けさ届いたという手紙を姫さまは私に差し出しました。


「一体この手紙を書いたのはどなたなんでしょう。ちょっと読み上げてくださいませんか?」


 知っているはずなのに。姫さまはわざとそのように言ってくるのです。

 姫さまから手紙を受け取った私の指先は、緊張のあまり震えていました。ひらいて確認するまでもありません。私はこの手紙のことを知っております。どんな内容が書かれているかも知っております。

 知ってはいますが、私は素知らぬ態度を装って読み上げたのでした。


――――――


 ご無沙汰しております。しばらくの間、お手紙を差し上げることができず、申し訳ありません。今さらになってお詫びをするのも見苦しゅうございますが、どうか最後の言葉と思ってご容赦ください。

 先達せんだっての手紙において、身勝手ながら暇乞いをし、その後ふみを差し上げることがなかったのは、ひとえに自分の不甲斐なさゆえのものです。私は自分の無力さに打ちのめされたのでした。貴女あなたが天の彼方に帰らなければならず、もう二度とお会いすることができなくなると伺って、私はたいへん心苦しく、胸が引き裂かれるがごとくの思いでした。

 そのつらさは、この世の事物では喩えようもございません。牽牛星けんぎゅうせい織女星しょくじょせいの伝説ですら、年に一度はお会いできるというのに、貴女とは金輪際会うことも、手紙を交わし合うこともできなくなるのですから。

 まして安らかならざることは、このような運命さだめに対して、私自身があまりにも無力であることでした。貴女ともっと語らっていたいとこいねがっても、私のような若輩者には、すべもないのです。私には天命を覆せるような、権力も、武力も、財力も、なにも持ち合わせてはいないのです。できることといえば、ただ言葉を、気休めにしかならぬ言の葉を、お伝えすることのみです。それを私は、耐え難く思っていたのでした。

 あなたのことを忘れたことは、一日もありません。私が笛の道に悩んでいるとき、貴女の純粋なまなざしが私に力をくれました。私が自信を失くしているとき、貴女の温かい言葉が私を奮い立たせてくれました。どれだけ感謝しても、その気持ちは尽きません。貴女と交流できた日々は、かけがえのない心の糧となっています。

 しかし私は、自分の非力さを呪って、別れを切り出してしまいました。大きな過ちを犯してしまったと、慙愧に堪えません。動揺するあまりに、あのような手紙を書いてしまったのだと思います。

 あのときの私は、それが潔さだという見当違いをしておりました。私と貴女は別世界の住人、交わるべきではなかったと、本来は近づくべきではなかったと。それにまた、深く関係を築いてしまうほど、離別も苦しくなってしまうだろうと。そのように考えておりました。貴女への気持ちの強さがゆえに、潔く身を退くべきと思い定めていたのでした。

 それは間違いでした。決して潔さではなかったと気づきました。

 この期に及んで、私は見栄を張ろうとしていたようです。無力な自分を見せたくなくて、潔い男のように振る舞ったつもりだったのです。愚かなことです。本当に嘆くべきは、力が無いことではなくて、力が無いことを直視できない小心さのほうでした。

 ある晩、夢のただに貴女の姿を見ました。悲しそうな顔をしておりました。私はそのときに己の行いの意味を自覚しました。そんなつもりではなかったのだと、叫びたくなりました。しかし夢の中では声を出すことができません。どんなに叫ぼうとしても声を届けることができませんでした。気づくと貴女は天高く飛び立っていきました。

 目が覚めたとき、涙で枕は濡れていました。これは夢のお告げだと感じました。このままでは、貴女がいなくなってしまったあとで、悔やみきれない後悔をする。私はようやくその考えに至ることができたのでした。

 貴女がしてくれたように、私は言葉を届けるべきだったのです。無力だからと苛まれるのではなく、無力だからこそせめて言葉だけでも贈るのが、本当に貴き態度であると、いまでは信じています。


 めぐりあって愉しむ時間もないうちに雲に隠れし月や美し


 拙い和歌で申し訳ありません。もっと上手な歌を詠めればよいのに、今はこれが精一杯です。けれども、もう逃げ出す気はありません。目を背けるのはやめました。

 音楽の道も同様です。龍笛の腕が上達するよう邁進まいしんします。今はまだ凡庸ですが、必ず名にし負う吹き手となってみせます。貴女との日々をいしずえとして、どれほど遠く彼方に離れていようとも忘れることなく、精進して励んでいきます。

 明日、貴女がこの世界を旅立ちになる前に、龍笛を吹こうと思います。どうか私の奏でる笛のを聞いてください。人前で披露するには笑われてしまうような未熟さですが、誠心誠意を込めて吹きます。笑ってくれても構いません。笑顔になってくれるなら幸いです。

 きっと、素敵な音色にしてみせます。


     瀧久


――――――


 私は静かに手紙を読み終えました。かぐや姫さまは、手紙の文言よりも、私の顔色をお気にかけていらっしゃいました。すでにご一読はなさっていたのでしょう。


「このお手紙を書いたのは、あなたね」


 姫さまは微笑をたたえながらおっしゃいました。菩薩さまのような笑みです。

 そのときの私はいかほど赤面して見えたのでしょうか。小細工を弄したことがバレて、身悶えするような恥ずかしさでした。

 そうです。この手紙は瀧久という男に成り代わって、私が執筆したものだったのです。姫さまのことを思案した私は、筆蹟を真似て、男からの手紙だと装って書いたのです。そうでなかったら、ヘタクソな和歌を詠むこともなかったでしょうに。

 姫さまは落ちついた様子で明かしました。


「文櫃の手紙を見つけたんでしょ? それでこんな手紙を書いてくれたのね。……でも、ごめんなさい。瀧久という名前の人なんて、本当はいないのよ」


 そう告げる姫さまの瞳は清らかで、口許は柔らかく、声は気高く感じました。


「退屈さをまぎらわせるために、妄想して自分宛の手紙を書いていたの。もしも雅楽寮の楽生にこんな人がいて、私と文通したら、どんなやりとりになるだろうって想像して」

「そんな……、そんな……」

「どうやってこっそり手紙を送り合ってたんだろうって、不思議に思わなかった? ムリな話なのよ。手紙を送るのも、受け取るのも、使いの者に頼まなければならないのに。逢瀬にしたってそう。訪ねてくる人の応対は、必ず家の者が取り次いでいましたし、身の回りの世話は側仕えの方たちが済ませてくれるから、私は外出の機会もあまりなかった。そもそも、どうやってその雅楽寮の殿方と知り合ったっていうの?」


 そうなのです。とくに姫さまの眉目みめの噂が広がってからは、遠出の機会もままなりませんでした。姫さまへのアプローチを試みる輩は絶えませんでしたが、初めての場合は家の者が間に入って、じかに姫さまと相対することは避けるようにしていました。

 だからこそ、姫さまが密かに文通している相手がいると知ったときは、衝撃を覚えたのです。

 しかし姫さまの言葉を聞いて、たしかに腑に落ちるところがありました。文通に不慣れそうなところも、男らしくない筆遣いも、姫さまが書いていたと聞けば納得します。取るに足りない日々の出来事が中心だったのも、想像で書き上げていたからなのでしょう。大きな事件や専門的すぎる話が出てこなかったのはそういうわけだったのです。


「おじいさまやお仕えしてくれた人たちには感謝してるわ。なに不自由なく過ごすことができたし、わずらわしい厄介事に巻き込まれることもなかった。

 でも、やっぱり窮屈に感じることもあった。向こうの世界から送られてきた身ゆえ、贅沢なことは言えなかったけれど、もっと青春ってものを味わいたかった。もっといろんなことを体験したかったし、いろんな人にも会いたかった。いろんな場所に行って、いろんな話をして、いろんな遊びをしたかった」


 姫さまのそうした気持ちに、私も気づいていないわけではありませんでした。だからこそ、限られた姫さまのわがままに、最大限に応えるようにしてきたつもりです。

 でもそれは、箱の中のわがままでしかありません。姫さまほど、箱入り娘という言葉がぴったりくるお方もそうはいないでしょうね。


「芸事に一心に打ち込んでみたいと考えたこともあったわ。仮想の文通相手に、雅楽寮の殿方を選んだのは、きっと憧れが強かったからでしょうね。どうせこの地を去らなければならないと思って、最後の手紙は自棄やけになっちゃったけど」


 姫さまは毅然とした態度でいらっしゃいましたが、私はとめどない感情を堪えるのに必死でした。それは私がしたためた文章と、同じことを感じていたとも言えます。姫さまのために何かをしたいと望みながら、無力なのでした。己の非力さに打ちひしがれていたのでした。

 そんな様子を見て、姫さまはそっと手を伸ばし、私の手に重ねました。ゆっくりと手を握ります。


「私もバカなことをしたわ。読まれないように、ちゃんと隠しておくんだった。あなたにも要らぬ面倒をかけさせちゃったわね。最後まで世話をかけさせるような女でごめんなさい。……でも嬉しかったわ。頑張って慣れない歌まで詠んでくれて、嬉しかった。ありがとう」


 その言葉を聞いて、私ははっとして顔を上げました。一言では言い表せない感情が、胸にこみ上げてきました。つらい気持ちも恥ずかしい気持ちもありましたが、自分の想いが伝わったことが、たいへん嬉しく思われました。

 私たちは気持ちを確かめあうように、抱擁を交わしました。お召し物が涙で濡れてしまいました。

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