第9話 後背を断つ川の音
9
特に何も起きないまま五日が過ぎた。カレンダーを一枚めくり、二月である。大学はテスト期間に入っていた。
忘れかけていたが「蓼食う虫も好き好き」二月号の発行日が目前に迫っていた。前にも述べた通り、この月刊誌は初週の月曜日に出す決まりになっている。もう三日しかないのだけれど、発刊日の直前から制作に動き出すの僕たちの常だった。まずは持ち寄った作品の論評を行い、一日で各自修正を行って、発行前日に冊子制作に取り掛かる。とてもバタバタしている。
テスト期間に入ると、そちらもそちらで大変なのだけれど、とはいえ新年から毎月出すと決めて一か月坊主ではさすがに笑えない。脱童貞などと言っている場合ではない。早速、僕たちは掲載予定の作品を持ち寄って足立の家に集まることになった。孤独会の開催である。
孤独会は要するに論評会だ。特別なことは何もない。留年を重ねていた頃の加賀先輩が「一人二役で論評会をしていた」という伝説に基づいてその名が付けられた。元からおかしかった頭が孤独でさらにおかしくなっていた頃の話だという。「俺の孤独を忘れるな」と加賀先輩は定期的に言っていた。どうやら僕たちが入部して、四人で楽しげに論評会をしているのが気に入らなかったらしい。彼は己の孤独を皆に押し付けるため、勝手に孤独会と命名した。そして、なんやかんやその名は今も受け継がれている。
「では今月も孤独会を開催します」
しきたりに従って、伊東の高らかな宣言が行われ、僕らは厳かに頷いた。ふざけた名前の由来はしているが、活動内容自体は至極真面目なものなのだ。「蓼食う虫」の看板を背負っている以上、適当な作品をそのまま掲載するわけにはいかない。各々の作品について皆で意見を交わし、作品の完成度を高めることを目的とする実に文芸文芸した意識の高い集い。それが孤独会なのだ。
そして、僕らは手始めにスマ〇ラを楽しみ、漫画ブラッ〇ジャックを読み漁り、特に意味もなくスマホを見たりして二時間ほどを無駄にした。いつものことだ。作品の提出は宿題に似ている。論評会はそれらの丸付けだ。僕たちはこれから他メンバーから捻出された童貞文芸を精査し、全身童貞エキスまみれにならなければならない。ささやかな現実逃避が必要だった。
「喫茶でも行くか」
と足立が言い出さなければ僕たちは延々とぐだぐだやっていたかもしれない。
伊東が特に意味もなく足立家の玄関掃除を始めたので、いよいよだと思ったのだろう。逃げても童貞文芸は消えてくれない。僕たちはみな「いやだ」という顔を浮かべながらも、もぞもぞと炬燵から出て上着を着た。行先はいうまでもなく「白鳥」だ。
───
──
─
喫茶店という環境に身を置き、ついに現実逃避する術を失った僕たちは、やむをえず孤独会を真面目に進行した。冊子一冊分の提出作品を読むという行為はそれだけでも中々骨が折れる。全部読み終わるころには日が傾き始めていた。
「例の女がこれを一気に読んだら」
全ての作品を読み終えて皆が一息ついていると、足立が口を開いた。どうやら僕たちの作品を「童貞」と評したあの感想の主のことを言っているらしい。
「アレルギー反応を起こして死ぬぞ」
「何アレルギーよ」
「童貞アレルギー」
僕たちは「ううむ」と唸る。確かに今回提出された作品たちはどれも酷い有様だった。
僕が提出したのはミステリ風味を加えた恋愛小説だ。主人公の男子大学生には、同学年の恋人がいる。彼は恋人と共に順風満帆な大学生活を送るのだけれど、とある飲み会に参加したことをきっかけに、彼女の知られざる一面を──要するにその放蕩な性生活を知ってしまい、青春の闇へと落ちていくという内容だ。
ストーリーを思いついたときは悪くないような気がしていたのだけれど、実際にこれを執筆するのは途轍もない苦痛が伴った。何せこちらとら同学年の恋人も順風満帆な大学生活も放蕩な性生活も手にしたことのない清らかすぎる人間だ。清廉潔白といえば聞こえはいいが、むしろ無に近い。無から有を生み出すのは大変な作業だ。
この作品に登場する人物たちは、僕からしてみればファンタジー世界の住民とそう大差なく、自分の想像のみで補うにはいささか難しかった。仕方ないのでいくつかの映画やそれっぽい文芸作品を鑑賞し、それらを融合して僕の考える順風満帆なカップルを創造した結果、彼らは無事に空虚な怪物と化した。
定まらない人物像。理解不能な心理の動き。すっからかんな会話内容。噴飯ものの性描写。
「僕もこれでいいと思っているわけじゃない」
僕はコーヒーを啜りながらしみじみと言う。
「でも、どこをどう直せばいいのか分からない。助けて」
伊東と桜井の作品も僕と同じような末路を辿っている。
まず伊東だけれど、彼が連載している長編ハイファンタジー作品が、突如として性的な展開へと突入した。今まで培ってきた硬派な世界観の中に唐突に挿入されたベッドシーンは、ただでさえ設定てんこ盛りで意味が分からなくなりつつあるこの超大作を、さらに深い混迷の渦へと誘っていた。僕らですら困惑しているのだから、一般読者の皆さん(存在するなら)はついていけないに違いない。
「ここで読み返すまでは良いと思っていたんだが」
伊東はスコーンをかじり、自分の原稿をしげしげと眺めながら言う。
「なんだこれは。俺は自分が恐ろしい」
桜井の作品に関しては、もはや病的だった。一言でいうとイチャイチャラブコメディだ。ほっぺたが千切れそうになるような甘々なやりとりを高校生カップルが延々と繰り広げる。そして、その高校生カップルというのはどちらも女の子だった。要するに百合ということ。
いや、それは別にジャンルとしては有りだと思うのだけれど、むしろ僕の好みなのだけれど、そういう作品をいっぱいブックマークしているのだけれど、ともあれ、これを生み出したのが桜井だということを考慮してほしい。十二年間、零れんばかりの片思いを体内でひたすら培養し続けていた男だということを。特に科学的な裏付けがあるわけではないけれど、すごく危険な作品であることは確かだ。
「失恋ストレスだな」
桜井はおかわりした紅茶をティースプーンでからからと混ぜながら、何か納得したように頷く。
「ストレスは人をおかしくするね」
例の感想が送られてきた一月号の作品たちでさえ、これほど酷くはなかった。いや、確かに今読み返せば、あの感想が送られてきた理由には納得がいく。僕たちの作品には、常に経験不足ゆえの問題が生じている。主に異性の描写に。しかし、それを払拭しようとする気持ちが強すぎて、余計に気色の悪いモノを生んでしまったことは明らかだった。もう手の施しようがない。
「あの感想を書いた女を見返すには」
足立が原稿の一枚を、まるで汚いものを触るように指先で摘まみながら言う。
「本当に彼女作るしかねえかもなあ」
当事者でなければとても馬鹿馬鹿しい発言に聞こえるだろう。いや、当事者である僕ですら実に馬鹿馬鹿しいとは思う。だけど、二月号の無残な姿を見た後だと、これまで冗談半分で話していた脱童貞作戦が急に実用性を帯びて見えてくる。もしかしたら本当に必要なことなのかもしれない。いやまじで。
気づけば僕たちは背水の陣。打開するには腹をくくっての突撃しかないらしい。
「そうさなあ」
足立のイラストを眺めながら、伊東はつぶやく。
彼の小奇麗な挿絵だけが、このグロテスクな二月号の救いになりそうだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます