5.小樽で遭遇
小柳店長が早退してから四日目、やっと彼が店頭に戻って来た。
「ご心配おかけしました。また本日からよろしくお願いいたします」
いつもの温かみがある大人の落ち着きをみせる彼に戻っていた。
でも女の子たちの見る目が少し変わっていることに柚希は気がつく。
どんなに仕事が出来ても、男前でも、出世有望株でも。彼は母親に弱い男性だということ。ひとことでマザコンと表すことよりも、彼の生き方が母親を中心に回っていることは女子たちの身に染みたことだろう。
いままで狙い目一番、今後のハイスペック男子として目の前にいたのに、女は相手にマザコンという要素がつくと、どんなに稼ぎが良くても顔が良くても性格が良くても即却下するぐらいには、かなりの悪条件とみなす。
だけれど、小柳店長は特に気にしていない様子だった。まあ、たぶんマザコンな男性は、女性たちに嫌悪を持たれても、母親のことが気になるから関係がないのだろう。
そして、魂が抜けている女がひとり。千歳お嬢様にとどめを刺された萌子だ。
『お祖母様が近道、案内する』と千歳お嬢様自らお望みの道筋を用意してくれたのに、お祖母様と聞いただけで撤退を決めた萌子。もともと伊万里主任のことを『美形、セレブなハイスペック男子』ぐらいのことしか思っていなかったので、こんなに彼を愛しているのに荻野に認めてもらえないなんて哀しいという苦悩は微塵もない。
ただただ『私と向き合えば、恋してくれるはず』という自信を粉々にされ、『恋をしても愛しあっても、お祖母様が認めなければ、伊万里ごと荻野からバイバイ』という荻野側の条件にショックを受けてもぬけの殻状態なのだ。
柚希も再確認する。荻野の徹底した『長子相続』恐るべし。相応しい嫁でなければ、長男孫も切り捨てる勢いに改めて驚かされた。
「そんな、あの怖い会長に認められる女ってどんななの~。無理じゃん無理ゲー」
『ゲーム』と喩えるところからもう間違っているんじゃないかと、やっぱり柚希は萌子のそばにいるだけで心穏やかでなくなる。
「あのお祖母様、会長、額に黒子があってなんだか仏様みたいなお顔で、すっごく畏れ多いんだよね……。あまり笑わないし、目が怖い」
「あのさ。たとえ、萌子が思ったとおりに、伊万里主任と恋仲になったとしても結婚したとしても、その畏れ多いお祖母様と親族になってしょっちゅうお目にかかることになるんだよ。結婚ってそういうことでしょ」
「べつに。お祖母様だからたまに会えばいいかと思っていた」
自分に都合が良い甘い条件でなんとか結婚生活を押し進めようとしか思っていないんだなとやっと知る。
もうやめよう、相手するの。ほんと心底そう思った。伊万里主任を諦められたようで、今回の騒動は終了。もうしばらくは、男性には興味をもって欲しくないと思った。
萌子はいま首の皮一枚繋がった状態で本店にいるのだから。
一波乱の初夏だった。北国は夏の季節、街のあちこちで薔薇が咲いている。もうすぐすると、自宅ちかくの公園は百合の季節を迎える。
【もう帰るよ~😛】
お茶目な父からだった。ゴリラがドラミングしているスタンプ付きだったので、柚希はおもわずクスッと笑みがこぼれていた。
【次の休みは同じ日だったよな。小樽の所長のとこに行かなくちゃなんで、坂のイタリアンカフェで飯しような~】
父は探偵事務所で働いている。そこの所長さんが小樽の資産家次男さんで、いまは名ばかりの所長さんらしく、たまに業務報告に所員が小樽のご自宅まで出向いているらしい。
元は優秀な警官で刑事さんだったのだとか。柚希も父にひっついていくとお目にかかれるのだが、すっごく美麗ハンサムなおじ様でやさしくて、何故か上等の手作りお菓子をいつも食べさせてくれるのだ。なんでも、所長さんのお兄様と義理のお姉様が家業を支えるために忙しく働いているらしく、所長さんが探偵事務所を経営しながら、兄夫妻の子育ての手伝いをしているうちに、そちらのほうが『生き甲斐』になってしまったのだとか。
家事にお菓子作りにハンドクラフトなどを、極めることに精を出しているのだとか。だからシングルファザーになった父にも非常に協力的なのだ。そこもとても考慮してくれる素敵な所長さん。名ばかりというが、元警官のためいままで築きあげたコネクションは所長が握っているらしい。なおかつ、経営の資金も資産家次男だからこそ多くもっているようで、片手間といえども所長なしでは成り立たないと父が言う。
その所長さんに会ったあとは、坂の上にあるイタリアンカフェで父とランチをするのもお決まりになっている。
それなら次の休暇はひさしぶりに小樽にいけるんだと、柚希も楽しみになってきた。
その時はお天気になっているといいな。ここ最近、休暇になると気持ちが重かったけれど、やっと楽しい気持ちが蘇ってきた。
今日の小樽の海辺には、蜃気楼が浮かんでいた。春から夏にかけて見られる日がある。
父が運転する車は小樽の高台にある住宅地へ。閑静で高級そうな家が建ち並ぶ地区に、大澤所長が兄家族と同居する家がある。
そこの玄関先で父が必要書類を届け、口頭での簡単な報告と雑談をして終わる。仕事の報告なので柚希は車で控えているのだが、父と大澤所長が笑顔になって車にいる柚希へと手招きをしてくれる。
柚希も喜んで、美麗で長身のおじ様へとご挨拶へ向かう。
「荻野製菓でのお仕事、頑張っているみたいだね。これ、僕が焼いたカヌレ。いま凝っていて、しょっちゅう焼いているんだ。良かったら食べてね」
「おじ様、いつも、ありがとうございます。ほんとうにプロ並みで、いつも、ちゃっかり楽しみにしています」
「お菓子屋さんにお勤めのユズちゃんにそう言ってもらえると嬉しいよ」
いつもエプロンをしている所長さん。ずっと独身を貫いているようだけれど、大澤家の主夫業をメインにして、お兄さんのお子様たちとの暮らしを第一としている。でも探偵の仕事になると勘がすごく働くらしい。
「今日はまた坂のカフェに行くんでしょう。シェフに伝えておいたから、レモンジェラートを作って待っていてくれると思うよ」
「ほんとですか。シェフのジェラート大好き。ある日とない日があるので、前もって準備してくださるなんて、とってもラッキー。優吾おじ様のおかげです!」
「うちの子供たちも、前代シェフの時からレモンジェラート好きだったからね。楽しんでおいで」
父のおかげで、素敵でちょっと不思議なおじ様から上等な手作りお菓子や手作り小物をいただいたり、人気のイタリアンカフェで『出会えたらラッキー』のメニューを前もって準備してもらえるご縁があるのも特別。柚希にとっては父について小樽に来ることは、とてもスペシャルな気分を味わえるおでかけになるのだ。
天気がよい日、坂の上のイタリアンカフェにある小さな駐車場に車を止めて白いお店へ向かう。
ドアを開けると一階はカウンター席のみ、テーブル席は二階にある。
シェフと奥様がいつもの笑顔で、カウンター内にある厨房から『いらっしゃいませ。待っていたよ』と親しげに迎え入れてくれる。
予約はしていなかったが、所長から申し込んでくれていたようで、二階のテーブル席を取っておいてくれた。父と一緒に御礼を述べて向かう。
二階への階段は、カウンター席しかない一階の壁に沿ってあり、とても狭く急勾配。それでも二階に辿り着くと広いフロアで、大きなテーブル席がふたつと、四人がけのテーブルが三つある。
そのうちの二つは窓際にあって、そこからの景色は海と坂が見えて、小樽らしさを醸し出してくれる。今日はその窓から蜃気楼も見える。対岸の石狩新港にある工場タンクが縦長に伸びて、ゆらゆらと浮かんでいる。
そこで父と一緒に、景色を楽しみながらメニューをひろげ、休日のお喋りを楽しんだ。でも父はたまに物騒な話もする。
「あまり仕事のことは口外できないけれどな。やっぱり不倫調査がめちゃくちゃ増えたよ。ほんと、柚希も姉ちゃんの
ほかにも行方不明者を探したり、弁護士経由や企業経由でも様々な調査を依頼されるらしい。最近は親御さんから『いじめの証拠集め』も頼まれるのだとか。以前よりも探偵職は繁盛で依頼も一般的になり庶民にも浸透しつつあるとのことだった。
父の探偵職は柚希が成人してから転職したものだった。父の元の職業を知ると、あちこちから『うちに来て』とお声がかかったらしい。大澤所長からお声がかかったらしく、『大澤探偵事務所』に転職して七年ぐらいか。小樽に本社的な小さな事務所を優吾おじ様が構えているが、本拠地は札幌市内にあり、そこの支店的所長は父の前職先輩が担っている。
「そういえば、姉ちゃんは彼氏さんと続いているのかな。あの彼氏さんだったら、私、義兄さんになってもいいなって思ってるんだけど」
「さあなあ、ふたりとも忙しいし時間が合わないようでどうなっているのか。別れたとも聞かないし、結婚しようとも聞かないな。いまはお互いの勤務地も離れているから、なんとか関係を続けているのだろうな。ま、職業柄、不貞なんてする暇もなさそうで一応安心しているよ。あとは柚希がどんな彼氏を連れてくるかハラハラってところかな~」
「二十七歳ですが、まったく前兆なしですね」
「父ちゃんとおでかけばっかじゃ、そうなるだろな」
でも父はおどけて笑っただけで『まあ、これはこれで楽しいよ』といまは言ってくれる。
「そうだ。数日前にさ、教え子から結婚式の招待状が届いたんだよ。よかったらお嬢様も一緒に出席してくださいってさ」
「え、いいの?」
父がその招待状をテーブルへと出す。
「未婚の子持ちでさ、」
「未婚の子持ち?」
どんな事情なのかと父から語られるのを待ち構えていると、あの急勾配の階段が騒がしくなる。
『お客様、大丈夫ですか。お手伝いいたしますよ』
『大丈夫です。慣れていますから』
背の高い男性が、小柄な女性を脇に抱えるようにして階段をゆっくりとあがってくる。
「母さん、大丈夫か」
「う、うん。ご、ごめんね。
「俺は大丈夫だから。ここ、来たかっただろう。気にしない」
白髪のボブカットの女性はとても歩きにくそうにしていて、その母親を息子さんが介助して二階まであがってきているようだった。
父がさっと立ち上がった。柚希も一緒に席を立ち、父の後に付いていく。
階段を見下ろしながら、父が声をかける。
「お手伝い、できることありますか」
「いえ、大丈夫です。もうあがりきりますから」
「だったら。下にある車椅子を運んできますね」
「よろしいのですか。もうしわけ……」
そこで母親を抱きかかえている男性と目が合った。
父の後ろにいる柚希もドキリと心臓がうごき、目を瞠る。
「小柳店長……」
「神楽さん」
父も、彼の母親も、ハッとしてお互いの娘と息子を交互に見た。
「え、柚希の職場の?」
「え、広海のお店の?」
「うん。いま本店で一緒の女の子」
「そう、いまいる本店の店長さん」
一瞬、シンとするが。ともかくと父が動き出す。階段を降りていく父が柚希に告げる。
「ユズ、すぐにお母様を座らせてあげなさい」
「はい」
「あ、そんな神楽さんのお父さん、」
遠慮する小柳店長に柚希は笑顔で伝える。
「あ、止めても無駄ですよ。父は元陸上自衛官でレンジャーだったので、放っておけないし、力仕事はお任せな人なので」
「え、お父さん、元レンジャー!?」
小柳店長が階段へと振り返った時にはもう、父はたたんだ車椅子を肩にひょいっと担いで、片手で押さえて階段を軽やかにあがってくるところ。
「まあ、すごい」
お上品そうなお母様が目を輝かせた。
「ですのでお気になさらず」
そして柚希も気がついたのだ。
小柳店長のお母様、片足が義足だということに――。
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