったものは一路君はぱくぱく食べるけど、モモちゃんが神楽のキッチンで一人で作ったものは食べてくれない時があるとまで言いだしたのよ~。それは気のせいだと思うのよ」

「そうですよね。私が作ったものだって、イチ君、ぷいっとして口を開けてくれないことだってありますもん。姉がその時、見ていないだけですよね」


「もちろん、モモちゃんも頑張っていると思うの。でも、自分と心路君の『大人が満足できる料理』はお互いに適当にできていたのでしょうけれど、赤ちゃんは自分たちより繊細で、母親としてより気を遣って料理をしなくちゃいけない初めての体験。モモちゃん、言っていたのよ。『いままで駐屯地営内で過ごしてきたことが多くて、料理は勝手に出来上がっている環境だった。料理は滅多にしなかった。料理ができる機会があっても、ヒガシと食べるものは、ほんとうにシンプルで量があればよかっただけでこだわってこなかった』と」


 そこも最近の姉がコンプレックスを抱いているところだった。

 防衛大学、そして幹部になるまでは営内宿舎生活。栄養士が管理した食事が毎日そこにあって、作らなくても食べてこられた。短期間、営外でのひとり暮らしをしていたが、ひとりが食べられる簡単なものだけで済ませてきていたようだった。


 そのシンプルさで生きてきた女性が、新しくなった実家に帰ってきてみれば、女性雑誌に掲載されているかのようなハイセンスの実家になっていた。正確には、妹夫妻の一家が。本来の神楽家のキッチンは新しくはなっていたがシンプルなまま。そこで元自衛官の父親と現役自衛官の夫と自分が住まうと『殺風景』と感じ、ここに女の自分がいるのになんのセンスもないと衝撃を受けたのだろう……?

 

「……ねえ、ユズちゃん。そろそろ、心路君にちゃんと相談したらどうかしら。モモちゃんに知られないように。ちょっと思い込みが激しくなってる気がするのよね。里帰り出産とはいえ、モモちゃんにしたら、お母さんと暮らしていた慣れ親しんでいる実家がなくなって、新しい環境になっている実家は、やっぱり『環境激変』だと思うのよ。新しい家族になった私たちだって、いきなり他人と同居みたいなものでしょう……」


 姉の里帰り出産と期限付き同居育児は、最初の頃は楽しく過ごしていたが、いまはそうではなくなった。姉にとっては、環境激変でストレスだらけだったということになる?

 自分がしあわせな結婚生活、同居生活をしているだけに、そこに姉を無理矢理連れ込んでしまったのは妹の自分なのかと心苦しくなってきた。


「ひとまず……。今日の洗濯物をモモちゃんに届けてくれるかしら」

「はい。様子見てきます」


 一路君の肌着やベビー服にタオルなど。こまごました洗濯も芹菜母が手伝ってくれている。たたみ終わったそれらは専用の籐かごに入れてあったので、柚希はそれを持って実家宅へ向かった。


 一軒家だが中心に内廊下があり別棟風の設計になっている。

 その廊下を歩きながら籐かごを見つめる柚希は『こんなお洒落な籠をさらりと使っていることも、お姉ちゃんは気になっちゃってるんだろうな』とため息を吐いた。


 小柳家のドアから出た内廊下。そこの窓からは、芹菜母が手入れしているガーデンが見られ、季節の空気を感じることができる。庭は続きになっているので、義母のガーデンは神楽家の庭と玄関先まで続いている。

 その玄関先に小型のジープ車が駐車されていることに柚希は気がつく。


 心路義兄の車だ。自衛官はなにもなければ割と規則正しく、定時で帰宅する。いつのまにか義兄もご帰宅のようだった。


 両家の入り口となる廊下側のドアも施錠はできるようになっている。だが柚希はその鍵をもらっているので開けて実家スペースへとおじゃまする。


 その途端だった。


「だから! そんなことは気にしていないし、気にしなくていいと言っただろ!!」


 心路義兄の怒声が聞こえてきた。キッチンからだった。

 またあの優しい義兄が怒っている? 自衛官だから怒る声も大きくよく通る。柚希がいるこの場所まで響いて硬直、直立不動になってしまった。

 しかもその後には姉の泣き叫ぶ声まで響いてきた。


「だって! 私いま、なにもできない女で、なにも華やかさもなくて、なにも進歩していないんだもの!! これからもパイロットでいられるの? 戻っても仕事で一路をほったらかしにしない? 一路のためにやめたらいいの? でもやめても私、なんにも女らしさもない、殺風景な家庭しかつくれない女かもしれないじゃない!」


 そんな姉の声もよく通って、まだキッチンから離れてる柚希のもとにもよく響いてきた。


 そこで柚希はやっと一歩踏み出していた。

 姉と義兄がいるキッチンへと向かう。まだ姉はたくさんの『不安』を秘めていた。柚希も知らない不安がいっぱいあったんだと知る。


 でも夫妻だけで向き合って話し合うべきなのでは?

 柚希は再度立ち止まっていた。キッチンのドア手前で――。

 なのに勘が鋭い義兄に気がつかれる。


「ユズちゃん?」


 足音が聞こえたのかもしれない。

 こんなところ、さまざまな環境で訓練をしてきた自衛官だなと、柚希は諦めてキッチンのドアを開けていた。

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