第4話
いらない。いらない。お前なんかいらない。
男は、ずっと呟いていた。振り上げたサバイバルナイフが、月光に煌めく。
白く、そして、朱く。白と赤を纏って、男は、再びそれを赤の中に埋める。
ずぶずぶと、真っ赤な川を作って、それは埋まっていく。その時は、少しばかりの愉悦に浸った。男は知っている。その行為で得られる快楽は、決して多くはないということを。
だが、男はその、僅かな悦びを、掻き集めて、抱く。何度も、何度も。
ああ。何を壊しても真っ赤な血が流れる。男は笑い、既に熱を失ったそれにナイフを埋めた。そして、それを再び引っ張り出す。ごぼり、と、力無く湧き出る赤い液体にしばらく見とれた。そして、再びナイフを構える。肉の塊と塊を繋ぐ、そのつなぎ目に刃を入れて、外す。一つ一つ、その繋がりを解いていく。ぶつぶつと、呪文のように何かを唱えて。
いなくなればいい。なくなればいい。お前が居るから、誰かが、自分が不幸になる。
お前さえいなければ。お前さえいなければ。いなくなってしまえ。消えてしまえ。消えてしまえ。最初から無かったように。そうだ、全てをなかったことにしよう。そうしよう。そうすればきっと。帰って来てくれる
バイトを始めてから半月があっという間に過ぎた。大学が終わってから働く事にもだんだん慣れて来ていて、身体の方も、心の方も余裕が出て来た。オレはその日、大学の食堂で昼食を食べていた。ぽかぽかとした陽気が、必要以上にリラックスさせてくれる。
「よ、カズユキ」
あまりの心地良さにうっかり箸を取り落としそうになったちょうどその時、タケトが来た。
「よ、よぉ」
オレは慌てて箸を受け止め、タケトの方を見て挨拶した。半月の間、全く顔を合わせなかったわけでは無いが、ゆっくり話が出来そうなのは久しぶりだった。
「何か、久しぶりだね。カズユキと食事するの」
タケトもそう思っていたようで、そう言ってきた。
タケトはA定食の乗ったトレイをテーブルに置いた。その日はオレも同じでA定食にしていた。同じ料理が乗ったトレイがテーブルに並ぶ。
「金欠、大丈夫なのか?」
「金欠?あ、」
オレは咄嗟の言い訳に金欠を使ってしまったことを思い出した。そもそも金欠ではないのだから、定食ぐらい食べられる。だが、確かにまだバイト代は入っていないから、金欠が解決する時期ではない。オレはどうにか言い訳を考えた。
「いや、ほら、あの時は余裕ないなーって思ってたから節約しちゃったけど、バイトも始めたし、気持ちの余裕がな」
本当は別の意味であの時は気持ちに余裕がなかったのだが。
「だろうと思った。カズユキは窮地に追い込まれるほど無駄遣いはしないからな。多分、何かを心配して使わないんだろうって思ってたよ。心配事が無くなったのなら何よりだ」
そう言ってタケトは味噌汁の椀を持ち上げた。どうにか納得してもらえたようだ。
「そう言えば、一週間くらい前にお前のバイト先に買い物に行ったんだけど、ちょっとガラの悪そうな男が入れ違いで入ってさ。お前知ってる?」
何気なく訊くと、タケトはちょっと不機嫌な顔になった。
「ああ、多分、あの男かな」
「タケトはいるけど倉庫だって店長が言ってたから、知らないかもと思ったけど、知ってたか」
「知ってるも何も、ちょっとした騒ぎだったぞ」
「えっ?」
オレは驚いた。外から見た分には何事もなさそうだったからだ。
「まぁ、ホントにちょっとしたことだったんだけど。よくある話で、お目当ての商品が無かったって結構強めにクレーム入れて来てさ。俺も加勢しようと思ったんだけど、危ないからって店長が止めてくれた」
「それで店長一人で解決したのか……あの人、大人しそうに見えたけど、やっぱり店長やってるだけのことはあるんだな」
「力押しで解決したわけじゃないぜ」
「分かってるよ」
そう言ってオレたちは笑った。そうだとしたら意外すぎる。あの優しそうな店長が誰かを殴るとか、押さえつけるとか、全然想像できない。
「俺は出てこないように言われてたから詳しくは何があったか知らないんだけど、どうにか説得した、って言ってたな」
「でもそれができるってある意味、力で解決するよりすごいよ」
「……そうだな」
何故か気のない声に聞こえた。オレはその小さな違和感を敢えて意識の外へ追いやった。せっかく楽しく会話しているのに、その雰囲気を壊したくなかったのだ。
でも、楽しい気持ちはタケトが去った後で一転した。
タケトの忘れ物。例のノートだった。
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