第10話

 オレは目の前の出来事を夢でも見ているかのように呆然と見て居た。周りの群衆も固唾を飲んで見守っている感じだ。タケトの声に動揺したのか、あるいは初めからそうするつもりだったのか、男、は、女性の横に体をうずめている。手に握られていたカッターの刃が、アスファルトに当たって折れ、タケトの足元に軽い金属音を立てて落ちた。

「タ、ケト、君」

男がゆっくりと立ち上がりながらタケトの方へ顔を向ける。店長だった。オレたちの、よく知っているあの、優しい店長だった。でもその顔は、見たことのない表情を浮かべていた。口元は薄く笑いを刻んでいるが、目は悲しみに濡れている。

「もうやめましょう?俺、本当はもっと早く言うべきだった」

「君、気づいて?」

店長の言葉に、タケトは小さく頷いた。

「はっきりとは、分からなかった。ただ、ひどく危ういものを感じていたんです。心の中に、その笑顔の影に潜む、暗くて深い、何か」

タケトがそう言った時、オレの心臓がどきんと鳴った。それはオレも感じた覚えがある。それは、店長に対してではなかったけれど。

 タケトは無言で聞いている店長に、再び話しかけた。

「だから、あの時、後をつけてしまった。ホームレスの……」

タケトがそう言うと、店長はびくっと体を震わせ、そして、

「君は、それを知っていて……」

と、驚いた様子で呟いた。タケトは動揺する店長にふっと静かに微笑んだ。

「でも、あなたはちゃんと人を大切に思える人です。気の荒い客が来た時、俺のこと、守ろうとしてくれましたよね。仕事を始めたばかりの時も、俺の失敗を何度も庇ってくれた。それは絶対に嘘じゃない。そういうあなたも、ちゃんとあなたの中に存在してる」

うん。オレもそう思う。店長の優しさは、絶対に嘘なんかじゃない。店長がかけてくれた気遣いや優しさを思い出した。あの時の笑顔は、ただの営業スマイルじゃないって、オレも感じてた。だから、

「オレに、コーヒー奢ってくれましたよね。タケトと話す時間もくれた。それに、オレ、実はあの時見てたんです。おっかないお客さんに、きちんと対応できてるところ。すごいって思いました」

オレはタケトの隣に立って、援護射撃を試みた。タケトも、オレを見て笑ってくれた。そうだ。オレたちは、店長の優しい所を知っている。

「すごくなんか、ない。本当はあんな奴、殴ってやりたかった。ムカついて、腹が立って、」

「あの人を代わりに殺した」

タケトが小さな声で言った。それは、恐らく群衆には届いていない。店長と、オレと、タケト、そして、どうやら例の女性にだけ届いていた。それは、表情から分かる。凍り付いたような顔をしていた。

「人間なんか、本当は大嫌いなんだ。どいつもこいつも、態度はでかいし、高圧的だ。自分がこの世で一番だと思っていやがる。嫌いだ、こんな世界、大嫌いだ」

子供のようにむずがっている。怒りの奥にある悲しみの置き所が分からなくて、自分の感情を、どうしていいか分からず、抱きしめることも、認めることも、拒絶することすらできずにいる。そう、感じた。でも、それは、

「誰にでも、そう思う時は在りますよ」

タケトが言った。

「そうそう。ムカつく奴なんて、誰にでもいます。でも、」

「好きな奴だっている」

オレらは顔を見合わせていった。そして、二人で店長を見て続けた。

「オレたちは、あなたが好きですよ」

店長の顔が凍り付いた。そして、そこからゆるゆると目元が溶けた。首を力無く何度も横に振る。目頭を押さえて、俯くと、女性が、彼が母さんと呼んだ女性が、いつの間にか立ち上がり、彼の肩に手を置いていた。

「ごめんなさい。全て私が悪いの」

女性は小さな声でそう言った。

「あなたが私を殺してそれで気が済むのなら、殺して」

そう言えば、彼女は店長が襲い掛かった時、逃げなかった。静かに目を閉じていた。本当に、殺されるつもりだったんだろうと、オレは思った。女性の目から、涙が一筋、零れて落ちた。彼女はそっと、店長の手に握られているカッターに手をかけて、刃を出した。

「愛してるわ」

聖母のような笑顔だった。そして、彼女が自分に刃を向けた瞬間、店長はカッターを投げ捨てた。そして、思い切り女性を抱きしめた。強く、強く。今度は女性も遠慮なく抱きしめた。

「ああ、ボクは、ここに帰りたかったんだ」

その場所は、確かに、彼がずっと帰りたかった、ゆりかごそのものだった。

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