第9話

「……母さん」

男は静かにそう呟いた。言った、というには、あまりにか細い声だった。男の目の前には、地面に転がっている女性がいる。年配の、化粧の濃い女だ。

 女は前のめりに転倒したその恰好から、尻を軸にして体を反転させ、男の方を向いていた。立ち上がる事よりも、追いかけて来た男が、どこまで近づいたのか、確認する方を選んだのだ。

 果たして、男は女の目の前にいたのだ。当初は荒げていた息を、短い時間で整え、口から小さな声を漏らした。

 男の顔には何の表情も刻まれていない。あるいは、様々な感情が一度に押し寄せ、そのうちのどれもが、表面化しきれないのかもしれない。

 男はそっと地面に膝をついた。そして、女に向かって手を差し伸べた。それは、動きとしてはとても自然だった。転倒した女。それに手を差し伸べる男。女を助けようとするように。行きかう誰もが、そう思っただろう。何も不審に思わずに。

 女は恐る恐るその手を取った。男がふっと笑う。そして、その手をぐいと引いて抱き寄せた。

「かあさん」

今度は耳元に、その呟きが零れる。女は、目から涙を落した。そして、恐る恐る、男の背中に手を回して、そっと触れた。抱きしめるというよりは、優しく、触れる。

 女は、男の、生き別れた母であった。


 男の父親は高圧的な男だった。彼に対しても、彼の母に対しても。手を上げることはしなかったが、それは優しさではない。手を上げれば、証拠が残るからだ。

「殴るものか。後が残るようなことはしない」

父親が拳を振り上げて、そう言った。証拠の残らない暴力はいくらでも奮ってやると、宣言している様なものだった。事実、父の物言いは日常的に侮辱的だった。幼い彼は、まだ母親が守ってくれた。だが、矢面に立った母親は、証拠の残らない暴力に、耐え続けねばならなかった。

 そうして、彼が中学三年のある日、母親は姿を消した。荷物には一切手を付けず、台所もそのままだった。家もいつも通り綺麗に掃除され、何も、変わらない風景がそこにあった。ただ、母親の姿だけが、すっぽりと、抜け落ちていた。

 前触れなどなかった。いや、いつそうなってもおかしくなかったのだ。それを知っていたのは、彼だけだった。父は、外面が良かった。近所では良き夫、良き父として認識されていただろう。誰一人、彼と母親の痛みに、気づく者はいなかった。だから、父は、母がいなくなったことを懸命に隠した。やがて、彼が遠方の高校へ進学すると、妻は息子と共に進学のために引っ越したのだとまで言っていたようだ。

 家の中から母の姿が抜け落ちるのと同時に、彼の心からも母が抜け落ちた。母は、彼に優しかった。まるで、自分がかけてもらいたい愛情の全てを、彼に注ごうとしているように。哀しいかな、母は、痛みを、苦しみを、悲しみを受けることで、人が人として求める、最低限の愛を知っていた。


「母さん」

男は呟いて、女の身体を離した。その顔はもう涙でぐしゃぐしゃになっていた。化粧もボロボロだ。男はそのどうしようもなく崩れたものを、愛しそうに手の平で包み込んだ。男が笑顔を見せていることにつられるように女もふっと、笑顔を見せた。その、瞬間だった。

 男の手はするりと、あまりにも自然に女の頬を滑り降りた。そして、女の首を、力任せに締め上げた。

 わずかに止まりながらも緩やかに流れていた人の波が、瞬時に止まる。一人のサラリーマン風の男が咄嗟に止めに入るも突き飛ばされた。その時一瞬離れた手を頼りに、女性は反射的に体を退いた。

「また、逃げるんだ」

男は、そう言って、腰のあたりに手をかけた。大きめのカッターナイフがそこにはある。

「母さん、ボク、もう、疲れたんだよ」

男が言った。

「どうして、ボクを置いて行ったの?」

男の声は、掠れ、震え、そして、泣き声になった。

「どうして、ボクを産んだの?」

ふるふると首を横に振る。

「産み落としたの?」

生まれてしまいたくはなかったのに。あなたと離れてしまいたくなかったのに。ずっと、ずっと……

「カエリタイ」

男の脳裏に、女性の遺体から抜き取った子宮が閃いた。柔らかく、温かく、確かに昔、自分を包んでいたもの。そこに帰りたくてたまらない。求め焦がれる、愛しい、ゆりかご。代替品ではなく、まさしくそこに、彼を育んだゆりかごがある。

ああ、

「かあさんの腹を裂いて、子宮を取り出したら、ボクはそこに帰れるのかな」

生まれる前に。

男はそう言って、チキチキとカッターナイフの刃を出した。そうしてそれを振り上げる。数人の女性が悲鳴を上げた。男たちが止めに入ろうとした。その手をすり抜けて、男は、女の上に覆いかぶさるように倒れていった。

「待って!」

タケトの声が響いたのは、その直後だった。

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