8.悲劇のヒロイン
小樽の海がせつない、なんて初めてだった。
あの胸をしめつけたものはなんだったのだろう。
それでも、小柳店長と
翌日。おなじ休暇日に、親子ででかけた先でまさかの遭遇をしたふたりが、職場で再会する。
「おはようございます。神楽さん」
「お、おはようございます……。店長……」
本社ビル一階にあるスタッフルームエリアのロッカールームで制服に着替え、バックヤードから店舗へ。事務デスクで既に作業をしている店長と挨拶を交わした。
その時、店長があたりを見渡し誰もいないことを知ると、『昨日はありがとう。母はずっと神楽さんのことばかり話しているよ』と教えてくれた。
でも、そのあとすぐに萌子がバックヤードに現れたので、二人揃ってさっと合わせていた目線を外す。店長はデスクにあるパソコン画面へ視線を戻し、柚希は店舗の開店準備へと向かった。
最近は柚希と萌子はおなじシフトにならないようにされていた。
休憩時間も同じにならない。完全に離されていた。
伊万里主任と結婚したい作戦失敗以降、萌子は大人しくはしている。店長はもう論外で、伊万里主任を狙っても願うような結婚はできそうにもないと諦めたようだった。
今日は久しぶりにおなじシフトに。萌子が大人しくなったので、管理側も柚希と被ってももう問題はないと判断をしたのかもしれない。
「おはよう。一緒になるの久しぶりだね」
「そ、そうだね」
「昼休み、一緒になれるかな」
「どうかな。早番でも前半と後半に分けられちゃうからね」
そこもどうなるのか柚希はドキドキしている。
後輩ちゃんからの情報によると、もう恋バナは一切しなくなったそうだ。でも業務に対する文句が多いらしい。気になるのはたまに『千歳お嬢様はズルい』という小言だそうだ。
後輩ちゃん曰く『持って生まれたものだから仕方がないですよね。実際に、千歳さんは、私たちよりもっと厳しく育てられているし、そのうちに荻野を背負っていく責任がのしかかるし、結婚だって結果的によい男性に出会えたみたいですけれど、お祖母様が選んだ方だったみたいですし。不自由な面もあると思うんですよ……』とのこと。やっぱり彼女のほうが大人じゃないかと言いたくなるような話を聞いている。
そんな萌子がまた思わぬことを言いだした。
「ねえ、店長に謝ったら許してくれるかな」
はい?? もう、目が点。
いまさら? いまから? それとも心を入れ替えて真っ正面からもう一度と言いたいのか? 小柳店長と向き合うならまだ柚希も『ありじゃない』と後押ししたかもしれない。
だが柚希はもう小柳家の事情を知ってしまっているし、萌子がどんなに甘い考えを持っている女性かも知り尽くしている。
「いまさら遅いんじゃないの。さんざん、不名誉なことを他の従業員に言い回っていたじゃない」
「柚希が言っていたとおりに、なにか訳があったのなら、もう一度聞いてみようと思って……。遅いかな」
もの凄くイライラした。いや、
それを聞いても萌子は逃げ出すと柚希は思っているからだ。
でも柚希からは言えない。柚希は小柳店長より数年後に入社したが、いままで小柳母子の事情が耳に入ってきたことはなかった。店長自身が知られたくなくて、気を遣われたくなくて、内密にする姿勢をとっていたからだと思っている。だから千歳お嬢様も、寺嶋リーダーも『実は店長のご家庭はね……』とは喋らなかったのだろう。
柚希はたまたまでかけ先で遭遇して知ってしまっただけなのだ。
「でも。萌子言っていたよね。店長が言えない理由があるなら、それが結婚してもずっとつきまとうということだから、聞くまでもないフェードアウトするって」
「そうだけど……」
伊万里主任に想いを寄せても敷居が高いことがわかったから、また目の前にいる出世確実の小柳店長に狙いを戻したということらしい。
確かに、近いうちに販売員から、現社長の秘書室への異動が決まっている。萌子はまだ知らないが、知ったら『もう将来は、千歳お嬢様の補佐ってことじゃん。荻野上層部の一員』と飛び上がって喜ぶのだろうし、目の色を変えるに違いない。
だが柚希からは言えないのだ。だから。
「謝って、聞いてみればいいじゃない。それなら」
「その、柚希……。一緒についてきてくれない」
あー、もう駄目だ。柚希はもう顔に出していたし、額を抱えて顔をしかめていた。
「嫌だ。なんでいつも一人で向き合おうとしないの。誰かがそばにいたところで、私になにができるの? 萌子さんは本気なんです。友人の私からもお願いしますと言って欲しいの?」
「そうじゃないけど……。そばにいてくれるだけで心強いだけだから……」
「嫌だよ。一人で行っておいで。いまなら、バックヤードに店長ひとりだよ。あと十分もすれば寺嶋リーダーが出勤する時間だよ」
迷っていた萌子だったが、今回は柚希に突き放されても腹を決められたのか、ほんとうにバックヤードへと向かってしまった。
柚希はなぜかハラハラしている。いまさらだと思うけれど、小柳店長は優しいから、一度切れた状態からもう一度仕切り直しをする猶予を与えてしまうかもしれないから。
同時に、なんで自分もこんなに動揺しているのか。柚希の心も揺れに揺れていた。
どうなるんだろうと、心ここにあらずな状態で、でもしっかりとしなくちゃと開店準備を進める。
しばらくすると、小柳店長がバックヤードから店舗で準備をしている柚希へと向かってきた。
「神楽さん、ちょっといいかな。バックヤードまで」
「はい……」
萌子が戻ってこいないことにも気がついた。まさか――。
バックヤードに連れていかれたが、徐々にロッカールームからバックヤードを通って店舗入りする他スタッフがちらほら現れたので、店長は人目に付かない保管庫へ向かう通路へと柚希を連れて行く。
うす暗いその通路で、店長と向き合った。
「太田さんなんだけれど。急に変なことを言い出して。さきほどまで二人で一緒にいたよね。少し前に、俺が太田さんとプライベートで会っていたこと知っているよね」
「はい。彼女から聞いていました。でもお母様のことは知らなかったようなので。もちろん昨日のことも彼女には伝えていませんから」
「それはわかっている。なぜなら、彼女が『なぜ、ふたりだけのデートなのに母親を同伴させようとしたのか、その訳を聞かずに離れていった自分も悪かったけれど、いまその訳を教えて欲しい』と聞いてきたから。神楽さんからは聞かなかったことはわかっているよ。それで……」
萌子。ちゃんと自分ひとりで言えて聞けたんだ、今回は本気だったかと柚希はすこし驚いた。だが彼女がやっと向き合ったのに、店長の返答は彼女が望むものではなかったようだ。
「母のことは、同じ勤め先の者には慎重に伝えたいと思って、いままで表でおおっぴらにはしなかったんだ。それに言うより、現実を見てもらったほうがいい。それも勿体ぶらずに早い段階で。女性と将来を見据えた付き合いをするなら、そうすると決めていたんだ。だから彼女にもその目で見てもらうまでははっきり言わなかったんだ。正直、この判断は正解だと思っていたよ。母を連れてくるのひとことだけで疎遠になる女性だったとわかったからね。訳も尋ねてくれないほどのことなら、そこまでの関係だ。こちらとしては、わだかまりもなかった」
店長としてごもっともな判断だと柚希は思うし、ご家庭の事情もご自分の立場を考慮した行動だということも理解できる。
それで萌子に今回はどう説明したのか柚希は気になる。
「なんで、三回目のデートで母親を連れてこうよとしたのかと聞かれた。言いふらしそうな彼女に言いたくはなかったけれど、また有耶無耶に濁すと暴走しそうだからはっきり伝えたよ。『母は車椅子が必要な障害があるから知ってもらおうと思って連れてくるつもりだった』と。そう伝えたら、なんだか泣いて出て行っちゃったんだ。あれってなに? 俺とよりでも戻そうと思っていたとか? ちょっと俺、いま混乱しているし、自分が撒いた種なんだけれど、開店前で追いかけることもできなくて――」
店長もはっきり伝えちゃったんだと、柚希は意外だったと目を瞠った。
そしていま朝の一番忙しい時に、注意が散漫しそうな状態になって困っているようだった。
「わかりました。たぶんロッカールームで心を落ち着かせているんだと思います。私が見てきます」
「ありがとう。手間を取らせて申し訳ない」
店長から頭を下げられてしまった。
事情を知っているから柚希も見通しが立てられるが、芹菜お母さんの障害を知らなかったら、いまここで自分も動揺していたと思う。
女子ロッカールームに出向くと、萌子が奥の壁面に向かって泣きさざめいていた。
ほかの部署の女子スタッフたちが『どうしたの』と声をかけていたが、萌子はただ泣いて誰にもなにも返答はしない。
おなじ二十七歳のはずなのに。思い通りにならないことがあると、すぐにつむじを曲げて、人を困らせる態度を取る。そんな子供っぽいことを、いつまでするつもりなのかと柚希もため息が出てくる。
「萌子。もうすぐ開店時間だよ」
「柚希は知っていたの。店長のお母さんのこと」
「さっき。教えてもらった」
嘘だけれど。昨日、小樽で会ったなんて言えばややこしくなるので、そういうことにしておいた。
「車椅子のお
なんか悲劇のヒロインになりきっていて柚希は呆れる。あーそうですね。面倒なことは、すべて結婚条件に当てはまらないからね。というか、もう小柳店長のことは早く忘れてと心の中で悪態をつく自分も嫌になってくる。
「そうだね。萌子には、萌子にもっと似合う男性がきっと現れるよ」
嫌な女だな、自分。そう思った。
それと同時に哀しい。そうか、私、もう誰にも店長に近づいてほしくない気持ちが生まれているんだと、こんな時にわかってしまった。
店長だけじゃない。あのかわいいお母様を煩わすような女性を近づけたくないと強く願っている自分がいる――。そのためなら、笑顔で嘘をついてでも、引き離そうとしている腹黒い自分もいる。
なんかもう。朝から最悪の気分だった。
だが最後に萌子が吐いた言葉で違う気持ちに変わった。
「やっぱりマザコンだった。ずっとママにつきっきりの人生決定しているんだもん。聞かなくても、やっぱりもう無理な男だったもん。出世はしそうだけれど、結婚する人じゃないよね」
許されるなら。ここが職場でないのなら。柚希は萌子の頬へと張り手をしていたと思う。ぐっと堪えて、柚希は萌子をひとり置いてロッカールームを出た。
彼女が呼びとめる声も、柚希にはもう聞こえない。
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