11.柚の芽生え
ドアを開ければ珈琲焙煎の薫り高い匂いに包まれる。
丁寧に一杯を淹れてくれる珈琲専門店に、小柳母子と荻野姉弟とともに柚希は入店。
マスターは千歳お嬢様とは顔見知りのようで、車椅子の知り合いを連れていることを察して、奥にある大きなテーブル席に案内してくれた。
「ほんと、珈琲のいい香り。大通まで出てきてこんな素敵なお店に入るのも久しぶりだわ」
柔らかな照明に落ち着いた内装の店内に、芹菜お母さんはとても満足そうだった。
車椅子の芹菜お母さんと、小柳店長、その隣に柚希が座り、向かい側に荻野姉弟が並んで座る形に。その目の前で、伊万里主任がそわそわしていた。
「姉ちゃん。いいかな~。俺がここに来た時のフルコース。仕事終わったからいいよな、な」
「仕方ないな~。私はつきあわないよ。恥ずかしいもん」
「俺は、恥ずかしくない! 先にオーダーしちゃいまーす」
フルコースってなに……。柚希が訝しそうにしていると、芹菜お母さんが『あら、ひさしぶりの光景』と笑い出す。
「私はカフェラテアイスかな。お母様。ここ、水出しのアイス珈琲がこの季節はオススメなんですよ。水出しアイスのカフェラテのほうが私的に好みなんですけれど」
「千歳さんのオススメなら間違いないですね。そちら、いただきます」
「では、私も千歳さんとお母様と同じく……」
だったら柚希もそれにしたいなとメニューを決めたのと同時に、マスターがオーダーを取りに来た。
目が合った伊万里主任がマスターに告げる。
「伊万里的フルコースで」
「……かしこまりました」
「できるんだ! いつもはだいたい『今日はこれが売り切れたから出来ない』って言われるのに」
「本日は大丈夫でございます。人手もありますし、売り上げ的にも御礼申し上げます」
「よっっしゃあ」
伊万里主任がガッツポーズをしたので、柚希はますます訳がわからない。
伊万里主任がひとつひとつメニューを伝えていないのに、マスターは『伊万里的フルコース』を唱え始めた。
「ご確認いたします。すべておひとつにて。ナポリタン、ミートソース、焼きうどん、クラブハウスサンドイッチ、たまごホットサンド、フィッシュバーガー、ピザ・マルゲリータ……」
え、なにこれ。どこまで続くの!? 柚希が仰天して固まっていると、隣の小柳店長が笑いながら教えてくれる。
「この姉弟、フードファイター並の大食い姉弟なんだよ」
「ええ!? あ、朋重さんの、お寿司50貫×2、あれってもしかして」
「そうそう。あれ、実は姉弟二人分だったんだよ」
うそー!? お二人ともすっごくスタイルがいいのに、あのランチタイムに寿司100貫!? 久しぶりに目玉が遠くまで飛び出て拾いに行こうかと思える驚きだった。
しかも『伊万里的フルコース』、お店のスナックメニューをほぼ網羅しているんですけれど??
「いいなあ、なんか私も食べたくなってきちゃったなあ」
「かっこつけないで姉ちゃんも食えよ。んで、支払いよろしく」
「それなら、やめる。自分で払いなさいよ」
「えええ~。お姉様が一緒だからフルコースしちゃったのにぃ。室長さん、俺より稼ぎいいじゃん~」
「半分わけてくれたら払ってやる」
「えーー! 半分も!?」
小柳店長が『相変わらずだなあ』と笑っている。芹菜お母さんも『久しぶりに見るわ』とご存じの様子だった。
ご姉弟、どうやら『姉支払いで、半分こで食べる』ということで話がついたようだ。伊万里主任が『タダ食いできるけど姉貴と半分こかよ』と複雑そうな顔をしているところで、柚希も笑みが込み上げてきた。
柚希と小柳母子は、水出し珈琲のカフェラテをいただくことにした。
「それで。お母様がどうして、神楽さんにわざわざ会いに来るほどのことが起きているわけ。ユズちゃんっていつのまに」
「近いうちに、千歳にも話しておこうと思ったんだけれど……」
千歳お嬢様の問いに、小柳店長も正直に答える。
そのまま小樽で遭遇した出来事を、小柳店長が千歳お嬢様に話していく。荻野姉弟は『それ、どこのお店、どこにあるの。おいしそうじゃない』と食に反応するのだが。
「え! 神楽さんのお父様、冬季遊撃レンジャーの教官をされていたの!?」
「めっちゃ強者じゃん! さらに、姉ちゃんがチヌークのヘリパイって凄くね!!?」
『しかもいまは元レンジャーの探偵!?』
と、ご姉弟で目を大きく見開いてのけぞって驚くので、柚希のほうが畏れ多くてあせあせしている。
「あら? 小樽の所長に報告へとお父様が出向いた先で、小柳君と遭遇したってことは。大澤探偵事務所?」
「そうです。小樽が本拠地で所長さんは、そちらにいらっしゃるんです」
「優吾さんのこと?」
「ええ! 千歳さんご存じなんですか!」
「うん。どちらかというとお兄様の樹さんとよく会うかな。大澤倉庫の社長さん。お兄様の会社は港湾運送事業の他に、飲食店業をされているでしょう。観光客向けの食品事業をしている会社の会合でよくお見かけするの。お祖母様は、樹さんが若いときから顔見知りみたいなんだけど、最近は父の
なんか巡り巡って繋がっていて柚希は驚くしかない。
ということは。父は荻野製菓からの依頼を受けたりしたこともあるのかもしれないと、初めて思ったりした。でもそこは探偵の守秘義務があって、口にも顔にも出せないのだろう。
「あそこの探偵さんたち、すごく優秀。優吾さんが強い伝手ももっているしね。荻野の秘書室と探偵事務所も密接して、すごくお世話になっている。いずれ小柳君もそこに……。あ、これはまだ内緒か。そうなのねえ。ふうん、なるほど!」
千歳お嬢様がかひとりで『やっと繋がった』とばかりに、一人でうんうん頷いている。
そのまま目の前に並んで座っている柚希と小柳店長を交互に見ている。そのうちに小柳店長を見つめて、にやにやした笑みを見せる。お嬢様がなにかを企んだような笑みだ。
「お母様。私、最近、石狩の漁村でおいしい漁師飯をご馳走してくださる方と知り合いになったんですよ。婚約者の知り合いなんですけれど。海を眺めたり、タコ飯を食べたりのドライブ一緒に行きませんか」
芹菜母の笑顔が輝いたが……。息子が勤務する会社のご令嬢なので、勝手に返事はできないと思ったのか、息子の広海をちらっと窺う目線を向けている。
「なんだよ急に。唐突だな」
「ユズちゃんが一緒なら、お母様も小柳君もでかけやすくなるんじゃないの」
「なに言ってるんだよ。神楽さんだっていろいろ予定があるだろうし、千歳がお嬢さんの立場で行こうと言えば、従業員の神楽さんは断れないだろう」
「神楽さんはどう? タコ天とかタコ飯とか、甘エビ丼とか出してくれるの」
漁師飯って。おいしそう!! 千歳お嬢様に誘われるだなんて畏れ多いが、でも、食いしん坊の血が騒ぎ出す。
「食べたいです! 店長とお母様がよろしければ、一緒に行きたいです!」
「はい。決まり。小柳君、行くよね。私も朋重さんを連れてくる」
「たまに、めちゃくちゃ強引だよな。なんなんだよ、もう」
「あら。私が強引な時は、言うことをきいたほうがいいよ。いままでもそうだったでしょう」
あの小柳店長が大人の落ち着きもどこへやら、千歳お嬢様に押されて『ぐぬぬ』と言い返せない状態に追い込まれていた。どうやら同期生同士で通じるものがあるようだが、『私が強引な時は言うことを聞くべき』なんて、お嬢様らしい発言だな――ぐらいにしか柚希は認識できなかった。
「朋重兄ちゃんも連れて行くのかよ。川端さんのところだろ。俺も行きたい」
「朋重さんにも伝えておくよ。うちは朋重さんの車で行くけれど、小柳君も車だせるよね」
「それはもちろん。うちは車椅子だから、うちの車のほうが」
「お母様、いかがですか。久しぶりにみんなでわいわいドライブしましょう」
息子に遠慮して様子を窺っていた芹菜母が、また頬を綻ばせる。
「嬉しい。今度は石狩の海なのね。久しぶり」
『久しぶり』という言葉が多いなと柚希は気がついた。
やはり引きこもっていたのか。多忙な息子とドライブに行くのは滅多にないことだったのか。でも人の手が多ければまた店長にも余裕が出来て、芹菜お母さんもでかけやすい。それに同期の千歳お嬢様とは気心知れているようなので、柚希も安心だった。
では、また一緒にでかける荻野製菓の四人は休日を合わせねばならないとシフト調整の話に入った。少し先になるが夏真っ盛りの八月に入ったら一緒に行こうということになった。
あ、なんか。凄いメンバーに囲まれるドライブじゃないかと、柚希はやっと気がつくが遅かった。
そんな話の間に、伊万里的フルコースが次々とテーブルをいっぱいにしていく。
ほんとうにこれ、姉弟ふたりだけで食べられるの? いや本来は伊万里主任がひとりで食べようとしていたんだよね? と、もう柚希はただただ呆然――。
千歳お嬢様と小柳店長が交わす『懐かしい同期生のこれまで』の話も繰り広げられる。その懐かしい出来事の中にもちょいちょい、おふたりより二期下の伊万里主任も混ざっていたりして、お姉ちゃんの同期生にかわいがられていた弟君という図式も見えてきた。
なかでも柚希の心に残ったのが、突然、両親が事故に遭って、父は他界、母は障害を負って、右往左往している新卒生の小柳店長を、同期生が代わる代わるご自宅まで出向いてサポートしていたというエピソードだった。
これが芹菜母が小樽で語っていた『感謝を言葉では言い尽くせないほどに助けてくれた』という話だと知る。
「義足を付けて立てるようになったお母様が、時々お夕食をご馳走してくれたでしょう。お母様の『
「千歳さんの婚約者さんが? あの時のまま大事に作ってくださっているだなんて、私も嬉しいわ。今度、その婚約者さんにもお会いできるのね。楽しみ」
柚希にも目に見えるようだった。千歳お嬢様だからこそ、同期をまとめて率先して、小柳親子を手助けしたことが。
だからこそ。小柳店長は千歳お嬢様に恩を返すために、補佐になろうと頑張ってきたのかもしれないとも思えてきた。
そんな話だって興味深く聞いていたら小一時間ぐらいだったのに。
なんですか。すべてのお皿が綺麗にからっぽになって、まだ足りないとかメニューを姉弟で眺めたりしているんですけれど?
ご姉弟はそのまま『まだここで食べてから帰る』と追加オーダーされたので、石狩ドライブの打ち合わせは後日摺り合わせていくことになって今日はそこで解散となった。
カフェの外に出たら、芹菜お母さんは疲れた顔をしてぐったりしていた。
「もうタクシーで帰ろうな」
「うん……。でも楽しかった……」
車椅子を押しながら、店長がスマートフォンで車椅子を乗せられるタクシーを呼ぶ。
車椅子の芹菜お母さんへと、柚希も身をかがめて声をかける。
「それでは、お休みの日。一緒に百合を見に行きましょうね」
「そうね。ユズちゃん。楽しみよ」
やってきたタクシーに店長と芹菜母が乗り込む。柚希はそこで見送った。自分はそのまま地下歩道へとおりて駅へと向かう。
---🚖
翌日、出勤をすると小柳店長が休んでいた。
もうそれだけで芹菜お母さんになにかがあったのだとわかった柚希は動揺する。
昼休みにロッカーにしまっているスマートフォンを確認してみた。
メッセージアプリに店長からの着信がある。
【母が熱を出して寝込んでいます。頑張りすぎてしまったようです。今日は病院に連れて行くので欠勤します。元気になったら連絡します。心配しないで】
百合の花を見に行こうと約束したのは、五日後だった。
それまで元気になっていればいい……。いや、柚希はまた初めての気持ちを抱いている。
行きたい。そこに、手伝いに行きたい。
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