第3話
「宇野です」
タケトの紹介で学習塾に行くと、優しそうな男性がそう、挨拶してくれた。
「あ、初めまして」
オレも慌てて挨拶した。
「カズユキって言います。よろしくおねがいします」
名乗ろうとしたらタケトが勝手に割って入った。
「ははは、保護者みたいだね。タケト君。久しぶり。元気だったかい?」
「電話では話したじゃないですか」
「会うのとは違うよ。やっぱり顔を見ると安心する」
二人の会話から、随分と親密な印象を受けた。何だろう。お世話になった、って、塾生だった、ってことじゃないのかな。
「響子先輩は元気?」
「相変わらずです」
「だろうね」
そう言って宇野さんは笑った。そして、ぽかんとしていたオレの方を向いて、
「タケト君のお姉さんは僕の大学の先輩なんだ」
「よく家で酒飲みしてましたよね」
「やだなぁ、合宿だよ合宿」
なるほど。そういう縁か、と、オレは納得した。タケトのお姉さんの話は以前に少し聞いたことがあった。確か、新聞記者とか言っていた。
「それじゃ、カズユキ君。早速明日からお願いしていいかなぁ。仕事は雑用だから難しくないし、気軽に社会勉強してくれるといいよ。明日、六時にここに来てくれる?」
「分かりました」
「よろしくお願いします」
タケトも何故か頭を下げた。それを見て、宇野さんがまた笑った。
こうしてオレの初めてのバイトは決まった。いい気分転換になりそうだし、きっと忙しくしていれば、余計な事も考えないようになるだろう。この変化は、オレに良い事を運んできてくれる。オレはそう思った。
オレたちはそのままタケトのバイト先のコンビニに行った。タケトはバイトに出るという。オレはただの買い物のつもりだった。
「いらっしゃいませー」
穏やかだがはきはきとした声がして、三十代半ばくらいの男性が奥から出て来た。
「お、タケト君。お疲れ様。友達かな?」
「おはようございます。店長。そうです。大学の友達です」
「あ、カズユキって言います。いつもタケトがお世話になっています」
「おいおい、お前は俺の母親か」
そう言ってタケトが笑った。
「お前がさっきやったのと変わんないだろ」
オレが言い返すと、タケトは、あ、そうか、と、今気づいたみたいな反応をした。
「あっはっは、本当に仲が良いんだね。良い事だよ」
それを見て居た店長が笑った。
「タケト君はこれから仕事に入ってもらうけど、君は買い物?」
「あ、はい。コーヒーを買おうと思って」
「タケト君のお友達だしね。今日は奢るよ」
そう言って店長はカップを持ってコーヒーマシーンの方へ行った。
「ありがとうございます。近くの塾で少しの間、バイトすることになったので、これからもお世話になると思います」
「そうかい。お疲れさまだね。ごひいきにしてくれると嬉しいよ」
そう言って店長が温かいコーヒーと、ミルクと砂糖を渡してくれた。
「ごちそうさまです」
オレが言うと、店長は微笑みを返してくれた。何だかほっとする笑顔だ。優しい、大人の男性という感じがした。
「じゃあ、俺。着替えて仕事するな」
「おう。頑張れ」
オレはタケトの背中を見送りながらコーヒーを一口飲んだ。オレはタケトの話を受けて良かったと思った。こうしてタケトのバイト先に、いい人が居てくれたのは単純に嬉しい。今まで興味がなかったけれど、こんな風に、今まで知らなった一面を知る事が出来るのは良い事だと思えた。それもこれも、タケトのバイト先が、良い所だったからに違いない。そして、オレのバイト先も。今日はタケトの知らなかった顔をたくさん知る事が出来た。
(いい日だったな)
オレはそう思いながら家路についた。手の中のホットコーヒーが、余計に温かく感じられた。それからオレは、ある意味望んでいた通りの忙しい毎日に突入した。オレの思惑通り、ノートの件は頭の隅に追いやられていった。
「こんばんはー」
オレは常連客みたいな感じでコンビニに入った。
「お、いらっしゃいませ。タケト君だったら今ちょっと倉庫に行ってるよ」
「あ、いやぁ、これからバイトなんで、のんびりしてられないんですよ。飲み物買っていこうと思っただけですから」
オレは店長にそう言ってスポーツドリンクを手にした。レジに持って行くと、
「終わるの遅いの?」
ピッという音に重なって、店長がそんなことを聞いてきた。
「九時とか、十時とかになっちゃいますね」
「毎日遅くまで大変だねぇ」
相変わらず、店長は優しい。
「ありがとうございます。頑張ります」
オレはそう言って、店を出ようとした。すれ違いに、少しガラの悪そうな男が入っていった。
(あんな人も来るんだな)
オレは気になりつつも、バイトの時間に遅れまいと急いだ。建物に入る直前、どうしても気になったオレは一度コンビニを振り返った。例のガラの悪い男が店から出て来た。店長が丁寧に入り口まで見送って、頭を下げていた。男の手にはコンビニの袋があったから、何か買ったのだろう。店長が頭を下げていたということを考えれば、何かのトラブルはあったのかもしれない。それでも、少なくとも誰かが怪我したとか、そういうことは無かったのだと、オレは思った。その時、オレが見た光景から分かるのは、そんな、どうしようもなく狭い考えしかなかったのだ。
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