続編★マザーズデイ・フライト!

1.完璧な姉


 休暇日に姑の芹菜義母と買い物から帰ってきたときだった。

 小柳家での留守番を任せていた姉の百花が、甥っ子を抱っこしたまま項垂れていた。


「なんか、もういやって……。こんなにおもったの、はじめて」


 うつろな目で生気のない表情で呟く姉の姿に、柚希は愕然とする。

 いわゆる産後鬱。なんでもできる姉がその一歩手前まできていたことをやっと自覚する。




 姉の百花は頼りがいがある姉御気質。

 母が他界した後も、まだ未成年だった柚希を女性として支え守ってきてくれた『母代わり』でもあった。


 父親を見習って、小学生のころから武道に没頭し『自衛官になる』とまっすぐに生きてきた女性。

 制服姿は凜々しいし、ヘリコプターパイロットとしての迷彩服姿もかっこいい。プライベートでの長身を活かしたクールなファッションは、海外モデルのよう。そんな姉が様々な男性からのアプローチをはね除け(時には進退をかけ体当たり)、数ある男の中から信頼を感じ選んだ男性が『東 心路ひがし・こころ』義兄だった。自衛隊では後輩で下官となる年下男性。


 義兄の心路は、習志野の第一空挺団に所属していた将来有望な隊員。2、3年に一度は転属になるという異動が激しい職種の宿命を背負いつつ、遠距離恋愛となっても男女の仲が途切れなかったふたりだ。


 その姉と義兄が結婚を決め、つぎは『子供がほしい』という段階で、手堅い姉夫妻は計画妊娠にて子供を授かる。

 パイロットである姉は身体に負担がかからないよう妊娠ができるタイミングを叩き出し、産休育休を夫とともに過ごせるような転属まで考えていた。


 札幌で心路義兄と産休育休を共に過ごせるようにと、姉夫妻が考えていた計画が『ふたりそろって札幌市内駐屯地に転属』だった。

 第一空挺団にいる心路義兄は、札幌での勤務中に真駒内駐屯地で取得できる『冬季遊撃幹部レンジャー』の資格取得を試みる。

 その間に、姉は実家で出産という運びになる。


 なんでもそつなく完璧にこなして生きている姉、百花。



 その姉、百花が、柚希が住まう小柳家のリビングで頭を垂れてうつむいていた。

 ソファーがあるそこで産まれた子供をだっこして、『もういや』と吐いた後はうつむいて微動だにしない。

 帰宅したばかりの柚希と芹菜母は買い物袋を持ったまま、顔を見合わせ困惑する。だがすぐに動いたのも芹菜母だった。

 買い物袋をリビングのドアを開けたそこに置くと、義足をつけている足でも、しっかりとした足取りでソファーへと向かっていく。


 子供を抱いている姉のすぐそばへと、芹菜母が座り込んだ。


「ももちゃん。疲れてるのよ。ママとユズちゃんが『一路いちろくん』を見ているから。少し横になりなさい。ゆうべもあまり眠っていないでしょう」

「でも、一路がいつも泣いているみたいで気になって眠れない」

「このソファーで横になりなさい。ここにもベビーベッドを置いているんだから。一路くんが見えていたら安心でしょう」


 芹菜義母の諭しで、やっと姉が甥をママの手に渡して、身体を横にした。


「ユズちゃん、お願い」

「はい」


 芹菜義母は義足を付けているときはまだ心許ないからと、甥っ子の一路を移動させるときは他の家族に頼むことが多い。それもあるが、いつもは気丈な姉が弱っているので、女親代わりの自分がまずは娘のそばにいるという心積もりのようだ。

 姉の背をいつまでも撫でて、『あったかいお茶をいれてあげるわね』と優しく微笑みかける。

 芹菜義母の腕から柚希も自分の腕へと甥っ子をしっかりと抱いて、ベビーベッドへと向かった。


 一路が産まれた時は家族中がてんやわんやになったが、喜ばしいことで賑やかだった。

 姉への恩返しとばかりに、柚希も子育てのことを勉強して、産休中から姉のサポートに徹した。


 そのうちに、姉とおなじぐらいにはお世話ができるようになった。でしゃばらない程度に、姉の様子を見て『私が見てるよー。やるよー。ここはまかせてー』と任せてくれる分だけ手伝ってきた。


 おかげさまで。まだ子供はいないが、赤ちゃん抱っこも慣れたし、おむつ交換できるし、ミルクも作って飲ませられるし、最近は離乳食作りも楽しんじゃって、食べさせることも……。だからなのか、甥っ子は柚希にはとても懐いてくれていた。いや、家族全員が一丸となってお世話をしてきた。夫の広海だって、あたふたしながらも叔父ちゃんとしてのお世話を頑張ってくれていた。だから一路はみんなに懐いている。


 それでも姉の百花がすんなり頼れるのは妹の柚希が一番のようで、いまも妹の手に息子が委ねられたからか、やっとソファーに横になって目を閉じてくれた。


「あら、荷物をほったらかし。ユズちゃん、はやく冷蔵庫に仕分けましょう」


 百花姉が寝息をたてたのを見届けて、買い物から帰ってきた女ふたりで急いで買ってきたものを片付け始める。

 リビングはキッチンからも眺められるので、姉も一路の様子もわかり安心。そのまま小柳家のリビングで姉は休息をしている。


 買ってきた食材の下ごしらえを芹菜義母と始める。

 葉物を茹でたり、お肉に下味を付けて冷凍庫に入れたり。その作業を義母と並んでしていると、芹菜母がふっと小さく呟いた。


「モモちゃんは凄く完璧主義なのね、きっと。あの繊細なまでの精神の研ぎ澄まし方、あれぐらいじゃないと、パイロットにはなれないってことなのね……。しかも幹部さんだから責任感も強いんだわ。でも、子育ては完璧じゃなくていいと、母親が全部しなくちゃいけないとかじゃないからね……。そんな気もちになるようにしてあげないと……」


 芹菜義母の言うとおりだった。

 柚希もそう思っている。姉は頼りがいある姉御だが、いまは姉御じゃなくていいのだ。でも『モモねえ』はそうして生きてきたから、なかなか気を緩めることができない質に磨かれて過ぎていた。


「この育休中にすこし楽になってくれるといいんですけど」


 柚希もほうれん草を洗いながらふとため息を吐いた。

 だが今度の芹菜母は、ふっと小さな笑い声を落として微笑んでいる。


「でも。嬉しいわ。ママを頼って、私がいる家のリビングを訪ねてきてくれていたんだものね。あと少しかしら」


 姉は出産後、日中は小柳家のリビングで過ごすことが多くなっている。

 柚希が仕事に出ている日は、芹菜母と一路と三人で過ごしていることもよくあるらしい。


 女親を失っている分、いまは妹の姑である芹菜義母を女性として頼ってくる様子も見られるようになっていた。


 でも元は他人、妹の夫のお母さん。まだ遠慮が見られる。当たり前なのだが……。


 百花姉と柚希の実母は、姉妹がそれなりに育ってから他界した。姉はもう自衛官として防衛大学を卒業して、本格的なパイロットの訓練を始めたころだ。

 元より自立心旺盛だった姉。人に頼られる方だった姉。だからなのか『甘える』ということが苦手だと、父のまさるもぼやいている。


 私は大丈夫。私は頑張れる。できるから心配しないで。

 そんな風にいままで生き抜いてきたWACワック(婦人自衛官)だ。


 そんな姉が子育ても、少しの手助けは必要としてくれても、べったり任せる自分がどうにも許せないらしく、最近はそんな母親としての自分を持て余していることが目に見えるようになってきた。


 ほんの数週間前だろうか。『柚希にばかり頼っていたら私は母親になれないから、今日はそっとしておいて!』と叫ばれ、あの優しい心路義兄が『手伝ってくれる妹に謝れ』と姉を叱り飛ばした出来事があった。


 もちろん。我に返った姉のほうが自分のしたことに愕然としていて、すぐに謝ってくれた。姉妹に溝はできなかったが、その時から柚希も姉への接し方に細心の注意を払っている。そして姉も二度と、そんな態度を取らなくなった。

 でもだ。そこから姉が重苦しい表情をするようになってきた。

『妹に怒鳴った自分。酷い姉』ということを苦にしている。そこからどんどんと『駄目な母親』へと結びついて、表情が暗くなり無口になっていった。


 あと、ひとつ。姉が妙に意地を張っていることがある。


『自衛官の夫に迷惑はかけたくない』。

 夫の心路義兄に甘えられないことだ。


 柚希も夫の広海もわかっていて、でも踏み込めず、いま妹夫妻としてすぐそばで見守ることしかできずにいる。


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