第6話 飛び交う鉄は愛の文
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桜井が「帰る」と言い出したので解散する運びとなった。講義後に足立宅に集まってス〇ブラをする予定だったが、どうにも気分が乗らないらしい。あの子と通話するつもりじゃ、俺たちよりもあの子を取るつもりじゃ、と伊東が騒いだが、彼の訴えは無事無視された。時刻は午後の三時半過ぎ頃。今日のシフトは五時からだ。このまま家に帰っても暇なので、僕は「白鳥」で読書でもすることにした。
喫茶「白鳥」は大学のすぐ近くにある小さな喫茶店だ。大通りからそんなに離れてはいないけれど、数本道を外れた寂れた通りにある。どこの街にもあるこじんまりとした、とはいえオシャレさは失っていない喫茶店を想像してくれれば、その雰囲気は伝わると思う。店先を彩る地味だが手の行き届いたガーデニング、一人で入るには少し勇気のいる小さな入り口、どこか懐かしい色の家具たち、濡れるようなオレンジ色の蛍光灯。
正直なこと言うと僕には、コーヒーの味も紅茶の味も大して分からない。周りがおいしいといえば美味しい気がするし、まずいと評判ならまずい気もする。でも、僕はこのお店の雰囲気の中でコーヒーを飲むのが好きだった。
一年ほど前にすぐ近くにスター〇ックスができて、顧客はすっかりそちらに移ったようだが、そこでブレるのは野暮というもの。僕は今もこの雰囲気を求めて「白鳥」に通っている。ということに体裁上はなっている。
ちりん、と扉を開ける。店内に目を走らせると、奥の席に相沢さんがいたので僕の中でドキリと鼓動が打った。こちらに気がついている様子はまるでなく、僕も気づかれたいわけではなかったので、少し離れた席を選んで座った。
一つ言い訳させてほしいのだけれど、「白鳥」の存在を相沢さんに教えたのは僕だ。「どこか集中できる場所がほしい」と言っていた彼女に、僕がおすすめした。もう一度いっておこう。僕がおすすめした。
つまり、僕は元々「白鳥」の常連で、彼女のほうが後から常連になったということ。いや確かに僕はいつの間にか「相沢さんに会えないかなあ」と邪な考えを持つようになって、今まで月一くらいで通っていたこの店に週二くらいで足を運ぶようになったのは事実なのだけれど、大事なのは先後だ。これをストーカー扱いするのは当たり屋的発想。むしろ見方によっては彼女が僕目的で来店しているという可能性も、ほんの少しだけある。ほんの少しだけ。欠片ほど。
店員さんにコーヒーを注文してから、カバンから「世界の名将100選」を取り出した。昔、加賀先輩がお金に困って蔵書を裁いていた時に押し売られた忌み子の一冊だ。せっかく買ったのだからと時々少しずつ読み進めているのだけれど、たまに読む分にはなかなか面白い。
僕は孫武の項目を読み進めるふりをしながら、ちらりと相沢さんのほうに目をやった。相沢さんはノートパソコンと向かい合っている。少し手を止めて考えているかと思うと、すらすらとタイピングを始め、また少し手を止める。今日も今日とて、執筆しているらしい。集中しきっているようで、まるで他の客に気を配っている様子はなく、欠片ほどの可能性が存在しないことは明らかだった。
恥ずかしくなって目をそらした。店内に響く控えめなタイプ音を聴きながら、そろそろ締め切りの時期か、と僕は思った。
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「蓼食う虫」と「春夏」は、どちらも第一週目の月曜日に冊子を配っている。発行日が被っているのは偶然ではなく、加賀先輩が仕込んだ計略によるものだ。
発行日を被らせることで「春夏」から読者を奪うことが当初の狙いだったそうだが、「蓼食う虫も好き好き」の配布数の少なさを考えると、この浅はかな謀がうまくいっていないことは明白だった。
「蓼食う虫」制作の文芸冊子「蓼食う虫も好き好き」と「春夏」制作の文芸冊子「春夏秋冬」。どちらも展示スペースや食堂前などに置かれ、興味のある人なら誰でも無料で持って帰れるフリーペーパーなわけだが、同じような場所に、同じタイミングで配られていれば、より有名なサークルのものを手に取るに決まっている。
被りによる損害を受けているのはむしろ僕たちではないか、何故格下が格上に正面対決を挑んでいるのか、そもそもこのサークルの存在意義はあるのかなど、様々な疑念が僕たちの間で生まれたのは昨日今日の話ではない。しかし、加賀先輩にぐちぐち言われるのが嫌だったので、発行日を変更するようなことはしていなかった。
当たり前の話だけれど「春夏」は大学公認なだけあって、ウチとは比較にならないほどまともなサークルだ。彼らは月の半ば過ぎ頃に掲載作品の論評会を行い、部員の皆で添削などをこなすのだという。そして、余裕をもって最終原稿を集め、製本作業へ。締め切りは、一日の遅れも許されないらしい。
なので、相沢さんも締め切り前になるといつも必死に作品を書いている様子だった。向こうはサークル部員が二十人ほどいるため、部員一人一人が毎月掲載する必要はないみたいだけど、彼女は入部してから今に至るまで皆勤賞。毎月かかさず自分の作品を掲載している。
絵しか描かない足立、平気で期限を超過する僕、急にメンヘラ化して何も書かなくなる桜井、締め切りが近づくと一時失踪する伊東。
みな、相沢さんの爪の垢を煎じて飲むべきだった。
「何してるんですか、甲野さん」
暖かいものを飲んで少しウトウトしていると、いつの間にか相沢さんが横に立っていた。どうやら、お手洗いの帰りに僕の存在に気が付いたらしい。
僕は「世界の名将100選」を閉じると、「やあやあ」と努めて冷静な調子で答えた。内心ではばくばくしながら。
「講義帰りですか?」
「んーそんなとこ。シフトまで時間が余ってたから」
「今日もバイトなんですか? 何連勤です?」
「8だねえ」
「やばいですね。やばい」
「加賀先輩が悪いよ加賀先輩が」
僕がそういうと相沢さんは少し笑った。彼女は加賀先輩の話も大変気に入っている。バイトや大学生活で何か悪いことが起きると、とりあえず加賀先輩のせいにするのは僕の鉄板ネタだった。二浪したくせに大学にも行ってなかった加賀先輩は、バイト現役時代は大車輪の活躍を見せていたという。その幻影から冷めない店長が、僕を彼の後継者にしようとしている故のことなので、これはもう加賀先輩の責任といっても過言ではない。奴の罪は重い。
「完成しそう?」と僕が尋ねると、彼女は「今日中には」と答えた。
「大変だねえ、そっちのサークルは」
「甲野さんたちが緩すぎるんですよ」
「うーん一理ある」
「間に合わないと怒られちゃいますから」
「まあ、相沢さんの作品を楽しみにしてる人もいるだろうしねえ」
「居ますかねえ。そんなひと」
「いるいる」
「甲野さん適当なこと言いますからね」
「まあね」
「まあね、じゃないですよ」
彼女はまた「ふふ」と少し笑った。
いざ話始めると、意外とスムーズに会話ができる。でもそれだけ。当たり障りのない会話だけ重ねて、僕は相沢さんに踏み込まないし、彼女も自分から招き入れようとはしない。
桜井の躍進に危機を覚えて尚。
「僕は楽しみにしている」の一言は、気持ちが悪いような気がして、どうにも喉を通り抜けていかなかった。
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僕が好きな相沢さんの作品に「片思い戦争」という短編作品があった。「恋愛は戦いだ」というどこかで聞いたような言葉を信条に掲げる主人公の女の子が、難攻不落の思い人に攻撃を仕掛けるという話である。
とても在り来たりなあらすじなのだけれど、この作品の見どころは言葉のやりとりが全て戦争の描写に置き換えられているところにある。彼女の言葉一つ一つは矢になり、銃弾になり、ミサイルになったりするのだけれど、それを男は迎撃し、その難攻不落っぷりを見せつける。ただひたすらに二人の間で行き来する言葉・駆け引きが、兵器となって互いの本丸を狙う様を描写した謎の作品だ。
彼女の描く小説は、いつもバイオレンスだった。といっても、バイオレンスなことが起こるお話というわけではない。彼女の書く舞台は、いつも現実の日常で、平凡なことが起こる。ただ、そこに吐き出される彼女の文章は、全くもって平凡ではないのだ。
理路を突き抜ける感性の文章。彼女の文章は1の次に2が来るわけではなかった。1の次に突然5になり、7になったりする。支離滅裂に見えて、それでいてハチャメチャにはならず、その飛躍が読んでいる僕の中にすんなりと入ってくる。跳ね上がる感情や想像の広がり、そのほとばしる跳躍が、文章の理屈を置いてけぼりにする。突然放たれた飛び道具のような一文が、不意に僕の心を連れ去っていく。何でもない日常を描いているはずなのに、次の一行に何が出てくるか分からない、そういう感性のジェットコースター。
僕は彼女の突飛な文章が好きだった。
「恋愛は戦いかあ……」
自席に戻る相沢さんの後ろ姿を眺めながら、僕はふと手元に「世界の名将100選」があることを思い出した。
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