翌日。ついに別れのときとなりました。この時の様子は『竹取物語』で一部伝えられていることかと思います。


 月のよく見える晩でした。真夜中、満月が南の空に浮かんだころです。急に月明かりが増して、昼間と見まがうほどの明るさになりました。天上からは雲に乗って何人かの使者が下りてきます。

 家のまわりは、帝の命により六衛府から集められた兵によって警備されておりました。しかし目の前の光景に多くの者は戦意を喪失し、弓矢を放った者も、その矢は不思議な力によってはじかれてしまいます。使者の一人がさっとひとふり合図をすると、締めきってあった戸や格子窓が、ひとりでに開きました。ほとんど抵抗することも叶わず、かぐや姫さまは天の使者に引き渡されてしまったのです。

 私は姫さまのそばに控えていて、いざとなれば無理やり引き留めようとも考えていたのですが、結局なにもすることはできませんでした。身体がかなしばりにあったように動かないのです。超常的な力が働いていたとしか思えません。


 姫さまもすでに観念なさっていたようでした。抵抗しても無駄だと悟っていたのでしょう。使者の言葉を聞きながら、力なくうなずいていらっしゃいました。

 最後に天の使者は羽衣を差し出して、姫さまにお召しになるように告げました。天人にとって地上は穢れた世界。この世界の物を持ち込むことは許されないのだという理屈です。姫さまは言葉に従って、着物を脱いでゆきました。

 しかし羽衣をはおる直前になって、姫さまは躊躇を見せます。


「いやです。着たくありません。この羽衣を身につけてしまったら、地上の人たちとの思い出をすべて忘れてしまうのでしょう? この星で経験したことも、そのときの感情も、みな忘れてしまうのでしょう? そんなの、いやです。忘れたくなんかありません」


 それは姫さまの切実な叫びでした。

 けれども能面のような天人たちの表情は変わりません。渋る姫さまの身体を押さえつけて、有無を言わせず着させようとします。姫さまは必死に振りほどこうとしていました。

 見かねた使者の一人が、手を上げて、姫さまのほうに掌を差し向けました。さきほどの不可思議な力を発動しようというのでしょう。もがいていた姫さまの目に、失望の色がともります。


 もうダメかと諦めたそのときでした。

 風に乗って、龍笛の音が聞こえてくるのです。


 どこから聞こえてくるのか、だれが吹いているのか、まるでわかりません。姫さまも天人たちも、笛の音を聞いて動きを止めました。聞き入っていました。私も、家の者も、兵たちも、突然の笛の音にはじめは戸惑いましたが、最後はだれもがその流麗な演奏に耳を澄ましていました。

 姫さまは私のほうをうかがって、目で問いかけます。私はただただ首を振りました。

 私は手紙の中で、旅立ちのつらさが少しでも和らぐようにと、龍笛の演奏を披露すると綴っておりました。しかし算段があったわけではございません。瀧久という名の者は存じあげませんでしたし、演奏してくれるかどうかも定かではありません。それで昨日は、どなたかにお頼みするつもりで、アテもツテもなく雅楽寮をお訪ねしたのです。物陰から姿を見せない形で演奏してもらって、それでなんとか済まそうと思っておりました。

 結局雅楽寮はもぬけでしたし、姫さまには手紙を書いたのが私だと見抜かれてしまったので、龍笛のことはだれにもお頼みしていません。もともと姫さまの側にお仕えする者の中には龍笛をたしなむ者はおりませんし、警護のために集まっていただいた兵たちも、楽器を携えてやってきた者はおりません。

 いったいだれが奏者なのか、心当たりがないのです。


 姫さまが私のほうを御覧になったのは、私が内々に準備していたのではないかと疑ったのだと思います。けれど私自身まったく予想にしていなかったことですし、手紙のことを他の者に打ち明けたりもしていないので、いまだにどなたの演奏だったのかは不明です。

 それでも姫さまにとっては、最高の演奏になったのだと思います。優しく穏やかな音色は、激しく高ぶっていた姫さまの心を落ち着かせてくれたようでした。

 龍笛の音が止んだときには、姫さまは涙を流しながらも、笑顔で、そして凛と背筋を伸ばしていました。

 もう迷いはなくなっていたようです。

 残された者たちにさよならを言って(そして私には口の形でありがとうと言って)、姫さまは使者たちとともに天上へと帰っていきました。




 以上が、『竹取物語』に収められることのなかった裏話です。

 あの龍笛の奏者がどなただったのかは、最後まで分からずじまいでした。宮中のほうでも多少は話題になったようですけれど、なにぶん注目を浴びたのは、天人たちの摩訶不思議な力、超常現象のほうでしたから。それに、あの手紙のことを知らなければ、ただ龍笛の音が流れたというだけの話です。

 私も奏者を突き止めるような真似はいたしませんでした。どなたが演奏したにせよ、それで姫さまの御心が救われたのですから、それでいいではありませんか。それ以上詮索するのは野暮というものですよ。


 とはいえ、近頃は歳をとったせいか、余計な考えが浮かんできていけません。長く生きすぎたということでしょうか。

 あの手紙――私がなりすましで書いた手紙のことを知っているのは、姫さまと私だけではなかったのではないか、なんて思うようにもなりました。

 姫さまはあの手紙を読んですぐに、だれかがニセモノの手紙を書いたことを見破りました。来るはずのない手紙が届いたのですから、そのことに気づくのは造作もなかったでしょう。

 しかしだれかが書いたということは分かっても、私が書いたということは、すぐには分からなかったはずなのです。お仕えしている人は何人かいましたし、私が文櫃の手紙を読むところを姫さまが目撃したわけでもありません。

 あのとき、姫さまは初め「この手紙のこと、ご存じありませんか?」とお尋ねになりました。そして「ちょっと読み上げてくださいませんか?」とお頼みになったのです。ニセモノの手紙を書いたのが私ではないかと確認してきたのは、そのあとのことです。


 ええ。おそらくですが姫さまは、私が書き手だとは確信していなかったのではないでしょうか。それで手紙を読むようにおっしゃり、そのときの私のうろたえる反応を見て、確信を得たのではないでしょうか。

 そうだとすれば、姫さまは私以外の家の者にも、手紙のことを尋ねた可能性があります。私は所用で家を空けていましたから、その時間は十分にあったでしょう。つまり、私と姫さま以外にも手紙の内容を知っている人がいたのではないでしょうか。そしてその中のどなたかが――龍笛の奏者にツテのある人が、裏で手引きをしてくれたのではないでしょうか。


 いえ、いけませんね。やっぱり考えるべきことではないような気がします。奇跡のような出来事に、俗物な説明を加えるべきではありません。あの笛の音は神さまからの賜りものだったと考えるほうが、ロマンがあっていいじゃありませんか。

 今となってはもう昔のことですから、どうせ真相も分からないのです。なのに今日は語るべきでないことまで語ってしまいました。やっぱり長く生きていると、雑念が湧いてしまっていけません。どうか見苦しいところはお忘れになってください。


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