12.会いにいきます
行きたい。その気持ちに気がついた柚希は、すぐにスマートフォンでメッセージを打ち込んでいた。
【大丈夫ですか。よろしかったらお手伝いに行きたいです。おじゃまでしたら遠慮します。でも許していただけるなら、どちらにお住まいか教えてください。またなにか必要なものがあればお届けします】
どうかな。いまはまだ病院へ外出中かな。
ひとまずお弁当をもって食事をして様子を見て――。
柚希がロッカールームを出る前、それほど間を置かずに通知音が聞こえた。
【ありがとう。ユズちゃんの顔を見たら母も元気になるかもしれないので、お願いしてもいいかな。うちの住所は、〇〇区……。地下鉄南北線の〇〇駅から……】
嬉しさで震えた、涙が滲みそうだった。
受け入れてくれたというか、頼ってくれたこととか、信じてくれることとか……。店長がひとりで頑張らなくていいこととか……。芹菜お母さんの力になれることとか……。
---🚃
仕事を終えて、制服から私服に着替えると柚希は店長宅へ一直線! 地下鉄南北線に乗り込み、迷うことなく店長の自宅へ。
駅を降りて住所にあるマンションへ向かう。なんなく見つけてエントランスでインターホンを押すと店長が出てくれた。そこでロックを解除してもらい内側エントランスのエレベーターへ。
札幌市の大きな河川を一望できそうな高層マンションだった。
でも三階という割と低いところに住んでいる。
エレベーターを使っても、通路に来ても、車椅子に支障はなさそうだけれど、ひとりで大通まで出てくるのは、まだ心許ない状態だったのかもしれない。しかも昨日は暑い日だったのだから。
義足はしているけれど、それだけで歩いてくるには、いまの芹菜お母さんには体力が足りないと思えた。芹菜お母さんも小柄で、そのうえ華奢で線が細い。
店長が教えてくれた部屋の前に来た。
本当に来ちゃったよ。ど、どうしよう。勢いってすごいな。こんなこと初めてしたよ。なんかいまさらながらに恥ずかしい。柚希は目を瞑って悶々としながら、震える指をインターホンチャイムのボタンへと伸ばす。
思い切って押すと、聞き慣れた声が響いた。
『神楽さん、いらっしゃい。いま開けるよ。待っていて』
……よく考えたら。上司なのに。突撃した実感が湧いてきて、もう心臓がばくばくしている。
鍵が開く音、ドアノブがまわって扉が開いた。
ポロシャツ姿の店長が、少し疲れた顔でそこにいた。
「突撃しちゃって……、申し訳ないです……」
「そんなことないよ。気にしてくれて嬉しかったよ。今日も暑かっただろう。入って――」
お邪魔しますと柚希はおずおずと玄関に踏み入れた。
玄関を上がるところのフローリングに、今日は車椅子が畳まれた状態でたてかけてあった。
「芹菜さん、どうですか。熱中症にかかったんじゃないかって心配で」
「熱中症までにはなっていないけれど、疲労からくる発熱みたいだ。母はよくそうなるんだ」
「私に会いに来てくださったせいで……」
「それでも会いたかったんだから、母は満足しているし、納得しているよ。あと反省もね。これからは、息子の俺に内緒で行動しないと約束させたから。大丈夫。今日一日休んで、だいぶ熱も下がっていま眠っているよ」
それを聞いて柚希はホッとする。
広いリビングに案内されたが、とても静かだった。
こうして住まいの雰囲気を見ると、お母様の趣味がよくわかる。女性が丁寧に作り上げたリラックスできる優しい空間だった。それに。店長の柔らかい雰囲気から感じ取っていたが『よいお家柄のご家庭』で育ったことがリビングを見ても良くわかる。
芹菜お母さんも、お嬢様育ちで、良いところの奥様で、きっと亡くなったお父様も品の良い富裕層育ちのパパさんだったのだろうとわかる自宅だった。
「店長はなにか食べられましたか? 私、勝手に材料を買って来ちゃいました。必要なければ私の自宅用に持って帰ります」
「いや、助かるよ。今日は病院に連れて行くだけで一苦労だったもんだから」
「冷やし中華でも作ろうかと思いまして。ゴリラ風ですけれど」
「ゴリラ風! いきなり来るなあ~。お父さん風ってことか」
「そうです。リンゴ酢風味なんです」
「う、うまそう。お願いしようかな」
「是非是非。芹菜さんはどうですか。なにか食べられましたか」
「経口補水ゼリーとか栄養ゼリーだけかな。粥を作ろうかと思っていたところなんだ」
ため息をついてうつむく店長も、かなり疲れているように見えた。
「勝手にキッチンを使わせていただけるなら、店長も少しお休みされたらどうですか。店長も暑さ負けしていそうで……」
「うん。いつも冷房がある店舗にいるから。外に出るとちょっと暑さがきつかったよ」
甘えて休んでくれそうで、柚希はホッとする。
キッチンに入れてもらい、必要な道具がどこにあるのか、冷蔵庫から必要なものだけ出してもらい、エプロンを借りて柚希は料理をすることに。
その間だけ――と、小柳店長は自室へと休むためにキッチンを出て行った。
「勝手に使わせていただきます」
たったひとりのキッチンになっても、柚希はお辞儀をしてからシンクに向かった。
ちょっと低めのシンク。使いやすい。たぶん、芹菜お母さんに合わせて作ったキッチンだと小柄な柚希は気がつく。
だとしたら、長身の店長にはちょっと辛い設計かもしれないとも思えた。
勝手ながら。お粥も作っちゃいます。
ほんのり薄味の鶏肉中華粥を作りますよ。父ちゃん直伝です。
お米からコトコト。
冷やし中華の具材も切って、錦糸卵つくって……。
小一時間。
キッチンの引き戸が開いて、店長が目覚めたかなと振り返ったら、そこに白髪の女性がパジャマ姿で立っていた。
「ユ、ユズちゃん!?」
「あ、お邪魔しています。店長はいまお部屋で休んでいます。すみません……。押しかけてしまいまして……」
乙女なお母様だからパジャマ姿など見られなくないかなと思って、柚希はそっと視線を調理する手元に戻した。
「とってもいい匂いがしたものだから。広海がなにを作っているのかと思って。あなたも休みなさいよと伝えていたのに、頑張って作ってくれているのかと思っちゃって」
「ちゃんと休んでいますよ」
「そう……。良かった……」
母も息子も互いを思いやるばかりに、頑張りすぎたり、我慢したりしてきたことが窺えた。
「芹菜さんも、気にしないで休んでいてください。慌てずゆっくり治して、また一緒におでかけしましょう。百合がダメなら、ラベンダー、ひまわりにコスモスもありますからね」
「ユズちゃん……」
義足をつけているほうに身体を傾け、引き戸に寄りかかりながら、芹菜お母さんはハラハラと涙を流し始めた。
「なにか飲みますか。水分補給もこまめにしておきましょう」
芹菜母も頷くと、自分で歩き出して冷蔵庫へ向かう。
歩けるけれど、やはり線が細いかなという印象だった。元々そんなにアグレッシブな性格ではなくて、ほんとうに深窓のお嬢様で、お家でのんびり自分が好きな空間にいる習慣で暮らしてきたのだろう。
彼女自身でコップを手に取り、麦茶を一杯飲み干したのでホッとする。
ダイニングの椅子に座った芹菜母がやっと笑顔を見せて、柚希に尋ねる。
「いい匂い。ユズちゃんが作ってくれたの」
「はい。父直伝の中華粥です。鶏の胸肉で出汁を取って、薄味にします。風味はお酒と、ほんのちょっとのゴマ油です。いかがですか」
「おいしそう。それなら食べられそう」
「もうできますから、お部屋に持っていきますよ」
「ううん。ここでいただくわ」
では――と食器棚から器を準備していると、コップを片付けようと立ち上がった芹菜お母さんがよろめいた。クラッと目眩がしたかのように目元を手で覆って、なんとかテーブルに手をついて膝をつきそうになる。柚希は慌てて駆け寄り、その身体を支えた。
腕の中に倒れ込んできたその人の軽さ……。おなじ小柄な体型でも、凄く華奢だとわかった。
「か、母さん!?」
一時間ほど休んだ店長が、キッチンに戻ってくるなり驚きの声を上げた。
すぐに支えている柚希のところへと、店長も駆け寄ってくる。
「どうして部屋を出たんだよ。俺を呼んでくれと言っただろう。内線子機もスマホもあるんだから」
「いい匂いがしたから……あなたが料理しているのかと気になって……。そうしたらユズちゃんが……」
「店長。お部屋に連れて行ってあげてください。芹菜さん、お粥、持っていきますね。無理して全部じゃなくて、食べられるだけにしましょう。残してもいいですからね」
まだ全快ではないよろめく身体で、彼女が息子の胸にしがみつくようにしてキッチンを出て行った。
柚希も引き続き、お粥をトレイに揃える準備をする。
店長は戻ってこないので、芹菜母の自室で付き添っているようだった。
準備が出来た柚希は、教えてもらった芹菜母の部屋へと向かう。
そこも木製の引き戸になっている部屋で、ノックをして知らせようとしたのだが……。
「広海が呼んでくれたの?」
「いいや。彼女から、手伝いたいと来てくれたんだよ」
「ユズちゃんから……。ほんとうに……?」
「うん」
芹菜母の涙ぐむ声が聞こえ、柚希はいったんノックをする手を止めて、間を持たせた。
「広海。いままで家にいれば充分、時々おでかけができればいいと思って、あんまりリハビリしてこなかったこと。ごめんね……」
「いいんだよ。頑張りすぎると、昔から母さんは熱が出て寝込むだろう。無理しても困るよ。この前も、どうして。俺に内緒で外に買い物に行こうとしたんだよ……。横断歩道を渡りきれずに、車椅子ごと横転して、走行してくる車にひかれそうになったと聞いた時は心臓が止まりそうになっただろ。頼むよ……二度と、二度と……、俺に、あの時のような哀しい気持ち、させないでくれよ……。あの時、母さんまでいなくなっていたら、俺ひとりになっていただろう」
小柳店長が急に早退した日のことだと柚希も思い返す。
あの時もなにかがあって、芹菜母が無理をしたようだった。なにか、息子を頼らずに、ひとりで頑張ろうとしている気持ちが芽生えているのかもしれない?
「だって。遥万社長さんの秘書室へ異動するのでしょう。そして将来、その秘書室は千歳さんを支えていく部署になるのよ。いつまでも、あなたの重荷になりたくなかったから、少しずつでも一人でと思って……」
最近、内示があっただろう小柳店長の異動を知ったことが、芹菜母の自立を促していたようだった。これまでは事故に遭った身体と心をゆっくりとケアしてきたのだろう。いきなり無理はさせない。お互いにできることは少なくてもできる範囲で。でもこれからは……と母親として思い立ったのかもしれない。
「大丈夫だから。異動しても、千歳も遥万社長もわかってくれているから。だから母さんは無理をしないでくれ。頼むから」
「う、うん……。わかった。ごめんね、広海。泣かないで広海……」
母と息子が身を寄せ合って泣いている姿が見えなくても、引き戸の向こうに透けて見える。
柚希はそのまま、粥をのせたトレイを持ったまま、キッチンに戻った。
ダイニングテーブルにトレイを置いたら、訳もなく涙がぼろぼろこぼれ落ちてきた。
痛くて、哀しくて、もどかしくて。そして、いい大人なのに、母親を失いたくなくて大事にして守ろうとしている息子の涙声が、どうして愛おしく感じるのか柚希にはわからない。
でも。そんなふうに男性が泣くと、柚希にはある日の光景を蘇らせた。喪服で泣きさざめく父の姿だった。
あれと一緒だと思ったのだ。同時に、小柳店長が母を失いたくないという気持ちもすごくわかる。あんな気持ち、二度と味わいたくない。
あの日の哀しみと、母子が寄り添って涙する哀しみが、柚希の中でリンクしている。
「神楽さん?」
しっかりと男の顔に戻った小柳店長がキッチンに戻ってきた。
冷めてしまった粥を目の前に、涙をぼろぼろとこぼしている柚希を見て驚いている。
「え、どうかした……」
涙を拭いて柚希は答える。
「母を亡くした日を思い出して……。だから店長がお母さんをなくしたくないって……痛いほどわかって……。止まらなくて」
まだ落ちてくる涙を拭いていたら。
気がついたら、店長の胸の中で、ぎゅっと強く抱きしめられていた。
柚希の小さな黒髪の頭を、彼が大きな手で胸に強く抱き寄せている。
なんだろう。彼の胸の中に溶け込むようで、それは彼が傷めている心に柚希も溶け込むような不思議な感覚だった。
初めて思った。一人でたった一人で、この人もなんとか立とうとしていたのだって――。でも、もうひとりではないと思ってくれたのかもしれない。
ひとりじゃないって思ってほしいから、柚希も抱きかえしていた。
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