16.元自衛官だから
金曜日。河川敷の緑を揺らす風が入ってくる小柳家のリビング。
この日、柚希は前もって休暇にして、午後から芹菜母と夕食の準備に励んでいた。
夕食時になって、クールビズスタイルの広海が帰宅する。
ダイニングに華やかな料理が並んでいて『凄いな』と、彼の顔が輝く。そのキッチンでは母親と彼女がエプロンをして食卓の準備をしている様子にも嬉しそうに眺めている。
彼も食卓準備の手伝いを始めると、玄関のチャイムが鳴る。父の
「お邪魔します。お招きありがとうございます。これ、お土産だよ」
玄関に迎え入れてもらった父が、瓶のクラフトビールセットを広海に手渡した。
「いらっしゃい、お父さん。お忙しい中、来てくださってありがとうございます」
「そんな広海君、かしこまらなくていいよお。こちらこそ、ユズが最近、よくお邪魔しているようですまないね」
「母が彼女のことを心待ちにしているわけですから、こちらこそ、いつも柚希さんが気にかけてくれて助かっているんです」
そんな父親と彼が玄関先でのご挨拶をかわしているところを、柚希はダイニングから廊下にでられるドアのところでちらっと覗き見して、ちょっとドキドキしていた。
「柚希の料理の味が少し変わったのは、芹菜さんのおかげなのでしょうね。私と一緒に作っているとゴリラメシになってしまうんで。繊細で優しいメニューが増えて、私もなんとなく懐かしさを感じていたのですよ」
「そうなのですね……。でも僕は彼女が作るゴリラメシも気に入っていますよ」
「やっぱり男親って駄目ですね。女の子には女性からの教えも必要だったんだなと、最近はよく感じているのですよ。それは芹菜さんのおかげですから」
そんな挨拶を聞いて。柚希は改めて気がついた。
そうか。母のことは母として忘れていないけれど。柚希自身も、甘い匂いと柔らかさがある女性と一緒にいて楽しいのは、母親を感じていたからなのかと……。
そんな父は柚希と芹菜お母さんが揃えた食卓を見ると『おおおぅ!』と目を瞠っている。
「いやあ、やはり女性が整える食卓ですね! キラキラして華やかで優しい。ご自宅の雰囲気もそうですね」
「いらっしゃい。お父様、勝さん。どうぞ、お座りになってください」
食卓も整い、父も到着したので、全員でそれぞれの席についた。
父が買ってきたビールは冷蔵庫で冷やし、まずは広海が準備してくれたワインで乾杯をする。
父も渡された銘々皿に気になる料理をとり、『うまい!!』と頬張ってくれる。
今日も暑かった、今日はどこどこまで営業で、調査で、企画室でいま……他愛もない世間話で、父と広海が空気をほぐしていく。
この間、柚希は微笑ましく眺めているようで、内心はどきどき緊張していた。自分が言うわけではないのに、だった。
ついに広海が切り出す。
「お父さん。よろしいですか」
「ん? なんだい、広海君」
イカリングの南蛮漬けサラダを頬張っている父へと、広海が姿勢を正して緊張した顔になっていく。
向かい側で女同士並んで座っていた柚希と芹菜母は固唾を飲んで、一緒に硬直した。
「柚希さんと結婚を前提にしたおつきあいをしています。お父さんにもそのことをお許しいただきたいです」
彼が綺麗な黒髪の頭を、隣に座っている父へと深く下げた。
父が驚くかなと柚希はハラハラしていたのだが。ことのほか落ち着いていて、でも、いつものお茶目な笑みを見せてくれている父でもなくなって真顔になっていた。
「そういうことだったのか」
持っていた皿も箸も、父は薄笑いを浮かべて置いた。
顔が……。柚希がいつも自宅で見ている父の顔ではなかった。おそらく仕事をしている時の、或いは、レンジャーで訓練をしている時の男の顔といえばいいのか。
それは広海にも伝わったのか、彼が焦るように続ける。
「もちろん。僕と結婚すると、障害がある母との暮らしになります。ですが絶対に苦労はさせません」
「いや。そんなことは心配していないよ。むしろ、お母様を大事にできるか、君と背負っていけるか、娘が現実から目を背けていないかと案じているんだよ」
「そんな。柚希さんは、母にはよく尽くしてくれています。母も彼女が来ることを楽しみにして、最近はとても元気に過ごしているんです」
そんな父の目線が広海から、正面に座っている柚希へと向いた。
「柚希。覚悟はしているんだよな。これからは、父さんより、芹菜さんだ。わかったな」
こんなふうに言われるとは思わず、柚希は戸惑った。
柚希にとっては父だって大事だ。芹菜母も大事だ。どっちも大事だ。どうして『父さんより』なんて言葉がでるのかと、和気藹々とした席になるようと思っていたのに、涙が出そうになった。
今度は芹菜母が身を乗り出すかのように、父へと向き合う。
「お父様。柚希ちゃんにとっては、私よりもあなたが大事で当然だと思っております。広海にとって、私がたったひとりの親のように、ユズちゃんにとってもお父様はたったひとりの親御様なのですから。そこまで厳しくされなくても」
だが父は目を伏せ、緩い笑みを見せ、静かに告げる。
「芹菜さん。申し訳ない。私はやはり『元自衛官』なんですよ」
「はい、存じております……」
再度、父の鋭い視線が柚希へと戻って来た。
そう、父が真剣に柚希に叱るときの目だ。でも怒っているんじゃない。親としてここだと娘に真向かう時の真剣な眼差しだ。
「柚希に再度問う。いまここにいるおまえ以外の三人。災害が起きたとき、誰を一番に助けるべきか、答えろ」
その問いに胸をつかれる。さらに広海も息を引いておののき、芹菜母も呆然としていた。
だが柚希はなにを問われ、なにを父が諭そうとしているのかわかってしまった。だから答える。
「芹菜さんです」
「そうだ。これからは、広海君だけではなく、おまえはなにに置いてもお母さんを助けろ。父さんの心配はするな。おそらく子供もできるのだろう。きちんと家庭を守れる妻であり、母であれ。父はそう願う」
「は、はい。わかりました……。心得ておきます」
自衛官はなにかが起きたら国民のためにまず動く。家族を置いて現場へ向かう。母が生きている時、現役自衛官だった父は常に『俺が出動するようなことが起きたら、おまえはまず、子供たちとこうしろ』と母に言いつけていた。母も強く頷き、自衛官の妻としての心構えを携えていた。あの光景が蘇る。
母のように。柚希の現場は常に『家庭』である。父のことは放ってでも家庭を守れと言われたのだ。
芹菜母が隣でもう泣いていた。もっと素敵な時間を、笑いの時間を予想していただろうに、とても厳しいものを目の当たりにしてショックを受けたかもしれない。
広海もだった。明るくてお茶目な父だと知っていたから、ご挨拶で緊張はしても、お許しをもらえたら和やかムードの食事会になると思っていたはずなのに。覚悟とはと厳しい問いを、男の自分ではない、彼女の柚希に向けられることになって硬直していた。
そんな広海に、今度は父が頭を下げる。
「広海君。君が真面目で、母親を大事にできる責任感ある男性であることはもう知っているよ。お仕事も昇格おめでとう。安心して柚希を委ねられます。よろしくお願いいたします」
「お父さん……。恥ずかしいです。僕は、お父さんが考えるほどのことにまで、思い至っていませんでした。でも僕は、柚希さんのことも、母のことも、お父さんのことも大事にして、皆で楽しい家族になれたらと願っています」
「うん。ありがとう。私だって、これからは君と芹菜さんの力になるよ。うんと頼ってくれよ。柚希は芹菜さんから久しぶりの母性を感じているだろうけれど、広海君にはお父さんとして頼って欲しいな」
こちらも父親とは二十歳そこそこで死別したからなのか、広海の目にもうっすらと涙が滲んだのがわかった。
「芹菜さん。結納など仰々しいことはしなくていいかなと考えていますがいかがでしょう」
「それは、お父様がそのようなご方針であれば、ふたりもそれでよければ構いません」
「ですが婚約とわかる形は取っておこうかな。まず周囲に公にするために、同じ職場で勤めているため、上司に報告をする。婚約したことがわかるようにする。親の挨拶はこれで済み許可を取れたという形でよろしいですよね」
「はい。お父様。かまいません」
また父の視線が柚希にまっすぐに向かった。
「周囲への婚約の挨拶が済んだなら。柚希、もうこちらのお家で寝泊まりをしてもかまわない。少しずつ、こちらのご家庭とともになる準備をしなさい。広海君もそれでいいかな」
「はい。もちろんです。ですが、お父さんもこちらにお顔を見せに来てくださいね。僕たちも母と柚希さんと、神楽の家へうかがいますので」
「おう。広海君ひとりでもいいぞ。男だけの晩酌をしようじゃないか。ゴリラ流・酒の肴を作って待ってるからな。うほうほ」
最後、そこで茶化すんだ――と、柚希は一気に力が抜けていく。広海と芹菜お母さんにいたっては、いきなりの『生うほうほ』に目が点になっていた。
「うわ。初めて聞けた。お父さんの『うほうほ』!」
「ユズちゃんが言っていた、お父さんの『うほうほ』、いきなり!!」
「これからも突然でてきますよ。うほうっほ」
柚希にはお馴染みの、胸筋を拳で叩きまくる『ドラミングうほうほ』まで披露し始めた。
お父さんやめてと言いたくなるが、先ほど自分でやっておいて、かなりきつい空気に締め付けたものだから、気にして自分からほぐしにきているんだとも思えた。
広海と芹菜母が楽しそうに笑い出したので、柚希も頬を緩めたが。
でもほんとうはちょっぴり泣きそうになっていた。
そうか。結婚って。お父さんをひとりにしちゃうのかもなと。好きな彼と素敵なお母さんとの時間に夢中になっていて、ほかのことが目に見えていなかったことにも気がついた。父を気遣うということではない。
父が言うとおりに。小柳の妻になるということは、なによりも芹菜母を助けて生きていくことが優先になる。父よりも。また父も『俺はいい。俺はどうにでもなる。結婚したら、おまえは小柳の家族を大事にしろ』と自ら教えてくれたのだとも――。柚希は胸に刻む。
週明け。いまは広海の上司にあたる『荻野室長』、千歳お嬢さまに、ふたりそろってご報告とご挨拶に行くことになった。
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