2.伊万里主任が逃げていく
それから萌子の『伊万里主任に関する調査活動』が始まった。
伊万里主任は商品開発用の原材料管理の仕事もしているので、本社にいる日がまちまちだった。札幌郊外にある農耕地帯まで出向いて農作業をしている。近代的なスマート農業を取り入れたのは伊万里主任。大学の専攻も農業だったので、そちらの分野の知識を生かして、姉と商品開発をしている。
バックヤードで地方発送受注分の発送伝票を工場出荷依頼としてPCに入力していると、萌子が隣でいろいろと話しかけてくる。
「……と、いうことで。その畑がある事務所にいる日に訪ねてみるのも手だとおもうのよ」
「シフトの休みの日に? 伊万里主任が畑にいるかどうかもわからないのに」
「だから休みのたびに行ってみるんだって」
畑、遠いと思うし交通機関のみで行くには電車とバスを乗り継いでもタクシーもいるような気がすると柚希が頭の中で地図を描いていると。
「柚希、車を持っていたよね。連れて行ってよ。来週からなるべくシフト一緒にしてもらおうよ」
一気に、げんなり。柚希の休日は、作り置きのおかずをこさえたり、買い物に行ったり、なんなら父と食べ歩きをして楽しむことでストレス発散をしているのだ。
心の中だけで正直に言おう。なぜに他人様の『フリーダムな婚活』協力をしなくてはいけないのだ。言えないけれど。
「あ、だいたい父が車に乗っていくんだよね。その日にあるとは限らないし、車がないと動けない仕事だから」
これはほんとう。ただ柚希が『その日、使いたい』と言えば置いていってくれる。でもそんなことは言わない。
「えー。だったら一緒に来てよ」
「ごめん。休暇に家事をやらなくちゃいけないんだよ」
「あっそっか。お母さんがいないんだよね。大変だよね、いないと」
若干ムッとする。そんな萌子は母親健在の実家暮らしである。
「でも、一日ぐらい手伝ってよ。一日でいいから。だってあの遠い畑までひとりで行けるか心配なんだもん。で、差し入れなにがいいかな。伊万里さん、お菓子とか好きかな」
当てもないことに凄くエネルギーが使えるんだなと感心するしかない。でもこのエネルギーで小柳店長が一瞬だけ墜とされたんだなとも思えた。
「次、一緒の休みって来週の――」
萌子がそう言いかけた時だった。
「神楽さん。また荻野室長から依頼があったから、ギフト詰め合わせを準備してくれるかな。メモはこれ」
店頭にいた小柳店長がバックヤードに入ってきて、柚希のそばにいる萌子の話を遮るように二つ折りにメモ用紙を差し出してきた。
「また綺麗に包装をして紙袋に入れて、企画室2の荻野室長まで届けてくれるかな」
「わかりま……」
「私、やります!」
小柳店長をずっと避けながら仕事をしていた萌子が元気よく手を挙げた。
「すぐに準備をして。今日、夕方持ち出すみたいだから。間違いがないよう渡すように。では太田さん頼んだよ」
「はい!!」
萌子がストックがある保管庫へすっ飛んでいった。企画室2まで届けに行くということは、そこにいる伊万里主任に会えるということにもなる。
店長がその様子を見届けて、柚希のそばでため息を吐いた。
「わざわざ休暇につきあわなくていいよ。あの畑は許可ある関係者以外は、たとえ従業員でも立ち入り禁止。開発している素材の畑で厳重な警備もされているから、そもそも訪ねる玄関すら辿り着けないからね。俺から荻野室長に言っておく。あちらでうまく避けてくれるよ」
あ、聞かれていたんだ……。柚希はそんな無駄口に付き合っていたことに恥ずかしさを覚える。同時に。さすがやり手の店長、めざとく無駄なことをしているスタッフを見つけて、しかも注意をして気分を害するようなことはせず、萌子が喜ぶやり方で遠ざけてくれた。
でも。萌子失態。めざとい小柳店長が見えないように控えていたのか、無駄口を叩いていた内容が『伊万里主任を狙った婚活計画』。その魂胆も知れてしまい、なおかつ、お姉様に報告されることに……。
「あの、ギフトボックスはほんとうに荻野室長からのご依頼だったんですか」
あまりのタイミングの良さに、柚希は疑ってしまう。
柚希がそこに気がついたので、小柳店長はちょっと困ったように首を傾げたが、優しく笑みながら呟く。
「どうかな。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないね」
あ、わざわざ作らせたんだとわかった。
そのまま意味のないギフトボックスを作って、荻野室長がいる三階の企画室2まで届けにいかせて、『そんなものは頼んでいない』と千歳お嬢様が気がつく。でも届けてきたのは少し前に『なにかあったの?』と目に付いた小柳店長と訳ありそうな女の子。小柳店長から頼まれて持ってきたと萌子が言えば『あ、小柳君……。なんかあったんだな』ということが同期生の以心伝心でなんとなく伝わる。伝わったら『ありがとう』と素知らぬふりをして受け取り、後で『あれなんだったの』と小柳店長まで連絡をしてくる。そして報告される伊万里主任狙いの作戦――。
「申し訳ありませんでした。こちらも上手く断れなくて」
「女性が多い職場だからね。そこもわかって店長をしているから、気にしない。それより、その発送依頼を間違えて工場に送信しないようにね」
「はい」
背の高い店長が肩越しに笑顔を見せ、店頭へと去って行く。
やっぱり。笑顔素敵だな。それは柚希もわかっている。いまは店頭販売員が接客するための制服を着ているが、彼が帰宅するときのスーツ姿の男ぶりはモデルみたいだし、柚希が気に入っているのは彼がギフトボックスに包装紙をかけるとき。大きな手と長い指先が箱の角まで綺麗に整うように一気に包みあげる。その手つきを初めて見たときに、おもわず『素敵』と思ってしまったのだ。その時のひたむきな視線もだった。荻野のお菓子への愛情とか、この箱を手に取るすべての人に不快感を一度も持たせないように細心の注意を払って包むその技は、もう職人と言ってもいい。
それに接客している時の姿も、柔らかな笑みの視線をお客様にむけて、的確に要望に応える機転を見ていた時も、柚希はドキドキしていた。
こんな販売員になりたいよ。もし小柳店長に憧れているなら、上等の接客販売員としてだった。もちろん荻野のお菓子を大事にする気持ちが滲み出ているのも素敵。
という素敵の笑顔に、柚希はちょっとときめいても『仕事中だから』と胸の奥に押し込めた。
どうせ。あと一年もしないうちに、店長は異動するのだろう。このビルの上階に。千歳お嬢様の補佐として、企画室か、また修行のために荻野遥万社長の秘書室にひとまず置かれるかはわからないけれど。彼のこれからの行く先はそこのあたりと約束されている。
しばらくすると萌子が『準備できたから行ってくるね~』と、ショップバッグに入れたギフトボックスを手にして、三階の企画室まででかけていった。
さて。どうなるかな。そう思っていたら、バックヤードの端にまた小柳店長がいることに気がつく。でも今度は長年勤務のベテランパートさんを連れてきていて、そのおば様と真剣な顔つきでなにかを話合っていた。
萌子のことかな……。ふと、そう思えてしまった。女性たちの統率も大変なんだろうな。でも大事にならないよう、あからさまにならないよう、いままで快適に働いてこられたのは、あのような水面下での小柳店長の采配のおかげなのかもしれない。
その日の夕方。もうすぐ遅番のスタッフにすべて引き継いであがりかなという時間になる。そのころになると、萌子はもう不機嫌そのものだった。その顔……、お客様に伝わってしまいそうで一緒に店頭に出ていた柚希はもうハラハラ。
企画室へ行くと、萌子のお望みどおりに千歳お嬢様と伊万里主任がノートパソコンを向き合わせ、ミーティングをしていたそうだ。
柚希が予想したとおりなのか、千歳お嬢様は『あ、え、そうだったかな。あ~、忘れていた。そうだったわ、そうだったの。うん思い出した!』と変な反応をしたそうだ。
『自分で頼んでおいて忘れるってなんなのよ』と萌子は腹が立ったと言ったが、目の前には美形のお姉様によく似た弟の伊万里主任がいるので色めき立ったそう。
『でさ、千歳お嬢様が箱を受け取った隙に、目の前にいる伊万里さんに思い切って声をかけようとしたの』。萌子の作戦は《一度、スマート農業の畑を見せてください》――と狙いを定めて出向いたのだそう。それを言おうとした途端、伊万里主任のスマートフォンに電話がかかってきて、彼がそれを片手に部屋の角へと離れてしまったので、話しかけられなかったとか。
いつまでもそこにいるので千歳お嬢様に『戻って良いわよ』と満面の笑みで言われ、そばにいた細野係長に追い出されたのだそうだ。
「なにあのタイミング。私、運がない~」
その時、電話がかかってこなかったら、どうなっていたのかと柚希は怖い。しかも『お嬢様の教育係』として常にそばにいる細野係長の目の前でそんなことをした日には『お嬢様とお坊ちゃんによくない社員』と目を付けられていたに決まってるじゃないのと――。まずはそこに恐れをいだくのが一般的なのでは! と、言いたい。
むしろその電話に感謝すべき。その電話がなければ萌子は一発アウトを食らっていたはずなのだ。
うわ、これは危ないな。どうしよう。
小柳店長はもうベテランパートのリーダーさんに根回しを始めているし、千歳お嬢様も『頼んでいないギフトを小柳君が送りつけてきた』ことで『なにかあるな』と察しただろうし。
ほかの同期の女の子たちに相談したほうがいいのかな。柚希はそう思い始める。放っておけばいいけれど『柚希は黙って見ていたの』とも言われかねない……。
仕事が終わってロッカールームで私服に着替えている時も、萌子は不機嫌だった。
「柚希。畑に一緒についてきてね。お願いだよ」
「関係者以外入れないことになっているでしょう。あそこ、トマトジャムの素材を伊万里さんが厳重管理して育てているところだよ」
「前まで行けばなんとかなるかもしれないでしょ。一度でいいから!」
小柳店長がいい断り方をさりげなく教えてくれていたことにも、柚希はいま気がつき、そのまま伝えてみたのに。それも効かない。
一度だけつきあえば気が済むのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます