第7話 孫子に学ぶ恋愛論
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彼を知り己を知れば百戦危うからず。
紀元前500年頃の中国の名将・孫武が残したと言葉だという。ここでいう「彼」とは簡単にいうと敵のことで、センター試験で漢文24点だった僕の要約によると「敵のことも知って自分のことも知っていれば百回戦っても負けないよ」という意味になる。
古来より名高い兵法書「孫子」に記されていた一文なので当然軍事についての格言なわけだけれど、この「孫子」に記された理論の多くは世の中の様々なことに応用できることでも名高い。「孫子の兵法から学ぶ現代ビジネス」「孫子の兵法から学ぶマネジメント」──そんな新書が世の中にはぽんぽんと出回っているのだから、これは本当に何にでも使える理屈に違いない。そう、もちろん恋愛にも。
僕が相沢さんのことをよく知っているかと言われると、それはノーだ。
相沢さんはあまり自分のことを語ろうとはしなかった。大学のことや、過去のこと、周りの友人のこと。今までそれなりに会話してきたとは思うが、彼女がそういったことを自分から話しているイメージはほとんどない。聞けば答えてくれるので特別隠しているわけでもないようだけれど、彼女はそういったおしゃべりをするタイプではないらしい。
一つ重大な問題があった。そもそも、相沢さんには彼氏がいないのか、ということだ。もしも相沢さんが彼氏持ちだというのなら、今の僕はとんだピエロということになる。桜井のことを全く笑えない。
ただこれは、過去に一度だけ尋ねてみたことがあった。
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七月頃のことだったと思う。その日もその日とてバイトに出ていた僕は、廃棄の日が近づいているお気に入りのスイーツ商品を、あえて後ろに並べなおすという恐ろしく姑息な仕事に励んでいた。こうすることにより、このスイーツが廃棄落ちりする可能性が高くなり、僕たちバイトが持って帰れる可能性も上がるのだ。
僕は間違いなく店員のクズだったけれど、その日は11連勤目で心がやさぐれていたことは考慮してほしい。僕はエクレアの順番を入れ替え終わり、一人で「ふふふ」とにやけた。たぶん疲れていた。
相沢さんが商品をきれいに並べなおしながら、こちらを見ていることに気が付いた。露骨に呆れた顔をしている。僕は咄嗟に何か話をして、誤魔化さなくてはと思い立った。
「相沢さんって彼氏いるの」
それでそんな話を切り出した。唐突に。
思うにこのころの僕は彼女に好意を持ち始めていた時期で、話しかけられる場所に好きな異性がいるという緊急事態に慣れていなかったので、少し会話の距離感がおかしくなっていた。そのうち隙があれば聞いてみようと思っていたことが、咄嗟に口をついてしまったのだ。
相沢さんが「えっ」と絶句したので、僕は己が犯してしまったことに気が付いた。世はこれをセクハラと呼ぶ。
「あーそのー今月の相沢さんの話がそういうのだったから」
僕は咄嗟に言い訳をひねり出した。その月の「春夏」に掲載された相沢さんの作品は、男女交際についての話だった。とある女性が好きな男性と妄想の中でお付き合いをする幻想小説で、これが大変面白かったのだけれど、それはそれとして、この言い訳もたいへん気持ちが悪い発言になっていることに僕は気が付いた。これではまるで僕が個人的興味で相沢さんの作品を読んでいると受け取られかねない。いや実際その通りなんだけど。
「ほらうちも文芸サークルだし、敵情視察のために春夏秋冬は毎月読んでるから」
弁明の弁明。かーっと頭が麻痺し、もう訳も分からず喋っている。それでも相沢さんが「なるほど」と納得してくれたので、僕は内心でほっと一息ついた。
「いませんよ」と彼女は事もなさげに答えた。
「へえーモテそうなのにね」
「ぜんぜんそんなことないですよ」
「僕には彼女いると思う?」
「いないでしょうね」
「なんで即答なの」
「だっていないでしょ」
むきーっと怒るフリをする僕を見て、相沢さんは笑った。エクレアを得るために姑息な策を弄していたことはどうやら誤魔化せたようだ。
こっそり安堵したのを覚えている。なんだ、そうかそうか、彼氏はいないのか、じゃあもしも何か機会があれば。そんなことを考えて、全く何も起きないまま、いつの間にか半年ほどが過ぎた。半年も開いてしまえば、もう何が起きていても不思議ではない。
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「相沢に彼氏っすか? いないって言ってましたけどねえ」
時刻は夜の九時を回っていた。地獄の8連勤のラストということもあって身体的にも精神的にも疲れ切っていたけれど、なんとかラッシュの時間帯を切り抜けて、店内からは人が捌け始めている。特にやることもなくなってきたので、対ラスボスさん戦に備えておでんの補充を行いながら、僕たちは雑談タイムに入っていた。
今日の相方の堀江君は、相沢さんと同じ一年生。身長は高くないががっちりとした体躯、浅黒い肌に、固められてギラギラした短髪。複数の飲みサークルに所属している彼は、いかにも肉食系といった風貌の男だ。家庭的な女がタイプで、美味しいパスタ作ったお前に一目ぼれし、大貧民負けてマジ切れしそうな雰囲気といえば説明としては十分だろう。僕とはまさに正反対で、バイト先で一緒にならなければ一生つるむことのないタイプだ。
しかし、先輩後輩という関係性は時として妙なマジックを生むもので、僕たちはそれなりに会話をする仲だった。僕が童貞であることを彼は知っているし、彼が包茎であることを僕は知っている。そして、堀江君が信じられないくらい口が軽いことも、すでに把握済みだ。
「ふーんそうなんだ」
僕はこんにゃくが入ったパッケージをまじまじと見つめ、あまり興味がないといった風をこれでもかというほど装いながら答えた。
もちろんこの相沢さんの話題も、唐突に振ったわけではない。堀江君の友達が彼氏に二股されたという話題を二転三転させ、堀江君の姉が最近BLに嵌っているという話に繋げ、堀江君が最近頻尿だという死ぬほどどうでもいい情報を経由して、最終的に相沢さんへの話題に繋げたのだ。なぜ繋がったのかは自分でもよく分からない。
万が一、僕が相沢さんに気があるなんてことが堀江君に知られたら、その情報は火が燃え広がるが如く店内の人間に知れ渡るだろう。相沢さんの耳にもあっという間に届くに違いない。彼は仮に国家機密を知ってしまい「喋ったら殺す」と脅しをかけられたとしても、ノリノリで他人に喋ってしまう男だった。何ならラップにして、Yo〇tubeに投稿くらいのことはする。バイト先の先輩の恋愛事情など、三秒で世界に発信されるかもしれない。故に僕は慎重にことを進めていた。
あの子けっこう謎なんすよね、と堀江君は言った。
「一か月くらい前にワンチャンあるかなーって遊びに誘ったことあるんすけど断られちゃいました」
そういって堀江君は「ぐへへへ」と下衆っぽく笑った。一か月前。僕は胸が軽くなるのを感じた。
それにしても堀江君がこういうことを言っても、不思議と嫌な気分にはならない。猫が鼠を追うのと同じで、堀江君のような肉食系は、女の子を見れば狩猟ハントを仕掛けてしまうのが本能なのだ。咎めても仕方ないし、そもそも咎める権利が僕にはない。
ちょっといいなと思ったら即行動。堀江君の話を聞いていると、実際のところ男女の仲なんて、本当はそういう風に行われているかもしれないと時々思う。十二年も片思いを育んだり、「本当に好きなのか」と一人で自問したり。そうやってうじうじと悩んだりする人間は実は少数派で、なんだか物凄く不要なことをしているんじゃないだろうか。少なくとも、こうやって自分が拒否された事実を気楽に他人に話せる堀江君を、僕は少し羨ましく思うことがあるのだけれど。
「ま、そのとき俺は彼女がいたんすけどね」
と台無しになることを彼が続けたので、僕はやっぱり肉食系ってクソだわ、と心の中で手のひらを返した。
「今の彼女と同じ人?」
「いや違う人っすねえ」
「とっかえひっかえだなあ」
「まあ一年間で五人と付き合ったんで」
「は? まじ?」
「まじっす。今の彼女が五人目」
彼と話していると時々宇宙人と会話しているような感覚になる。本当に彼は人類なのか。それとも僕が人類ではないのか。「君はうちのサークルにいたら処刑されてるよ」とボヤく僕に、「陰キャ怖いっす!」と彼がド直球の悪口で答えたので、僕は思わず笑った。
相沢さんのことを探るつもりが、何故か堀江君について詳しくなっている。少なくとも今日だけで堀江君が頻尿だということ、姉がBLに嵌っていること、そしてこの一年で五人の彼女がいたことを知ってしまった。どの情報も全くもって必要ない。特に頻尿の情報。
どぼどぼ、と堀江君が卵をおでんスペースに投入した。僕が下らない思考を巡らせている間にも彼は次々とおでん補充を進めている。ぷかぷか浮かぶ卵を菜箸でつつきながら、「でもそういえば」と彼は何かを思い出したようにいった。
「好きな人がいるからって言ってたっすねえ」
そして「あ、これ言っていいことか分かんないでオフレコで!」と続けた。ぐへへと笑っている。
彼を知り己を知れば百戦危うからず。
その教えは結構だけれど、情報をどう活かすかも教えてくれよ孫子さん、と僕は思った。
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