そうして三年ほどが経ちました。

 それは姫さまがこの星を離れなければならない年のことです。八月の十五夜――陰暦ですよ、中秋の名月です――その日に天人の使いが姫さまをお迎えにまいることになっておりました。

 陰暦八月は竹の新しい葉が盛りになることから、竹春ちくしゅんとも呼ばれます。竹藪で見つかったかぐや姫さまが、竹春の時季に去らねばならぬというのも、なにかの因縁だったのでしょうか。


 前日、用向きを済ませた私の足は、人知れず雅楽寮に向かっていました。大内裏を訪れていたのは、姫さまの警護のために帝が兵を遣わしてくれることになっていたので、その段取り合わせがあったためです。私は側仕えとして姫さまの最も間近にいる身でしたので、打ち合わせに同席しておりました。さはさりながら、具体的な策があったわけでもございません。月の方角から天人の使いがやってくることしか、分かっていませんでしたから。

 打ち合わせののち、気づくと私は雅楽寮に足を運んでおりました。知己がいたわけではございません。アテもありません。どなたか龍笛を吹ける人にお会いできないかと、漠然と考えておりました。

 やけに人が少ないなと感じたことは憶えております。気の張りつめていた私としては、人の目がないほうが好都合のように思ってはいましたが。

 しかし肝心の雅楽寮にも人影がありませんでした。楽人がくにん楽生がくせいの方がお見えになるかと期待していただけに驚きました。どれくらい立ち尽くしていたでしょうか。もの静けさが不気味に感じたものです。

 詳しい事情は知りませんが、あとで聞いたところによると、ちょうどそのときに物忌みにあたっていたようです。物忌みと言いますのは、陰陽道で不吉の兆しが出た場合などに、一定期間外出などの行動を慎み、不浄を避けるということですね。

 ともかく笛を吹ける人はおりませんでした。胸によくないざわつきを感じながらも、私は家路につきました。


 このごろの姫さまは月を見上げては、しきりに物思いにふけるようになっていました。私がお屋敷に戻ったときも、ひさしの間から物憂げに空を御覧になっているところでした。私には色々とわがままをこねることも多かったのですけれど、帰らなければならない日が近づくにつれて、そういうことも少なくなっていきましたね。一緒にいられる日々も残りわずかとなっているのですから、もっと甘えを示してくれてもいいように思ったものですが、やはり離別がつらかったのでしょう。

 姫さまは私が帰ってきたのを確認すると、母屋に戻って私をお呼びになりました。招かれて部屋に入ってみると、姫さまはうっすらと笑みを浮かべて座っておられます。まるで菩薩さまの微笑みのようでした。

 姫さまは文机ふみづくえに私を座らせますと、おもむろに一通の手紙を差し出しました。薄い藍色に染められ、香を焚きつけた上質の紙です。


「この手紙のこと、ご存じありませんか?」


 姫さまはあどけない様子でお尋ねになります。私は唾をのみ込みました。


「けさ届いたようなんですけど、心当たりのない手紙なんですの」


 と姫さまはおっしゃいます。そんなはずは、と私は思いましたけれど、口に出すことはできません。しかし姫さまはその差出人のことを知っているはずなのです。


 五、六日前のことです。たしか姫さまは湯浴みの最中でしたかね。お部屋に伺ったのですが、ちょうど不在でして。改めて出直そうと思ったところで、文櫃ふみびつのふたが開けっぱなしになっているのが目に入ったのです。

 見かけのいいものではありませんので、整えようと私は部屋に入りました。ですから、中身を確認するつもりがあったわけではなかったのですけれど、ふと、小洒落た手紙の束に気づいてしまったのです。


 すでにお話しましたように、帝とは三年ほどにわたる手紙のやりとりがございましたが、それとは書式が異なっており、なにより差出人の名前に見覚えがありません。

 瀧久という名の男との手紙は、およそ三十通ございました。それほど頻繁に文を通わす相手がいるとは、私は想像だにしておりませんでした。私が気づかなかったほどですから、他の者もおそらく気づいてはいなかったでしょう。

 というより、姫さまは家の者たちに見つからぬよう、密かに文通をしていたのだと思います。『竹取物語』では伝えられていませんが、五人の貴公子たちの後にも、言い寄ろうとする輩はいましたから。姫さまの美名にそそられた人たちですね。「垣間見る」という言葉のとおり、垣根に穴をあけて隙間から覗き見しようという行為も絶えなかったくらいです。

 側仕えしていた私どもは、無粋な虫が近づかぬよう、遠ざけるようにしておりました。手紙を通い合わす相手がいれば当然マークしていたはずですから、把握できていなかったということは、姫さまとその男は隠れて通じ合っていたのでしょう。


 私は瀧久という男の手紙を順に読んでいきました。断りなく読むことに後ろめたさもありましたが、実のところ強かったのは好奇心です。年相応の好奇心ですよ。隠してまで文通していた男がどんな相手なのか、気になるじゃありませんか。

 一枚目を読み始めたら、もう手紙を繰る手を止められません。座ることも忘れて手紙を読んでいました。

 あまり手紙を出し慣れていないような、初々しさの残る手紙です。まるで日記のように他愛のない出来事を綴り、機知に富んだ文章もありません。筆遣いにも力強さはなく、気弱な男なのではと想像してしまいましたね。

 帝や貴公子たちとは比べるべくもありません。

 それでも姫さまとの交流を楽しんでいるのは伝わってきましたし、おそらく姫さまの側でもそうだったのだろうことは、ありありと思い浮かべることができました。過度な交遊を禁じられている中で、文通という限られた世界とはいえ、心から交流できる相手だったのでしょう。


 男は雅楽寮で龍笛を習う楽生でした。名うての吹き手ではありません。才能ある者であれば若くてもその噂が聞こえてくるものですが、瀧久という名の笛吹きのことなど、聞いたことありませんでしたから。

 駆け出しというより、落ちこぼれの若人だったようですね。手紙の文言からは、周りの楽生と比べても、最も出来が悪いらしいことがうかがえました。卑下しているのではありません。指回しがうまくできずに呆れられたという意気地のない話も赤裸々に綴っています。自分に自信を持てていない男なのでしょうが、女子おなごに宛てて出す手紙、もう少し見栄くらい張れと言ってやりたいほどでした。

 それが逆に幸いしたのかもしれません。姫さまにとっては、それが新鮮だったと見えます。これまで姫さまにアプローチしてきた男どもと言えば、軽薄なプレイボーイも含めて、自信家な輩ばかりでした。この、雅楽寮の若人のようなタイプは、珍しかったのは珍しかったのでしょう。


 姫さまがどんな手紙を差し出していたのかは分かりません。手許にあるのは若人側から姫さまに宛てた手紙のみです。それでも男の手紙から、内容はある程度察せられます。

 自分の不甲斐なさを吐露していた男でしたが、姫さまと手紙を交換していくうちに、徐々に雰囲気が変わっていきます。独りで繰り返し練習に励んだ話や、厳しい指導にも前向きに臨んでいく話が増えていきます。

 姫さまは雅楽の話が聞けること自体を歓迎していたようです。一般的な嗜み程度のことは知っていても、じかに経験談を聞く機会はありませんでしたから、男の話は物珍しかったのでしょう。雅楽や龍笛について聞くことすべてが新鮮であったに違いありません。

 男のほうも、姫さまが興味津々の態度を示してくれるので、語りがいがあったと見受けられます。なよなよしい筆勢は相変わらずでしたが、言葉遣いには得意げなところも現れるようになっていきました。

 それは手紙を介したささやかな交流でしたが、うら若き姫さまにとって、淡くほのかな思い出となりうるものだったでしょう。取るに足りない些細な出来事も、姫さまは面白がって受け取っていたようです。


 順に読み進めていった手紙の束は、とうとう最後の一通にたどりつきました。

 しかしながら、この最後の一通こそが問題だったのです。


 それを読んだときの衝撃は、今でもありありと思い出せます。私は自分の心の奥底から、どす黒い感情が噴き出てくるのを自覚しました。手紙を持つ手には力がこもり、わなわなと震える声を漏らしてしまいそうになりました。

 私も年相応に感じるところがあったのですよ。取り乱してしまったのは、今にして思えば、若い時分のナイーブさがあったのでしょう。

 瀧久とかいうその男と姫さまの関係は、手紙を送り合うのみの清らかな交流だけかと思いきや、男のほうは姫さまに下心を抱いていたらしいのです。のみならず、二人で実際に逢瀬の機会を持っていたことも、最後の手紙から明らかになったのでした。


 それだけではありません。どうやら姫さまはその前の手紙で、月の彼方、向こうの世界に帰らなくてはならないことを告げていたようです。男はそのことを知ったときの幾ばくかの感情と、見苦しいばかりの言い訳を綴っておりました。

 驚くべきことに、男は姫さまと縁を切ろうなどとも述べていたのです。

 姫さまが月を通ってこの地上にやってきたことを知って、そして姫さまと深く交わることができぬと、契りを結べぬと知るや、男はあっさりと見切りを付けようとしたのでした。それも、さもそうすることがお互いにとって最善であることが決まっているかのような言い草です。一方的に述べるだけ述べて、姫さまを慮った言葉は見当たりません。感謝も、思いやりも、励ましもないのです。この星を離れなければならぬ身たる姫さまに対して、ですよ?


 最後の手紙に記されていた日付は、数ヵ月前のものでした。それ以来、男は手紙を送っていないようです。

 まことに自分勝手、邪意極まりありません。青二才なだけで、所詮、考えていたことは他の男どもと同じ。姫さまの美貌の噂を聞きつけて、近づこうと企んでいたのでしょう。それが不可能だとわかった途端、別れようとするのがその証拠です。あさましいにもほどがある。誠意のかけらもありません。


 男は潔く身を退くことで、キレイな思い出にでもしたいのでしょうか。さればいっそのこと、なにも無かったことにしてしまおうか。私は姫さまがこの地を去ったあとで、手紙を残らず処分してしまおうと案じました。もとより姫さまは身の廻りの品を持っていくことはできないと述べておりましたが、この手紙の束に関しては、他の誰にも知られぬように、私の手で燃やしてしまおうと考えたのです。

 手紙をすべて燃やし、私が黙ってさえいれば、ほかに知る者はいません。もし手紙の内容が漏れ伝われば、江湖の話題となってきた姫さまのことですから、悪い噂が広まってしまうおそれもあります。

 男のほうから絶縁を申し出てきたのですから、手紙を燃やしてしまうことに、罪悪感を抱く必要はないでしょう。相手の望みどおりとも言えます。


 はじめはそんな勇み立つ気でいましたが、しかし時間が経って、気分が落ち着いてくると、どうにも迷う気持ちが生じてきました。これでは男に捨てられた形になります。それはやはり可哀そうにも思いました。もしも姫さまが向こうの世界に帰ったあとで、夜空を見上げることがあったら、なにを感じるでしょうか。この星に思いを馳せるとき、どんなことを心に浮かべるでしょうか。


 私は姫さまのことを思って、胸が苦しくなりました。


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