5-5 甘い匂いの時間
「材料ヨシ。調理器具ヨシ。クッキングストーブ火入れはこれから。髪はまとめた、手も洗った。
それじゃあ、お菓子づくりを始めようか!」
三角巾の代わり白い椿柄の手ぬぐいで髪を纏め、白い割烹着を着た瑛梨が、指さし確認をした後にグッと拳を握って宣言する。気分を盛り上げるために若干ワザとセリフらしく言ってみた。
「今日つくるのはチョコチップのドロップクッキーと柚子ジャムを使ったジャムクッキー。残った卵白でチュイール。飲み物にはレモネード。
バターは常温に戻した?」
「戻した。やわらかくなってる」
里見も割烹着を着て準備万端だ。こちらは瑛梨と色違いの、赤い椿柄の手ぬぐいである。だいぶ伸びてきた髪はまとめるのにちょっと長さが足りなくて一番鬱陶しい時期かもしれない。ヘアピンを使って落ちてこないように仕舞い込んでいる。里見も楽しくなってきたのか、わくわくしてきた。
6月最後の土曜日の午後。2人っきり。久々すぎて自然と頬が緩んでだらしない顔になってないか。
幼い頃に『魂の結びつき』を得て以降、里見はこうして他人を交えず2人っきりで過ごしたい、という欲求が生まれることがある。国家術師のおじさんに相談すると、この心理は『魂の結びつき』同士なら珍しくないことらしい。
それを聞いたとき、喜びの感情が湧き起こった自分が、里見はとても恥ずかしかった。自分に瑛梨を独占する権利はない、今でも十分瑛梨と過ごせるように周りの大人たちが便宜を計ってくれているのに、事故によって生まれた『魂の結びつき』を言い訳にして瑛梨の自由の妨げる気なのか。そんな自分を責める考えばかり浮かび、自己嫌悪からか無茶苦茶なタイミングで泣き出したりした。
心配した親や姉たちにも頑として口を割らず、最終的に母にだけ話した。相当困らせただろうに、優しい人たちに恵まれて育ったんだな、としみじみ思う。
里見がしんみりと過去を思い出している間、瑛梨は里見の貴重なデコ出しヘアスタイルだ! とニマニマしている。瑛梨は里見と反対に、過去に引きずられることが少ない性格をしている。
金曜日に「里見はいるかな? いるね! 明日! 女子寮の台所を借りてクッキングだよ! 外出する必要がある予定は調節してあるから、新しい予定は入れないでほしい!」と、瑛梨がろ組に突撃してきたときは何事かとザワついた。里見は最初はポカンとしたが何を言われたのか理解すると、パンパカパーンッと脳内で祝福のラッパが鳴り響いた。そばで里見の表情の変化を目撃した岩槻は、雨続きで外に出られなかった飼い犬が「散歩行くよ!」と言われた瞬間を見たような気持ちになった。まあ、ここのところ気分が沈みがちだった里見を不憫だと思っていたので、突っ込まないでおいてやる。
かくして2人は土曜の午後からお菓子づくりに勤しむことにしたのである。
さて、工程表を再確認する。いつもの如く、余白には里見の手描きイラストがある。ジャムクッキーの作業工程はオレンジのインクのペン、ドロップクッキーはチョコレートブラウンのペン、チュイールのはゴールドのペンで書かれており、全体の流れが想像しやすい。
つけペンで色を変えながら書いていくのは楽しかったけど一度に3色が限界かも、と里見は思った。インクボトルはかさばるし、説明文は黒色インクの万年筆にして小見出しとポイント部分だけつけペンにしてもあっという間にインク切れになる。逆にインク切れが早いから色変えもできる、と言える。この一手間が必要な感じが『書くこと』と正面から向き合ってるようである。ボールペンや水性ペンが発売されたのは第二次世界大戦中〜後だっけ? と思い出す里見だった。
つくる順番は最初にジャムクッキー、次にドロップクッキー。この2種類ができたら一旦お知らせをして、チュイールを焼く。レモネードは本当はつくる予定じゃなかったのだが、始業時間前に材料を持ってきてくれた若松家の使用人が、「香港の
瑛梨はキッチン薪ストーブの予熱を開始する。燃焼室に細い薪から入れていく。
里見は計量をすませた粉砂糖を振るいながらバターの入ったボウルに入れる。投入し終わったら、泡立て器を手に取る。
最初につくるジャムクッキーはサム・プリント・クッキーともいう。丸めたクッキー生地の中央にくぼみをつくり、ジャムをのせて焼く。親指で跡をつけるからサム(Thumb)・プリント・クッキー。同じ形に揃えたいから親指じゃなくて計量スプーンを使うが。
バターと粉砂糖をすり混ぜたら卵黄を入れる。殻を使ってカパ、カパ、っと卵白と卵黄を分ける。卵白は別のボウルに、ドロップクッキーに取り掛かったときに追加で卵白が出るので、それまでは作業台の端へ除けておく。
火に勢いがついたので、瑛梨も作業台の方へ加わる。クッキーにトッピングしやすいよう、柚子ジャムを絞り袋に入れておく。
「生地の方はできてるかな?」
「まだ、薄力粉入れてない。もう少し。ふう、腕が疲れた〜」
「交代するよ」
しっかり混ざるよう泡立て器で混ぜ続けていた右手がだるくなってきた里見。ありがたく瑛梨と交代する。なにせレシピ本に書いてある分量の3倍でつくっているので、すごく重たい。昔、若松家で雇われていた元銀座のパティシエにお菓子づくりの助言を求めたら、「温度と水分、それから力でねじ伏せる」と返されたことを思い出す。「やっぱり! 筋力があるとないとじゃあ大きく違うのね!」と、お転婆娘と呼ばれていた瑛梨がうんうんうなづいていたことも思い出した。
瑛梨にラストスパートをかけてもらったボウルに薄力粉と塩を振るい入れる。今度はさっくり混ぜる。もっと混ぜたい、と思うあたりでストップする。
続いて丸く成型して、真ん中をくぼませていく。乾く前にキッチン薪ストーブのオーブン室に入れなくては。天板を2枚使うので瑛梨と里見の2人でテキパキ丸める。
「1個がこれくらい?」
「それくらい。丸めたらオーブン室の温度を見に行ってくれる? ジャムはやっとくから」
「温度調節はそう難しくないよ。なんと温度計が付いてる」
「滅茶苦茶高価なヤツじゃん…」
薪ストーブは順調に温度を上げていた。ホットプレート部分では大きなやかんを掛けて、湯冷ましをつくる。10〜15分沸騰させたら火から下ろし、熱々ではなくなったら水道水を張った桶に浸けて冷やす。
「水道水より井戸の水の方が冷たかったかな? 桶の水がぬるくなったら、次は井戸水の方にしよう」
ジャムクッキー第一陣の用意ができた。オーブン室を開けると熱気が顔にかかる。第一陣を焼いている間に残りも成型して、布巾を被せておく。
空いたボウルや調理器具は流しへ運ぶ。洗い物をしながら雑談が始まる。最初の話題は女子寮で産まれた子猫たちのことになった。
「最後まで残ってた子猫、親猫と一緒に有明牧場で引き取ってもらえるって」
「よかった! 大人の猫は人気ないし、子猫の方は不細工だからって残ってたんだよね。ウチで引き取れたらよかったんだけど」
「奥様が猫や犬の毛がダメな体質だからね。全員行き先が決まって一安心だよ」
ちなみに里見の家も、仕事や学校の都合などで数日家から誰もいなくなることがあるので生き物は飼えない。
「そういえば、女子寮の周りで女の幽霊が出るという噂が立っていた」
「幽霊?」
「そう、幽霊… …と最初は言われていたんだけど、剛毅な先輩がいてね。噂の正体を確かめに行ったのさ。翌朝どうなったのかその先輩にたずねてみたら、『もう出ないと幽霊と約束した』ってさ!」
「えぇー。豪快な解決方法だね」
「会話が成り立つ幽霊ねえ?」
里見はどう思う? とたずねる目で瑛梨が見てくる。確かに、興味をそそられる話題だった。
「そろそろ上下を入れ替える?」
「えーっと時間は、っと。そうだね一度見てみようか」
均等に焼くために、途中で上段下段・手前奥を入れ替えなければいけない。焼き始めたときからスタートさせた砂時計を見て、だいたいの時間を計る。里見が手を拭いてミトンを嵌め、オーブン室を開けてみると、思っていたより焼きが進んでいて急いで入れ替えた。
その後も2人で、柚子ジャムクッキーの次はチョコチップを気持ち少なめにしたドロップクッキー、レモンシロップと冷やした湯冷ましを混ぜたレモネードを次々とつくり上げる。砂糖やバターが焼ける甘い匂いが漂う。
今は最後のアーモンドスライスのチュイールを焼いてるところだ。里見はサクサクッとした食感になるように焼きたいと思っているが、何度もクッキーを焼く内にオーブン室の温度が下がったため上手くいかないかもしれない。ドロップクッキーを焼く前に薪を追加したのだが。天板全体に薄く広げて焼くより、一個分づつ薄く広げるようにすればよかったかも。
阿吽の呼吸で進めるお菓子づくりは、とても楽しい時間になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます