タローが一六の時に余命を宣告されてから、もう四〇〇年がたとうとしていた

@deadduckbill

第1話

 タローが一六の時に余命を宣告されてから、もう四〇〇年がたとうとしていた。

 若年性の癌で、見つかるのが遅すぎた。静かに進行していたらしいものは、切除したとて到底助かる見込みはないまでに広がっていた。医者は宣告の覚悟を隠すために、静かに大きく息を吸ったあと、論理的に微笑を準備しながら、「もって二年、短ければ半年です。」と、落ち着きを装って告げた。その場に居たタローとその親に有無を言わせないよう間髪入れず「しかし、」と続けたときには、なるべく安心を誘うように微笑を繕っていた。一族に連なる病院だったから、誤診というものは考えづらかった。幼いころより才を見せ、来須くるす家当主としての将来を嘱望しょくぼうされていたタローだけに、両親の落胆は人方なかった。

 「治る見込みはないんですか。」と聞いたのは、タローの母だった。毎年恒例の健康診断の後、病院から滅多にない電話を家令から受け取った彼女には、医者から告げられる前から予覚があった。日常の息子の様子から、兆候を看取かんしゅしたわけではない。現当主として歴代でも随一の使い手と言われる彼女の直感は、実戦に裏打ちされた鋭さがあった。先夜、あと一撃というところで見失った手負いの獲物が二重の囮に身を隠し、意識の隙を突いて襲ってきた時も、コンマ数秒の世界で彼女は紙一重のずれなく正確無比に反応し、無傷のまま仕事を完遂した。その研かれた直感が、愛息の体内に潜む異常を無自覚ながらに察知し、塵の積もるがごとく覚悟を促していたのだ。

 しかし、権威の名言は、予覚の鎧を貫いて、胸を抉られる衝撃があった。先述の母性とも弱音とも採れることばは、その衝撃への反動だった。厳しすぎるほど厳しい現実を知る彼女は、いま自分の口をついて出たことばに、希望を持たなかった。無駄な問答、息子の限られた時間を浪費する愚行と理解していた。しかし、その傍ら、そう理解しようとする自らの小賢しさに対する反発を抑えきれなかった。

 だがまた、こう聞くのが礼儀のような気もした。世間並みの母親でないと半ば自嘲する彼女には、息子を心配することばを発したことに内心満足する自分が憎らしかった。しかし、咄嗟に意識はしなかったが、思い返せば愛情への不安が根底にあるのは、確かだった。

 愛しているし、愛されている、と思ってはいる。しかし、普段は仕方のないことと割り切っていたが、息子のために使える時間が少ないことは、常に負い目を感じさせた。養育も家令に任せっきりだった。家業に忙殺され、日中わずかな時間、煩瑣はんさな事務処理の消化に帰宅するだけで、すぐ現場へとんぼ返りする日々。一般市民への被害が多発するここ最近は、家族そろっての食事もままならず、ろくろく会話もできていない。タローも将来の教育に、仕事を手伝ってはいるが、まだ当主に出る幕のない小規模な狩りしか参加していない。つまりはすれ違いばかりだった。タローの母には、それが誰にでもなく、すまないような気がするのだった。

 医者はただ、「残念ですが。」とだけ返した。彼女はため息とともにうつむいた。涙が出てくれないかと期待した。しかし乾いた目の代わりにと、口が欠伸をしようとする。それを気付かれないようにかみ殺すのに手いっぱいで、涙のことなどすぐに忘れた。次いで頭に上ってきたのは、タローの父たる夫のことだった。

 いつもに増して無口だと思った。大恋愛とまでは言えなかったにしても、お互いに惹かれ合って結ばれた夫だ。家業における長年の相棒たる聖職者でもある。むしろこの類の事態には慣れているはずだ。しかし微動だにしない気配を察すると、相当参っているのだろう。タローの母は、左斜め後ろに立つ、聖なる火が敵対する別の聖なるものを燃やしたあとに残る聖なる消し炭を模した色の祭服に身を包んだ、背の高い塔のように内省的な男を眼だけで振り返った。

 いつも物静かで柔和なタローの父親は、一見、絶望の運命にも動じず、すべてを受け入れたかのようにしっかりと背筋を伸ばしていた。しかし、実のところはまるで放心していた。彼の頭の中では、医者の言葉が、白く虚ろな空間にこだましているだけだった。何度も、モッテイチネンミジカケレバハントシ、という文字列を口の中で唱えるが、その音に意味を紐づけられない。冷静沈着な平生と変わらぬ様子だったのは見かけだけで、それが習慣からくる最もとりやすい姿勢だったに過ぎない。

 目は医者に向いてはいるが、なにも映じてはいない。病室特有の薬臭さも、喉奥に絡むねばっこい唾も、黒法衣の暑苦しいすそも、今の彼には感得できない。連れ合いの母親らしいことばも、耳に入ってきただけで聞いてはいない。彼は立ちながら、悪夢にうなされているに等しかった。さらには、幾日か経って後、衝撃が大分薄くなったころ、彼は宣告をじかに聞いた記憶のないことに気が付いた。正に夢のごとく、忘れてしまったものらしい。あるいは、無意識に封印したか。いずれにせよ、彼は自らを責めた。

 自分が助けるべき人々は、もっと苦しい目にあっている。目の前で婚約者を真っ二つに裂かれた娘がいる、手足をひき潰されたうえ、全身を焼かれ、ベッドの上から動けなくなった若者がいる。利用され、裏切られ、最後は私刑を受けて投石に死んだ、無辜むこの老人もいた。それがなんだ息子ひとり、回顧の度にそうして自分を責めなければ、市民を救う日常と家族への感情の板挟みに耐えられそうもなかった。

 救われるべき人を救ってきたつもりだった。しかし、その実、必ずしも、助けたいと思って助けていたわけではなかった。聖職者としての自分が、義務感からそうせざるを得ないように、長い時間をかけて、自らを調教したに過ぎないのではないか、という疑いが、頭をもたげることがあった。それは特に、苦しい試練を乗り超えたあとに訪れた。しかしその疑いは、いわば自虐的な安堵だった。

 彼は強烈に自分を信じていた。勉学と弁才に優れ、名門主家に婿養子で迎え入れられて、義父母が亡くなってからは家の差配を一手に担うようになった。夫婦ともども忙しいため、なかなか二人きりになれないのは確かだが、風聞の上にも仲はまず良好の部類で、跡継ぎにと英才教育を施した息子はどこに出しても恥ずかしくない。いやでも自信は膨張した。

 しかし、そのすべてを打ち砕くような一撃が、突然にやってきた。面倒な定期健診、病院からの電話、方々へ予定のキャンセルをし、あるいは商売敵に仕事を回してまで、時間を作った。だから放心したのも、息子のためでなく彼自身のためだった。自らを憐れむ心と損得勘定からだった。全てが済んだ後に送った懊悩の日々の中で、その自己憐憫に逢着した彼は、即日引退を宣言した。それすら何世代も前の審議会が採択した聖職における行動規範に従っただけでしかないのだが、彼は自分の職務を果たしたと、酒席などでは終生満足気に広言していた。

 さて、肝心のタローは余命宣告を受けても、あまり普段と変わらぬ顔で、むしろ両親を観察していた。母のことばはありがたいような気がしたし、父の硬直には同情もできた。だが、いまだ成長途中の若い身空では、死ぬことをうまく掴み取ることができない。次期当主として幼少のころより鍛えられ、最近は狩りに同道しているといっても、いまだ本格的な闘争は経ていない。小物を捕らえたことは幾度もある。しかし、殺し殺されの現場で、仲間の血に塗れた獲物のあぎと口輪くちわをかけた際どい経験はない。だから、死自体が一種の完成を意味していて、なんとなく甘美な響きも感じられるのだった。西方浄土のように縁遠い場所である気がしていた。それに伴う苦痛は嫌悪しても、死には別に好悪も覚えない。むしろ自分が平気でいられることに誇らしいような心持ちになっている。あるいは生来の冷淡さが、まだ世間を知らぬだけ無邪気に心を領していたか。

 たしかに、冷静すぎる、純粋すぎる、とタローは伯父によく言われた。右腕を食いちぎられながらでも、相手の脳天に刃を突き立てるだろうとも、ここは俺に任せて先に行けと言われたら、一瞬のためらいなく走るだろうとも、言われた覚えがあった。それらは必ずしも悪口ではなく、多分に彼の身を案じての言だった。妹に当主の座を奪われた彼には、そういう嫉妬まじりの嫌味な言い方しかできなかったのだろう。そんな優しい伯父も、四年前の群れ狩りで仲間をかばい、喉笛を破られた。その遺体を血も乾かぬうちに野辺の火にかけたとき、タローは案外伯父を好きだったことに気が付いた。あごも指も足も体のすべてが短く太く圧縮されたようで、もしもこの家に生まれていなかったら身長が少なくとも倍になっていたのではないかと想像できるほど、緊密に圧縮された取り回しの良い体をしていた。その豊かな骨肉を一片たりとも残さず灰へと変える聖なる火の暗さを眺めつつ、声がよかった、と思った。歌うところは聞いたこともないが、時折、狩りの前に、行くぞと肩を叩いた。タローはその度に、厚みを持ちながらも透き通る、水族館の大水槽に使われる高強度アクリルに触れたときのような力強さを感じた。声もまた、同じような透明性と安心感を持った低音だった。

 タローが伯父の思い出に浸っていると、間が持たないらしい医師は両親に帰宅をうながした。それぞれが具体的に考えることを中止していた家族三人は無心に立った。母は自分を責めていた。父は内心放心していた。タローは回想に耽っていた。病院の低刺激の内装は彼らを覚醒させるだけの力を持たない。医師がつけてくれた看護師はいろいろと慰めの言葉をかけたが、タローたちには白い背中のあとをついていくのが、唯一できることだった。

 沈黙の家路は異様に長く感じられた。分厚く黒光りする車は、騒音と振動を迷宮のように複雑で強靭な車体に吞み込んで、静かに滑るようにいつも通りに、運転手の手綱に従順だった。ウィンカーのカチカチいう音が車室内に妙に響いた。助手席を占める母は、窓下のひじ掛けに頬杖突いて、流れる景色を目に入れるがままにしていた。後部座席でタローの横に座る父は、茫然から立ち直り、しゃんと前を向いているようだったが、運転席のヘッドレストにかけられたレースの繊細な刺繍を異様な熱心さで読み解こうとしていた。タローは乗りこむとすぐに熱っぽいだるさに身を任せ、目を閉じゆっくり呼吸していた。運転手がひとり、気配を察し、洟をすすっていた。彼ら三人ともが、うるさいと思いつつ、これに感謝した。

 本宅の広い食堂で専属料理人の作る夕食を、ため息をつくごとに揺れるロウソクの灯りの下でとると、両親は書斎に引き取り、長いこと話し合った。ふたりの議論の詳細は省く。しかし幾度となく堂々巡りする質のものだったとだけ言い添えておく。二親として、答えはすでに出ている。だが、行動に移せば最後、先祖伝来の家業を踏み外すことになる。歴史ある来須の名に消えない傷を負わせることは、憚られる。しかし、どうしても、それしか手段のないこともわかりきったことだった。家か子か、両親はすべての仕事に断りを入れ、屋敷の天井高い書庫に閉じこもった。ふたりにとっては、考え、話し、調べ、その過程すべてが、ただ一つの決断のために必要な儀式だった。子のために自らとその周囲を、否応なく犠牲にする覚悟を固めるための、通過儀礼だった。

 先祖来、収集された万の書が整然と並ぶ本棚の横隊の奥の奥、特定の本の配置で動き出す仕掛けの奥に、屋敷が建てられて以来の秘密の小部屋がある。そこには木製で手ずれの跡もつややかな大ぶりの机があり、その一番上の錠付きの抽斗には、初代当主が使っていた古き力が納められているという。鍵は来須家当主しか持つことを許されない。タローの母がその鍵をひねるのは、産まれて初めてだった。中を覗いたことが一度だけあるのは、宗主を継ぐ儀式の際、先代から伝家の宝のひとつとして説明を受けた時だった。机と同様に古びた錠は、鍵が折れはしないかと心配になるほど堅かった。

 中にしまわれていたのは、数冊の本と錆びついたナイフだった。ナイフの方には別に不審はない。本は色も様々で、大きさも一定しない。表装も年代もばらばらで、背の日焼けがひどいものもあれば、新品同様のものもある。統一を欠いた、とりとめがない中身は、なんとなくおかしみを感じさせる一方で、ふたりに失望をも与えた。ここに、息子をどうにかする手立てがあるのは、書庫内の意匠や調度、蔵書の端々に仄めかされている。が、追い詰められた自分たちに比べ、雑然とした気安な本たちは、まるで床屋の待合室のような暢気さを漂わせている。信用できるものだろうか。決心といわれるものほど揺らぎやすいものはなく、掌を反すように疑念へとすり替わる。だが、一応、ざっと表紙を確かめてみた。どうも、目当てのものはないようだ。暗示を読み違えたはずはない。紛失か、悪戯か、迷信か。諦めかけたとき、ようやく目的の書物は母の手に取られた。

 黒い革張りの薄い小型本だった。表紙には飾り文字が白抜きされているが、希少な言語のさらに古語らしく、一族内に博覧強記をもって知られる父でも読み方すらも見当がつかない。しかし、中身はなじみ深い言語で書かれていて、癖の強い字でいささか解読に難渋したものの、読むだけは容易にできた。内容は期待通りのものだった。

 それから、タローが久しぶりで会った両親の顔は、やつれていながら、晴れ晴れとしたものがあった。しかし、気にかかることには、目だけがらんらんと輝いている。追い詰められた獲物の、捨て身の潔さが感じられた。一族の中には醜いあがきと吐き捨てる者も少なくなかったが、タローはそういう死中に活を求める一途さを嫌ってはいなかった。だから二親の体調の心配はしても、自分から問うことはしなかった。

 タローが両親に話があると書庫へ呼び出されたのは、その三日後だった。両親はタローを小部屋に導くと、例の黒く小さい本を手渡した。「これを、読んでみなさい。」母が瞬きもせずに言った。父は椅子に座る母の後ろに背筋を伸ばし立っていた。ともにタローの顔をじっと見つめている。タローが書庫とドアひとつでつながる書斎の座りのいい寝椅子で読もうと、ドアに手をかけると、父が口を開いた。「いま、ここで、読みなさい。」狭い部屋には椅子が二脚ぎりしかない。母が座っている机に備え付けのものと、へやの片隅に寄せてある背もたれのない木の丸椅子だ。タローは丸椅子の固い座面に腰を下ろすと、壁にもたれながら、書物へ目を落とした。

 内容は短いから読み終わるのに、そう時間はかからなかった。目を上げると両親は口々に嘆いた。「外法げほうに手を出すことになろうとは。」「もうそれしか頼るものはない。仕方がないんだ。」しかし、その嘆きが妙にうきうきしたものだったことは、タローの思い過ごしだったろうか。そして、父が最後に宣告した。「今夜から、お前は、真の意味で狩人にならねばならない。」母は強く頷くとともに、タローの目を見、立ち上がった。案内されたのは、建屋の構造に巧妙に隠された、これも当主しか知り得ない絶対秘密の地下室だった。そこで、タローは初めて不死者を食った。

 その時から、タローは四百年後にいたるまで、所謂いわゆる外法に生かされている。一族の生業である、不死の怪物狩り。狩りとはあくまで比喩のはずだった。本来であれば、打ち倒せば即、釜いっぱいに沸かした銀の海に放り込み、骨ひとかけ残さず熔かして物理的に完全滅殺する。しかし、その夜はちがった。

 内容は美しい女吸血鬼だった。何百人もの血を欲しいままに吸い集め、精力を得たそれは手強かった。あの母でさえ手傷を負ったほどの難敵だった。四肢切断の上でもなお銀製の口輪を火傷も構わず噛み切ろうとするほど生に飢えた逸物だった。その心の臓に鉄杭を打ちこみ、白磁のように底光りする滑らかな肌を侵して、右の乳房チチカブを切り取った。たとえ肉の一片でも残っていれば、そこから元通りに体を再構成する望外の生命力を取り込むためには、生きた肉を食わねばならなかった。

 控えめとは言え一口には余る膨らみを、しかしタローは無理をして、乳首をつまんで一息のもとに飲み込んだ。まだぬるく歯ざわり悪い、形だけは人肉に近い生肉の味は感じもしなかった。ただ不快な血の悪臭が、口をゆすいでもうがいをしても、鼻の奥の方に漂っていて、呼吸の度に吐き気があった。両親はそれを黙ってみていた。

 不死者の肉の保存は容易だった。鮮度が落ちる心配がないから、部位ごとに分けた肉片を、十分離して常温で、銀のフックに吊るせばいい。それぞれの肉片が銀のもたらす聖なる火傷を最優先で再生するから、接触を阻めば一昼夜で全身が形作られることはない。あとは、肉片の再生速度を上回る量を食べ続ければよかった。

 それなら無限に食えるのでないかと疑問も湧くが、不死者といえど際限はある。時間がたつほど再生速度は加速度的に落ちていく。強大とされる不死鳥フェニックスの肉であっても、ひと月後には再生が止まり、ふた月後には腐り始める。こうなるともう銀の海で処理するしかない。実質消費期限は三週間で、それより先は内包する生命力が残り少なく、食っても力は得られない。

 タローは、はじめの一体を食べきるのに、ひと月以上かかった。病の進行には追いつかず、体重はみるみる激減し、皮膚がしぼんで薄くなり、至るところに小さな裂傷が絶えなくなった。のどは無闇に渇き続けて、常ある微熱は一向下がらず、怠さと眠気が体を去らない。それでも眠れるうちはよかったが、各関節に疼痛とうつうが出て、下痢も吐き気も止まらなくなると、睡眠薬と鎮痛薬を毎晩あおって、無理やり床に就くしかなくなった。そのころには、タローも両親も死相というものを感じ始めた。

 次の餌食は青年の人狼だった。まだ成ってから日が浅いのか、市中に惨劇の隠蔽もせず、己が力を誇示するように派手に無闇に乱行したので、あえなく狩りの標的になった。最初の経験で早くもコツをつかんだか、腹を虚ろにした肉を、母は手際よく皮を剥ぎ、筋の境をナイフで裁って、腱を外して取り除き、半人半狼を解体していく。寝たきり同然になったタローの枕元に運ばれてきたのは、枝肉にされた血も滴るような背筋リブロースだった。味を感じることのないようにと祈りながら、弱ったあごに力を込めて、ぐらつき始めた歯を入れた。ただ、あごを動かし細かくひき潰したものを呑み下すことだけを意識した。一口のためにひとつの決断が必要で、不快な温度を持つ肉が、舌から喉へ通るたび、目に汗が入ったかのように、視界がいやに塩辛くなった。それでもなんとか、三週間で骨にした。

 古来の文献はやはり正しかった。食い進めるうち、床ずれに苦しんだタローが歩くどころか、簡単な作業すら行えるようになった。外法を知らぬ担当の医者は投げた匙を拾ってきて、奇跡だ、奇跡だ、と称揚した。稀有の回復例だから、医者は自宅療養の子細を知りたがったが、両親は空とぼけた言い訳をして、危うい所を乗り切った。

 三体目からは、タローも肉の解体を手伝った。二週間後には、跡形もなくすことができた。六体目にもなると、タローがひとりで解体し、十日もたたずに胃の腑へ納めた。その頃になると、再び狩りの現場にも出た。腕は一族のご意見番とされる最長老の大叔父が認めるほどメキメキと上達し、いつか母をも超える技を身につけるまでに熟練した。

 しかし、食うことはやめられなかった。不死者の肉は癌の進行を極度に遅らせ、自己治癒能力を高めるが、原因の除去には至らない。からだは常に致死の病に冒されていて、肉を一日取らないだけで、悪寒と吐き気がタローに義務を思い出させた。

 そうして生き延びる為に狩り続け、いつしか単独行では右に出る者がなくなった。群れ狩りの時などは全体の指揮をとることもあったが、いざという場面になれば文字通りの陣頭指揮で修羅場を切って抜けるのだった。物流網の発達で海を渡って来る不死者の数も増え続ける中で、協力体制をとることになった海外の不死狩りの一族や対不死者組織の中にも支持者は徐々に増えていき、腕前を慕われて大規模合同演習では全体指導をまとめる首席教官役さえも務めた。もちろん来須家当主も継いだ。継承儀式にあたっては、定められた通り進めるだけで、引退する母は特に何も言わなかった。腕前に関してはとっくに上回っていたし、その裏事情は身をもって知っていた。

 結婚もした。特殊な稼業だから国の内外を問わず、狩りの関係者と見合いをしたが、結局周囲の反対を押し切って、両親ともに地方公務員で本人は製造業の事務職に就いている全然無縁の一般市民と結ばれた。好き合ったのは当たり前だが、タローには仕事をわかっていない方が自分の食事事情を悟られずにすむという打算もあった。

 子も成した。タローと両親は不死者で生まれてくるのではないかと密かに危惧したが、帝王切開し、未熟児で生まれた子の保育器に入っている姿は、いかにも弱々しく、その中で一ヵ月も過ごした様子では、どうやら杞憂に終わったようだった。守る者の増えたタローはいよいよ仕事に精を出した。一家の棟梁として、稼業全体を監督しながら、国との協議や同業者との勢力争いや協力体制構築のために折に触れて開催されるさまざまな会合や交渉にも積極的に参加した。その中でも時間さえあれば、当然に前線へ出馬して、命のやり取りに身を尽くす。ついには、国内の狩人を束ねる組織の長にまでなった。タローにはすべてが順調で、人生の絶頂期だった。

 それからもう三百年以上経った。家はとうの昔に出奔していた。共犯者だった両親が亡くなると、秘密が漏れる惧れにさらされたタローは、周囲が無謀と止める中、大規模な群れ狩りを決行し、そのさなかに事故を装い姿をくらましたのだった。それからは正体を隠しつつ、小物狩りを専門にする流しの狩人を装う一方、また誰よりも利く鼻で、察知されるに至らぬ不死者を疾く発見し、外法の露見を防ぎつつ獲物を得るといった方法で渡世してきた。定住はせず海外を含め土地を転々とし、時には死まで偽装して、名を変え顔を変え生き延びてきた。

 子は残したし、妻もいる、家は存続するだろうと高をくくっていたタローだったが、百年と持たず来須家は崩壊した。外部からでは情報が十分に得られず、確証はなかったが、どうやら政治の世界に足を突っ込み、陥れられたのが原因のようだった。タローは元凶と目される政治家を見つけだすと、独自の配合で不死者の血と薬物を混ぜたものを点滴し、死ににくいようにした上で、長い長い間、拷問した。どこまで混ざれば不死者となり、どれだけ混ぜれば回復力が増大するのか心得ていた。そのぎりぎりを狙い、ついでとばかりに向後のために数々の不倫な実験もした。最後には血をすべて抜き、厳重拘束したままで、扉のない部屋へ放置した。何十年かのち、思い出して部屋を開けると、枯れ尽くしたミイラのような何かが半ば塵となっていた。手でぽきぽきと折り砕き、フードプロセッサにかけて粉々にすると、忘れずに燃えるゴミの日にだした。

 不死者の肉は、いまでは三日に一体を消費しなければならない。病に加え、人の寿命を超える老いまで背負った身を維持するは、それだけの不死者の生きた肉が必要だった。タローはいつか人の枠には全然収まりきらなくなった。五感は高度に統合され、十キロ圏内の不審な動きを逃すことはなかった。ほぼ無音で接近し、感覚外から完全な不意打ちをすることが可能だった。

 狩りは主に素手で行った。その膂力は腕をつかめば、そのまま潰し、拳で打てば風穴があき、蹴れば胴体さえも両断する。人狼の爪を指で受け止め、吸血鬼の牙は皮ふに入らず、人魚の歌は馬耳東風で、屍鬼グールを手刀で薙ぎ払う。解体にも道具は使わず、おおまかに引きちぎったブロック肉に、そのままかぶりつくだけだった。武器の使い方はとうの昔に忘れていた。不死の怪物に対抗する特殊な武器は、今の彼にとっては重荷にしかならない。もはや、人でもなく、鬼でもなかった。手早く討滅した、なりたての吸血鬼に、人ではないと恐怖されたこともあった。

 タローは目を閉じ、これらのことを回想していた。狩りの前には、必ずいくらか思い出すのだった。それは彼なりの記憶の選別だった。長く生きた彼には、過去を振り返ることも、何かを新しく覚えることも困難だった。それは、膨大な記憶から呼び起こされるストレスを回避するためかも知れないし、単に脳機能が限界を迎えているのかも知れなかった。近頃では、今まで自分が何をして過ごしていたか、判然としないこともたびたびだった。そんな時は、日光を避けた薄暗がりで、ひたすら寝ていて、たった今起きただけのような気がするのだった。

 だが、回想すらも疑いだしたらきりがないのはわかっていた。記憶はゆがみ、噓をつく。思い出を完全に再生することなどできない。だから、両親の顔も、不死者を食らうようになった経緯も、妻も子も、事実との相違は多いだろうと考えている。しかし、それを知る者はすべて時の流れにさらわれてしまった。名士だった来須家は市史にもいくらか登場するが、年月はそれすら散逸させた。公式の記録はあてにならない。あとは、彼の頭の中にあるだけだった。

 タローは目をあけ、立ち上がった。今夜も食い扶持を狩らねばならない。誰かを守るために戦うのは、家が亡くなった時に止めていた。ただ自分が生きるためには不死者の肉が要るだけだった。ビルの屋上に立つタローの眼下には夜の街が広がっている。水平に走る何本もの光の帯と、赤い目をした四角の巨人たちの群れ。どこに紛れようと、異常な嗅聴覚は一度捉えた獲物を決して逃さなかった。

 しかし、彼は飽きていた。文字通り命がけであった狩りも、自ら変質させてしまった。百年前までに不死者は狩り尽くしていた。すべてを食らい血肉にしたあと、待つのは思い返すも息苦しい死の床の上の煩悶と、希ったところで決して癒されぬ飢渇だけだと了解していた彼は、予め不死者の養殖を始めていた。捕らえ、かけあわせ、産ませ、間引き、品種改良をし、時には遺伝子さえも組み替える。そうして五十年前に出来上がったのが現今の不死者だった。食用に出来上がった彼らが、その畜産者にかなうはずもない。狩りは面倒なだけの食事の前戯に成り下がっていた。

 端的に言って、タローは死にたかった。死ねるという権利だけは、後生大事に守ってきた。だが、同時になかなか死ねないものだということも知悉していた。明日死のう明日死のうと思っていると、いざという段になって心替えする。では今死ぬかと衝動に任せてみても、頑健な体と敏感な神経はきれいに危機を回避してしまう。断食は幾度となく試してみたが、空腹と病魔と老衰が極限にまで達すると、気絶のうちに無意識で狩り、食事するようで、後始末の方が面倒だった。

 死ねるはずだが、生き汚い自分には、自殺は難しいと悟った時、再び弟子を取り始めた。弟子に能う限りのすべてを仕込み、師匠超えと称して死闘を仕掛けることで殺してもらう算段だった。しかし、これもそう易々とは進まなかった。全盛期を昔日に、消化試合のような狩りしかしてこなかったタローではあるが、それでも強さが有り余っていた。最初の弟子は謙譲からか、生涯タローと戦おうとはしなかった。二番目の弟子は不出来なもので、一撃のもとに殺してしまった。三番目は期待もしたが、未熟なうちに、不死者に返り討ちにされてしまった。それから、何人も指導してきたが、タローの眼鏡にかなう者はなかった。

 「みつかりましたか、師匠。」話しかけてきた弟子は、何番目かもう数えもしなかったが、自慢の出来だった。不死者によって家族鏖殺にあった生き残りで、赤ん坊のうちから引き取り、娘同然に手塩にかけ、対自分用の自殺装置として育ててきた歴代最強の弟子だった。

 タローは振り向くと、「ああ、行くぞ。」と返し、並足で階段へ向かった。四階までなら飛び降りても難なく着地を決められるが、弟子の手前、超人的な振る舞いは控えていた。ふたりは、無許可で侵入したビルを夜警に気取られることなく平然と出ると、繁華街には背を向け歩いた。そうして師弟は混沌都市の複雑な路地の淀んだ闇に消えていった。

 のちにタローは彼女によって、希望通りに滅殺されることになる。

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