9.千歳ちゃんのお告げ


 だめだ。今日の自分は荒れた心を抑えることができなくて、いつもの自分に戻れない。

 お客様に笑顔で応対しているけれど、それが精一杯だ。

 もう限界だとさえ思った。


 だから柚希も自分から動いた。


「リーダー。お話しがあります」


 寺嶋リーダーに声をかけた。柚希の表情が歪んでいることに、すぐに気がついてくれた。無理に笑顔を作っていて、それすらも限界が来ていると察してくれたのだ。


「うん、いいわよ。そろそろランチタイムだね。今日は前半で一緒に入ろうか」


 そこでレジに立っていた小柳店長と寺嶋リーダーがアイコンタクトを取ったのがわかった。



 寺嶋リーダーに連れていかれたのは、いつもの社員食堂ではなくて、二階にある会議室だった。誰もいない部屋に二人だけで入る。

 そこでお弁当を食べながらということになった。


「んー。だいたい小柳君から聞いているから。今朝のことでしょう」


 やっぱり。店長の補佐として本店に来ただけあるなと、柚希は安心感を得る。多くを語らなくても察してくれそうだった。


「まあ、小柳君もちょっと下手打ったよね。おなじ部署の女の子と付き合うリスクを忘れちゃっていたんだね。彼も将来を少し不安に思って、つけ込まれちゃったのかな」


 年配者らしい所見だった。完璧に仕事をする小柳店長でも、自分の家族のことになると心弱くなることもあって当たり前なのだと。

 そして今回は、萌子が小柳店長に気に入ってもらうまでに、虚構の女性像で近づいて、店長が弱くなっている隙に上手く入り込んでしまったのだと言いたいらしい。


「情けないのですけれど、私もう、太田さんとは一緒にいたくないです。仕事中でも彼女を見ると嫌悪感しか湧きません」

「ごめんね。そこまでに追い込んだのは、管理者である私と店長の不徳とするところ。あなたを板挟みにして巻き込んでしまった……。力及ばず、申し訳ないわ」

「そんな……。私こそ我慢も機転も利かず申し訳ないです。ですが、私がそばにいても、太田さんは甘えてくるだけです。もう限界です」

「わかりました。店長と対処します。今日はどう? 無理なら早退していいのよ」


 理由がくだらなすぎて。怒りのコントロールができなくて情けない。そこからはまだ逃げ出したくないと思い、柚希は『いいえ、落ち着いたので、このまま勤務します』と返答していた。


 とりとめない感情が渦巻いていたが、リーダーに吐露したら、少し気持ちが落ち着いた。


「あなたがそんなになるなんて余程だと思うのね。念のため、今日はバックヤード業務を中心にやってみましょう。彼女にも交代で下がってもらって、その時はあなたが店頭に出るように小柳君と調整するから」


 ほんとうに気遣ってもらって申し訳ないし、情けない。

 それでも我慢に我慢を重ねて、最後にどうしようもなくなってお客様の対応に響いたり、業務で失敗するようなことはしたくなかったのだ。

 柚希も寺嶋リーダーの配慮に礼を述べて、甘えることにした。




 午後は、バックヤードで伝票入力をすることから始まった。


「ほんとうに、ごめん。俺の不始末のしわ寄せが神楽さんに行ってしまって」


 地方発送受注分を工場出荷にするための伝票を小柳店長から渡される。


「未熟で申し訳ないのはこちらです。大人の対応ができなくて」

「それならすべて、店長である俺の責任だから」

「こちらですよね。お中元分が増えましたね」


 プライベートのしわ寄せを嘆き合うより、業務の姿勢に早く戻ろうと小柳店長から伝票を受け取る。


「それでは、よろしく」


 受け取って。柚希はちょっと考えて、店長の顔を見上げる。彼も他になにか質問があるのかと首を傾げた。柚希は拳を握って胸にぶつけてみる。


「レンジャー! です。隊長」


 すぐに小柳店長がちいさく噴きだした。その笑みを抑えるために彼も拳を口元に当てて堪えている。


「ちょっと、ここでは駄目だろ。勘弁して」

「だって。ここでは隊長ですから。ちょっとやってみたくなりました」

「昨日のお父さんがいろいろ思い浮かんで……」

「午後いっぱい、あのゴリラみたいな父を思って仕事をしましょう。自然と笑顔になること間違いなしです」

「ゴリラってひどいなあ。ああ、もう駄目だ」


 ついに店長がお腹を抱えて、必死に声を抑えて笑い転げているのだ。

 ちょっとやり過ぎたかと柚希は思ったのだが、そんな自分も父のファイティングポーズを思い出して自然と笑みが出てしまう。

 これで、朝の淀んだ空気が澄んでいくような気もした。父ちゃんありがとうであった。


 これだけ気持ちが持ち直ってくると、ほんとうに午前の自分が情けなくなってくる。そんな反省も込めて、柚希は伝票入力に励んだ。


 店長もそばのテーブルで、手書きの書類を作成している。

 ふたりきりのバックヤードだが、先ほど笑うだけ笑ったため、あとは業務に集中だという心構えが整って、私語も無駄口もいっさい生じなかった。


 そのうちに、店舗からバックヤードに入るドアが開いて、一人の男性が入ってきた。


 見覚えのある男性。栗毛だからとても目を引いた。明るい紺色のスーツを爽やかに着こなしていて、バックヤードに入ってきただけでそこがぱっと明るくなった。


「いらっしゃいませ。浦和様。店舗にご来店は珍しいですね」

「こんにちは。小柳店長。お客様ではないから、朋重でいいですよ。荻野姓になると名前で呼び分けられるのでしょう。いまからでもそれでかまいませんから」


 浦和朋重。千歳お嬢様の婚約者だった。最近、彼が本社ビルに仕事でもプライベートでも出入りするようになって、また人目を引く存在になっていた。栗毛のクォーターで、若き副社長。もうすぐ千歳お嬢様と結婚をして、荻野姓になって婿入りをするのだ。

 その彼がビル玄関からでなく、店頭から入ってきたのは珍しい。


「もう千歳ちゃんは企画室にもどっちゃったんだよね。制服で店頭販売している姿を見たかったな」

「そうですね。半月ほど前になりますけれど、私の代わりにフロアを管理してくれ助かりました」

「そっか~。忙しくてこられなかったんだけど、制服姿の千歳ちゃんを見たかったな」

「確かに彼女が制服を着て店頭に立つのは滅多にありませんからね」

「お客さんになって接客してもらいたいなあなんて。冗談を言い合っていたんだけれどね。残念」


 キラキラしたクォーターの彼が現れると、ほんとうにその場の空気が華やぐ。これほどのお見合い相手ならば、千歳お嬢様にぴったり。誰も太刀打ちができない。

 それでも、黒髪の穏やか和風メンズの店長だって負けていないと、柚希は言いたい。断然、和風メンズを推しますよ。


「今日は店舗からどうされたのですか」

「それがさあ。千歳ちゃんが、次に本社にいる私を訪ねてくる時は本店店舗から小柳店長を通して会いに来てとか言うんだよ」

「私を通して、ですか? そのような伝達はありませんでしたが……。確認いたしますね」

「いやいや、確認してもらうほどじゃないんだ。なんていうか『千歳のお告げ』というか~。一度、本店店舗を通って来てみてとかなんとか……」

「ああ、彼女の『なんとなくのお告げ』ですか」

「同期の小柳君は、あれのこと、なんとなくわかるんだ!」

「いやあ、何度か不思議な現象を目の前で見せられてきたものですから」

「さすが、同期! ということで、なんか訳はわからないんだけれど、その類いみたいなんだよね。今日はたまたま近くを通ったものだから、ランチを一緒にと思って来たんだけれど、千歳ちゃんが言っていたことを思い出して店舗から来てみました」


 なんか不思議な会話をしているなと、柚希は聞き耳を立ててしまった。『千歳ちゃんのお告げ』とはなんぞや。もしかして、それが荻野のご加護と繋がっている? 素知らぬふりで柚希は伝票入力をしている。


「彼女の意向だったのですね。さようでございましたか。荻野室長に会うために本社ビルへ訪問されるなら、こちらのバックヤードからも入れますけれど、IDカードをお持ちですか」

「はい。持ってます」


 浦和副社長がスーツの胸ポケットから、社員証とおなじIDカードを取り出して、小柳店長に提示した。浦和副社長は荻野に婿入りをする婚約者として、既に荻野本社に出入り可能の手続きが済んでいる。千歳お嬢様と仕事面でも連携することがあるので、来客用になるところを、社長室預かりの社員同様、家族証のような形でIDカード持ちになっている。


「これ、まだ『浦和朋重』のままなんだよね。はやく『荻野朋重』に変更してほしいなあ」

「それももうすぐですよ。こちらから入ることができますからどうぞ。千歳さんと伊万里君に会いに来られたのでしょう」

「そう。ちょうど昼時だから一緒にランチでもしようと思って、そこの回転寿司でテイクアウトしてきたんだ」


 浦和副社長が片手で掲げたのは、寿司テイクアウトでもかなり大きな寿司桶ケースだった。なぜか小柳店長が『なるほど』と苦笑いを見せたので、柚希は首を傾げる。


「50貫ケースひとつじゃ足りなさそうだから、二段で50貫ケース二つ買ってきた。足りるかな?」


 ランチなのに!? どんだけなのそれ! いったい誰と誰と誰で何人でランチをするつもりなのかと柚希はひそかにギョッとしていた。でも小柳店長はなんだかわかっている様子だった。


「あ~、どうでしょう。際限なさそうだから。と、とにかく。こちらへどうぞ。伊万里君を呼びますね」

「では、お邪魔します」


 店長自らの案内で、朋重さんがうきうきした様子でバックヤードから去って行く。


 その後すぐだった。寺嶋リーダーが険しい表情で、萌子を伴ってバックヤードに入ってきた。


「太田さん。自分がなにをしたかわかっていないよね」

「いえ、その。深い意味はなくて、軽い気持ちだっただけで本気では……」

「本気でも、本気でなくても、やっていけないこと、言ってはいけないことがあります!」


 何事かと、柚希は目を丸くして眺めていることしかできなかった。

 萌子が店頭でやってはいけないことをしたことだけがわかる。


 そこへ浦和副社長の案内を終えた小柳店長が戻ってきた。

 怒り心頭である寺嶋リーダーを見て、また向き合っているスタッフが萌子と知って顔色を変えた。


「寺嶋さん。どうかしたのですか」

「荻野室長に会いに来られた朋重さんに、話しかけようとしていたので止めました。そのまえに、『政略結婚だから、実は千歳お嬢様のことは好きではないはず。ほんとうの恋愛はちょっとした日常で出会うのが本物。だから話しかけたいな』と、田端さんとの会話が私にも聞こえてしまいました。いつもの無駄口ならまだ注意だけで収めますが、さすがに婚約が成立している男性に、しかも自分が勤めている会社ご令嬢のお相手に、故意があって接近する行為が見逃せませんでした。しかも業務中の店頭でですから」


 寺嶋リーダーの報告に、小柳店長は憮然としていた。


 柚希に至っては『萌子らしい。でも、今朝の店長への復縁要請はなんだったのだ』ともう脱力感いっぱいだった。

 だが店長もすぐに、厳しい表情に変貌した。


「太田さん。さすがにもう見逃せません。ここになにをしに来ているのか、いま一度よく考えてほしい。今日はもう店頭には出ないでください。神楽さんと入れ替わってください。今日、シフト業務終了の時間後、私と寺嶋リーダーと面談をします」


 それだけ言うと、柚希へと視線を向けてきた。


「神楽さん。店頭へ」

「は、はい……」


 その目線はもう、なんでも穏やかな空気で指揮をしていた店長の顔ではなかった。毅然とした管理者の厳しい顔だった。

 萌子もやっと事の大きさに気がついたのか、そのまま項垂れていた。

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