10.ユズちゃんに会いたい

 店頭に出ると、崩れた空気を必死に持ち直そうとしている他スタッフの様子をありありと肌で感じてしまった。


 後輩ちゃんの田端綾音あやねと、午後の中休みを一緒に取ることになり、ロッカールーム近くの休憩室で事の次第を教えてもらう。


 きらきらした空気を振りまいて店頭に現れた浦和副社長をひと目みると、やっぱり萌子は目をハート型にして浮き足だったのだとか。


『はあ~。近くで見ると、やっぱり素敵! 政略結婚なんだよね、お見合いだよね。ほんとうは好きじゃないかもしれないよね~。これから頻繁に荻野に出入りするんだよね。ちょっと話しかけたいな。そうしたらさ、私にだって……』


 その後も、寺嶋リーダーが怒っていた時に言っていたように、『ほんとうの恋愛はちょっとした日常で出会うのが本物』と呟きながら、浦和副社長にご挨拶してくるという名目で近づこうとしたのだとか。


 もうその様子が手に取るようにわかるよと、柚希は額を抱えて項垂れたくなる。

 その行動を密かに監視していた寺嶋リーダーに見られ、捕獲されたとのことだった。


 朝、他の男性に復縁要請をして、条件に合わないと泣いて諦めたことが彼女としては『終わったから次!』とケジメを付けたことになっていたのか?


 浦和副社長はまだ独身だけれど、もう独身ではない。両家で顔合わせ済み、結納済みで、千歳お嬢様の夫同然の立場を持っている男性になったのだ。しかも荻野のお祖母様お墨付きの男性だ。ちょっかいをだして大変なことになるという先が想像できなかったのか。


 目先の『かっこいい、セレブ』という条件しか目に見えないのか。小柳店長のように、その人その人の家庭で事情があって、またはその男性を想う家族がいる。その背後にある『家』に向き合うと、途端に逃げてしまう萌子。ずっと悲劇のヒロインが繰り返されるのが目に見えるようだ。


 そのうちに、自分が気に入れば、既婚者でもいいとか言い出しそうだと初めて思った。


 後輩の綾音ちゃんも、呆れていた。


「浦和副社長を見た途端に、もう顔にも仕草にも出ていたので早めに釘を刺しにいかれたのかと。弟さんであの状態だったので、跡取りお嬢様の婚約者にまで自分にはチャンスがあるって声、聞こえちゃっていましたよ。ちょうどお客様いなかったから良かったけれどって寺嶋さん怒ってましたから」

「そうか……。私も力及ばず……」

「神楽さんが注意をして直るなら、もうそこで直っていますよ。そんな同期の言葉も届かないのだから仕方がなかったと思います」

「同期の私がそばにいるから、学生気分にさせちゃったのかなとも思っていたんだよね」

「そこはご本人の意識の持ち方ですし、神楽さんは一線引こうとしていたから大丈夫ですよ」


 後輩ちゃん。すごく大人に感じる。いや、二十代後半ってもう誰だってこれぐらいの意識は備わっているものなんだよね? なんだか、久しぶりに凄く安心できる会話が出来て、柚希もホッとする。



 昨日の休暇は突然、店長親子と遭遇して思わぬドライブになったかと思ったら、翌日の勤務は大波乱。


 その中で、密かに芽生えてしまった気持ちも知ることになり、夕方の早上がりの時間にはヘトヘトになっていた。


 萌子も今日はおなじ時間上がりだったが、そのまま寺嶋リーダーに面談のために連れて行かれたようだった。なので帰り支度をするロッカールームで会うことはなかった。


 その後も、管理側でまた調整が入ったようで、柚希と萌子がシフトで被ることはほとんどなく、どうしても早番、遅番で時間が重なる時は、どちらかが店頭かバックヤード業務という形で切り分けられた。


 萌子は近いうちに異動になるのではという噂も流れている。




 この出来事から十日ほど経ったころだった。

 北国はすっかり夏の季節になって、夕の西日が強く蒸し暑い日が続いていた。

 早番だった柚希が着替えて本社ビルの従業員出口へ向かっていると、クールビズスタイルの小柳店長と出会った。


「お疲れ様」

「お疲れ様です。店長も早番だったんですね」

「うん。一週間に一度は早番の残務もほどほどにして帰ることにしているんだ」


 自宅でひとり留守番をしている芹菜お母さんのために決めていることなんだとすぐにわかった。


「お父さん、元気かな」

「もちろん元気ですよ。昨日も腕立て伏せしていましたから」


 店長が楽しそうに笑ってくれたが、それでも眼差しを伏せてひと言。


「でも。たぶん、お父さんにも色々あったと思うんだ。あんなに明るくて楽しくしているのはユズちゃんのためであって、またそれも本当に心から楽しんでいられる時間なんだと思う。ユズちゃんが癒やしなんだろうね」


 父の立場でたとえて『ユズ』ちゃんと発言したとわかっても、素敵店長から言われるとドキッとしてしまった。


「俺、神楽さんのことは仕事でしか見ていなかったけれど、職場ではすごくしっかりお姉さんの横顔なのに、『ユズちゃん』の時は、ころんとして、ちょっと高校生ぽい幼さがあってかわいいんだなと驚きだったな。母がそこを気に入ったみたいでね。最近、よく話すんだよ。俺が知っている職場の神楽さんはしっかり者のお姉さんぽいよ、母は『ユズちゃんはちっちゃくてころんとして、愛らしいのかわいいの。女の子なの』ってさ」


 うわー、なんの話をしているんだと、びっくり飛び上がった。

 店長にどう見られているかもわかったが、仕事ではしっかり者と言われて嬉しいのに、ユズちゃんのときはころんとしてかわいいとか、ちっちゃくて愛らしいとか、なんだかくすぐったい気分!


「お父さんにとっての神楽さんは、母とおなじで『ちっちゃくてころんとしている可愛い娘のユズちゃん』なんだろうねという話題が絶えないんだ。あ、仕事中に俺のことを隊長と見立てて『レンジャー!』をやってくれたと話したら、また『かわいい、かわいい。見てみたい』ってそれだけではしゃいでいたよ」


 もう柚希は顔が真っ赤になっていたと思う。顔だけじゃない、身体中が熱くなった。


 そうか。あれだな。もっと大人女子のファッションを気にしなくちゃいけなかったんだと気がつく。

 だが柚希は小さめ身長なので、大人っぽい服が似合わず、そうでなければシンプルで女子らしい服を着ても子供ぽい着こなしになってしまうのだ。それもこれも身長が低めだからだ。亡くなった母に似ていると父は言う。これまた童顔なので、何を着ても子供っぽいに拍車がかかる。

 そこがまた、娘が欲しかったという芹菜お母さんの感性をくすぐらせているのかも、と柚希は思った。


「よかったら、また母に会ってほしいんだけれど」

「それは、かまいませんよ。あ、百合の公園、いま咲き始めでたくさんの種類の百合がいっぱいなんです。今度、同じ日の休日に行ってみますか」

「ほんとうに。ありがとう。母が喜ぶよ。花も大好きだから」


 自宅の近所なので、公園で集合するか或いは店長が迎えに来てくれるかという話にまでなってしまった。


 いいのかな、いいのかな……。このまま、プライベートで会うようになっていいのかな。店長、自分が管理する店舗の女性といざこざあったばかりなのに。しかも……萌子が狙っていた男性なのに……。彼女と店長が決別した後に、同期の自分が間を置かずに仲良くなったりしていいのかな。そんな戸惑いもある。


 それに……。千歳お嬢様への密やかな思いが心に残っているのなら……。

 柚希はそっと目を瞑る。そう、ただの同僚で、配下の女の子。それだけのこと、それだけの女の子と親睦があるだけのことだ。芹菜お母さんと楽しい時間を過ごすことだけを考えることにした。


 父のおかげでもう連絡先交換も済んでいたので、『詳しい相談はそちらで』ということになった。


 そんな仕事上がりの会話をしながら、本社ビルの従業員用裏口玄関から車道がある通りに出ると、そこに車椅子の女性が待機していた。


 白髪のその人を見て、店長も柚希もそろってギョッとした。


「か、母さん!?」

「芹菜さん! どうされたんですか」


 車椅子の彼女が、息子も柚希も一緒にいるので、とても嬉しそうに笑顔をみせた。


「ユズちゃん。会いたかった。でも、まさか広海と一緒に出てくるなんて」


 だが店長はそんな母親に食ってかかった。


「まさか。一人で来たのかよ!?」

「うん……。頑張ってみた。時間、かかったけれど、頑張ってみたの」

「また、事故に遭いそうになったらどうするつもりだったんだよ」

「だから、この前のようにならないよう、慎重に、時間をかけて、少しずつ。でも困ったことはそばにいる人に頑張って声をかけて手伝ってもらってきたの」


 店長が絶句して佇んだままになった。だがその表情がなんともいえず、いまにも泣き崩れそうになっていて柚希は慌てる。

 ここで息子の弱い姿になったところを、ほかの従業員に見られたくなくて、柚希からすぐに車椅子の後ろにまわった。


「すごい、芹菜さん。ひとりでここまで、疲れましたでしょう。ちょっと行った先に、すごく落ち着いた雰囲気のカフェがあるんです。そこに行ってみましょう」

「ほんとうに。ユズちゃんと一緒なんて嬉しい。ちょっとお腹すいちゃっていたの」

「行きましょう、行きましょう! 店長も行きますよね、もちろん!」


 素早い柚希の行動に、店長も我に返ると、また呆然としている。


「あれ。小柳兄さんじゃん」


 従業員玄関の門先でもたついていると、おなじくクールビズスタイルの伊万里主任が立っていた。

 さらに、彼を追うように現れた女性がひとり。黒髪をなびかせる千歳お嬢様だった。


「あれ、小柳君。今日はノー残務の日?」


 姉弟で退勤するところだったようだ。その千歳お嬢様も、小柳店長の様子がいつもと異なることにすぐに気がつき、戸惑う彼の視線の先を知り、驚きの表情に変わっていく。


「お母様!」

「千歳さん。ご無沙汰しております」

「え、え、え……。小柳君、いま仕事が終わったんだよね。ということは……ええ、お母様、もしかしてお一人でここまで!?」


 千歳お嬢様ですら、芹菜お母さんが強い意志を持って独断でここまで来たことに驚いている。伊万里主任もだった。


「今日、暑かったでしょう。大丈夫だったんですか……。車椅子だとアスファルトが近いからよけいに暑いと聞いたがありますよ。姉ちゃん、すぐに涼んでもらったほうがいいよ。あ、そこに、いいカフェがあって……」


 伊万里主任がおなじカフェを思い浮かべていることが柚希にも伝わってきた。だが柚希が言うより先に、芹菜お母さんが嬉しそうに伊万里主任に告げる。


「あら、ユズちゃんが案内してくれるっていうカフェとおなじなのかしら? ますます行きたくなっちゃった」


 荻野姉弟がそろって『ユズちゃん??』と眉をひそめた。

 さらに姉弟そろって、疑問の視線を小柳店長に向ける。


「小柳君。……『ユズちゃん』とは、どのようなお知り合いで?」

「わー、小柳兄ちゃん。まともな子とご縁あるんじゃん」


 なにを言い出すんだ伊万里主任と柚希が面食らっていると、姉の千歳お嬢様が弟の黒髪をパシリとはたいた。


 どうしてこうなったのか。荻野姉弟付きで、そのカフェに一緒に行くことになってしまった。


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