第4話 冬将軍が進む夜

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 鍋の残飯を食して散々ごろごろした後に、僕は桜井たちと別れてバイトに出かけた。大学付近にある某イレブンだ。ここはかつて加賀先輩が働いていたところで、彼がエースとして六年間勤め続けたところでもある。彼の紹介で入店した僕も今では古参に当たる存在になっていて、近頃店長は隙あらば僕の名前をシフト表に突っ込むようになっていた。店長は僕の生活をバイトで埋め尽くし、加賀二世を作ろうとしている節がある。僕はこんなところでも加賀先輩が残した忌々しい呪いに苦しめられていた。

 夜はそれほど忙しい店でもないため、基本的にシフトは二人体制になっている。今日の相棒は相沢さんだ。学生たちが押し寄せる黄金タイムも終わり、店の中が閑散としてくると、彼女はいつものように話しかけてきた。

 

 「甲野さん、昨日は何を読んだんですか」

 

 「ドストエフスキーの『白痴』だよ」と僕は答えた。彼女が「嘘でしょ」とあっさり看破して、僕たちは笑った。


 彼女は文学部の一年生だ。もう間もなく二年生になる。要するに僕たちの一つ下の後輩にあたる。趣味は読書と映画鑑賞。是非とも「蓼食う虫」に勧誘したい逸材だったが、残念なことにすでにもう一つの文芸クラブ「春夏」に所属していた。文芸に興味がある学生たちはみな「春夏」に取られていく。あっちが主流なんだから当たり前といえば当たり前だ。僕たちは、「春夏」を潰さねばと常々思っていたが、あちらの巨大な戦力と比べて、こちらはあまりにも貧弱だった。たった四人のメンバーで、そのうちの一人はイケメンだけど絵描き。残り三人は童貞だ。全く持って勝負にならない。

 「春夏」のメンバーの大半は僕たちの存在を認知すらしていないが、相沢さんはどういうわけか「蓼食う虫」を面白がっていた。なんでも「笑えるから」ということだ。これが誉め言葉なのかどうかは諸説が分かれるところだが、話のネタになるなら何だろうと構わない。それに彼女はたまに僕たちの冊子を手に取ってくれているのだという。なんといい子だろう。ただ、感想を尋ねても「秘密です」としか答えてくれなかった。

 桜井の失恋を告げると相沢さんはひとしきり笑がったあとに、ひどく残念がった。彼女は桜井の独りよがりな愛を、大変面白がっていた。

 

 「味気ない最後ですね」


 相沢さんは囁くように言った。彼女の声はいつも小さかった。レジ打ちしている時も小さいままなので、客から聞き返されることもしばしばだ。しかし、その声は風が抜けるように涼やかで、耳をそばだてて拾いたくなるような不思議な響きがあった。


 「まあ現実なんてそんなもんってこと」

 「北川さんは、そんなに魅力的な人なんですか?」

 「遠めに見た時は普通の女の子に見えたけどなあ」

 

 相沢さんの声を拾いながら、僕は幾度か校内で見かけた北川さんの姿を思い起こした。彼女はいつも多くの人に囲まれていて、それ故に会話はおろか近くで見たこともなかった。小柄で可愛い感じの女性ではあったが、遠くから見るだけではそれ以上に何か思うようなところはない。

 

 「相手に気づいてすらもらえないって可哀想」


 控えめな小鳥の囀りのような声で、彼女は言った。

 それは確かにそうだった。ただ、それは君が言っていい言葉ではないとも思った。

 

 ───

 ──

 ─

 

 コンビニの店員というのは、常連客にあだ名をつけるのが大好きだ。某マートで働いている友人も同じことを言っていたから、これは全国的かつコンビニ派閥に囚われない風習に違いない。だから、僕は客としてコンビニを利用する時はなるべく特徴を見せないよう気を付けた。ちょっとでも変なところがあれば、影で何て名前をつけられるか分かったもんじゃない。


 この店でも「ブラックさん」というあだ名をつけられている常連客がいる。彼は、去年の春ごろからよく来るようになった客で、いつもブラックコーヒーを買っていくことからその名が付けられた。また服装が、黒一辺倒であることのも理由だろう。僕は彼から自分たちと同じ匂いを嗅ぎ取っていたが、それもそのはずだ。彼は僕と同学年の「春夏」の部員だった。


 彼は月火木日曜日によく現れた。そして、その曜日はいつも相沢さんがシフトに入っている曜日でもあった。わお、びっくりすごい偶然だ。ブラックさんが僕のレジで買い物をしたことは一度たりともない。僕がレジ番をしている時、彼は三島由紀夫作品を読み進める時のような速度で週刊少年ジャンプを熟読し、彼女がレジを空けるとブラックコーヒー片手に滑り込んだ。もちろん、彼らは同じサークル部員同士。知らぬ仲ではないから雑談を始めるわけで、僕はそれを苛々しながら見ることになる。

 その日もブラックさんはやってきて、僕らの雑談を遮った。

 

 「やあ、相沢さん」

 

 僕の「こちらへどうぞ」という声を無視して相沢さんのレジに立つと彼はしれっと話しかけた。

 

 「こんにちは先輩」

 「今月の分はどう。修正は終わったかい」

 「あとちょっとで終わりそうですよ」

 「それはよかった。もうちょっとで締め切りだからね」

 「先輩はどうかしたんですか? 最近提出してないですよね」

 「まあ色々とあってね」

 「そうですか」

 「俺もバイトでも始めようと思ってるんだ」

 「いいじゃないですか」

 「そう。この辺りでいいところでもあればいいんだけど」

 「そうですねえ」

 「うん」

 「……」

 「……」

 「では俺はそろそろ」

 「あ、はい。ありがとうございました」

 

 彼がほくほくとした顔でお店から出ていくと、彼女は僕のところへやってきて言った。

 

 「先輩、ブラックコーヒー飽きないのかなぁ」

 

 彼はとっくに飽きているだろうと思ったけれど、僕は「創作にはカフェインがつきものだからね」と言っておいた。

 

 ───

 ──

 ─

 

 常連客のラスボスさんを退治して、僕たちの仕事は終わった。ちなみにラスボスさんとは、いつもシフト終了間際の時間帯にやってきて、大量のおでんを買っていくことから付いた名前だ。店員からするとおでんの購入がひどく面倒くさい作業なことは、古今東西有名な話である。僕たちは、ラスボスさんの悪口と、彼のおでんの好みの変遷に関する考察を交えながらお店を出た。時刻は夜の十一時。僕らは歩いて一緒に帰った。偶然にも変える方向が同じなのだ。


 言葉が吹き出しのようになって通りの薄暗い影の中に消えていくのを見ながら歩いた。話題の合間合間に「寒いね」とつい僕がいう。寒波はピークを迎えようとしていた。外を歩けば、春はまだまだ遠いということが分かる。ただ、カレンダーを眺めると春はそう遠くない。

 僕はずっと言い出すタイミングを計っていた話題を「そういえば」とまるで今思い出したかのように前置きしてから言った。いうまでもなく新入生歓迎会までに彼女を作ることになったという話だ。相沢さんはくすくすと笑った。

 

 「中学生みたいですね」

 

 彼女の言葉に僕は「うむ」と頷いた。確かに僕らの行動は中学生じみている。中学生時代に中学生らしい青春を送ってこなかった代償かもしれない。

 

 「あてはあるんですか?」

 「ない」

 「まあそうでしょうね」

 「そうでしょうとは何だよ、そうでしょうとは」

 「だって、そうでしょう」

 「まあそうなんだよね」

 「あはは」

 「出来るかなぁ彼女」

 「難しいんじゃないですか?」

 「そう思う?」

 「はい」

 「悲しいなあ」

 「あはは」

 「悲しいなあ」

 「そもそも女の子の部員が欲しいから文集を書くんですよね?」

 「うん、そうだよ」

 「そのために彼女を作るって何だか手段と目的があべこべになってないですか?」

 「ん? たしかに」

 

 僕はあれ、と首を傾げた。まったくもってその通りだ。恋人が出来たなら、部員なんてどうでもいいじゃないか。何処かの男を適当にひっ捕まえて引き継がせてもいいし、というか廃部になっても別に構わない。手間をはぶいて加賀先輩も悲しませられるのなら一石二鳥だ。

 

 「女の子に飢えて可笑しくなってるんだねえ」

 

 僕がしみじみと言うと、相沢さんは例の囁くような声で「甲野さんらしいですね」と笑った。


 ───

 ──

 ─

 

 例えば絶海の孤島に男女を二人っきりにさせたとしたら、その二人がどんなに憎み合ったとしてもいずれは愛し合うようになるだろう。二人はきっと孤独を埋め合う様に時間を共にし、相手を世界で唯一の人だと考え始める。しかし、やがて他の異性が溢れる世界に戻った時、彼らはこれまでのことはあっさりと水に流して、別々の道を歩き始めるのだ。閉鎖された世界、人間関係というのはそういった間違いを引き起こす。寂しさは負の魔法だ。さて、何が言いたいかというと、僕の感情も、その類のものかもしれないということだ。お察しの通り僕は相沢さんに恋をしていたのだけれど、それがどの程度の感情なのか自分でも全く分からなかった。ここ一年の間、僕の半径二メートル以内に一分以上留まって会話をしてくれた異性は、怪しげな宗教新聞を携えたおばさんと相沢さんくらいのものだった。いわば相沢さんは不戦勝だ。仮にそれが相沢さんでなかったとしても、僕は惚れていたかもしれない。僕が今まで何も動けずにいたのはそのためだ。恋愛はそう軽々しく行うものではない。きちんと好きだと確信を得てから、ことを起こすべきだ。


 というのは全部建前で。

 僕はただ単に彼女に嫌われることを恐れていた。

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