第2話 童貞軍の急先鋒
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さて、ようやく桜井の話に繋がる。脱童貞軍団を目指して急先鋒を任されたのが、部員の桜井だ。彼は十二年間ずっと同じ女の子に片思いをしているツワモノで、一途という言葉を大いに履き違えている恐ろしい男だった。その意中の女性は北川さんという人で、僕たちと同じこの大学の法学部に所属している。そう、桜井は彼女を追ってこの大学に進学したのだ。彼は半分犯罪者だった。
彼が法廷に駆り出されないのはひとえに奥手すぎるからだ。桜井はこの十二年間、北川さんに全くアピールすることなく過ごしてきた。曰く、小中学生時代はクラスメイトだった時期もあり、それなりに交友があったが、高校以降はほとんどまともに会話したこともないのだという。
小中高大と、何故かずっと同じ学校にいるこの男のことを、北川さんが認識しているのかすら怪しかった。桜井はあまりにもシャイだった。それに、打たれ弱かった。彼が「蓼食う虫」に入ったのも、北川さんがテニスサークルへ入部したことに絶望したからだ。テニスサークル部員はみな性的に乱れているというのは、僕たちのなかでは常識的な偏見だった。
僕たちは手始めにサークル総出で桜井と北川さんをくっつける計画を立てた。童貞感を消し去るには、非童貞になるのが一番だろう。僕たちは、文集のレベルをあげるために、という建前で、ただ面白がって桜井の恋を応援することにしたのだ。
しかし。すぐに、僕たちの計画はとん挫することになる。少し調べただけで、北川さんに彼氏がいることが発覚したのだ。相手は同じテニスサークルの男だった。桜井の十二年に及ぶ思いは、あっさりと敗れた。
そして、この鍋パーティーに至るというわけ。
───
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─
堰を切ったように白菜を口に放り込みながら、桜井は僕たちへの怒りをぶちまけた。これは僕たちからすれば全くもって理不尽な怒りで、何故怒られなければならないのか冷静に考えると意味不明だ。
北川さんは普通に男の人と付き合っていて、僕たちはそれを発覚させただけなのだ。むしろ桜井がさらなる無駄な恋心を育むことを阻止した分、実にいい働きをしたといえるのだけれど、桜井に言わせると「こんなに苦しむくらいなら知りたくなかった」ということらしい。しまいには「自分が知りさえしなければ、北川さんには彼氏がいなかったも同然だ」とシュレーディンガーの猫みたいなことを言いだしたので僕たちは恐れ慄いていた。
いよいよ頭がおかしくなりつつある。僕らが反論せずに黙っていたのは、この男の情念の深さに敬服していたからだったが、それもそろそろ限界だった。
「バカみたいなことを言ってないで現実を見なきゃいかんよ」
伊東がお玉で豆腐を掬いながら言った。「北川さんのことは忘れろ」
「忘れられるならとっくに忘れてる」桜井は言う。「俺にとっては永遠なんだ彼女は」
「悪いのは加賀先輩だ」
僕は試しに新説を打ち立ててみた。桜井の怒りを少しでも他に反らす作戦だ。
「それは一理ある」と桜井は同調した。
「奴が全て悪い」
しばらくの間、加賀先輩の悪口で盛り上がった。僕たちを薄暗い青春の闇に引きずり込んだあの男は、帰郷後ものらりくらりと暮らしているそうだが、つい先日、大学生の恋人ができたという。無職ではある。無職ではあるのだが。
事態を重く見た僕たちは彼を「蓼食う虫」のOBから除名することに合意した。処刑されないだけ有難いと思え、というのが僕らの総意だ。創設者が除名とは一体どういうことなのかという疑問が呈されたけれど、女子大学生を篭絡したという罪の重さがそれらの問題をウヤムヤにした。許せない。
僕たちは彼が犯してきた悪行を公にし、加賀先輩の将来を台無しにする計画について話し合った。しかし、無職である以上、彼には台無しにするような価値のある将来が待っていなさそうでもあった。
加賀先輩は相も変わらず「蓼食う虫」の存続と「春夏」の打倒に拘っている。彼は除名をまるっきり無視して半ば無理やりこちらとのやりとりを続けていたが、いつも最後に「蓼食う虫を存続させ、サークルの伝統を守れ」「春夏を倒し、公認サークルに成り上がれ」「俺の偉大さを語り継げ」としつこく念を押した。
伝統も何もお前が一人で積み上げただけじゃないか、と僕たちはいつも思っていたが、誰も彼の前では口にできなかった。
「加賀式延命術だけは俺は御免だぞ」と伊東が言った。
加賀式延命術とは、言うまでもなく留年してサークルの命をつなぐ秘術だ。人生をサークル活動に捧げる狂人にのみ扱えるといわれている。正直なところ、僕たちはこのサークルを加賀先輩ほどには大事にしていなかった。僕たちの代で潰れるならそれでも構わない。僕たちはサークルを存命させたいのではなく、ただただ女の子と活動をしたいだけだ。
「やはり、新入部員を獲得するしかないね。女の子を」と僕が言うと、伊東は「うむ」と頷いた。
「しかし、童貞感はどうする」
「妄想でどうにかできないかな」と僕が答えると、足立は呆れたように肩をすくめた。
「それでどうにかなるなら悩む必要はないな」
「お前は少しくらい文芸活動をしろ」と伊東が鋭く突っ込むと、その横で桜井が「北川さん……」と恐ろしく哀愁のこもった声で呻く。彼の怒りは遠いところへいる加賀先輩に向けられ、そして行き場を失ったらしい。萎れた桜井をよそに、僕たちはやいのやいのと言い合った。
「やはり彼女を作るしかないね」
「どうやって?」
「分からない」
「足立、お前は何故モテるんだ」
「顔だろ」
「死ね」
「北川さん……」
「だいたい、俺たちには女の子の知り合いがいない」
「ほんとにな」
「紹介してくれよ足立」
「俺の元カノでよければ」
「死ね」
「北川さん……ああ北川さん……北川さん……」
───
──
─
問題は春が迫っていることだ。春が来れば、僕たちは三年生になり、新入生がやってくる。要するに各サークルによる新入生の奪い合いが始まるわけだ。去年、僕たちは「なんやかんや一人は来るだろう」と無策でこの戦いに臨み、見事に惨敗した。今年も同じ轍を踏むわけにはいかない。去年とは一味も二味も違う文集を作り、文芸に興味のある新入生たちの心を掴むのだ。彼ら新入生は僕たちにとって最後の希望だった。一人でも多くの新入生を確保しなければならない。女の子を。野郎ではなく可愛い女の子を。そのためには、童貞臭のしない作品をそろえる必要がある。もう時間はない。
翌日、僕たちは昼すぎに起きた。全員授業があったはずだが、足並みそろえてサボリだ。眠い目をこすりながら、僕らは空腹に負けて昨夜の残飯を漁りはじめた。
桜井の様子が不意におかしくなったのはその時だった。一体どんな感情が桜井の胸に飛来したのか、それは僕たちには分からない。たかだか一年程度の片思いしか経験したことのない僕には、彼の胸の裡を想像することすらおこがましい。
ともかく、そのとき桜井は鍋の出汁を啜っていた。何かもが適当にぶち込まれただけの鍋の残飯。そんなザ・オスといった風情の汁を啜りながら、十二年ものあいだ闇の中で青春を過ごしてきた哀れな男は何か思うことがあったのだろう。彼は毅然とした表情で突然立ち上がると、僕たちを睥睨してから高らかに宣言した。
「俺、彼女を作る」
慌てた伊東が「北川さんに迷惑をかけるな」と言うと、彼は「そうじゃない」と首を横に振った。
「北川さんのことはもういい。俺は彼女から卒業すべきだ。北川さんにはフラれたけど、実は当てがないわけじゃないんだ。お前たちだってそうだろ? 隠したって知ってるぞ」
僕はぽかんと口を開けた。伊東や足立も驚きを隠せていない。あの傷つきやすい桜井が、この世紀の大失恋からこんなに早く立ち直るとはだれも思っていなかったのだ。十二年の片思いを終えた男は、ついに吹っ切れたようだった。
「俺はすぐにでも彼女を作る。そして脱童貞して、あの感想を書いた奴をぶっ飛ばすような作品を書いて、新入部員をわんさか集めてやる。甲野、伊東。お前たちはどうする」
僕と伊東は、顔を見合わせた。そして、しばらくの沈黙の後、どちらからともなく、「うむ」と頷いた。足立は、楽しそうに笑っていた。
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