小さな勇気とラッキースター

尾八原ジュージ

アパートの洗濯機と実家のこと

 一月の朝。アパートの玄関の横に備えつけられている古い洗濯機。洗濯をしようと蓋を開けると中に黒いものが見える。あ、と思っているうちにそれはこちらを向く。子どもだ。

 わたしは蓋を閉める。

 アパート自体おんぼろの上に、外置きの洗濯機の中に時折子どもの幽霊が出るというので、わたしはこの部屋をずいぶん安い家賃で借りている。どうせ一人暮らしで汚れものは少ない。洗濯は明日まとめてすることにしよう。

 幽霊が出たこと自体よりも、それが主に冬のこの時期、この洗濯機の中に出るのだということが、わたしを暗く重たい気持ちにさせる。

 十年前、子供はこの場所で洗濯機の中に入ったまま亡くなった。凍死だったと聞く。もちろん洗濯機は買い替えられたけれど、それでもまだ幽霊は出る。


「秦さんって悩みとかなさそうだよね」

 そう言われることが多い。よく言われるんですよねーと笑うわたしは、母親から逃げ出して丸五年になった。

 姉も逃げた。兄はまだ母のところにいて、たまに母の近況を教えてくれる。去年倒れてからめっきり老け込んだらしい。もう娘たちを探してこいと言って暴れることはなくなったらしい。母のせいで別れることになった兄の元婚約者は、今は他の人と結婚して幸せそうに暮らしているらしい。

 わたしは今、輸入食品を扱う小さな会社で働いている。会社の倉庫にも幽霊が出る。姿形はあまりはっきりしないけれど、隅の方でゆらゆら浮いているから首を吊ったのだろうと思う。幽霊は結構あちこちにいて、大抵は無害で、でも中には危険なものもいる。だから無視するに限る。倉庫から戻ったわたしは、幽霊の残滓を払い落とすために、自分の肩をポンポンと叩く。

 会社を出ると、もう空はすっかり黒くて夜の色だ。遠い空にひとつ星が瞬いている。道標のような星を見ていると、何かいいことが起こるような気がする。流れ星ではないけれど、とわたしは密かに願いごとをする。明日も静かに暮らせますように。母がわたしたちを見つけませんように。

 アパートに着いたわたしは洗濯機を開け、中に誰もいないことを確かめる。よかった。鍵を開けて部屋に入る。

 夕食を終えて食器を洗っていると電話がかかってきた。姉からだ。

「あいつ死んだって。母親」

 星への願い事が叶ったのだろうか。その瞬間、ああよかったと思った自分の心を、わたしは恥じるべきかどうか迷った。


 母の葬儀を終え、郷里には留まらずに帰宅した。実家には母の幽霊がいて、家の中を怒ったような顔でうろうろしている。

「あんたまだ幽霊見えるんでしょ。いいよ、帰りな」

 兄と姉がそう言ってくれたので、わたしは実家を出た。あそこにわたしの私物なんてひとつもない。もう二度と帰ることもないだろう。

 夜空を見上げるとまたひとつだけ星が光っている。お星さまありがとう、などと考えてしまう自分が後ろめたい。親が死んでよかったなんて思ってはいけない。そういう気持ちが心の底でずっと揺れている。

 電車は空いていた。シートに腰かけて、真っ暗な窓に映る車内の景色をぼんやりと眺めた。やがて電車が長い鉄橋にさしかかる。夜の川を超えていく間、わたしは空を飛んでいるような気分になる。


 ああ、幽霊になった母に、恨み言のひとつも言ってやればよかった。

 さっきもう二度とあの家には帰らないと思ったはずなのに、ひとつだけ忘れ物をしてきたみたいにそんなことを考える。

 母はもうわたしを殴ったりしない。あの家から出てくることもないだろう。だから、ひとこと言ってやればよかった。貴女のことが大嫌いって、それだけでも。


 母の葬式から一年が過ぎた。兄は実家をお祓いして、売ることに決めたという。姉はずっと同棲していた恋人と籍を入れた。わたしは何も変わらず、古いアパートで一人暮らしをしている。

 実家の売買について兄姉と話した日の夕方、わたしは駅前の百円均一で、500円のブランケットを買って家に帰った。

 なんだかそうしたい気分だった。ほんのちょっとだけ、境界を乗り越えてみたかった。母の幽霊に文句を言えなかった代わりのつもりかもしれない。それがいいことかどうかはわからないけれど、でも、おそらくあの子は無力だ。大抵の幽霊がそうであるように。少しだけ関わってみても、危険はあるまい。

 アパートの前の洗濯機を開けると、夜の闇のように黒いものが凝っている。小さな瞳がこちらを見る。わたしは買ってきたブランケットを洗濯機の中に入れた。

「あげる」

 そう言って蓋を閉め、なぜかどきどきしながら部屋に入った。ちょっとした崖をジャンプで乗り越えたような気分。命がけの大冒険ではないけれど、ちょっとだけ勇気が必要だった。その夜はよく眠った。

 翌朝、洗濯機の蓋を開けるとそこには何もなかった。幽霊もブランケットもない。空っぽだった。

 それから子供の霊は見ない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

小さな勇気とラッキースター 尾八原ジュージ @zi-yon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ